* * *

 ルナがアパートの前まで走ってくると、そこにはヨルの姿があった。

「ルナ兄!」

 ヨルはルナの姿に気がつくと、慌てた様子で駆け寄ってきた。

「ヨル……どうしたの?」

「大天使が婚約者を……大天使の娘を守りに来たって聞いて、心配してたんだよ!」

「大天使が……?」

「そう!大天使ソラが……」

 ソラ……その名前に聞き覚えがあった。

 先ほど会った、あのグレーの長髪の青年……ハルの、婚約者の名前……。

 ルナの目が見開かれる。

「ソラって……まさか……」

「ルナ兄、大天使ソラに会ったの?」

「……うん。ハルの婚約者が、そんな名前だった……」

 ルナはそう言うと、力無く俯く。

 信じたくなかった。もし、大天使がハルの婚約者ということは、ハルが……。   

「……ルナ兄、もう分かってるんでしょ?」  

 ヨルが静かに問いかける。   

「ルナ兄が好きな子が、大天使の娘だって……分かったよね?」

 ヨルにそう問われ、ルナは黙りこくってしまった。その煮え切らない様子に、ヨルはイライラをぶつける。

「もう好きだなんて言ってられないよ?ルナ兄、早くその子を殺さないと殺されちゃうんだよ!?死んじゃうんだよ!?」

「うん……分かってるよ」

「なら殺そうよ!オレ、ルナ兄に死んで欲しくないよ!」

 そう訴えるヨルの瞳は涙で濡れていた。

 弟の気持ちは痛いほど分かった。死ぬのだって怖かった……でも。

「でも、僕はハルが好きなんだ……!」

 ルナの叫ぶような声が、静かな住宅街にこだました。

「……ごめん、ヨル。今は、時間が欲しいんだ……」

 ルナはそれだけ言うとアパートの中に入っていった。

「ルナ君……」

 不意に、ヨルの耳に聞き覚えのある声が入ってきた。

 見ると、アパート沿いの道に、紙袋を持った菫が立ち尽くしていたのだ。

「お嬢さん……!」

 ヨルは慌てて菫のもとに駆け寄った。

「お嬢さん、どうしてここに……」

 辺りはすっかり夜で、お嬢様の菫が1人で出歩くような時間ではなかった。

「良い洋菓子が届いたので、お裾分けに……」

 菫はそう言って、ヨルに紙袋を預け、背中を向ける。

「……わたくし、帰りますわ」

 その声は震えていた。

「待って……!」

 ヨルは咄嗟に菫の腕を掴んだ。

「離して下さい!」

「今の君を、そのまま帰すわけにはいかないよ!」

 菫の表情は涙を堪えていた。

「……ルナ君がハルのことを好きなの、何となく分かっていたの。だから……平気ですわ」

 気丈に振る舞おうとする菫を見て、ヨルはいてもたってもいられなくなった。

「……菫さん」




 ヨルは、菫を抱き締めた。





「ヨル君……?」

「泣いていいよ。菫さん」

「そんな、だから大丈夫だと……」

「誰も見てないから」

 ヨルの優しい声を聞き、菫の頬を涙が伝った。

「ひっく……うう……」

 ルナは泣きじゃくる菫をただ優しく抱き締めた。

 2度も失恋したのだ。この人は。

 だから、誰かが包み込んであげなければ。ヨルはそう思ったのだ。

「……オレが君のこと守れたらいいのに」

 ヨルは、ルナに一途で、清楚な菫に惹かれていた。魔界では見かけないタイプだったからだ。

 しかし、ヨルは悪魔で、菫は人間。だから、異なる種族に恋をした兄の気持ちが痛いほどよく分かっていた。

 誰かを好きになることが、こんなに辛く、切ないものだということも。

 ヨルは、菫が泣き止むまで、優しく抱き締め続けた。