彼の肩をたたいて演奏を中止させると、驚いてめちゃくちゃ慌てられて、思わず笑ってしまったこと。
 そしてピアノを弾いてみないかと誘われ、カノンの左手がなんとか弾けるようになった時に隣に座ってきた奏翔が右手を弾いてくれて合わせてくれたこと。
 ついこの前のことなのに遠い思い出のようにでも鮮明に思い出せて懐かしくなる。
 あの時は私の方が自信がなかった。手がガクガクと震えていて、まともに弾けるのもやっとのことだった。
 でも今はそれが隣の奏翔の方になぜか感染症のように移っている。
 彼の手がまるでピアノを弾くことを怖がるように震えていて、私はただ安心させようと背中をトントンと優しくたたいた。
 すると、ようやく奏翔がちらりとこちらを見てくれたので優しい笑みを浮かべながら頷いた。
 その距離が近すぎて、心臓が爆発しそうだった。落ち着けと自分に言い聞かせながら、それを合図に視線をピアノへと戻す。 
 それから最初の音合わせをするようにラの鍵盤に触れた。でも奏翔はピアノに触れようともしてくれなかった。楽譜立てにはもちろん、泉平くんと作った曲の楽譜がある。その通りに俯いたままの奏翔を置いて弾いていく。
 昨日泉平くんからズバズバと鬼のように指摘されながら弾いた旋律。既に手にはすっかり馴染んだ旋律。けれど奏翔と近距離な上にあまりに俯いたままでいるので、心なしか手がぎこちなかった。
 焦りと緊張とモヤモヤとした気持ちを抱えながらもなんとか弾き終わり、音がなくなる中奏翔の嗚咽が聞こえてきた。顔を覗き込むと、つらそうに歪められていて、濃い琥珀色の瞳には宝石のように光る大粒の涙が溜まっていた。