翌日、俺は田舎の中古建物の物件をいくつか見て回り、小さめのログハウスを買うことにした。一人で住むのだからそんなに大きな家は要らない。その選択には、新たな人生への覚悟が込められていた。
部屋は一部屋。キッチンがついていて、トイレと風呂が奥にある。玄関の前はデッキとなっており、イスとテーブルを置いたら森の景色を快適に楽しめそうだった。その光景を想像するだけで、心が少し和らぐ。
契約が終わった夜にさっそく拠点にまで移築する。玄関に腰掛けると目を閉じて、ログハウス全体に飛行魔法を行き渡らせていく。黄金色の光を帯びていくログハウス――――。
「さぁ、行こう……」
俺は目を開けるとニヤッと笑った。
ギシギシッと家鳴りがして、家全体がふわりと浮かびあがる。
「いいぞ、いいぞ……」
徐々に飛行魔法の魔力を上げていくと、月夜の空高く、黄金色の光を纏うログハウスは舞い上がって行った。
「いいね、いいね!」
月の光を浴びながら、村の上空を御嶽山へと旋回して行くログハウス――――。
俺は冷たい夜風を浴びながら村の家々を見下ろしていた。
それぞれの家の窓から漏れるランプの優しい灯り。それは幸せの光だった。
前世で失敗し、今世でも届かないその灯りに俺は深くため息をついた。一体みんなはどうやって幸せを手にしているのだろうか?
俺は肩をすくめて首を振ると、魔力を全開にしてログハウスを一気に加速していった。
◇
家具や食料、日用品も揃えないといけない。ベッドにテーブルに椅子に棚を運び、日用品は自宅から持っていく。その一つ一つの作業が、新たな生活の始まりを実感させた。
水回りも大切である。裏の貯水タンクには水魔法で生成した水をため、排水は簡易浄化槽経由で遠くの小川まで配管を伸ばした。
一週間くらい忙しく作業して何とか生活できる環境が出来上がる。暇な時間ができるとドロシーのことを思い出してしまうので、忙しくしていた方が気が楽だったのだ。
早速コーヒーを入れるとウッドデッキに座って飲んでみる。まだ木の香りの漂うログハウスにコーヒーのかぐわしい香りが素晴らしいハーモニーを奏でた。
「ほぉぉぉ……」
俺は高原のさわやかな風を受けながらゆっくり首を振った。新居一発目のコーヒーは極上の体験を届けてくれる。
見上げれば雄大な御嶽山から噴煙が真っ青な空めがけて一筋昇っていた。
そんな風景を眺めながら俺は深く息をついた。
◇
翌日、俺は久しぶりに孤児院を訪れる。懐かしい風景が、記憶の奥底を揺さぶった。
俺は早速屋根に上り、ドロシーが見つけていた瓦の壊れているところを直す。これで雨漏りは大丈夫だろう。
降りてくると院長が待っていた。ニッコリとほほ笑むその姿は、変わらぬ温かさを放っている。
「ユータ!」
俺をハグしてくる院長。昔は見上げるばかりだった院長も今や俺の方が背が高い。その事実に、時の流れを痛感した。
俺は院長の背中をポンポンと叩きながら聞く。
「お久しぶりです。お元気ですか?」
「元気よ~! ユータのおかげで助成も増えてね、悩みの種も解消したのよ!」
ハグを解いた院長は、最高の笑顔で俺の手をギュッと握りしめた。
「それは良かったです」
俺も嬉しくなる。長らくお世話になってばかりだった俺も、少しは恩返しできたようだ。その事実に、小さな誇りを感じた。
「実は今日は相談がありまして……」
「分かってるわ、部屋に来て」
院長は真っ直ぐ俺を見つめた。
さすが院長、全てお見通しのようである。
俺は静かにうなずいた。
◇
俺は院長室で、事の経緯と今後の計画について話す。言葉を紡ぐ度に、胸の奥で複雑な感情が渦巻いた。
「ユータの考えはわかったわ。でも、その計画にはドロシーの気持ちが考慮されてないのよね」
「いや、おたずね者と縁があるのは凄い危険なことですよ」
俺は力説する。その言葉には、ドロシーを守りたいという強い思いが込められていた。
「ユータ……、リスクのない人生なんてないのよ。人生はどのリスクを取って心を熱く燃やすかという旅なのよ。ユータの判断だけで決めるのは……どうかしら?」
俺は静かに首を振った。
確かにそうかもしれない。でも、腕だけになってしまったドロシーを見ている俺からしたら、そんな理想論など心に響かない。たとえ【光陰の杖】があっても二連続で攻撃を浴びたら死んでしまうのだ。人は死んだら終わり。その現実が、胸を締め付けた。
「いやいや、本当に命が危ないんです。実際ドロシーは一度死にかけているんですから」
「分かるわよ。でも、それをどう評価するかはドロシーの問題じゃないかしら?」
「何言ってるんですか! 次、ドロシーに何かあったら俺、正気じゃいられないですよ!」
俺は深い愛情と恐怖に突き動かされ、半分涙声で叫んだ――――。
院長は目をつぶり、大きく息をつく。
窓の外から子供たちの遊ぶ声が響いてくる。その無邪気な笑い声が、状況の重さを際立たせた。
「分かったわ……。そうしたら、武闘会の後、またここへ寄って。そこでもう一度ユータの気持ちを聞かせて」
院長は深い理解と慈愛が宿る優しい目で俺を見た。
「……。分かりました」
俺は大きく息をする。
窓から差し込む陽光が、二人の間に落ちている。
俺はつい声を荒げてしまった自分の至らなさに思わず首を振った。
武闘会当日――――。
「さあて……、行きますか……」
俺は真っ青な空に向かって思いきり伸びをする。寝不足気味の朝の空気には、期待と緊張が入り混じっていた。
武闘会は二日かけて予選、そして最終日の今日に決勝トーナメントがある。トーナメントといっても勇者はシードなので決勝にしか出てこない。そして俺は王女の特別枠で準決勝のシードとなっている。予選を勝ち抜いた四名の中で勝ち残った者が俺と戦う段取りだ。
闘技場へと歩いて行くと、街全体がお祭り騒ぎになっていた。その熱気は、俺の心の中の不安をも押し流すかのようだった。
ポン! ポン!
どこまでも透き通った青空に魔法玉が破裂し、武闘会を盛り上げる。それは最強となった俺の晴れ舞台を祝う、天空の祝福のように見えた。
石畳のメインストリートの両側は屋台がずらりと埋め尽くし、多くの人出でにぎわっていた。武闘会はこの街アンジュー最大のお祭りであり、街の人たちみんなが楽しみにしているイベントなのだ。特に今年は優勝特典が絶世の美女リリアン姫との結婚となっているため、街の人たちは口々に優勝者の予想やリリアンの結婚について盛り上がっていた。
「結婚相手はやっぱり勇者様でしょ!」「勇者様最強だもん!」
優勝候補ナンバーワンは何といっても勇者だ。人族最強の称号を欲しいままにする圧倒的強者、その強さに子供たちは憧れ、大人たちも頼りにしているのだ。
ただ……。実際に会えば幻滅してしまうような最低の男なのだが。
現実を知っている俺は首を振り、ため息をついた。
集合場所の控室へ行くとすでに四名の屈強な男たちが万全の装備で座っており、鋭い眼光で俺をにらみつけてくる。その視線には、敵意と軽蔑が混ざっていた。
受付の男性は、普段着のままのヒョロッとした貧相な体格の俺を見て驚く。
「え? あなたがユータ……さんですか?」
その声には、明らかな失望が滲んでいた。
「そうですが?」
俺はにこやかに答える。
「えーと……これから戦うんですよね? 装備とかは……?」
「装備なんていりませんよ、こぶし一つあれば十分です」
ニヤッと笑うとこぶしを握って見せた。
「おいおい!」「ちょっと待てやーー!」「どういうつもりだよ!」
四名の男たちはバカにされたと思い、ガタガタっと立ち上がってやってくる。
いかつい金属製の鎧に身を包んだ男が俺の前に立ち、血走った目でにらんでくる。
「なめんのもいい加減にしろよ! なんでお前みたいなのがシードなんだよ!」
「俺が一番強いからですね」
俺はにこやかに淡々と返す。彼らのレベルは百そこそこ。確かに上位冒険者ではあるかもしれないが、俺とは一桁差がある。もはやこの差は何を持っても埋められない。
「じゃぁ、今お前ぶっ倒したらシード権くれるか?」
鎧兜の中でギラリと眼光が光る。その目には、獲物を狙う猛獣のような輝きがあった。
何だか面倒なことになってしまったが、ちょっと気持ちがクサクサしていたので挑発に乗ってみようと思う。対人戦の経験が浅い自分にはいいトレーニングになりそうだ。
「倒さなくてもいいです、一太刀でも入れられたらシード権はプレゼントしますよ。来てください」
俺はニヤッと笑って、控室の裏の空き地に歩き出す。
「えっ!? ちょ、ちょっと困りますよ!」
受付の男性は焦って制止しようとするが男たちは止まらない。
ゾロゾロと俺の後をついてくる男たちの足音が、張り詰めていく緊張感を高めていった。
空き地の開けたところへと足を進めながら、俺は四人を索敵の魔法でとらえていく――――。
みんな殺気がかなり高い、やる気満々だ。この武闘会で上位に入るということは大変に名誉なことだし、仕官の口にもつながるという、ある意味就活でもあるわけだ。必死なのは仕方ない。その熱い思いが、空気を重くしていた。
その時だった。一人の男の殺意が一気に上がる――――。
鎧の男はいきなり奇襲攻撃で俺の背後を袈裟切りにしてきたのだ。
「もらいっ!」
その声には、勝利を確信した高揚感が込められていた。
しかし――――。
剣が俺に届く直前、彼の視界から俺は消える。それはまるで幻のようだった。
空を切る剣。
「えっ?」
男は一体何が起こったのか分からずに凍りつく。
俺は瞬歩で彼の背後に移動していたのだ。
「残念! 遅すぎだな」
俺は男の耳元でそうささやくと、手刀で後頭部をしたたかに打った。
ぐふっ!
男は気絶し、無様に地面に崩れ落ちる――――。
と、その向こうから二刀流の長髪の男が、中国の雑技団のパフォーマンスのように巨大な刀をビュンビュンと振り回し、迫ってきた。
「当てりゃいいんだろ?」
男はまるでカマキリのように刀剣を振りかぶると、俺めがけて左右両側から挟み撃ちにしてくる。
「有効打ならね?」
俺はニッコリと笑って避けることもなく、気合で体表を硬化させると男の攻撃をそのまま受けた――――。
パリーン!
俺に触れた刀は体表を纏う魔力に耐えられず、刀身が粉々に砕け散る。陽の光を浴びてキラキラ輝きながら辺りに散らばっていく破片――――。
は?
武器を失い唖然とする男に、俺は瞬歩で迫った。
「武器屋は選ぼう!」
俺はニヤッと笑いながら手の甲でパン! と、男の頭を小突いて意識を奪い、吹き飛ばす。
と、同時に後ろから声が上がった。
「マジックキャノン!」
振り向けば眩しく輝く魔法の球が吹っ飛んでくる。その輝きは、まるで小さな太陽のようだった。
俺は手のひら全体に魔力を纏わせ、黄金色に輝かせると、その球を平手ではたき返す。
ソイヤー!
輝く球はそのまま、放った魔剣士に向かって一直線に光跡を描いた。
「な、なぜだ!?」
生まれて初めて魔法がはじかれる現場を見て、魔剣士は唖然としながら魔法をまともにくらった――――。
ズン!
激しい爆発が起こり、魔剣士は吹き飛んでいく。
ぐはぁ!
気絶し、もんどり打って転がっていく様は実に滑稽で、俺はクスッと笑ってしまった。
あっという間に三人の男たちが戦闘不能になる。その光景は、まるで嵐が過ぎ去った後の惨状を思わせた。
剣を構え皮鎧に身を包んだ四人目の男は、その圧倒的な力の差を唖然として見つめていた。そして、首を振りながらゆっくりと剣をしまうと両手を上げる。実に賢明な判断だろう。
「あれ? かかってこないんですか?」
俺はニッコリと話しかける。
「こんなの……勝負になりませんよ……。棄権します」
ガックリとうなだれる男の声には、敗北の苦さと同時に、強者への敬意が込められていた。
戦いが終わり、三人の男たちが転がる空き地に静寂が戻ってくる――――。
俺は深く息を吐き、自分の力を改めて実感した。強すぎることは罪なことである。転がる男たちを見下ろしながら俺は静かに首を振った。
◇
「一体どうしてくれるんだ!? 試合ができないじゃないか!」
受付の男性は頭を抱え、天をあおぐ。その声には、計画が狂った焦りと怒りが混ざっていた。
「ごめんなさい。今日は決勝だけやればいいじゃないですか」
俺は頭をかきながら苦笑する。
男は俺をキッとにらむ、その目には非難の色が浮かんでいた。
「もうっ! そんな簡単に……。くぁぁぁ……。大会委員長に報告しないと!」
男は駆け出して行ったが、途中でクルッと振り返って俺を指差し、叫ぶ。
「決勝はちゃんと闘技場でやってくださいよ!」
なんだか本気で怒っている。悪いことしてしまった。
「善処します」
俺はペコリと頭を下げる。段取りをぶち壊したのは申し訳ないとは思うが、因縁つけてきたのはあいつらだし、俺のせいじゃないのでは? と釈然としない思いが残った。
「あの……武器屋のマスターですよね?」
棄権した男性が話しかけてくる。まだ若いその声には、畏敬の念が滲んでいた。
持っている武器を鑑定してみると、俺が仕込んだ各種ステータスアップが表示された。どうやらお客さんだったようだ。その事実に、ほっとするような温かさを感じた。
「そうです。ご利用ありがとうございます」
俺は自然と腰が低くなる。お客様は神様です。
「そんなに強いのになぜ……、商人なんてやってるんですか?」
瞳に敬意を浮かべながら、心底不思議そうに聞いてくる。
彼は理想を超えた強さを俺の中に見出したようだが、そんなはるか高みにいる俺が商人なんてやっていることを、全く理解できない様子だった。
「うーん、私、のんびり暮らしたいんですよね。あまり戦闘とか向いてないので」
「向いてないって……、さっきの技を見るに勇者様より強いですよね? もしかして勝っちゃう……つもりですか?」
男は心配そうに聞いてくる。
「勝ちますよ……、勇者にはちょっと因縁あるので」
俺はニヤッと覚悟の笑みを浮かべた。
「えっ!? 商人が勇者様に勝っちゃったらマズいですよ! 捕まりますよ?」
「分かってます。残念ですが、貴族が支配するこの国では貴族に勝つのはタブーです。でもやらんとならんのです」
俺は目をつぶり、グッとこぶしを握った。
彼は俺のゆるぎない信念を悟ると、大きく息をつく。
「なるほど……。素晴らしい剣をありがとうございました。また、どこかでお会い出来たらその時は一杯おごらせてください」
右手を差し出す男の仕草には、敬意と親愛の情が込められていた。
「ありがとうございます。こちらこそご愛用ありがとうございます」
俺は固く握手をする。その瞬間、二人の間に不思議な絆が生まれたような気がした。
「ご武運をお祈りしています」
彼は深々と頭を下げ、会場を後にする。最後にもう一度頭を下げるその姿には、俺への期待と応援の気持ちが込められているように見えた。
静寂が戻ってきた空き地で、俺は深く息を吐く。これから始まる決戦への覚悟と、商人としての穏やかな日々への郷愁が胸の中で交錯した。
俺は静かに目を閉じ、風が頬を撫でるのを感じていた。
ガランとなってしまった控室で一人、お茶を飲む。その静寂は、嵐の前の静けさのようだった。
会場にはすでに多くの観客が詰めかけているようで、ざわめきが響いてくる。その音は、遠くに轟く雷鳴のように俺の心を揺さぶった。
いよいよ運命の時が近づいてきた。一世一代の大立ち回りをして、俺はこの街を卒業する。その決意が、胸の奥深くで固まっていく。
トクントクンといつもより早めの心臓の音を聞きながら、ただ、時を待った――――。
◇
バン! と、ドアが乱暴に開けられ、受付の男が叫ぶ。
「ユータさん、出番です!」
その声には、緊張と興奮が混ざっていた。
俺は一つ大きく息をすると、フンッと言って立ち上がる。
いよいよ、俺は引き返せない橋を渡るのだ。ありがとう、アンジューのみなさん、ありがとう、俺のお客さんたち、そして、ありがとう……ドロシー――――。
万感の想いが、胸に広がっていく。
◇
ゲートまで行くと、リリアンが待っていた。
その優美な姿は、武骨な闘技場に似合わず、凛々しさと気高さを漂わせている。
「王女殿下、ご機嫌麗しゅうございます」
俺はひざまずいてうやうやしく挨拶する。
「ユータ、任せたわよ!」
リリアンは上機嫌で俺の肩をポンポンと叩いた。
「お任せください。お約束通りぶっ倒してきます!」
俺はこぶしを見せてグッと力を込めた。ゆるぎない勝利への確信を示すかのように、こぶしはヴゥンと黄金色の輝きを纏う。
「お願いね! それから……、勝った後『私との結婚は要らない』とか……やめて……よ?」
伏し目がちなリリアンの眼差しには、不安と期待が混ざっていた。俺が結婚を辞退すると勇者に口実を与えてしまうのが嫌なのだろう。単に大衆の前で辞退されることにプライドが許さないのかもしれないが。
「配慮します」
逃避行を覚悟している俺の返答には、微妙な余韻が含まれていた。
「ふふっ、良かった……でも、勝った後どうするつもりなの? 今からでも……、騎士にならない?」
リリアンは懇願するような眼で俺を見つめる。
「ご期待に沿えず申し訳ございません。俺には俺の人生があります」
俺は毅然と言い放ち、頭を下げる。権謀術数飛び交う貴族社会より、御嶽山のふもとでのんびり暮らす方が圧倒的に魅力的なのだ。
「そう……」
リリアンは少ししょげて俺のシャツのそでをつまむ。その仕草には、単なる社交辞令を超えた別れの寂しさが滲んでいた。
その時だった――――。
ウワァーーーー!
大きな歓声が闘技場に響き渡る。その数万人の叫び声は、地響きのように大地そのものを揺らしていた。
見ると、向こうのゲートから勇者が入場してきている。
勇者は金髪をキラキラとなびかせ、聖剣を高々と掲げながら舞台に上がり、場内の熱気は最高潮に達した。その姿は、まさに英雄譚の主人公そのものである。しかし、俺の目には、その輝かしい外見の下に潜む闇が見えるのだ。
「いよいよです。お元気で」
俺はリリアンのクリッとしたアンバー色の瞳を見つめた。
瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。その輝きは、宝石のように美しい。
「もっと早く……知り合いたかったわ……」
リリアンはそっと目を閉じるとうつむいて言った。
『対するは~! えーと、武器の店『星多き空』店主、ユータ……かな?』
司会者がメモを見ながら俺を呼ぶ。その声には、少しの戸惑いが感じられた。
案内の男性は俺の背中をパンパンと叩き、舞台を指さす。
いよいよその時がやってきた――――。
俺はリリアンに深く一礼をし、会場へと入っていく。
リリアンは真っ白なハンカチで涙を拭きながら手を振ってくれる。その姿は、王女というより、別れを惜しむ純粋な少女のようだった。
豪奢な石造りのゲートをくぐると、そこはもう巨大なスタンドがぐるりと取り囲む武闘場で、中央には特設の一段高い舞台が設置されている。スタンドを見回すと、超満員の観客たちは俺を見てどよめいていた。
決勝なのだからどんな屈強な戦士が出てくるのかと期待していたら、まるで会場の作業員のようなヒョロッとした一般人が入場してきたのである。防具もなければ武器もない。一体これで勝負になるのだろうか? と皆首をひねり、どういうことかと口々に疑問を発していた。
俺は何とも居心地の悪さを感じ、手をパンツのポケットに突っこんだままスタスタと歩いて舞台に上る。俺の目的は勇者をコテンパンに叩きのめす事だけ。観客へのアピールなど無用なのだ。
勇者と目が合う――――。
ドロシーを虫けらのように扱い、最後には仲間ごと爆破をさせたロクでもないクズ野郎。俺は腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。その怒りは、まるで火山の溶岩のように熱く、激しかった。
二度と俺たちに関わらないように、圧倒的な力の差を見せつけ、心の底に恐怖を叩きこんでやるのだ。全身にいまだかつてないパワーが宿ってくる。その力は、正義の怒りから生まれた、純粋で強大なものだった。
そして、試合が始まる――――。
空気が張り詰め、観客の息遣いさえ聞こえるほどの静寂が訪れる。俺は深く息を吐き、全身の筋肉を緩める。これから始まる戦いは、単なる勝負ではない。傲慢で思い上がった勇者に対する一方的なお仕置き、そして、理不尽な貴族社会への抗議の一石なのだ。
勇者が聖剣を構えた――――。
聖剣は青く美しく輝き、勇者は勝利を確信したように笑う。そこには、幾多の戦いを勝ち抜いてきた自信が滲んでいる。しかし、俺には悪ガキがオモチャでイキがっているだけにしか見えない。
さぁ始めよう、お仕置きを――――。
このクズに平民の怒りを見せつけてやる……、心の奥底に恐怖を刻み付けてやるのだ!
超人的な強さを見せる勇者、それは確かに『人族最強』だった。だがそれでもレベル千を誇る俺の前には赤子同然なのだ。
怒りを込めた俺のこぶしがズン! ズン! と勇者の身体にめり込み、勇者は顔を歪ませる。俺のこぶしが入るたびに観客席からは悲鳴が漏れた。
圧倒的なワンサイドゲーム。俺は勇者を完膚なきまでにボコボコにし、勝利のコールを得た。
が――――。
その瞬間、闘技場全体が困惑に包まれてしまう。
彼らのヒーロー、王国の英雄、勇者が、ただの街の商人にボコボコにされ、倒されたのだ。その事実は、彼らには衝撃的だった。
ここに俺は、おごり高ぶった勇者とそれをチヤホヤする貴族社会に痛烈な一撃を加え、歴史に残る大番狂わせを打ち立てた訳ではあるが――――、俺の心は晴れなかった。胸に去来するのは達成感ではなく、どこか虚無のような感覚だった。
そして、出る杭は打たれる。俺は予想通りおたずね者とされてしまう。ただ、俺にとってはその宣告は想定内、新たな人生の始まりを告げる鐘のようだった。
全てが終わった後、俺は闘技場を後にする。警備兵が追ってくるが、俺は空へと飛んで振り切った。全てを捨てたその飛翔に俺は、限りなく自由になった解放感を感じ、クルクルと曲芸飛行を舞った。
ヒャッハー!
青空のもと、気持ちよく大空を舞うと、次に孤児院めざし、全魔力を全身に込めた――――。
ドン!
あっという間に音速を超え、衝撃波がさわやかな空に放たれた。
◇
孤児院につくと孤児がワラワラと集まってくる。可愛い奴らだが今日は『また今度ね』と、断りながら奥の院長室へと急ぐ。最後の別れの挨拶をせねばならない。
ノックをしてドアを開けると、院長が待ちかねたように座っていて、ソファに目をやるとなんとドロシーがいた。一か月ぶりのドロシーはすっかり憔悴しきって痩せこけており、悲しそうにうつむいていた。その姿に、俺の心臓がズキッと痛む。
「待ってたわ、まぁ座って」
「いや、ここにも追手が来ると思うので、長居はできませんよ」
「分かったわ、手短にするから座って」
院長ににこやかに諭され、俺は大きく息をつくとドロシーの横に座る。その瞬間、ドロシーのふんわりと柔らかな匂いを感じ、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、そっと胸を抑えた。
「武闘会はどうだったの?」
院長は、俺の向かいに座りながら聞く。その声には、好奇心の色がある。
「問題なく勇者をぶちのめしてきました」
「はっはっは、すごいわね。【人族最強】をあっさりとぶちのめすって、あなたどんだけ強いのよ」
「人間にはもう負けませんね。でもこの世は強いだけではどうしようもないことの方が多いです」
俺の言葉には、人間の限界を悟った者の諦めが滲んでいた。
「うんうん、そうよね。で、これからどうするの?」
院長は優しく微笑みながら身を乗り出す。
「お話した通り、しばらくは山奥に移住します」
院長はうなずくと、優しく静かに言った。
「あのね……」
その声音には、重大な言葉の前触れが感じられる。
「ドロシーがね……、ついていきたいんだって」
ドロシーは静かに俺の手に手を重ねた。その温かくやわらかな手のひらには、言葉にできない想いを感じる。その感触が、ふたをしかけていた感情を呼び覚ます。
しかし――――。
危険な目に遭わせるわけにはいかない。その思いが、胸を締め付けた。
「連れていきたいのはやまやまですが……、とても危険です。俺には守り切る自信がありません」
ドロシーがキュッと俺の手を強く握り、俺はいたたまれない気分に陥る。
ヌチ・ギは不気味だし、王国軍だってバカじゃない。逃避行に女の子なんて連れていけない。その現実が、俺の心を苦しめる。
重い沈黙の時間が流れた――――。
ドロシーがか細い声で切り出す。
「ねぇ、ユータ……。あの時、私のことを『一番大切』って言ってくれたのは……本当……なの?」
「もちろん、本当だよ。でも、大切だからこそ危険には遭わせられない」
俺はドロシーの手を取り、両手で優しく包む。この愛しい温もりを危険にさらすことはとても耐えられないのだ。
「やだ……」
そう言ってドロシーはポトリと涙を落した。その一滴に、彼女の全ての思いが込められているようだった。
「ドロシー……、分かってくれ。俺についてきたらいつかまたひどい目に遭う。殺されるかもしれないよ」
俺の声には、懇願と恐れが混ざる。
「構わない……」
ドロシーの返答は、覚悟と決意に満ちていた。
「か、構わない? そんなことあるかよ! 本当に、比ゆなんかじゃなく、殺されるんだぞ!」
俺の声が高くなる。なんとしてでも、ドロシーには安全でいて欲しいのだ。十八歳の女の子として、平凡な幸せに包まれた暮らしで笑っていて欲しい――――。
しかし、ドロシーは首を振る。
「殺されたっていいわ! このまま別れる方が私にとっては地獄だわ」
ドロシーは涙いっぱいの目で俺を見る。その瞳には、揺るぎない愛情と決意が光っていた。
「ドロシー……」
『殺されても構わない』と言われてしまうと、もう俺には返す言葉がなかった。その言葉の重さに、俺の心が揺れ動く。
切々と語るドロシー。
「ユータのいないこの一か月、地獄だったわ。コーヒーいれても自分しか飲む人がいないの。笑い合う人もいないし、一緒に夢を語る人もいない……。私もう、こんな生活耐えられない!」
ドロシーはその身を投げるようにしがみついてきた。
温かく柔らかい香りにふわっと包まれる――――。
その香りは、改めて俺の記憶の奥底に眠っていた幸せな日々を呼び覚ました。
「ドロシー……」
俺は小刻みに震えるドロシーの頭を優しくなでる。そこにはずっと心から欲していた温かさがあった。
「俺だって一緒だったよ。一番大切なドロシーがいない生活なんてまるで色を失った世界だったよ」
心の奥底から言葉が自然と出てきた。
「ならつれてってよぉぉぉ! うわぁぁぁん!」
ドロシーの魂の叫びが響き渡る――――。
俺は目をつぶり、ドロシーの柔らかな体温をじっと感じていた。
「ユータ……、連れて行ってあげて」
院長が温かいまなざしで俺を見る。その目には、二人を思う深い愛情が宿っていた。
「いや、でも、新居は部屋は一つしかないし、女の子泊められるような環境じゃないですよ」
俺の言葉は、弱々しい最後の抵抗でしかなかった。
「結婚すればいいわ」
院長の目が優しく輝いた。その瞳には、長い人生の荒波を乗り越えてきた者だけが持つ、深い叡智と温かさが滲んでいた。
「け、結婚!? 俺まだ十六歳ですよ!?」
思わず声が裏返る。心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなるのを感じた。
「商売上手で最強の男はもう子供なんかじゃないわ。それにあなた……、本当は十六歳なんかじゃないでしょ?」
院長は斜に構えて鋭い目で俺を射抜く。その眼差しは、まるで俺の魂の奥底まで見通しているかのようだった。
俺は苦笑いしながらごまかす。
「結婚については、ドロシーの意見も聞かないと……」
「バカねっ! まず、あなたがどうしたいか言いなさい! 結婚したいの? したくないの?」
院長はバン! とテーブルを叩いた。その鋭い音が俺の心臓を直撃する。
いきなり人生の一大決断を迫られる俺……。額に冷や汗が滲む。
俺は目をつぶった――――。
頭の中で、これまでのドロシーとの思い出が駆け巡っていく。
暴漢から助けた時、一緒に剣を磨いた時、サンゴ礁の海を巡った時――――。
ドロシーと共に歩む人生、それは俺にとって夢のような人生だ。危険を分かっても『ついて行きたい』と言ってくれるドロシー、正直俺には過ぎた女性だ。そのドロシーの覚悟に俺はどう応えるか……。
俺はドロシーをそっと引き離し、涙で溢れている綺麗なブラウンの瞳を見つめた。
ヒックヒックと小刻みに揺れるドロシー。
愛おしい……。その感情が、胸の奥深くから湧き上がってくる。
その瞬間、俺の心に天啓のような決断が下りた。それは、まるで長い間探していたパズルの最後のピースがぴたりとはまったかのような、そんな感覚だった。
「俺はドロシーを命がけで守る。必死に守る。でも……、それでも守り切れないことがあるかもしれない……」
俺は丁寧に誠実に言葉を紡ぐ。
「覚悟はできてる、十分だわ」
ドロシーは固い決意を込めた声で答える。その瞳には、揺るぎない信頼と勇気が宿っていた。まるで、どんな嵐が来ようとも、二人で乗り越えていけるという確信が見えるようだった。
その瞬間、危険も不安も、全てを飲み込むほどの強い想いが俺の中に湧き上がる――――。
それは、かつて経験したことのない、強烈な衝撃だった。
俺は深く息を吐き、ドロシーをまっすぐに見ると静かに口を開いた。
「ドロシー、心から愛しています……。僕には……、あなたしかいません。結婚してください」
自然と涙が湧いてきてしまう。
目を大きく見開くドロシー――――。
直後、ドロシーは目にいっぱい涙を浮かべ、俺に飛びついてきた。ギュッと力強く抱きしめてくるその腕には、長い間抑えていた感情の全てが込められていた。その温もりが、俺の全身に広がっていく。
「お願い……します」
震える声で答えるドロシー。それはまるで祈りのように部屋に響いた。
二人とも涙をポロポロとこぼし、お互いをきつく抱きしめる。その抱擁は、これからの人生を共に歩む誓いそのものだった。二人の鼓動が一つになったようにすら感じる。
院長はもらい涙をハンカチで拭いながら、まるで母親のように愛情あふれる笑顔でうなずいた。
窓から差し込む陽光が、三人を優しく包み込む。その光は、新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。部屋の空気が、希望に満ちた温かさで満たされていく。
こんなにも愛おしい人が俺を頼ってくれている。もう悩むことなど無いのだ。レヴィアは『大切なことは心で決めよ』と言っていたが、その通りだった。今、俺の心にも暖かな光が広がっていく――――。
その光は、これから二人で歩んでいく道を照らす、希望の光だった。未来への不安はあるけれど、それ以上に、ドロシーと共に歩んでいく喜びと期待で胸が満たされていた。
「そうと決まったら結婚式よぉぉぉ~! 急いで裏のチャペルへGO!」
院長がガバっと立ち上がり、両手を高々と掲げて叫んだ。その声には、長年の夢が叶ったような喜びを感じる。
「えっ!?」「えっ?」
俺もドロシーも驚いて院長を見つめた。
「もうすでに準備は整っているわ。これを着て!」
院長はソファーの脇の大きな箱から白い服を出す。
「ジャーン!」
楽しそうに広げる院長――――。
なんとそれは純白のウェディングドレスだった。ふんだんに花の刺繍が施された豪華なレース、腰の所が優美にふくらむベルラインの立派なつくりに、俺もドロシーもビックリ。その美しさに、二人とも言葉を失った。
「ユータは白のタキシードよ、早く着替えて!」
テキパキと指示する院長。
俺とドロシーは微笑みながら見つめ合い、『院長にはかなわないな』と目で伝えあった。
窓から差し込む陽光が、ウェディングドレスを輝かせる。その光景は、まるで未来への希望を象徴しているかのようだった。俺とドロシーは、この予想外の展開に若干戸惑いはあるものの、心の奥底では喜びに満ちていた。これから始まる新しい人生への期待と、乗り越えなければならない困難への覚悟。全てが混ざり合い、二人の心を熱く震わせていた。
◇
追手は迫っているだろう。俺たちは急いで身支度を整える。ただ、その慌ただしさの中にも、幸せな高揚感が漂っていた。
「あー、もうこんなに泣きはらしちゃって!」
院長は、少しむくんでしまったドロシーのまぶたを、一生懸命化粧で整えていく。
俺はタキシードに着替え、アバドンを呼んだり、カバンにドロシーの身支度を入れたり、準備を進める。
院長はドロシーの銀髪を編み込み、最後に頭の後ろに白いバラをいくつか挿して留め、うれしそうに言った。
「はい、完成よ!」
ドロシーは幸せそうに俺を見る。その瞳には、無限の愛情と希望が輝いていた。俺はドロシーのあまりの美しさに言葉を失い、ポロリと涙をこぼしてしまう。
それを見たドロシーもウルウルと涙ぐんでしまう。言葉を超えて二人の間に流れる深い感情――――。
「新郎が泣いてどうすんのよ! ドロシーも化粧が流れちゃうからダメ! はい! 行くわよ!」
院長は俺たちを先導し、ウキウキした様子で裏口へと足を進めた。
孤児院は組織的には教会の下部組織だ。なので、チャペルも壁をへだてて孤児院の隣にある。
小さな通用門をくぐると花壇の向こうに青い三角屋根の可愛いチャペルが建っていた。ずっと孤児院で暮らしていたのにチャペルに来たのは初めてである。改めて人生の新たな章が始まることを実感した。
俺はドロシーの手を取り、色とりどりの花が咲き乱れる花壇を抜け、入口の大きなガラス戸を開けた――――。
「うわぁ! すごーい!」
ドロシーの目が大きく見開かれた。
正面には神話をモチーフとした色鮮やかなステンドグラスが並び、温かい日差しが差し込む室内は神聖な空気に満ちていた。
中に入ると、たくさんの生け花からのぼる華やかな花の香りに包まれ、思わず深呼吸してしまう。まさに、新たな人生の始まりにふさわしいチャペルだった。
俺たちは見つめ合い、人生最高の瞬間がやってきたことを喜びあう。
チャペルの聖なる静寂の中、二人の心臓の鼓動だけが響いているかのようだった。これから始まる新しい人生への期待と不安、そして何よりも強い愛情。全てが混ざり合い、二人を包み込んでいく。俺は深く息を吐き、ドロシーの手をさらに強く握った。その温もりが、どんな困難も乗り越えられるという確信を与えてくれた。
そして二人は、ゆっくりと祭壇へと歩み始める。その一歩一歩が、新たな人生への歩みだった。
◇
ギギーっとドアが開いた――――。
「こんにちは~! うわっ! 姐さん! 最高に美しいです~!」
絶賛しながら駆け寄ってくるアバドン。
照れるドロシー。頬を赤く染め、はにかんだ笑みを浮かべる彼女の姿は、まさに幸せの絶頂である。
「ごめんね、急に呼び出して。結局、結婚することにしたんだ」
俺の声には、少しの照れくささと、大きな決意が混ざっていた。
「正解です。ずっとヤキモキしてたんですよぉ! お似合いです」
アバドンは自分のことのように喜んで手を合わせる。
院長はいきなり現れた魔人におののいていたが、俺が説明すると仰天しながら首を振っていた。
「はい、じゃ、そこに並んで!」
俺たち二人を並ばせるとパイプオルガンで賛美歌を奏で始める。
その荘厳で美しいハーモニーはチャペルを震わせ、辺りを聖なる空気に包んでいく――――。
三人は目を閉じ、その神聖な波動を体に感じていた。
ひとしきり演奏した院長は、厳かな物腰でステンドグラスの美しい壇上に上がっていく。
そして、俺たちを見つめると開式を宣言した――――。
その声には、厳かさと温かさが同居していた。
院長は俺をじっと見つめ、言葉を紡ぐ――――。
「ユータさん。あなたは、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」
院長の厳かな声が、チャペルに響き渡る。
『死が二人を分かつとき……?』
心臓にズキッと痛みが走った。まるで、氷のトゲが胸に突き刺さったかのような痛み――――。
腕だけになったドロシーが脳裏にフラッシュバックし、めまいがした。
決意が揺らぐ――――。
その動揺は、まるで嵐の中の小舟のように脳髄をグラグラと揺らした。
「なぁに? もう浮気しようとか考えてるの?」
ドロシーがワザと茶目っ気たっぷりに言う。その声には、俺の不安を和らげようとする優しさが溢れていた。
「な、何言うんだよ! 俺はドロシーを裏切ることなんてしないよ!」
思わず声が裏返る。その反応に、ドロシーは優しく微笑んだ。
「なら、誓って……。私はもう子供じゃないわ。全て分かった上でここにいるの」
ドロシーは俺をまっすぐに見つめる。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
そう……。そうだよ……な。
俺は軽くうなずくと、もう一度目をつぶり、大きく何度か深呼吸をして心を落ち着けた。
そして、ドロシーをしっかりと見つめ、ニッコリとほほ笑えんで力強く言った。
「誓います!」
チャペルに響き渡る力強い言葉――――。
これは単なる誓いではなく、死んでもドロシーを守り抜くという、これからの人生全てを賭けた悲壮な覚悟を込めた誓いだった。
院長は優しくうなずくと、ドロシーをまっすぐに見つめる。
「ドロシーさん。あなたは、妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの夫に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」
ドロシーは愛おしそうに俺をじっと見つめ、潤む目で言った。
「誓います……」
その瞳には、無限の愛情が映っている。
満足そうにうなずいた院長は、さっき俺たちから集めた『魔法の指輪』をトレーに載せて差し出した。その思い出の指輪は、改めて二人の魂を永遠に結ぶ象徴となるのだ。
俺は自信をもってドロシーの白くて細い左手の薬指にはめる。その指輪が滑り込む瞬間、二人の絆ががっちりと結ばれたような感覚に包まれた。
ドロシーはニコッと笑うと、お返しに俺の薬指にはめてくれる。
「はい、では、誓いのキスよぉ~!」
院長が嬉しそうに両手を高く掲げた。その声には、温かな祝福が込められていた。
俺は照れながらドロシーに近づく。頬が熱くなり、心臓の鼓動が早まる。
ドロシーは静かに上を向いて目をつぶった。その表情には、幸せと期待が満ちていた。
まるでイチゴみたいなプリッとした鮮やかなくちびる。
俺は吸い寄せられるようにそっとくちびるを重ねた――――。
柔らかく温かな感触にとろけそうになる。この瞬間俺たちは正式に夫婦となったのだ。
まるで二つの魂が一つに溶け合うかのような天にも昇るような心地だった。
「おめでとうございまーす!」
アバドンが目に涙を浮かべながらパチパチと手を叩きながら祝福してくれる。
「おめでとう、これであなたたちは立派な夫婦よ」
院長も目を潤ませ、目じりを抑えた。
と、その時だった――――。
ガン! と入り口のドアが乱暴に開く。その無粋な衝撃は、幸せな空気を一瞬にして引き裂いた。
「いたぞ! あの男だ!」
王国軍の兵士たちがもう嗅ぎつけてやってきてしまった。その声には、容赦ない冷酷さが滲む。
「何だお前たちは! ここは神聖なるチャペルよ! 誰の許可を得て入ってきてるの!?」
院長はすごい剣幕で叫んだ。その声には、聖なる空間に土足で踏み込む不埒者に対する激しい怒りが込められていた。
俺は裏口から逃げようとドロシーの手を取ったが、先に裏口に走っていたアバドンが首を振る。
「ダメです! 裏口にも来ています」
必死に裏口のノブを押さえるその声には、焦りと悔しさが混ざっていた。
「その男はおたずね者だ! かばうなら重罪だぞ!」
兵士長がドスの効いた声で院長に喚く。
「教会は法王の管轄、王国軍といえども捜査には令状が必要よ! 令状を見せなさい!」
院長の声には、揺るぎない正義感と勇気が込められていた。
「構わん! ひっとらえろ!」
兵士長は兵士たちに指示を出す。その声には、法を無視した狂気すら感じられた。一斉に襲い掛かってくる兵士たち。その足音が、まるで運命の時計の音のように響き渡る。
幸せの絶頂から一転、危機的状況に陥った俺たち。
兵士たちをぶちのめすのは簡単だが、殺すわけにもいかないし、ドロシーを守らないといけない。それは簡単ではなかった。
その時だった。院長の声が、雷鳴のように轟いた。
「なめんじゃないわよ! ホーリーシールド!」
その瞬間、チャペル全体が眩い光に包まれた。
院長はチャペルいっぱいに光の壁を作り出す。その光の壁は、まるで天上からの加護のように、神々しく輝いていた。
「な、何だこれは……」「シールド? 馬鹿な!」
突っ込んできた兵士たちは光の壁に阻まれ動けない。こんな立派なシールドなど見たこともなかった彼らの顔には、驚愕と恐怖の色が浮かんでいた。
「あなたはもしや……『闇を打ち払いし者・マリー』?」
驚いた兵士長は聞いてくる。その声には、畏怖の念が滲んでいた。
「あら、よく知ってるじゃない。あんたらが束になっても私には勝てないわよ!」
吠える院長。その姿は、まさに聖なる戦士のようだった。
「いや、しかし、あの男はおたずね者で……」
「そんなの知らないわよ! 教会内で捜査するなら令状を持ってきなさい!」
院長は鬼の形相で吠えた――――。
そんな中、俺は逃げ出す算段を必死に考える。壁を壊してもステンドグラスをぶち抜いてもいいが、この神聖なチャペルを壊すのは気が引ける。どうしたものか……。
と、ここでバタフライナイフを思い出した。
「そうだよ! ここで使うんだよ! レヴィア、サンキュー!」
俺はナイフを取り出すとツーっと壁を切る。コンニャクのようにベロンと切り口を見せる白い壁。その現実離れした光景に思わず苦笑してしまうが、猶予はない。俺はグッと切り口を広げるとドロシーと一緒にくぐった――――。
壁の外は色とりどりの花が咲き誇る花壇の真ん中だった。夕方、傾いたオレンジ色の日差しに花壇の花々にも陰影がつき、まるで絵画のように美しく幻想的に揺れている。
「外に逃げたぞ! 追えーーーー!」
中から鋭い声が響いてくる。
俺はすかさずドロシーをお姫様抱っこした。
「きゃぁ!」
目を丸くして驚くドロシー。
「それでは奥様、これからハネムーンですよ!」
俺は少しおどけてそう言うと、隠ぺい魔法と飛行魔法をかけてふわりと浮き上がった。その瞬間、二人の体が宙に浮く感覚に、ドロシーは不安そうにしがみつく。
俺はそんなドロシーをやさしく見つめながら、徐々に高度を上げていった――――。
街の上空を渡る風が二人の髪をなでる。
下ではたくさんの兵士たちが俺を探しているが、もはや気にもならない。彼らの姿が小さくなっていくにつれ、俺たちの心は自由になっていった。
アバドンによると院長も無事らしい。夢のようなお膳立てをして最後に体まで張ってくれた院長。いつか必ず恩返しをしなくては。その思いが、俺の心に深く刻まれた。
空高く上がった俺たちの前に、夕焼けに染まった石造りの街が広がる。その美しい光景に、ドロシーが息を呑む。
「あなた……、見て……」
彼女の声には、感動が溢れていた。
「うわぁ……。最高だね……」
この美しい街から、今まさに卒業していく――――。
多くの思い出の詰まったこの街を、去らねばならない時が来たのだ。
「もう二度と見られないかもしれないから、しっかりと目に焼き付けて」
俺は孤児院の上空をゆっくりと回った。
長年お世話になった石造り二階建ての古ぼけた孤児院、子供たちの遊んでいる狭い広場に、いろいろあった倉庫……。溢れんばかりのエピソードが次々と思いおこされてくる。それぞれの場所が、思い出を語りかけてくる。
俺は倉庫を見つめながら、剣の整備中、ドロシーに破天荒な夢を語った日のことを思い出す。ドロシーは「私も手に入っちゃう?」って聞いていた。そう、今日まさに夢は成就したのだ。
次に俺の店、そしてドロシーの部屋の上を飛んだ。
店の跡を見下ろすと、そこで過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。初めて来たの客との取引、夜遅くまで帳簿と格闘した日々、そして少しずつ店が軌道に乗っていく喜び。全てが俺を形作る大切な記憶――――。
だが同時にあのクソ勇者との最悪の出会いもここだった。俺は口をキュッと結ぶ。とはいえ、全ては終わったこと。今では不思議なほどどうでも良く感じられた。
奴も、利用しようとチヤホヤしてくる貴族連中の被害者という面もあるのだ。ある意味かわいそうな奴かもしれない。今ごろプライドをベキベキにへし折られて、毛布にくるまって泣いてるのではないか? 俺は思わずクスッと笑ってしまう。
ドロシーは何も言わず、静かに思い出の場所たちを眺めていた。その瞳には、懐かしさと別れの寂しさが混ざり合っていた。
ありがとう……。
ドロシーに、院長に、孤児院のみんなに、お客さんに、全ての関わった人たちに感謝の気持ちが心の底から湧き上がってくる。
しかし去らねばならない。それが、俺の、そしてドロシーの選んだ道なのだから。