コンパスを見ながら川沿いに海を目指すと、ほどなくして海が見えてきた。
青く広がる水平線にキラキラと煌めく太陽の光――――。
「これが海だよ、広いだろ?」
俺は後ろを向いた。
ドロシーは身を乗り出し、俺の肩の上で叫んだ。
「すご~い!!」
目をキラキラと輝かせながら海を眺めるドロシー――――。
つれてきて良かったと俺は心から思った。
それにしても、日本だったらこの辺に中部国際空港の人工島があるはずなのだが……、見えない。単純に地球をコピーしたわけではなさそうだ。その事実に、俺は改めてこの世界の不思議さを感じた。
俺は海面スレスレまで降りてきてカヌーを飛ばす。新幹線の速度でかっ飛んでいく朱色のカヌーは、海面に後方乱気流による水しぶきを放ちながら南西を目指す。
ドロシーは初めて見る水平線をじーっと眺め、何か物思いにふけっていた。
どこまでも続く青い水平線……、十八年間ずっと城壁の中で暮らしてきたドロシーには、きっと感慨深いものがあるのだろう。その思いを想像すると、俺の胸に温かいものが広がった。
「あ、あれ何かしら?」
ドロシーが沖を指さす。その声に、好奇心と驚きが混ざっていた。
見ると何やら白い煙が上がっている――――。
「どれどれ……」
鑑定をしてみると、
マッコウクジラ レア度:★★★
ハクジラ類の中で最も大きく、歯のある動物では世界最大
と、出た。
「うっひょー! クジラだ! 海にすむデカい生き物だよ」
クジラなんて俺も初めてである。
「え、そんなのがいるの?」
ドロシーは聞いたこともなかったらしい。
俺は速度を落とし、傾いてゆっくりと旋回しながらクジラの方に進路をとった。
やがて碧く透き通った海の中に長く巨大なマッコウクジラの巨体が悠然と泳いでいるのが見えてきた。その長さはゆうに十メートルを超えている。
デカいーーーー。
その光景に、俺とドロシーは息を呑んだ。
そばに小型のクジラが寄り添っている。多分、子供だろう。
まるで太古の昔から変わらない自然の営みを目の当たりにしているかのようだった。クジラの悠々とした泳ぎに、時間がゆっくりと流れているような錯覚さえ覚える。
「ねえ、ユータ……」
ドロシーの澄んだ声が、風に乗って耳に届く。
「なぁに?」
「こんな世界があったなんて……私、知らなかった」
その言葉に、心が温まってくる。ドロシーの目に映る世界の広がりを、俺も同時に感じているような気がした。
二人は言葉を交わさずに、ただその瞬間を共有していた。海の匂い、潮風の感触、キラキラと輝く海面――――。全てが新鮮で、心に深く刻まれていく。
俺は静かにカヌーを操縦し、クジラたちの邪魔にならない距離を保ちながら、この奇跡的な出会いをできるだけ長く楽しもうと思った。
「本当に大きいわぁ……」
嬉しそうにクジラを見つめるドロシー。
「歯がある生き物では世界最大なんだって」
俺は知識を披露しながら、ドロシーの反応を楽しんでいた。
「ふぅん……あっ、潜り始めたわよ」
クジラはゆったりと潜っていく……。その優雅な動きに、二人は息を呑んだ。
「どこまで潜るのかしら?」
「さぁ……、深海でデカいイカを食べてるって聞いたことあるけど……」
などと話をしていると、急にクジラが急上昇を始めた。その突然の変化に、俺の心臓が跳ね上がる。
「え? まさか……」
クジラはものすごい速度で海面を目指してくる。その迫力に、俺は思わず身構えた。
「え、ちょっと、ヤバいかも!?」
クジラはその勢いのまま空中に飛び出した。二十トンはあろうかという巨体がすぐ目の前で宙を舞う。巨大なヒレを大きく空に伸ばし、水しぶきを陽の光でキラキラと輝かせながらその美しい巨体は華麗なダンスを披露する。その光景は、まさに圧倒的なアートだった。
「おぉぉぉ……」「うわぁ……」
圧倒される二人……。その瞬間、時が止まったかのようだった。
そのまま背中から海面に落ちていくクジラ――――。
ズッバーン!
ものすごい轟音が響き、盛大な水柱が上がる。それをまともにくらったカヌーは小さな木の葉のように揺さぶられた。
「キャ――――!!」
俺にしがみついて叫ぶドロシー。
シールドは激しく海水に洗われ、何も見えなくなった。シールドがなかったら危なかったかもしれない。
「はっはっは!」
俺は思わず笑ってしまう。壮大なクジラのジャンプに洗われる、そんなこと全く想像もしていなかったのだ。
「笑いことじゃないわよ!」
ドロシーは怒るが、俺はとても楽しかった。想像もできないことが起こる、これが人生。まさに生きているという実感が俺の心を熱くさせる。
「クジラはもういいわ! バイバイ!」
ドロシーは驚かされてちょっとご機嫌斜めだ。その表情に、俺は思わず微笑んでしまう。
「ハイハイ、それでは当カヌーは再度石垣島を目指します!」
俺はコンパスを見て南西を目指し、加速させた。カヌーが海面を滑るように進み始める。
ブシュ――――!
後ろで盛大にクジラが潮を吹く。まるで挨拶をしているみたいだった。その音に、俺とドロシーは振り返り、思わず笑みを交わした。
バババババ……。
新幹線並みの速度で海面スレスレを爆走する。シールドのすそから風をばたつかせる音が響いてくる。
日差しが海面をキラキラと彩り、どこまでも続く水平線が俺たちのホリディを祝福していた。
「ふふふっ、何だか素敵ねっ!」
ドロシーはすっかり行楽気分だ。その笑顔に、俺の心も弾む。
俺も仕事ばかりでここのところ休みらしい休みはとっていなかった。今日はじっくりと満喫したいと思う。
「あ、あれは何かしら!」
ドロシーがまた何か見つけ、嬉しそうに指さした。
遠くに何かが動いている……。鑑定をしてみると――――。
キャラック船 西方商会所属
帆船 排水量 千トン、全長五十二メートル
「帆船だ! 貨物を運んでいるみたいだ」
「へぇ! 帆船なんて初めて見るわ!」
ドロシーは瞳をキラキラ輝かせ、嬉しそうに徐々に大きくなってきた帆船を眺める。
だが、急に眉をひそめた――――。
「あれ……? 何かおかしいわよ」
ドロシーが帆船を指さす。
よく見ると、帆船に何か大きなものがくっついているようだ。鑑定をしてみると……。
クラーケン レア度:★★★★★
魔物 レベル二百八十
「うわっ! 魔物に襲われてる!」
「えーーーーっ!」
俺は慌てて帆船の方にかじを切り、急行する。
近づいていくと、クラーケンの恐るべき攻撃の全貌が明らかになってきた。二十メートルはあろうかという巨体から伸ばされる太い触手が次々とマストに絡みつき、船を転覆させようと体重をかけ、引っ張っている。船は大きく傾き、船員が矢を射ったり、触手に剣で切りつけたり奮闘しているものの、全く効いてなさそうだ。
その壮絶な光景に、俺とドロシーは言葉を失う。海の平和な景色が一変し、生と死の戦いの舞台と化していた。
「ユータ! どうしよう!?」
ドロシーの声が、風を切って届く。
「大丈夫、任しとき!」
俺はニヤッと笑いながら、カヌーの速度をさらに上げた。
クラーケンの巨体が近づくにつれ、その恐ろしさがより鮮明になる。ぬめぬめとした光沢を放つ巨大な腕、それが次々と乗組員に襲い掛かっていた。
「宙づりにしてやる!」
俺はクラーケンに近づくと、飛行魔法を思いっきりかけてやった。黄金色の輝きを帯びたクラーケンの巨体が海からズルズルと引き出されていく。
「おわぁ……」
ドロシーはポカンと口を開きながら、徐々に上空へと引っ張られていくクラーケンを眺めていた。
ヌメヌメとうごめくクラーケンの体表は、陽の光を受けて白くなったり茶色になったり、目まぐるしく色を変えた。その光景は極めて不気味で、受け入れがたいものがある。
「いやぁ! 気持ち悪い!」
ドロシーはそう叫んで俺の後ろに隠れた。
クラーケンは「ぐおぉぉぉ!」と重低音の叫びをあげ、触手をブンブン振り回しながら抵抗するが、俺はお構いなしにどんどん魔力を上げていく……。クラーケンの不気味な叫び声が、海面を震わせる。
何が起こったのかと呆然と見上げる船員たち――――。
ついにはクラーケンは巨大な熱気球のように完全に宙に浮きあがり、船のマストにつかまっている触手でかろうじて飛ばされずにすんでいた。
★5の凶悪な海の魔物もこうなってしまえば形無しである。と、思っていたらクラーケンはいきなり辺り一面に墨を吐き始めた。
まるで雨のように降り注ぐ漆黒の墨、カヌーにもバシバシ降ってくる。さらに、墨は硫酸のように当たったところを溶かしていくのだ。その光景に、俺は一瞬たじろいだ。
「うわぁ!」「キャーーーー!!」
多くはシールドで防げたものの、カヌーの後ろの方は墨に汚され、あちこち溶けてしまった。さすが★5である。一筋縄ではいかないのだ。
「あぁ! 新品のカヌーがーーーー!!」
頭を抱える俺。
ものすごく頭にきた俺はクラーケンをにらむと、
「くらえ! エアスラッシュ!」
そう叫んで、全力の風魔法をクラーケンに向けて放ってやった。
緑色に輝く風の刃が、空気を切り裂きながら音速でクラーケンの身体に食い込む――――。
バシュッ!
刹那、派手な音を立ててクラーケンは真っ二つに切り裂かれた。
「ざまぁみろ! タコ刺し、一丁!」
俺は大人げなく叫ぶ。
無残に切り裂かれたクラーケンは徐々に薄くなり……最後は霧になって消えていった。
水色に光る魔石がキラキラと輝きながら落ちてくるので、俺はすかさず拾う。その熱い感触が、この戦いの現実味を与えてくれる。
ふぅ……。
俺は大きく息をつくと周りを見回した。船員たちの驚いた顔、ドロシーの安堵の表情、そして穏やかになった海面。
「ユータ、すごかったわ!」
ドロシーの声が弾んでいる。
「どう? 強いだろ俺?」
俺は美しい輝きを放つ魔石を見せながら、ドヤ顔でドロシーを見る。
「うわぁ……、綺麗……。ユータ……もう、本当にすごいわ……」
驚きと喜びに圧倒されるドロシーは軽く首を振った。
「大魔導士様! おられますか? ありがとうございます!」
船から声がかかる。船長の様だ。その声には、感謝と安堵が溢れていた。
隠ぺい魔法をかけているから、こちらのことは見えないはずだが、シールドに浴びた墨は誤算だった。墨は見えてしまっているかもしれない。俺は少し緊張し、コホンとせき払いをした。
「あー、無事で何よりじゃったのう……」
俺は頑張って低い声を出す。その声色に、自分でも思わず噴き出してしまいそうになる。
「このご恩は忘れません。何かお礼の品をお贈りしたいのですが……」
(お、お礼!? キターーーー!)
俺は子供のようにワクワクしながらドロシーに聞く。
「お礼だって、何欲しい? 宝石とかもらう?」
しかし、ドロシーは静かに首を振る。
「私は……特に欲しい物なんてないわ。それより、孤児院の子供たちに美味しい物をお腹いっぱい食べさせてあげたいわ……」
俺を見つめるその瞳には優しさがあふれていた。
「そうだよ、そうだよな……」
俺は欲にまみれた自分の発想を反省する。
パサパサでカチカチのパンしか無く、それでも大切に食べていた孤児院時代を思い出す。後輩にはもうちょっといいものを食べさせてあげる……それが先輩の責務だと思った。
俺は軽く咳払いし、言った。
「あー、クラーケンの魔石はもらったので、ワシはこれで十分。ただ、良ければアンジューの孤児院の子供たちに、美味しい物をお腹いっぱい食べさせてあげてくれんかの?」
「アンジューの孤児院! なるほど……、分かりました! さすが大魔導士様! 私、感服いたしました。美味しい料理、ドーンと届けさせていただきます!」
船長は嬉しそうにほほ笑んだ。その笑顔に、俺は人間の温かさを感じた。やはり、恵まれない子供たちに対する支援というのは人の心を動かすらしい。
孤児のみんなが大騒ぎする食堂を思い浮かべながら、俺も今度、何か持って行こうと思った。
ドロシーは俺の横顔を見つめ、静かに微笑み、俺も微笑む。海風が二人の髪を優しく撫でた――――。
「では、頼んだぞ!」
俺はそう言うと、カヌーに魔力を込めた。その瞬間、空気が震える。
カヌーはするすると加速し、また、バタバタと風を巻き込みながら海上を滑走していく。
「ありがとうございましたーーーー!」
後ろで船員たちが手を振っている。
「ご安全にー!」
ドロシーも手を振って応えた。まぁ、向こうからは見えないのではあるが。
「人助けすると気持ちいいね!」
俺はドロシーに笑いかける。
「助かってよかったわ。ユータって凄いのね!」
ドロシーも嬉しそうに笑う。その瞳に、尊敬の光が宿っているのが分かった。
「いやいや、ドロシーが見つけてくれたからだよ、俺一人だったら素通りだったもん」
「そう? 良かった……」
ドロシーは少し照れて下を向いた。
「さて、そろそろ本格的に飛ぶからこの魔法の指輪つけて」
俺はポケットから『水中でもおぼれない魔法の指輪』を出す。金色のリングに大粒のサファイアのような青い石が陽の光を浴びてキラリと輝いた。
「ゆ、指輪!?」
目を丸くして驚くドロシー。
「はい、受け取って!」
俺はニッコリと笑いながら差し出す。
「ユータがつけて!」
ドロシーは両手を俺の前に出した。その仕草に、俺は戸惑ってしまう。
「え? お、俺が?」
「早くつけて!」
ドロシーは両手のひらを開き、嬉しそうに催促する。
俺は悩んでしまった。どの指につけていいかわからないのだ。
「え? どの指?」
「いいから早く!」
ドロシーは教えてくれない……。
中指にはちょっと入らないかもだから薬指?
でも、確か……左手の薬指は結婚指輪だからつけちゃマズいはず?
なら右手の薬指にでもつけておこう。
俺は白くて細いドロシーの薬指にそっと指輪を通した。その柔らかな感触に、俺の心がドキリとした。
「え?」
ドロシーの表情に驚きが走った。
「あれ? 何かマズかった?」
「うふふ……、ありがと……」
真っ赤になってうつむくドロシー。
「このサイズなら、薬指にピッタリだと思ったんだ」
「……、もしかして……指の太さで選んだの?」
ドロシーの表情からサッと血の気が引き、言葉に怒気が混じる。
「そうだけど……マズかった?」
ドロシーは俺の背中をバシバシと叩く。
「もうっ! 知らない! サイテー!!」
ふくれてそっぽを向いてしまった。
「えっ……? えーと、結婚指輪って左手の薬指だよね?」
俺はしどろもどろでドロシーの顔色をうかがう。
「ユータはね、もうちょっと『常識』というものを学んだ方がいいわ……」
ドロシーはジト目で俺の額を指で押した。
「ゴメン、ゴメン、じゃぁ外すよ……」
俺は慌ててドロシーの指に手を伸ばす――――。
「ユータのバカ! もう、信じらんない!」
ドロシーはまた背中をバシバシと叩き、ふくれてプイっとそっぽを向いてしまった。
「痛てて、痛いよぉ……」
女性と付き合った経験のない俺に乙女心は難しい……。俺は途方に暮れて宙を仰いだ――――。
その後、俺は何だか良く分からないまま平謝りに謝った。
(帰ったら誰かに教えてもらおう。こんな時スマホがあればなぁ……)
と、どこまでも続く水平線を見ながら、情けないことを考える。
それでも女の子と指輪で揉めるなんて、前世では考えられない話である。ある意味で幸せなことかもしれない。そう思うと、俺の顔に小さな笑みが浮かんだ。
さらにしばらく海面をすべるように進むと、断崖絶壁の上に聳え立つ純白の灯台が姿を現した。本州最南端、潮岬だ。灯台は石造りの堂々とした建築で、吹き付ける潮風に負けじと、威風堂々と海の安全を見守っている。その姿は、まるで時代を超えて立ち続ける不動の守護者のようだった。
潮岬を超えたら少し右に進路を変え、四国の南をかすめながら宮崎を目指そう。そう決めた矢先、ドロシーの歓声が響いた。
「うわー! あれ、灯台よね? すごい!」
ドロシーは初めて見る灯台に興奮気味だ。先ほどまでの不機嫌さは影を潜め、目を輝かせている。その様子を見てホッとした。
「よし、灯台見物だ! よく見ててよ!」
俺は灯台の方向にかじを切る。徐々に近づいてくる灯台。その威容が大きくなるにつれ、ドロシーの息遣いが荒くなるのを感じた。
「しっかりつかまっててよ!」
「えっ!? ちょっと待って! ユータ、何するつもり……?」
崖ギリギリまで近づくと俺は高度を一気に上げ、断崖絶壁をスレスレにかすめる。生えていた草がパシっとシールドを叩く音が、心臓の鼓動のように響く。
そして、ぐっと大きく迫ってくる灯台のすぐ横を飛んだ。
視野を大きく純白の壁が横切る。まるで巨人の顔がゆっくりと横を通り過ぎていくかのようだ。
「きゃぁっ!」
ドロシーが俺にしがみつく。
ドン!
カヌーが引き起こす後方乱気流が灯台にぶつかって鈍い音を放つ。その衝撃が下っ腹に響いた。
「ははは、大丈夫だよ。怖かった?」
「もぉ……ユータの馬鹿!」
ドロシーは俺の背中をパンと叩き、振りむいて、ぐんぐんと小さくなっていく灯台を眺めた。
「なんだかすごいわ……。ユータは大魔導士なの? こんな凄いことができるなんて」
「大魔導士であり、剣聖であり、格闘家……かな? 要するに、なんでもできる万能選手ってところだ」
俺はニヤッと笑う。
「何よそれ、全部じゃない……。欲張りすぎよ」
「ははは。すごいだろ? 感動した?」
俺がドヤ顔でそう言うと……。
「すごすぎるのも……何だか怖いわ……」
ドロシーは俺の背中に顔をうずめた。
確かに『大いなる力は大いなる責任を伴う』である。力は大きければいいというものではない。
例えば武闘会で勇者叩きのめすのは簡単だ。でもそんなことしてしまったらもう街には居られないだろう。そう考えると、自分の力の大きさを手放しには喜べない。
リリアンの騎士にでもなれば居場所はできるだろうけど、そんな生き方も嫌なのだ。
俺はぽっかりと浮かんだ雲たちをスレスレでよけながら高度を上げ、遠くに見えてきた四国を見つめる。四国の山々は、まるで歓迎するかのように、徐々にその姿を大きくしていった。
◇
俺はグングンと速度を上げ、さらに高い空を目指す。空気が薄くなるにつれ、カヌーの周りを流れる風の音が変わっていくのを感じた。
この速度では石垣島まで何時間もかかってしまう。そろそろ本気を出して飛んでみよう。
「これより、当カヌーは超音速飛行に入りま~す。ご注意くださ~い!」
俺は冗談めかして機内アナウンスのような口調で告げた。
「え? 超音速って……何?」
ドロシーがバタつく銀色の髪を押さえながら、不安そうに聞いてくる。
「音が伝わる速さを超えるってことだよ、とんでもない速度で飛ぶってこと。この世界では誰も経験したことがないはずさ」
俺は少し得意げに説明した。
「もっと速くなるの!? 音より速い!? なんなのそれ!? ユータ、大丈夫なの?」
ドロシーがまん丸い目をして俺を見る。その表情には興奮と恐怖が入り混じっていた。
「しっかりつかまっててよ! 世界初の超音速フライトの準備はいい?」
俺はそう言うと注入魔力をグンと増やした。
カヌーはビリビリと震えながら速度を上げていく。
対地速度 500km/h
:
対地速度 600km/h
:
対地速度 700km/h
:
どんどんと上がっていく速度。
雲のすき間をぬって飛んでいくが、大きな雲が立ちふさがった。積乱雲だ。その巨大な姿は、天に聳える白い城塞のようだった。
これを避けるとなると相当遠回りになってしまう。
「雲を抜けるよ、気を付けて! ちょっとした嵐の中に突っ込むかもしれないぞ」
俺は声をかけながら、カヌーの姿勢を整えた。見る見るうちに迫って来る艶々とした雲の壁――――。
「く、雲!? 嵐!? ユータ、やめ……」
ドロシーの言葉が途切れた。
ボシュ!
いきなり視界がグレー一色になる。
「きゃぁ! 何も見えないっ!」
俺にしがみつくドロシー。
雲の中に突っ込んだのだ。周囲は濃密な水滴に包まれ、視界はゼロ。ときおり雷光が走り、轟音が耳を襲う。
俺は構わずさらに速度と高度を上げていく。カヌーがガタガタと激しく揺れる中、必死になって操縦に集中する。
対地速度 800km/h
:
対地速度 900km/h
:
ジェット旅客機の速度に達し、船体がグォングォンとこもった音を響かせ始める。その音は次第に高くなり、やがて耳をつんざくような金属音へと変わっていく。
ドロシーはギュッと俺にしがみついている。
すると急に視界が開けた――――。
真っ青な青空に燦燦と照り付ける太陽、雲の上に出たのだ。眼下には真っ白な雲海が広がり、その上には無限に続く碧空が広がっていた。
「ヒャッハー! やったぞ、突破成功だ!」
俺は思わずガッツポーズをする。
「すごーい…… こんな世界があったなんて……」
「ここが雲の上だよ。まだ街の人は見たことのない景色さ」
俺は誇らしげに言った。
「なんて神秘的なのかしら……。まるで天国みたい……」
ドロシーは雲と空しかない風景にしばし絶句していた。その瞳には、驚きと畏怖の念が交錯している。
その間にも速度はぐんぐんと上がる。カヌーが軋むような音を立て、振動が増していく。
対地速度 1000km/h
:
対地速度 1100km/h
:
対地速度 1200km/h
:
カヌーの周りにドーナツ状の霧がまとわりつく。亜音速に達したのだ。
いよいよ来るぞ――――。
俺の心臓が高鳴る。
ドゥン!
激しい衝撃音が響き、カヌーが大きく揺れる。
「キャーーーー! 何!?」
ドロシーが叫ぶ。
俺は興奮を抑えきれず、こぶしを突き上げた。
「Yeahーーーー! やったぞ、ドロシー! 俺たち、音の壁を破ったんだ!」
ついに音速を超えたのだ。その瞬間、世界が一変したかのような感覚に襲われる。
シールドの先端は真っ赤に光り輝き、熱線を放っていた。これが超音速の世界なのだ。
そしてさらに魔力を上げていく。体中に昂ぶりが走っている。
対地速度 M1.1
:
対地速度 M1.2
:
対地速度 M1.3
:
速度表示がマッハ(M)に変わり、どんどん増えていく。
「ユータ、これってどういうこと?」
ドロシーが轟音鳴り響く中、尋ねてくる。
「音の速さを超えたってことさ。普通の人には想像もつかない速度だよ」
俺は少し自慢げに答えた。
「音の速さ……?」
ドロシーにはピンとこないらしく、首をかしげている。
音速を超えるとシールドにぶつかってくる空気は逃げられない。尖がったシールドの先端では圧縮された空気が衝撃波を作り、高熱を発しながら周りに広がっていく。この衝撃波は強力で、遠く離れていても窓ガラスを割ることがあるらしいので、なるべく海上を飛んでいく。
ギュゥゥゥーーーー!
カヌーからきしむ音が響く。ピカピカの朱色のカヌーは今、超音速飛行船となって空の上高く爆走しているのだ。カヌーを作ったおじさんにこの光景を見せたら、きっとぶったまげるだろうな……。俺はそんなことを思いながらニヤッと笑った。
雲の合間に四国の先端、室戸岬を確認できる頃にはマッハ3に達していた。緑豊かな山々と青い海が織りなす絶景が、一瞬で目の前を通り過ぎていく。
そこから宮崎まで約五分、さらに南下して種子島・屋久島を抜け、奄美大島まで五分。戦闘機レベルの高速巡行は気持ちいいくらいに風景を塗り替えていく。
空から見る奄美大島はサンゴ礁に囲まれ、淡い青緑色の蛍光色に縁どられて浮いて見える。この世界は工場があまり発達していないから環境汚染もないだろう。まさに手付かずの美しい自然、ありのままの姿なのだ。
ドロシーにも見てもらおうと後ろを見たら……、俺にしがみついたまま動かなくなっている。その顔は蒼白で、汗が滲んでいた。
「ドロシー? 大丈夫か?」
「う~ん、ちょっと気分が…… 目まいがして……」
どうやら船酔いのようだ。これはまずい。
「ヒール!」
俺は急いで治癒魔法をかけた。ボワッと淡い光に包まれるドロシー。その光は温かく、優しく彼女を包み込んでいく――――。
「これでどう? 少しは楽になった?」
「うん……、良くなったわ。ありがとう、ユータ」
力のない笑顔を見せるドロシー。その表情に安堵しつつも、まだ心配が残る。
「ごめん、無理させちゃって。もう少しで着くからね。それまでゆっくり休んでていいよ」
俺は優しくそう声をかけ、ドロシーの腕を軽くさすった。
◇
沖縄列島の島々を次々と見ながら南西に飛び、十分程度するとヒョロッと長い半島が突き出た独特の島、石垣島が見えてきた。その姿を見た途端、懐かしい記憶が蘇ってくる。
俺は学生時代、一か月ほど石垣島で民宿のアルバイトをやったことがあった。石垣島の人たちは温かくて優しく、ちょっとひねくれていた学生時代の俺を、まるで自分の子供のように丁寧に扱ってくれた。その思い出が鮮やかによみがえる。
暇なときは海に潜って遊び、夜は満天の星々を見ながら、オリオンビールでいつまでも乾杯を繰り返した。それは今でも大切な記憶として俺の中では宝物になっている。
はるばるやってきた懐かしの島が徐々に大きくなっていく。俺は心臓が高鳴るのを感じた。
速度と高度を落としながら石垣島の様子を観察する。サンゴ礁に囲まれた美しい楽園、石垣島。その澄みとおる海、真っ白なサンゴ礁の砂浜の美しさは俺が訪れていた時よりもずっと輝いて見えた。翡翠のような海の色、真珠のような砂浜、そして鬱蒼とした緑の森。それらが織りなす光景は、まさに地上の楽園そのものだった。
一通り島を回ってみたが、誰も住んでいないし魔物がいる気配もない。手つかずの無人島の様だ。前世の賑わいはどこにも見当たらない。
「誰もいないのか……。まぁ、リゾートにはちょうどいい……か」
俺は後ろを向いて半ば寝ていたドロシーをやさしく揺らした。
「着いたよ! 楽園だ!」
「う? もう着いたの……?」
ドロシーは目をこすりながら、真っ白な砂浜にエメラルドグリーンのサンゴ礁を見回し……、
「うわぁ! すごい、すごーーい!!」
と、歓声を上げる。その目は驚きと喜びでキラキラと輝いていた。
「ようこそ石垣島へ。俺の第二の故郷さ」
俺は少し誇らしげにドロシーを見つめる。彼女の反応に、かつて自分が初めてこの島を訪れた時の興奮が蘇る。
「すごい綺麗だわ! ユータ、この景色、絵みたい!」
美しく澄み通る海、それはドロシーが想像もしたこともない、まさに南国の楽園だった。その美しさに、彼女の声は興奮で震えている。
俺は美しい入り江、川平湾に向けて高度を落としていく。徐々に大きくなっていく白い砂浜にエメラルド色の海……。その景色は、記憶の中のものよりもさらに鮮やかだった。
俺は船尾から先に下ろし、ザバッと水しぶきを上げるとそのまま静かに着水していく。
カヌーは初めて本来の目的通り、海面を滑走し、透明な水をかき分けながら熱帯魚の楽園を進んだ。水面下には、色とりどりの魚たちが群れをなして泳いでいる。
潮風がサーっと吹いて、ドロシーの銀髪を揺らし、南国の陽の光を受けてキラキラと輝いた。
「うわぁ……まるで宙に浮いてるみたいね…… ユータ、これが海なの?」
「ほんとだよね。こんな綺麗な海は俺も初めてだよ」
澄んだ水は存在感がまるでなく、カヌーは空中を浮いているように進んでいく。
俺は真っ白な砂浜にカヌーをそのままザザッと乗り上げる。
「到着! お疲れ様! 気を付けて降りてね」
ドロシーは恐る恐る真っ白な砂浜に降り立ち、足の下の感触を確かめるように少し歩いてみる。サクッサクッとサンゴ礁のかけらでできた砂が心地よい音を立てた。
「うふふ、すごいいところに来ちゃった!」
真っ青な海を眺めながら大きく両手を広げ、深く深呼吸をするドロシー――――。
俺はそれを見ながら胸が熱くなるのを感じる。
「ユータ、ありがとう!」
俺に振り向いて輝く笑顔で言った。
「どういたしまして……」
このドロシーの笑顔をもっともっと見ていたい。俺は心の底からそう思った。
◇
前世では世界の羨望のまなざしを受けていたダイビング天国石垣島。そこが今、二人だけの貸し切り状態なのだ。思いっきり満喫してやろう。
俺はカヌーを引っ張り上げて木陰に置くと、防寒着を脱ぎながら言った。
「はい、泳ぐからドロシーも脱いで脱いで! 海水の気持ちよさを全身で感じようぜ」
「はーい! でも……泳ぐってどうするの?」
ドロシーはうれしそうに笑ったが、少し不安そうな色がある。アンジューの街の人たちは一生泳ぐことなどないのだ。
「大丈夫、俺が教えてあげるから。まずは水に慣れるところからだ」
「分かったわ! それーー!」
水着になったドロシーは白い砂浜を元気に走って、海に入っていく。その姿は、まるで解き放たれた小鳥のようだった。
「キャーーーー! 冷たい! でも気持ちいい!」
うれしそうな歓声を上げながらジャバジャバと浅瀬を走るドロシー。
銀髪の美少女が美しいサンゴ礁の海をかけていく――――。
あぁ、まぶしいなぁ……。
俺は心が癒されていくのを感じていた。
「ねえ、ユータ! 早く来てよ! 一緒に遊ぼう!」
「はいはい!」
ドロシーの呼びかけに、俺も海に飛び込んだ。水しぶきを上げながら彼女に近づき、二人で笑い合う。この瞬間、俺は全てを忘れ、ただ今を楽しむことができた。石垣島は、再び俺に幸せをもたらしてくれている。
◇
「そろそろ潜ろう。水中の世界を見せてあげるよ」
俺は頭の周りを覆うシールドを展開した。巨大なシャボン玉のような透明な薄膜が頭を包み込む。こうしておくと水中でもよく見えるし、会話もできるのだ。魔法の力って本当に便利である。
俺はドロシーの手を取って、どんどんと沖へと歩く。波が二人の体を優しく包み込んでいった。
胸の深さくらいまで来たところで、ドロシーに声をかける。
「さぁ、潜ってごらん。この世界の神秘が見えてくるよ」
「え~、怖いわ。潜ったことなんてないし……」
怖気づくドロシー。
「じゃぁ、肩の所つかまってて。俺が案内するから」
そう言って肩に手をかけさせる。ドロシーの温かい手が俺の肩に触れる。
「こうかしら……? え? まさか! ユータ、何を……」
俺は一気に頭から海中へ突っ込んだ。一緒に海中に連れていかれるドロシー。
「キャーーーー!! ちょっと、心の準備が……!」
ドロシーは怖がって目を閉じてしまう。その表情が可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
俺は水中で優しく言った。
「大丈夫だって、目を開けてごらん。奇跡の世界が広がってるよ」
恐る恐る目を開けるドロシー――――。
そこは熱帯魚たちの楽園だった。
「え!? すごい!」
コバルトブルーの小魚が群れ、真っ赤な小魚たちが目の前を横切っていく……。まるで色とりどりの宝石が舞っているかのような光景だ。
「すごーい! これが海の中!? 夢みたい……」
瞳をキラキラさせ、ドロシーの声が弾む。
「さ、沖へ行くよ。もっと素晴らしい景色を見せてあげる」
俺はドロシーの手をつかみ、魔法を使って沖へと引っ張っていった。二人の体はまるで魚のように水中をスイスイと進んでいく。
サンゴ礁の林が現れ、そこにはさらに多くの熱帯魚たちが群れていた。白黒しま模様のスズメダイや芸術的な長いヒレを伸ばすミノカサゴ、ワクワクが止まらない風景が続いていく。
透明度は四十メートルはあるだろうか、どこまでも澄みとおる海はまるで空を飛んでいるような錯覚すら覚える。太陽の光は海面でゆらゆらと揺れ、まるで演出された照明のようにキラキラとサンゴ礁を彩った。その光景は、まさに海底の楽園そのものだ。
「ユータ、なんて素敵なのかしら……。こんな世界が存在するなんて……」
ドロシーはウットリと辺りを見回した。
「素晴らしいよね……」
彼女の笑顔を見ていると、俺は自分の心も軽くなっていくのを感じる。
「ねえ、ユータ。あれは何?」
ドロシーが指さす先には、大きなウミガメがゆっくりと泳いでいた。
「ウミガメだよ。何百年も生きる海の賢者さ」
「わぁ、すごい! 近づいてみてもいい?」
「もちろん。でも優しくね」
二人でゆっくりとウミガメに近づく。そのゆったりとした泳ぎに、悠久の時の流れを感じた。
◇
さらに沖に行くと、大きなサンゴ礁が徐々に姿を現す。その特徴的な形は忘れもしない俺の思い出のスポットだった。海底からキノコのようにせり上がる複雑に入り組んだ形、色とりどりのサンゴが作り出す幻想的な風景。それは、まるで海底の秘密の庭園のようだ。
俺はそのサンゴ礁につかまると、期待に胸を膨らませて言った。
「ここでちょっと待ってみよう。素晴らしいものが見られるかもしれない」
「え? 何を? もっと素敵なものがあるの?」
ドロシーの目が好奇心で輝く。
「それは……お楽しみ! きっと驚くよ。ふふっ」
俺は微笑みながら答えた。
「へぇー、何だろう……?」
ドロシーはワクワクしながら辺りを見回す。
しばらく俺も辺りの様子を注意深く見回していく――――。
ドロシーはサンゴ礁にカラフルなウミウシを見つけ、
「あら! かわいい! これなに? 宝石みたい」
と、喜んでいる。その無邪気な様子に、俺の心も和んでいく。
ほどなくして、遠くの方で影が動いた。俺の心臓が高鳴る。
「ドロシー、来たぞ! あれを見て!」
それは徐々に近づいてきて姿をあらわにした。巨大なヒレで飛ぶように羽ばたきながらやってきたのはマンタだった。体長は五メートルくらいだろうか、その雄大な姿は感動すら覚える。
「キャーーーー! あれ、なに? すごく大きい!」
いきなりやってきた巨体にビビるドロシー。
「大丈夫、人は襲わないから。マンタっていう魚だよ。海の天使とも呼ばれてる」
俺は優しく説明した。
優雅に遊泳するマンタは俺たちの前でいきなり急上昇し、真っ白なお腹を見せて一回転してくれる。まるでバレリーナのような優美さだ。
「うわぁ! すごぉい! ユータ、見て! 踊ってるみたい!」
巨体の優雅な舞にドロシーも思わず見入ってしまう。その目は驚きと喜びで輝いていた。
ただ、俺はその舞を見ながら気分は暗く沈んだ。このスポットは前世で俺が遊泳していてたまたま見つけたマンタ・スポットなのだ。広大な海の中でマンタに会うのはとても難しい。でも、なぜか、このスポットにはマンタが立ち寄るのだ。そして、地球で見つけたこのスポットがこの世界でも存在しているということは、この世界が単なる地球のコピーではないということも意味していた。地形をコピーし、サンゴ礁をコピーすることはできても、マンタの詳細な生態まで調べてコピーするようなことは現実的ではない。
俺はこの世界は地球をコピーして作ったのかと思っていたのだが、ここまで同一であるならば、同時期に全く同じように作られたと考えた方が自然だ。であるならば、地球も仮想現実空間であり、リアルな世界ではなかったということになる。そして、この世界で魔法が使えるということは地球でも使えたということかもしれない。俺の知らない所で日本でも魔法使いが暗躍していたのかも……。
しかし……。こんな精緻な仮想現実空間を作れるコンピューターシステムなど理論的には作れない。一体どうなっているのか……。俺の頭の中で疑問が渦巻く。
「ねえ、ユータ。見て! もう一匹来たわ!」
ドロシーの声に我に返る。
「えっ!? あっ、本当だ!」
もう一頭マンタが現れて、二頭は仲睦まじくお互いを回り合い、そして一緒に沖へと消えていった。その光景は、まるで永遠の愛を誓い合う二人の恋人のようだ。
「素敵だわ…… ユータ、ありがとう。こんな素敵な光景を見せてくれて」
ドロシーの声には感動が溢れている。
俺はサムアップすると、そっとドロシーの肩を抱き寄せた。
しかし、俺の心は世界の謎にとらわれたままである。
消えていったマンタの方をいつまでも眺め、不可解なこの世界の在り方に首をかしげた。
「そろそろランチにしよう。お腹が空いただろ?」
俺はそう言って、ドロシーの手を取って陸へと泳ぎ始めた。
海から上がると、真っ白な砂浜に空の太陽が燦々と照りつけ、潮風が気持ち良く吹いてくる。その風に乗って、潮の香りが鼻をくすぐった。
「海はどうだった? 楽しめたかい?」
俺はドロシーの手を引いてカヌーへと歩きながら聞く。砂の感触が足裏をくすぐり、ゆったりとした気分になる。
「まるで別世界ね! こんな所があるなんて知らなかったわ! ユータ、本当にありがとう」
眩しい笑顔でにこやかに笑うドロシー。
俺は自然と湧き上がってくる笑みのまま軽く首を振った。『ありがとう』は自分の言葉なのだ。
木陰に折りたたみ椅子を二つ並べると、俺は湯を沸かしてコーヒーを入れていく――――。
準備をしながら、ふと懐かしさが込み上げてくる。かつてこの島で過ごした日々が、走馬灯のように蘇る。もう二度と会うことはできないけど、民宿のおじちゃん、おばちゃんは元気だろうか……?
全く同じ石垣島に居ながら、この世界には誰も住んでいない。その不思議な感覚に俺は深いため息をついた。
◇
「はいどうぞ」
俺はサンドイッチを切ってドロシーに渡した。
「ふふっ、ありがと!」
ザザーンという静かな波の音、ピュゥと吹く潮風……。ドロシーはサンドイッチを頬張りながら幸せそうに海を眺める。その横顔に、俺は思わず見とれてしまう。
「美味しい! ユータ、このサンドイッチ、どこで買ったの?」
「買ってないよ。俺が作ったんだ。昔、この島で覚えたレシピなんだ」
「すごい! ユータって料理も上手なのね」
ドロシーの目が輝く。その言葉に、少し照れくさくなる。
「サンドイッチに上手いも下手も無いよ」
俺は苦笑し、サンドイッチを頬張った。
◇
コーヒーをすすり、苦みが口の中に広がっていくのを感じながら、いったいこの世界はどうなっているのか、俺はボーっと考えていた。
仮想現実空間であるなら誰かが何らかの目的で作ったはずだが……、なぜこれほどまでに精緻で壮大な世界を作ったのか全く見当もつかない。地球を作り、この世界を作り、地球では科学文明が発達し、この世界では魔法が発達した。一体何が目的なのだろう?
そもそも、こんな世界を動かせるコンピューターなんて作れないのだから、仮想現実空間だということ自体間違っているのかもしれないが……。では全知全能なヌチ・ギや、プランクトンが個体識別され管理されていたのは何だったのか?
俺が眉間にしわを寄せながら考えていると、ドロシーが俺の顔を覗き込む。その大きな瞳に、俺の悩みが映っているようだ。
「どうしたの? 何かあった? さっきから深刻な顔してるわ」
俺はふぅと大きくため息をつき、首を振った。
この悩みはドロシーに言ったところで理解すらされないだろう。
俺はドロシーの肩を抱き、背中に顔をうずめると、
「何でもない、ちょっと疲れちゃった……」
そう言って、ドロシーの体温を感じた。その温もりが、俺の不安を少しずつ和らげていく。
ドロシーは肩に置いた俺の手に手を重ねる。
「ユータばかりゴメンね、少し休んだ方がいいわ……」
その声には、申し訳なさが滲んでいた。
「ちょっとだけ……肩を貸して……」
俺はそう言って、身体をドロシーに預ける。
ドロシーは優しく俺の腕をなでた。
伝わってくる温もり――――。
なぜかこの温もりがある限り、どんな謎も解き明かせる気がしていた。
よく考えたら地球で生きていた俺の魂が、この世界でも普通に身体を得て暮らせているということは、地球もこの世界も同質だという証拠なのだ。では、魂とは何なのだろう……?
分からないことだらけだ。頭の中で疑問が渦を巻く――――。
「この世界って……何なんだ?」
疑問の渦の中、俺は独り言のようにつぶやいた。
「あら、そんなことで悩んでるの? ここはコンピューターによって作られた仮想現実空間よ」
ドロシーがうれしそうに答えた。
そのあまりにも唐突な言葉に頭が真っ白になる。
「え!? な、なんでそんなこと知ってるの?」
思わず声が裏返る。ドロシーの表情には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「なんだっていいじゃない。私が真実を知ってたら都合でも悪いの? ふふっ……」
いたずらっ子のように笑うドロシー。その笑顔に、俺は戸惑いを覚えた。なぜ異世界に生まれた孤児がコンピューターなんて知っているのか?
「いや、そんなことないけど……、でも、コンピューターではこんなに広大な世界はシミュレーションしきれないよ」
俺は必死に自分の知識を総動員して反論する。
「それは厳密に全てをシミュレーションしようとなんてするからよ」
「え……? どういうこと?」
俺の頭の中で、疑問符が踊る。
「ユータが超高精細なMMORPGを作るとして、分子のシミュレーションなんてするかしら?」
「え? そんなのする訳ないじゃん。見てくれが整っていればいいだけなんだから、見える範囲の物だけを適当に合成して……、て、ま、まさかここもそうなの!?」
俺の中で、何かが崩れ落ちる音がした。シミュレーションなど厳密でなくていい、見えてるものだけ、むしろ、プロンプトベースの概念世界だけでも回ってしまうのではないだろうか? そんなひどく簡略化された電脳世界が俺の頭をかすめたのだった。
「ははは、分かってるじゃない」
ドロシーはニヤリと笑う。その笑顔に、俺は戦慄を覚える。
「いやいや、だって顕微鏡で観察したら微細な世界は幾らでも見えるよね……って、それも見た時だけ合成すればいいのか……、え? 本当に?」
俺の声が震えた。自分の認識が根底から覆される感覚に戸惑う。
「だって、太古の昔からそうやってこの世界は回ってるのよ。それで違和感あったかしら?」
ドヤ顔のドロシー。
「いや……全然気づかなかった……」
俺は圧倒され、首を振るしかできなかった。
するとドロシーはニヤッと笑うと俺の手を取り、シャツのすき間から自分の豊満な胸へと導いた。その行動があまりに唐突で、俺は息を呑む。
「どう? これがデータの生み出す世界よ」
絹のようにすべすべでしっとりと柔らかく、手になじむ感触が俺の手のひらいっぱいに広がった。その感触があまりにリアルで、俺は言葉を失う。
「これが……データ……?」
「そう、データの生み出す世界も悪くないでしょ? キャハッ!」
俺は無心に気持ちのいい手触りを一生懸命追っていた。頭の中は真っ白になり、ただその感触だけに集中する。
「データの手触り……」
これがデータ? こんな繊細で優美な手触りをシミュレーションのデータで表現なんてできるのだろうか?
俺は一心不乱に指を動かした。脳髄にヤバい汁がドバっと広がっていく――――。
バシッ!
衝撃が頭に走った。誰かに頭を叩かれた……?
「ちょっとどこ触ってんのよ! エッチ!」
目を開けると真っ赤になったドロシーが怒っている。その表情に、俺は一瞬で現実に引き戻された。
「え?」
気が付くと俺はドロシーにひざ枕をされて寝ていた。そして手はドロシーのふとももをもみもみしていた。柔らかな感触と共に、罪悪感が込み上げてくる。
「あ、ごめん! これは……」
俺は急いで起き上がると平謝りに謝った。頬が熱くなるのを感じる。
「こ、こういうのは恋人同士でやるものよ! ユータ、一体何考えてるの!?」
ドロシーが赤くなって目をそらしたまま怒る。その声にはまだウブな恥ずかしさが混ざっている。
「いや、その通り、夢を見ていたんだ、ごめんなさい。本当に申し訳ない」
平謝りに謝る俺。心臓が早鐘を打つのを感じる。
一体あの夢の中のドロシーは何だったのだろうか?
妙にリアルで的を射ていて……それでメチャクチャなことをしてくれた。その記憶が鮮明すぎて、現実と夢の境界が曖昧になる。
「もう! 責任取ってもらわなくちゃだわ」
ジト目で俺を見るドロシー。
「せ、責任!?」
思わず声が裏返る。冷や汗が背中を伝う。
「冗談よ……、でも、どんな夢見たらこんなエッチなこと……するのかしら?」
ドロシーは膨らみながら俺の目をジッとのぞき込んだ。その鋭い視線に、俺は思わずのけぞる。
「コ、コンピューターって知ってる?」
「ん? カンピョウ……なら知ってるけど……」
「計算する機械のことなんだけどね、それがこの世界を作ってるって話をしていたんだ」
ドロシーは眉をひそめながら俺を見ると、
「……? 何言ってるのか全然わかんないわ。ユータ、大丈夫? 頭打ったりしてない?」
ドロシーは眉をひそめ、心配そうに俺の頭をなでた。
やはり知る訳もないか……。と、なると、あの夢は何だったんだろう……?
「夢の中でドロシーがそう言ってたんだよ。すごくリアルで……」
「ふぅん、その私、変な奴ね。でも、夢の中の私じゃなくて、目の前の私を見てよ」
ドロシーはそう言って笑うと、コーヒーを飲んだ。
「ごめんね。本当に申し訳ない」
「もういいわ。二度としないでね。……、もしくは……」
「もしくは?」
俺が聞き返すと、ドロシーの頬が再び赤くなる。
「なんでもない!」
そう叫んで、タッタッタと砂浜をかけて行ってしまった。
俺は首を傾げ、コーヒーをゴクリと飲む。身体が苦みを欲していたのだ。
「もしくは……?」
波打ち際をバシャバシャと駆けるドロシーを眺めながら、小声でつぶやいた。波の音が、その言葉をかき消すように響く。
それにしても、夢の中のドロシーは非常に興味深いことを言っていた。確かに『見た目だけちゃんとしてればいい』というのであれば必要な計算量は劇的に減らせる。現実解だ。その方法であればこの世界がコンピューターで作られた仮想現実空間であることに違和感はない。もちろん、そう簡単には作れないものの、地球のAI技術やIT技術が発達して百年後……いや、千年後……少なくとも一万年後だったら作れてしまうだろう。
と、なると、誰かが地球とこの世界を作り、日本で生まれた俺はこちらの世界に転生されたということになるのだろう。こちらの神話にも出てくるヴィーナという女神――――俺を転生してくれた、サークルの先輩に似た女性が創ったことになっている。彼女にもう一度会うことができたら謎も解けるに違いない。どうやったら会えるだろうか……?
俺は腕組みをしてキュッと口を結んだ――――。