武器の扱いが増えるにつれ、店舗でゆっくりと見たいという声が増え、俺は先日から工房を改装して店としてオープンしていた。店と言っても週に二回、半日開く程度なんだけれども。その小さな一歩が、俺の人生に新たな彩りを添えていく。
店では研ぎ終わった武器を陳列し、興味のあるものを裏の空き地で試し斬りしてもらっている。刃物が空を切るヒュンヒュンという音が、時折風に乗って聞こえてくる。
店の名前は「武器の店『星多き空』」。要はレア度の★が多いですよって意味なのだが、お客さんには分からないので、変な名前だと不思議がられている。
店の運営は引き続きドロシーにも手伝ってもらっていて、お店の清掃、経理、雑務など全部やってもらっている。本当に頭が上がらない。彼女の献身的な姿に、俺は感謝の念を覚える。
「ユータ! ここにこういう布を張ったらどうかなぁ? 剣が映えるよ!」
ドロシーはどこからか持ってきた紫の布を、武器の陳列棚の後ろに当てて微笑んだ。その笑顔に、店内が明るくなったように感じる。
「おー、いいんじゃないか? さすがドロシー!」
「うふふっ」
ドロシーはちょっと照れながら布を張り始める。その甲斐甲斐しい仕草に、俺は思わず微笑んでしまう。
そののぞのぞまぬ改稿―――。
ガン!
いきなり乱暴にドアが開いた。その音に、平和な空気が一瞬で凍りつく。
三人の男たちがドカドカと入ってきた。その足音が、床を震わせる。
「いらっしゃいませ」
俺はそう言いながら鑑定をする。
ジェラルド=シャネル 王国貴族 『人族最強』
勇者 レベル:218
嫌な奴が来てしまった。俺はトラブルの予感に気が重くなる。胸の奥に、不安が蠢く。
勇者は手の込んだ金の刺繍を入れた長めの白スーツに身を包み、ジャラジャラと宝飾類を身に着けて金髪にピアス……。その姿は、まるで傲慢さの具現化のようだった。風貌からしてあまりお近づきになりたくない。
勇者は勇者として生まれ、国を守る最高の軍事力として大切に育てられ、貴族と同等の特権を付与されている。その強さはまさに『人族最強』であり、誰もかなわない、俺を除けば。その事実に、俺は複雑な思いを抱く。
「なんだ、ショボい武器ばっかだなぁ! おい!」
入ってくるなりバカにしてくる勇者。その声には、傲慢さと軽蔑が滲んでいた。
「とんだ期待外れでしたな!」
従者も追随する。その言葉に、俺は怒りを覚えるが、絡まれたら最悪なのでスルーする。
「それは残念でしたね、お帰りはあちらです!」
ドロシーがムッとして出口を指さす。ドロシーは彼らが勇者一行だとは気づいていないのだ。俺は冷や汗が湧いた。
勇者はドロシーの方を向き、ジッと見つめる。その視線には、獲物を狙う猛禽類のような鋭さがあった。
そして、すっとドロシーに近づくと、
「ほぅ……掃き溜めに……ツル……。今夜、俺の部屋に来い。いい声で鳴かせてやるぞ」
そう言ってドロシーのあごを持ち上げ、いやらしい顔でニヤけた。
「やめてください!」
ドロシーは勇者の手をピシッと払ってしまう。
勇者はニヤッと笑った。その笑みには、残忍さが滲んでいた。
「おや……不敬罪だよな? お前ら見たか?」
勇者は従者を見る。
「勇者様を叩くとは重罪です! 死刑ですな!」
従者もニヤニヤしながら一緒になってドロシーを責める。
「え……?」
青くなるドロシー。その表情に、絶望の色が浮かぶ。
俺は急いでドロシーを引っ張り、勇者との間に入る。何とかしてこの場を収めねばならない。
「これは大変に失礼しました。勇者様のような高貴なお方に会ったことのない、礼儀の分からぬ孤児です。どうかご容赦を」
丁寧に深々と頭を下げた。
「孤児だったら許されるとでも?」
獲物をいたぶるように追い込んでくる勇者。
「なにとぞご容赦を……」
必死に頭を下げる俺の髪の毛を勇者はガッとつかみ、持ち上げた。
「教育ができてないなら店主の責任だろ!? お前が代わりに牢に入るか?」
間近で俺をにらむ勇者。その目には、人間性を失った獣のような光が宿っていた。
「お戯れはご勘弁ください!」
俺はそう言うのが精いっぱいだった。もちろん、ぶちのめしてもいいのだが、そうなれば重罪人、もはやこの国にはいられなくなってしまう。
「じゃぁ、あの女を夜伽によこせ。みんなでヒィヒィ言わせてやる」
いやらしく笑う勇者。その言葉に、胸が悪くなるのを感じた。
「孤児をもてあそぶようなことは勇者様のご評判に関わります。なにとぞご勘弁を……」
勇者は少し考え……ニヤッと嗜虐的な笑みを浮かべる。
「おい、ムチを出せ!」
従者に手を伸ばした。
「はっ! こちらに!」
従者は、細い棒の先に平たい小さな板がついた馬用のムチをうやうやしく差し出す。
「お前、このムチに耐えるか……女を差し出すか……選べ。ムチを受けてそれでも立っていられたら引き下がってやろう」
勇者は俺を見下し、笑った。その笑みには、残虐な喜びが浮かんでいた。
ムチ打ちはこの世界では一般的な刑罰だ。しかし、一般の執行人が行うムチ打ちの刑でも死者が出るくらい危険な刑罰であり、勇者の振るうムチがまともに入ったら普通即死である。
え……?
ドロシーは真っ青になって息を呑んだ。
「……。分かりました。どうぞ……」
そう言って俺は勇者に背中を向けた。かなり痛いとは思うが、レベル差は5倍もあるのだから死にはしないだろう。
「ユータ! ダメよ! 勇者様のムチなんて受けたら死んじゃうわ!」
ドロシーが必死な顔で叫ぶ。その声には、深い絶望と悲しみが込められていた。
従者は『また死体処理かよ』という感じで、ちょっと憐みの表情を見せる。
俺はドロシーの頬を優しくなでると、ウインクをして言った。
「大丈夫だって。何も言わないで」
「え……?」
涙目のドロシーはどういうことか分からず、小首をかしげる。
「ほほう、俺もずいぶんなめられたもんだなぁ!」
勇者は俺を壁の所まで引っ張ってきて、手をつかせる――――。
ムチを思いっきり振りかぶり、勇者は目にも止まらぬ速度で俺の背中にムチを叩きこんだ。
「死ねぃ!」
叫び声には、狂気じみた興奮が滲む。
ドン!
ムチはレベル二百を超える圧倒的なパワーを受け、音速を越える速度で俺の背中に放たれた。服ははじけ飛び、ムチもあまりの力で折れてちぎれとんだ――――。
「イヤーーーー!! ユーターーーー!」
悲痛なドロシーの声が店内に響く。
誰もが俺の死を予想したが……。
俺はゆっくりと振り向いた。
「痛たたた……。これでお許しいただけますね?」
勇者も従者たちもあまりに予想外の展開に、目を丸くした。その表情には、驚愕が浮かんでいる。
レベル二百を超える『人族最強』のムチの攻撃に耐えられる人間など、あり得ないのだ。空気が凍りつくのを感じる。
「お、お前……、なぜ平気なんだ?」
勇者はポカンとしながら聞いた。
「この服には魔法がかけてあったんですよ。一回だけ攻撃を無効にするのです」
俺はニッコリと適当な嘘をつく。レベル千を超える俺にはムチなど痛い程度の話でしかない。その事実を隠しながら、俺は平然とした表情を保つ。
「けっ! インチキしやがって!」
勇者は俺にペッとツバを吐きかけ、
「おい、帰るぞ!」
と、出口に向かった。その背中には、屈辱と怒りが滲んでいた。
途中、棚の一つを、ガン! と蹴り壊し、武器を散乱させる勇者。その行為に、幼稚な怒りの発露を感じる。
そして、出口で振り返る。
「女! 俺の誘いを断ったことはしっかり後悔してもらうぞ!」
勇者はドロシーをにらんで出ていった。その言葉には、底知れぬ悪意を感じる。
「ユーターーーー!」
ドロシーは俺に抱き着いてきてオイオイと泣いた。その体の震えに、彼女の恐怖と安堵が伝わってくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
涙をポロポロとこぼすドロシー。その涙に、俺の心が揺さぶられる。
俺は優しくドロシーの背中をなでた。
「謝ることないよ、俺は平気。俺がいる限り必ずドロシーを守ってあげるんだから」
俺はしばらくドロシーの体温を感じていた。その温もりに、俺は安らぎを覚える。
「うっうっうっ……」
なかなか涙が止まらないドロシーに、俺は胸が締め付けられる思いがした。
十二歳の頃と違ってすっかり大きくなった胸が柔らかく俺を温め、もう少女とは違う大人の華やかな香りが俺を包んだ。
あまり長くハグしていると、どうにかなってしまいそうな俺は静かに深呼吸をし、冷静さを取り戻そうとする。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。その光景が、今日の出来事の激しさを物語っているようだった。
最後の勇者の言葉、あれは嫌な予感がする。あの執念深そうな視線が、俺の心に重くのしかかった。
「そうだ……」
俺は静かにドロシーを腕から放し、
棚から『光陰の杖』を出すと紐を工夫して、ドロシーの首にかけた。
光陰の杖 レア度:★★★★
魔法杖 MP:+10、攻撃力:+20、知力:+5、魔力:+20
特殊効果: HPが10以上の時、致死的攻撃を受けてもHPが1で耐える
夕闇の中、杖が放つ微かな光がドロシーの顔をほのかに照らす。
「いいかい、これを肌身離さず身に着けていて。お守りになるから」
おれはドロシーの目をしっかりと見据えて言った。
「うん……分かった……」
ドロシーは腫れぼったい目で答える。その瞳には、まだ恐怖の痕跡が残って見えた。
「それから、絶対に一人にならないこと。なるべく俺のそばにいて」
その言葉には、ドロシーを守り抜くという俺の覚悟が込められていた。
「分かったわ。ず、ずっと……、一緒にいてね」
ドロシーは少し照れてうつむく。その仕草には、幼さと大人びた雰囲気が同居しており、鼓動が高鳴るのを感じた。
窓の外では、建物の隙間から真っ赤な夕陽がのぞいている。その赤い光が、二人の影を長く伸ばした。
それから一週間くらい、何もない平凡な日々が続いた。最初のうちは俺からピッタリと離れなかったドロシーも、だんだん警戒心が緩んでくる。それが勇者の狙いだとも知らずに……。
チュチュン! チュチュチュ!
陽が昇ったばかりのまだ寒い朝、小鳥のさえずる声が石畳の通りに響く。
「ドロシーさん、お荷物です」
ドロシーの家のドアが叩かれる。
朝早く何だろう? とそっとドアを開けるドロシー。その仕草には、まだ警戒心の名残が見える。
ニコニコとした、気の良さそうな若い配達屋のお兄さんが立っていた。
「『星多き空』さん宛に大きな荷物が来ていてですね、どこに置いたらいいか教えてもらえませんか?」
「え? 私に聞かれても……。どんなものが来てるんですか?」
ドロシーの顔には、戸惑いが浮かぶ。
「何だか大きな箱なんですよ。ちょっと見るだけ見てもらえませんか? 私も困っちゃって……」
お兄さんは困り果てたようにガックリとうなだれる。
「分かりました、どこにあるんですか?」
ドロシーが二階の廊下から下を見ると、幌馬車が一台止まっていた。
「あの馬車の荷台にあります」
お兄さんはニッコリと指をさす。
ドロシーは身支度を簡単に整えると、馬車まで降りてきて荷台を見た。
「どれですか?」
「あの奥の箱です。」
ニッコリと笑うお兄さん。
「ヨイショっと」
ドロシーは可愛い声を出して荷台によじ登る。その姿には、危険が迫っているとは知らない無防備さが滲んでいた。
「どの箱ですか?」
ドロシーがキョロキョロと荷台の中を見回す。
「はい、声出さないでね」
男は嬉しそうに短剣をドロシーの目の前に突き出した。刃がギラリと朝の光を反射する。
「ひっひぃぃ……」
恐怖と絶望で思わず尻もちをつくドロシー。
「その綺麗な顔、ズタズタにされたくなかったら騒ぐなよ」
男はそう言って短剣をピタリとドロシーの頬に当て、厭らしい笑みを浮かべた……。
こうしてドロシーを乗せた馬車は静かに動き出す。ギシギシときしむ車輪の音が、運命の残酷さを物語っているようだった。
◇
俺は夢を見ていた――――。
店の中でドロシーがクルクルと踊っている。フラメンコのように腕を高く掲げ、そこから指先をシュッと引くとクルリと回転し、銀髪が煌めきながらファサッと舞う。そして白い細い指先が、緩やかに優雅に弧を描いた。
美しい……。俺はウットリと見とれていた。優美なドロシーに、すっかり心を奪われてしまっていたのだ。
いきなり誰かの声がする。
「旦那様! ドロシーが幌馬車に乗ってどこか行っちゃいましたよ!」
アバドンだ。いい所なのに……。その声が、夢の世界に現実の不協和音を持ち込む。
「ドロシー? ドロシーなら今ちょうど踊ってるんだよ! 静かにしてて!」
「え? いいんですかい?」
「いいから、静かにしてて!」
俺はアバドンに怒った。
ドロシーはさらに舞う。そして、クルックルッと舞いながら俺のそばまでやってきてニコッと笑う。
ドロシー、綺麗だなぁ……。
幌馬車になんか乗ってないよ、ここにほら、こんなに美しいドロシーが……。
すると、ドロシーが徐々に黒ずんでいく……。
え? ドロシーどうしたの?
ドロシーは舞い続ける、しかし、美しい白い肌はどす黒く染まっていく。その光景は、まるで悪夢の具現化のようだった。
俺が驚いていると、全身真っ黒になり……、手を振り上げたポーズで止まってしまった。
「ド、ドロシー……?」
俺が近づこうとした時だった、ドロシーの腕がドロドロと溶けだす。
え!?
俺が驚いている間にも溶解は全身にまわり、あっという間に全身が溶け、最後にはバシャッと音がして床に溶け落ちた……。その光景は、あまりにも残酷で、俺の心を蝕んでいく。
「ドロシー!!」
俺は叫んだ自分の声で目が覚め、飛び起きた。
はぁはぁ……冷や汗がにじみ、心臓がドクドクと高鳴って呼吸が乱れている。全身がブルブルとどうしようもなく震えていた。
「ゆ、夢……?」
俺は髪の毛をかきむしり、そして大きくあくびをした。
「そらそうだ、うちの店、踊れるほど広くないもんな……」
その安堵感の裏で、何か大切なことを忘れているような不安が渦巻いていた。
あ、そう言えば……、アバドンが何か言ってたような……。幌馬車? なぜ?
俺はアバドンを思念波で呼んでみる。
「おーい、アバドン、さっき何か呼んだかな?」
アバドンはちょっとあきれたような声で返事をした。
「あ、旦那様? ドロシーが幌馬車に乗ってどこかへ出かけたんですよ」
「どこへ?」
アバドンはちょっとすねたように言う。
「知りませんよ。『静かにしてろ』というから放っておきましたよ」
俺は真っ青になった。ドロシーが幌馬車で出かけるはずなどない。攫われたのだ! 気だるい気分など吹っ飛んで血の気が凍るような衝撃が俺を襲った。
俺は手が震えてしまう。
「ダ、ダメだ! すぐに探して! お願い! どっち行った?」
「だから言いましたのに……。南の方に向かいましたけど、その先はわかりませんよ」
窓を壊す勢いで、俺はパジャマのまま空に飛び出した。寒気が全身を襲うが、それどころではない。
「くぅぅぅ……。とりあえず南門上空まで来てくれ!」
俺は叫びながら朝の空をかっ飛ばした。
まだ朝もや残る涼しい街の上を人目をはばからずに俺は飛んだ。風が頬を打つ。
油断していた。まさかこんな早朝に襲いに来るとは……。
夢に翻弄され、アバドンの警告を無視した俺を呪った。
ドロシーを守ると誓ったのに、こんな形で裏切ってしまったのだ。その罪悪感と、ドロシーへの想いが胸の中で渦巻く。
「ドロシー、ドロシー! ゴメン、今行くよ!」
俺は止めどなく涙がポロポロとこぼれてきて止められなかった。
◇
南門まで来ると、浮かない顔をしてアバドンが浮いていた。
「悪いね、どんな幌馬車だった?」
涙を手早くぬぐい、俺は早口で聞く。
「うーん、薄汚れた良くある幌馬車ですねぇ、パッと見じゃわからないですよ」
そう言って肩をすくめる。その言葉に、俺の心が沈んでいく。
俺は必死に地上を見回すが……朝は多くの幌馬車が行きかっていて、どれか全く分からない。その光景に、焦りと無力感が押し寄せる。
「じゃぁ、俺は門の外の幌馬車をしらみつぶしに探す。お前は街の中をお願い!」
「わかりやした!」
俺はかっ飛んで、南門から伸びている何本かの道を順次にめぐりながら、幌馬車の荷台をのぞいていった――――。
何台も何台も中をのぞき、時には荷物をかき分けて奥まで探した。その度に、ドロシーを見つけられない失望が胸を刺す。
俺は慎重に漏れの無いよう、徹底的に探す――――。
しかし……、一通り探しつくしたのにドロシーは見つからなかった。
「旦那様~、いませんよ~」
アバドンも疲れたような声を送ってくる。
くぅぅぅ……。
頭を抱える俺。
考えろ! 考えろ!
俺は焦る気持ちを落ち着けようと何度か深呼吸をし、奴らの考えそうなことから可能性を絞ることにした。今は冷静さを取り戻すことが一番重要になのだ。
攫われてからずいぶん時間がたつ。もう、目的地に運ばれてしまったに違いない。
目的地はどんなところか――――?
廃工場とか使われてない倉庫とか、廃屋とか……人目につかないちょっと寂れたところだろう。
俺は上空から該当しそうなところを探した。
街の南側には麦畑が広がっている。ただ、麦畑だけではなく、ポツポツと倉庫や工場も見受けられる。悪さをするならこれらのどれかだろう。
「多分、もう下ろされて、廃工場や倉庫に連れ込まれているはずだ。幌馬車の止まっているそういう場所を探してくれない?」
俺はアバドンに指示する。
「なるほど! わかりやした!」
俺も上空を高速で飛びながらそれらを見ていった。
しばらく見ていくと、幌馬車が置いてあるさびれた倉庫を見つけた。いかにも怪しい。俺は静かに降り立つと中の様子をうかがう――――。
いてくれよ……。
心臓が高鳴るのを感じる。
「いやぁぁ! やめて――――!!」
ドロシーの悲痛な叫びが聞こえた。俺の全身に怒りが走る。
許さん! ただでは置かない! 俺は激しい怒りに身を焦がしながら汚れた窓から中をのぞく――――。
ドロシーは数人の男たちに囲まれ、床に押し倒されて服を破られている所だった。バタバタと暴れる白い足を押さえられている。
「ミンチにしてやる!」
俺はすぐに跳び出そうと思ったが、その時ドロシーの首に何かが付いているのに気が付いた。よく見ると、呪印が彫られた真っ黒な首輪……、奴隷の首輪だった。
「さ、最悪だ……」
俺は固まってしまう。
それは極めてマズい非人道魔道具だった。主人が『死ね!』と念じるだけで首がちぎれ飛んで死んでしまう。男どもを倒しにいっても、途中で念じられたら終わりだ。もし、強引に首輪を破壊しようとしても首は飛んでしまう。どうしたら……?
俺は、ドロシーの白く細い首に巻き付いた禍々しい黒いベルトをにらむ。こみ上げてくる怒りにどうにかなりそうだった。
パシーン! パシーン!
倉庫にドロシーを打ち据える平手打ちの音が響いた。その音が、俺の心を引き裂いていく。
「黙ってろ! 殺すぞ!?」
若い男がすごむ。その声には、残虐な喜びが滲んでいた。
「ひぐぅぅ」
ドロシーは悲痛なうめき声を漏らす。その声に、俺の胸がキューっと締め付けられる。
「ち、畜生……」
全身の血が煮えたぎるような怒りの中、ぎゅっと握ったこぶしの中で、爪が手のひらに食い込む。その痛みで何とか俺は正気を保っていた。
軽率に動いてドロシーを殺されることだけは避けないとならない。ここは我慢するしかなかった。
ギリッと奥歯が鳴る。俺は自分の無力感で気が狂いそうだった。
俺は何度か深呼吸をし、冷静になろうと奥歯をかみしめながらアバドンに連絡を取る。
『見つけた、川沿いの茶色の屋根の倉庫だ。幌馬車が止まってるところ。で、奴隷の首輪をつけられてしまってるんだが、どうしたらいい? アイツらホント許せねぇ! クソがっ!!』
『旦那さま落ち着いてください! 奴隷の首輪なら私が解除できます。すぐ行きますんで、少々お待ちください~!』
『ア、アバドーン! お前最高だな!!』
俺はアバドンに神を見て、思わず宙を仰いだ。
『ぐふふふ、仲間にして良かったでございましょう?』
嬉しそうに笑うアバドン。
持つべきものは良い仲間である。俺は初めてアバドンに感謝をした。その言葉に、かすかな希望の光を感じる。
そうであるならば――――。
俺は時間稼ぎをすればいい。その決意が、俺の心を静める。
ビリッ、ビリビリッ!
若い男がドロシーのブラウスを派手に破いた。
形のいい白い胸があらわになる。その光景に、俺は目を背けた。
「お、これは上玉だ」
若い男がそう言うと、「げへへへ」と、周りの男たちも下卑た笑い声をあげた。
「ワシらにもヤらせてくださいよ」
「順番な」
そう言いながら、若い男はドロシーの肌に手をはわせた。その光景に、俺の怒りが頂点に達する。
俺は目をつぶり、胸に手を当て、呼吸を整えると倉庫の裏手へとピョンと跳び、思いっきり石造りの壁を殴った。
ズガーン!
激しい衝撃音を立てながら壁面に大きな穴が開き、破片がバラバラと落ちてくる。
若い男が立ち上がって身構え、叫んだ。
「おい! 誰だ!」
俺は静かに表に戻る。その足取りには、抑えきれない怒りと冷静さが混在していた。
若い男は、ドロシーの手を押さえさせていた男にあごで指示をすると、倉庫をゆっくりと見回す……。
その隙にドロシーが自由になった手で胸を隠した。
「勝手に動くんじゃねぇ!」
若い男はドロシーの頭を蹴る。ガスッと鈍い音が倉庫内に響いた。
ドロシーはうめき、可愛い口元から血がツーっと垂れる。その光景に、俺の心が千々に乱れる。
俺は怒りの衝動が全身を貫くのを感じる。しかし、あの男を殴ってもドロシーが首輪で殺されてしまっては意味がないのだ。ここは我慢するしかない。
アバドンよ、早く来てくれ。その祈りを胸に、俺は拳を握りしめ、救出の瞬間を待った。
改めて若い男を鑑定をしてみると……。
クロディウス=ブルザ 王国軍 特殊工作部 勇者分隊所属
剣士 レベル百八十二
やはり勇者の手先だった。それにしても、とんでもないレベルの高さだ。勇者が本気でドロシーを潰しに来ていることをうかがわせる。なんと嫌な奴だろうか。こいつをコテンパンにしたら、次は泣いて謝るまで勇者が殴りに行ってやる! 怒りが、俺の中で激しく渦巻く。
「誰もいやしませんぜ!」
見に行った男が、奥の壁の辺りを探して声を上げる。その声には、不安と焦りが混ざっていた。
「いや、いるはずだ。不思議な術を使う男だと聞いている。用心しろ!」
ブルザは並んでいる窓を一つずつにらみ、外をチェックしていく。軍人らしく、その所作には訓練されたものを感じる。
俺は再度倉庫の裏手に回り、俺を探している男を物陰からそっと確認した。男は物陰を一つ一つのぞいていく――――。
俺は男の背後から瞬歩で迫ると、手刀で後頭部を打った。
「グォッ!」
うめき声が倉庫に響く。
ブルザは男が俺に倒されたのを悟り、ほほをピクッと動かした。
「おい! 出てきたらどうだ? お前の女が犯されるのを特等席で見せてやろう」
大声で叫びながらかがんだブルザはドロシーのショーツに手をかける。その声には、嗜虐的な喜びが滲んでいた。
「いやっ!」
そう言うドロシーをまた蹴ってはぎ取った。その光景に、俺の心が軋むのを感じる。
「いいのか? 腰抜け?」
ブルザの挑発的な言葉が、倉庫内に響き渡った。
「やめて……うぅぅぅ……やめてよぉ……」
ドロシーはポロポロと涙をこぼす。その悲痛な声に、俺の心が引き裂かれる。
俺は拳を強く握りしめながら目をギュッとつぶって必死に耐える。アバドンさえくれば形勢逆転なのだ。
待ってろ……、ギッタンギッタンにしてやる……。怒りが俺の中でどんどんと燃え盛る。
時間の流れが遅い。一秒一秒が、俺にとっては永遠のように感じられた――――。
「さぁ、ショータイムだ!」
ブルザはドロシーの両足に手をかけた。その声には、嗜虐的な喜びが滲んでいた。
くっ……。
奥歯をギリッと鳴らしたその時だった――――。
『旦那様、着きました!』
見上げると、空からアバドンが降りてくる。
『よしっ! あの若い男を俺が挑発してドロシーから離すから、その隙に首輪を処理してくれ。できるか?』
『お任せください』
ニヤッと笑みを浮かべながらアバドンは胸に手を当て、うやうやしく頭を下げた。その頼もしすぎる態度に、俺は泣きそうになる。
「じゃあ、お前は表側から行ってくれ! 任せたぞ!」
俺はアバドンの肩をポンと叩いた。
「わかりやした!」
いよいよ勝負の時がやってきた――――。
うおぉぉぉりゃぁぁぁ!!
俺は裏側の壁を再度景気よくどつき、倉庫の中に入る。
ミスは絶対許されない大勝負。心臓が早鐘を打った。
「ブルザ! 望み通り出てきてやったぞ! 勇者の腰巾着のレイプ魔め!」
俺はそう言いながら、ブルザから見える位置に立つ。その声は、抑えきれない怒りで震えていた。
「なんとでも言え、我々には貴族特権がある。平民を犯そうが殺そうが罪にはならんのだよ」
ブルザはニヤリと笑い、ゆっくりと立ち上がる。
「お前だって平民だったんじゃないのか?」
「はっ! 勇者様に認められた以上、俺はもう特権階級、お前らなど奴隷にしか見えん」
ドヤ顔で見下ろすブルザ。その言葉に、俺は深い断絶を覚える。
「腕もない口先だけの男……なぜ勇者はお前みたいな無能を選んだんだろうな……」
ブルザの眉毛がぴくっと動いた。その反応に、俺は内心で笑みを浮かべる。
「ふーん……、いいだろう、望み通り剣の錆にしてくれるわ!」
ブルザは剣をスラリと抜き、俺に向かってツカツカと迫った。
俺はビビる振りをしながら、じりじりと後ろに下がる。自然にブルザを引っ張り出すことに今は全力を懸けねばならない。
「どうした? 小僧? 丸腰か?」
「ま、丸腰だってお前には勝てるんでね……」
俺はファイティングポーズを取りながらじりじりと下がっていく……。
「ほう……? どんな小細工か……、まぁ殺してみればわかるか……。はっ!」
ブルザは一気に距離を詰めてくる。
「ヒィッ!」
俺はおびえて逃げ出すふりをして裏手へと駆けた。
「待ちやがれ! お前も殺せって言われてんだよ!」
まんまと策に乗ってくるブルザ。その愚かさに、俺は内心ニヤッと笑った。
アバドンはすかさず表のドアをそーっと開け、倉庫に入る。
「ぐわっ!」「ぐふっ!」
ドロシーを押さえつけている男たちをアバドンは素早く殴り倒した。
「姐さん、今外しますからね」
「ひっ、ひぃぃぃ……」
いきなり現れた巨大な魔人に覆いかぶされ、ドロシーは白目をむいてしまう。
アバドンはやれやれと思いながら、小さな魔法陣をいくつも首輪の周りに浮かべ、巧みに機能を解除していった。
◇
しばらく倉庫の裏で巧みに逃げ回っていると、アバドンの声が頭に響いた。
『旦那様! OKです!』
俺はグッとガッツポーズを決めると逃げるのをやめ、大きく息をつき、ブルザの方を振り返る。
「ドロシーは確保した。お前の負けだ」
俺はブルザをビシッと指さし、ニヤッと笑った。
「もう一人いたのか……だが、小娘には死んでもらうよ」
ブルザは嫌な笑みを浮かべながら何かを念じている。
しかし……、何の反応もないようだ。
「え? あれ?」
焦るブルザ。その表情に、俺は満足感を覚える。
「首輪なら外させてもらったよ」
俺は得意げに言った。まさに完全勝利である。
「この野郎!」
ブルザは一気に間合いを詰めると、目にも止まらぬ速さで剣を振り下ろした。
その剣速はレベル百八十二の超人的強さにたがわず、音速を超え、衝撃波を発しながら俺に迫る――――。
しかし、俺はレベル千、迫る剣を冷静にこぶしで打ち抜いた。
パキィィーン!
剣は砕かれ、刀身が吹き飛び……クルクルと回って倉庫の壁に刺さった。
破片がかすめたブルザの頬には血がツーっと垂れていく。
「へ……?」
ブルザは何が起こったかわからなかった。
「ここからは俺のターンな」
俺はニヤッと笑うとその間抜けヅラを右フックでぶん殴る。拳に、これまでの怒りと憎しみのすべてを込めて。
「ぐはっ!」
吹き飛んでぶざまに地面を転がるブルザ。実にいい気味である。
「俺の大切なドロシーを何回蹴った? お前」
俺はツカツカとブルザに迫り、すごんだ。
怒りのあまり、無意識に『威圧』の魔法が発動し、俺の周りには闇のオーラが渦巻いた。その姿は、まるで地獄から来た使者のようである。
「う、うわぁ」
ブルザはおびえながら、まぬけに後ずさりする。その目に、初めて恐怖の色が浮かぶ。
「一回!」
俺はブルザを蹴り上げた。手加減しようと思うが怒りで抑制が効かない。
ぐはぁ!
ブルザはまるでサッカーボールのように宙を舞いながら倉庫の壁に当たり、落ちて転がってくる。
「二回!」
再度蹴りこんで壁に叩きつけた。激しい衝撃音と共に壁に亀裂が走る。
ぐふぅ!
ブルザは口から血を流しながらボロ雑巾のように転がった。
「勇者の所へ案内しろ! ボコボコにしてやる!」
俺の叫び声には、決意と怒りが滲む。
しかし……、俺は勇者の邪悪さをまだ分かっていなかったのだ。
ブルザはヨロヨロと起き上がると、嬉しそうに上着のボタンを外し始める。
「は……?」
俺は一体何をしているのか分からずキョトンとして、ブルザを見つめた。ブルザの目には何かを覚悟した怪しい光が浮かんでいる。
直後、ブルザは俺に上着の内側を見せた。
そこには赤く輝く火属性の魔法石『炎紅石』がずらっと並んでいる。その狂った光景に、俺の心臓が一瞬止まったかのように感じた。
「はぁっ!?」
『炎紅石』は一つでも大爆発を起こす危険で高価な魔法石。それがこんなに大量にあったらどんなことになるのか想像を絶した。
俺は即座に飛び上がる――――。
「勇者様バンザーイ!」
ブルザはそう叫ぶと激しい閃光に包まれた。
激しい灼熱のエネルギーがほとばしり、核爆弾レベルの閃光が麦畑を、街を、辺り一帯を覆った――――。
爆発の衝撃波は白い球体となり、世界の終わりを告げるかのように麦畑の上に大きく広がっていく……。
倉庫も木々も周りの工場も一瞬で粉々に吹き飛ばされ、まさにこの世の終わりのような光景が展開された。その破壊の規模に、俺は言葉を失う。
衝撃波が収まると、真紅に輝くきのこ雲が立ち上っていく。灼熱の中、ゆったりと空を目指すその姿は、悪魔の笑みのように見えた。
俺は空を高速に逃げながら防御魔法陣を展開していたが、それでもダメージを相当食らってしまった。パジャマは焼け焦げ、髪の毛はチリチリ、体はあちこち火傷で火ぶくれとなる。その痛みが、この想像を絶する現実の重さを思い知らせた。
命を何とも思わない勇者の悪魔の様な発想に俺は愕然としながら、激しい熱線を放つ巨大なキノコ雲を眺めていた。同時に『自分の方が強いからなんとでもなる』と高をくくっていた自分の甘さを嫌というほど痛感する。
ドロシー……、ドロシーはどうなってしまっただろうか?
見下ろせば爆煙たち込める爆心地は灼熱の地獄と化し、とても近づけない。その光景に、俺の心が軋む。
「あ、あぁぁ……ドロシー……」
折角アバドンが救ったというのに、爆発に巻き込んでしまった……。
俺は詰めの甘さを悔やんだ。その後悔が、キューっと胸を締め付ける。
「ドロシー! ドロシー!!」
俺は激しく喉を突く悲しみにこらえきれず、空の上で涙をボロボロとこぼしながら叫んだ。
◇
やがて爆煙がおさまってくると、俺は倉庫だった所に降り立った。足元の熱さが、この現実の重さを痛感させる。
倉庫は跡形もなく吹き飛び、焼けて溶けた壁の石がゴロゴロと転がる瓦礫の山となっていた。その光景は、まるで地獄絵図のようだった。
あまりの惨状に身体がガクガクと震える。その震えが、俺の心の動揺を物語っていた。
俺はまだブスブスと煙を上げる瓦礫の山を登り、ドロシーがいた辺りを掘ってみる。
熱い石をポイポイと放りながら一心不乱に掘っていく。手の皮が剥けても、痛みすら感じない。
「ドロシー! ドロシー!!」
とめどなくこぼれる涙が、焼けた地面に落ちてシュワァと蒸発していく。
石をどけ、ひしゃげた木箱や柱だったような角材を抜き、どんどん掘っていくと床が出てきた……が、赤黒く染まっている。なんだろう? と手についたところを見ると鮮やかに赤い。
血だ……。
鮮やかな赤がダイレクトに俺の心を貫く……。
俺はしばらく動けなくなった。
手がブルブルと震える。その震えが、俺の恐怖と絶望を物語っている。
いや、まだだ、まだドロシーが死んだと決まったわけじゃない。息が残っていればまだ助ける方法はあるのだ。
俺は首をブンブンと振ると、血の多い方向に掘り進めていった。
石をどかしていくと、見慣れた白い綺麗な手が見えた。
見つけた!
「ドロシー!!」
俺は急いで手をつかむ……が、何かがおかしい……。その違和感が、俺の背筋を凍らせる。
「え? なんだ?」
俺はそーっと手を引っ張ってみた……。
すると、スポッと簡単に抜けてしまった。
「え?」
なんと、ドロシーの手は肘までしかなかったのである。その瞬間、俺の心が軋んだ――――。
「あぁぁぁぁ……」
俺は崩れ落ちた。
ドロシーの腕を抱きしめながら、俺は、自分が狂ってしまったんじゃないかという程の激しい衝撃に全身を貫かれる――――。
「ぐわぁぁぁ!」
俺は激しく叫んだ。無限に涙が湧き出してくる。その叫びが、空虚な空間に木霊する。
あの美しいドロシーが腕だけになってしまった。俺と関わったばかりに殺してしまったのだ。
なんなんだよぉ!
「ドロシー! ドロシー!!」
俺はとめどなくあふれてくる涙にぐちゃぐちゃになりながら、何度も叫んだ。その声には、深い悲しみと後悔が込められていた。
「ドロシー!! うわぁぁぁ!」
俺はもうすべてが嫌になった。何のために異世界に転生させてもらったのか?
こんな悲劇を呼ぶためだったのか?
なんなんだ、これは……、あんまりだ。
絶望が俺の心を塗りたくっていった。その暗闇が、俺の魂を蝕んでいく。
俺はレベル千だといい気になっていた自分を呪い、勇者をなめていた自分を呪い、心がバラバラに分解されていくような、自分が自分じゃなくなっていくような喪失感に侵されていった。
周りの世界が、灰色に染まっていく。ドロシーの腕を抱きしめたまま、俺は虚空を見つめた。これからどうすればいいのか。その答えが、どこにも見つからない。
死んだ魚のような目をして動けなくなっていると、ボウっと明かりを感じた。その光が、絶望の闇を僅かに照らす。
う……?
どこからか明かりがさしている……。瓦礫の中の薄暗がりが明るく見える……。
辺りを見回すと、なんと、抱いていた腕が黄金の輝きを纏い始めたのだ。
えっ!?
腕はどんどん明るくなり、まぶしく光り輝いていく。その輝きが、俺の心を揺さぶる。
「えっ!? 何? なんなんだ?」
すると、腕は浮き上がり、ちぎれた所から二の腕が生えてきた。さらに、肩、鎖骨、胸……、どんどんとドロシーの身体が再生され始めたのだ。その光景は、まるで奇跡を目の当たりにしているようだった。
「ド、ドロシー?」
驚いているとやがてドロシーは生まれたままの身体に再生され、神々しく光り輝いたのだった。その姿は、まさに女神のようにすら見えた。
「ドロシー……」
あまりのことに俺は言葉を失う。感情が溢れ、再び涙が頬を伝う。
そして、ドロシーの身体はゆっくりと降りてきて、俺にもたれかかってきた。俺はハグでそっと受け止める。
ずっしりとした重みが俺の身体全体にかかってきた。柔らかくふくよかな胸が俺を温める――――。
俺はその温もりに、生きている実感を覚えた。
「ドロシー……」
俺は目をつぶってドロシーをぎゅっと強く抱きしめる。
しっとりときめ細やかで柔らかいドロシーの肌が、俺の指先に吸い付くようになじむ。その感触が、ドロシーの存在を確かなものにしてくれる。
「ドロシー……」
華やかで温かい匂いに包まれながら、俺はしばらくドロシーを抱きしめていた。
ただ、いつまで経ってもドロシーは動かなかった。身体は再生されたが、意識がないようだ。新たな不安が胸を軋ませる。
「ドロシー……? ねぇ、ドロシー……」
俺は美しく再生された綺麗なドロシーの頬を軽くパタパタと叩いてみた――――。
「う……うぅん……」
まゆをひそめ、うなされている。ちゃんと生きているようだ。俺は安堵を覚える。
「ドロシー! 聞こえる?」
俺はじっとドロシーを見つめた。
すると、ゆっくりと目が開く――――。
美しく伸びたまつ毛、しっとりと透き通る白い肌、そしてイチゴのようにプックリと鮮やかな紅色に膨らむくちびる……。
その瞬間、俺は世界が色を取り戻したかのように感じた。
「ユータ……?」
「ドロシー!」
「ユータ……、良かった……」
そう言って、またガクッと力なくうなだれた。その姿に、胸が締め付けられる。
俺はドロシーを鑑定してみる。すると、HPが1になっていた。
これは『光陰の杖』の効果ではないだろうか?
『HPが10以上の時、致死的攻撃を受けてもHPが1で耐える』
確か、こう書いてあったはずだ。
HPが1なのはまずい。早く回復させないと本当に死んでしまう。そのヤバい現実が、俺を急き立てる。
俺は焼け焦げた自分のパジャマを脱いでドロシーに着せ、お姫様抱っこで抱きかかえると急いで家へと飛んだ。
「ドロシー、もうちょっとの辛抱だからね……」
寒くならないよう、風が当たらないよう、俺は細心の注意を払いつつ必死に飛んだ。
必死に飛んでいると、アバドンから連絡が入る。
「旦那様! 大丈夫ですか?」
「俺もドロシーも何とか生きてる。お前は?」
「私はかなり吹き飛ばされまして、身体もあちこち失いました。ちょっと再生に時間かかりそうですが、なんとかなりそうです」
「良かった。再生出来たらまた連絡くれ。ありがとう、助かったよ!」
「旦那様のお役に立てるのが、私の喜びです。グフフフフ……」
俺はいい仲間に恵まれた……。
自然と湧いてきた涙がポロッとこぼれ、宙を舞った。
空を飛びながら、俺は仲間たちを守り抜こうと決意を新たにする。勇者もボコボコにしてきっちりと分からせ、二度とこんなことにならないようにしてやる。俺はギリッと奥歯を鳴らし、家路を急いだ。
◇
蒼穹に聳える王宮の尖塔。その頂きの小部屋に立つ少女の瞳が、遠見の魔道具を通して街を見下ろしていた。
「まあ……これはいいものを見つけてしまったわ!」
微かな驚きを含んだ声が、風に乗って消えていく。少女は十八を過ぎたばかりといったところか。透徹した白磁のような肌に、琥珀を思わせる瞳。爽やかな風を受け、彼女の金糸の髪が煌めいていた。ルビーの髪飾りが、その美しさに更なる輝きを与えている。
豪奢な金の刺繍が施された深紅のドレスは、彼女の高貴な身分を物語っていた。胸元のレースが、その曲線美を強調している。
少女の視線の先には、一人の若者の姿があった。
「あの爆発の中を駆け抜け、勇者の側近を打ち倒すとは……。あなた、一体何者なのかしら?」
彼女の唇に、興味深そうな微笑みが浮かぶ。
まだ炎と煙の残る麦畑の上空を、ユータが颯爽と駆け抜けていく。その腕には、一人の少女が抱かれていた。
「なんという洗練された飛行魔法……。こんな事が出来る宮廷魔術師なんて居ないわ」
少女は思わず息を呑んだ。ユータの飛行は、まるで風のように軽やかだった。
ユータが店の方へと下りて行くと、彼女は素早く羽ペンを取り、優雅な筆跡でメモを書き付ける。
「バトラー!」
少女の声が、静寂を切り裂いた。瞬時に、黒服の執事が彼女の側に現れる。
「お呼びでございますか、リリアン様」
「ええ。至急、この男を調査なさい」
リリアンは、艶のある声で命じた。メモを執事に手渡しながら、彼女の瞳に危いほどの興奮の色が宿る。
「物語が、思わぬ方向に動き出したようですわ」
彼女の唇が、面白いおもちゃを見つけたように歪んだ。
「お楽しみはこれからよ、可愛い英雄さん……」
リリアンの言葉が、塔を吹き抜ける風に溶けていった。
◇
俺はドロシーをそっとベッドに横たえると、彼女の頭を優しく支えながら、ポーションをスプーンで少しずつ飲ませていく。朱唇に触れるスプーンの冷たさに、ドロシーは微かに眉をひそめる。
「う、うぅん……」
最初はなかなか上手くいかなかったが、徐々に彼女の喉が動き始め、ポーションを受け入れていく。俺は鑑定スキルを使って彼女の状態を確認する。HPが少しずつ上昇していくのを見て、安堵の息をつく。
ポーションを飲ませながら、俺はドロシーの顔をじっと見つめていた。整った目鼻立ちに紅いくちびる……。幼い頃から知っているはずなのに、今まで気づかなかった彼女の美しさに、俺は息を呑む。もはや少女ではない。いつの間にか、ドロシーは魅力的な大人の女性へと成長していたのだ。
俺の手に伝わる彼女の体温が、心の奥底に温かな感情を呼び起こす。前世を入れたらもうアラサーの自分は、ドロシーをどこか幼い子供と思ってきた。しかし、今や彼女への愛おしさが、新たな形で俺の胸を満たしていく――――。
俺はそっとサラサラとした銀髪をなで、静かにうなずいた。
◇
上級ポーションを二瓶与え、HPも十分に回復したはずなのに、ドロシーはまだ目覚めない。俺はベッドの脇に椅子を引き寄せ、そっと彼女の手を握る。長いまつげが作る影が、彼女の頬に揺れていた。
安らかに眠る彼女を見つめながら、俺の中で勇者への怒りと不安が渦巻く。勇者との決着をつけなければならないが、相手は特権階級。正面からやれば、国家反逆罪で死罪は免れない。俺だけなら何とかなっても、ドロシーまで巻き込むことになったらとても耐えられない。
「はぁ~……」
深いため息が漏れる。勇者に立ち向かうということは、この国の統治システムそのものと対峙することを意味する。しかし、ドロシーをこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。
俺は顔を両手で覆い、必死に策を練る。静かな部屋に、ドロシーの寝息だけが響いていた。
しかし、いくら考えても名案など浮かばない。やるとしたら勇者を人知れず拉致するくらいだった。
それにはアバドンの快復を待たねばならないだろう。
「今すぐには動けないか……うーむ」
俺はため息をついてうなだれた。