「ちょ、俺が救世主!?」~転生商人のおかしな快進撃~

 レヴィアは厳しい表情を崩さず、さらに言葉を重ねる。

「そうじゃ、お主がミスれば旦那が死に、我々全滅じゃ。必死に見抜け! あ奴はまだ戦闘に慣れてないから、きっと付け入るスキがあるはずじゃ」

 ドロシーの(ひとみ)に涙が(にじ)んだ。(ふる)える声で彼女は答えた。

「わ、私にできる事なんですか? そんなこと……」

 その姿を見て、俺の胸が痛む。ドロシーにそんな重責を負わせてしまって良いのだろうか? 

 しかし、レヴィアの眼差(まなざ)しは揺るがなかった。彼女はドロシーの目をじっと見つめ、熱を込めて言った。

「……。お主は目がいいし、機転も利く。自分を信じるんじゃ!」

 その言葉に、ドロシーの表情が僅かに和らいだ。しかし、まだ躊躇(とまど)いは消えない。

「信じるって言っても……」

「できなきゃ旦那が死ぬまでじゃ。やるか? やらんか?」

 レヴィアの言葉は厳しかったが、その眼差(まなざ)しには温かな(はげ)ましの色が宿っていた――――。

「死ぬ……」

 ドロシーはキュッと唇を結ぶ。そう言われたらもう選択肢などなかった。

 深く息を吸い、覚悟(かくご)を決めたように頷く。

「わ、分かりました……」

「ヨシ! では神殿でスタンバイじゃ!」

 ニヤッと笑ってサムアップするレヴィア。

 ドロシーは涙を(ぬぐ)いながらうなずいた。


      ◇


 神殿に転送されたドロシーは、大理石造りのがらんとした大広間をキョロキョロと見回した。壁沿いに幻獣の石像がズラリと並び、魔法のランプが揺らめいて不気味にその影を揺らしている。獅子(しし)麒麟(きりん)といった神獣たちの目が、まるで生きているかのように闇の中で光を帯びていた。

「そこに画面があるじゃろ?」

 レヴィアの声が神殿に響きわたる。

 確かに広間の中央に大きな画面が何枚か並び、宙に浮く椅子がゆらゆらと揺れていた。画面からは青白い光が放たれ、まるで異界への窓のよう。それぞれの画面には、この世界の様々な場所が映し出されている。街並み、森林、荒野――――そして戦場。

 ドロシーは駆け寄ると画面をのぞきこんだ。彼女の瞳に画面の光が映り込み、神々しい輝きを帯びる――――。

『はい、戦乙女(ヴァルキュリ)が見えます。どうやら……レヴィア様を探しているようです』

 ドロシーの声には緊張が滲んでいたが、それでもしっかりとしたやる気が感じられた。

「よし! その画面は自動的に戦乙女(ヴァルキュリ)を追尾しとるから、奴の動作をしっかり見るんじゃ。ワープする前には独特の姿勢を取るはずじゃから、それを見抜いて声で旦那に伝えるんじゃ!」

『は、はい……』

 戸惑いのにじむドロシーの返事に、俺は不安を覚えずにはいられなかった。

 俺はひそひそ声で聞く。

「ドロシーにそんなことできるんですか?」

 しかし、レヴィアの返答は予想外のものだった――――。

「分からん」

 レヴィアは首を振る。その言葉に、俺の心臓が()ねた。

「わっ、分からんって、そんな……」

「なぁ、お主は自分の妻を愛玩動物(ペット)かなんかと勘違いしとらんか?」

「え?」

 その言葉の意味がすぐに飲み込めず、俺はキョトンとした。

 レヴィアは続ける。

「あの娘だって学び、考え、成長する人間じゃ。パートナーとして信じてやれ。お主が信頼すればあの娘も安心して力を出せるじゃろう」

 俺はハッとする。確かに俺はドロシーを『守るべきか弱い存在』だとばかり思っていた。しかしそんなペットと主人みたいな関係は、夫婦とは呼べないのではないだろうか?

 ドロシーが俺より優れている所だってたくさんある。お互いが良さを出し合い、助け合うこと。それがチャペルで誓った結婚という物だったのだ。

 その瞬間、俺の中で何かが変わった。ドロシーへの見方が、一人の独立した人間、そして対等なパートナーへと――――。

 しかし、同時にこんな当たり前のことに今まで気づけなかった自分のふがいなさに、キュッと唇を噛んだ。

「くぅぅぅ……。分かりました。二人でうまくやってみます!」

 俺は顔を上げ、グッとこぶしを握った。

戦乙女(ヴァルキュリ)が動き出しました! 剣を右手に持っています。ワープするときは持ち方を変えたりするってことですよね?』

 神殿から伝わってくるドロシーの声が、力強(ちからづよ)く、自信(じしん)に満ちたものに聞こえてくる。

『おぅ、そうじゃ! そういうところを見ておけ!』

 レヴィアも嬉しそうに応えた。

 俺は目を閉じ、深呼吸をすると、飛行魔法のイメージを思い起こす。レベル65535のとんでもないパワーに振り回されないように、慎重にゆっくりと全身に魔力を巡らせていく――――。

 二人の(きずな)で世界を救う。まるで物語のクライマックスのような展開に俺はビリビリとしびれた。


          ◇


「じゃ、ユータ、行け! この先の湖じゃぞ」

 レヴィアは指さしながら俺の背中をパンパンと叩いた。

「え? この先って?」

「上空に行けばすぐに見える。台形の形の湖じゃ! 日本では、えーと……諏訪湖(すわこ)……じゃったかな?」

 レヴィアは首を傾げる。

「諏訪湖!?」

 その懐かしい響きに俺は驚きの声を上げる。日本との繋がりがこんなところに出てくるとは……。

「じゃ、ここは長野なんですね?」

「長野だか長崎だか知らんが、諏訪湖じゃ、分かったな?」

 レヴィアは真紅の瞳をギラリと光らせると、霧のように消えていった。

「あっ!」

 トンネルの中に一人残された俺。決意と不安が入り混じった空気だけが残される――――。

 いよいよ本番なのだ。

 俺は深呼吸をし、決意を新たにする。心臓の鼓動が、全身に響いていた。
『あー、ドロシー、聞こえる?』

 アバドンと交信していたように、ドロシーをイメージしながら言葉を送ってみる――――。

『聞こえるわよ……でも、どうしよう……』

 ドロシーの声に不安が滲む。その声に、俺の心も揺れる。

『大丈夫だって! こういう時には大きく深呼吸だよ』

 俺は優しく語りかける。自分の声に、想像以上の落ち着きがあることに驚く。

『うん……』

 しばらくドロシーのゆったりとした息遣いが伝わってくる――――。

『……。気づいたことを……、ただ教えてくれるだけでいいんだからさ』

『そうね……。頑張ってみる……』

 彼女の声は小さいが、二人で乗り越えていくんだという想いが伝わってくる。

『ドロシーは目がいい。俺よりいい』

 俺はドロシーを励ます。そう、彼女の力が必要なんだ。

『自信もっていいよ!』

『……。本当?』

 ドロシーの声に、少しずつ力が宿り始める。その変化に、俺は密かに喜びを感じる。

『ドロシーはお姉さんだろ? 俺にいい所見せてよ』

 俺は軽い冗談を交えて言う。緊張を和らげようとする、精一杯の工夫だった。

『……。分かった!』

 彼女の声に、新たな決意が感じられた。その声に、俺も勇気づけられ、胸に温かいものが広がる。二人で立ち向かう。その思いが、俺の中で強くなっていく。

『では出撃するよ』

 俺はそっと地上に顔を出す――――。

 眩しい光が目に飛び込んでくる。その先には、未知の戦いが待っているのだ。

 もう後には引けない。ドロシーと共に、この世界を守るために――俺は気合を入れ、地上に立った。


      ◇


 目の前に広がる光景に、俺は息を呑む。かつて命に満ち溢れていたはずの森は、今や凄惨(せいさん)な焦土と化していた。

 ヌチ・ギの屋敷の建物だけは、不気味なほど無傷で佇んでいるが、鬱蒼(うっそう)とした緑の海は消え失せ、代わりに灰色の死の風景が広がっている。倒れた木々からはまだブスブスと煙が立ち上り、その(おぼろ)げな煙は、失われた生命たちの(たましい)のようだった。

 俺はそのあまりに凄絶な事態に、思わず目をつぶって首を振った。心の中で、怒りと悲しみが渦を巻く。ヌチ・ギは、この(のろ)われた炎で全てを焼き尽くそうとしている。罪のない人々の生活を、歴史を、思い出を、全てを灰燼に帰そうとしている。その狂気の沙汰に、俺の中の正義感が目覚(めざ)める。何としても止めないとならない!

 遠くを見ると、戦乙女(ヴァルキュリ)がレヴィアを探している姿が目に入る。その姿は美しくも悲壮(ひそう)だ。皮鎧に身を包んだその姿は気高く、しかし同時に哀しみに満ちている。囚われ操られる美しき乙女。これからあの娘と相まみえるのかと思うとひどく気が滅入る。その胸の奥には、きっと苦しみや悲しみが隠されているのだろう。彼女もまた、この戦いの犠牲者なのだ。

 しかし、今は逃げるわけにもいかない。この世界を、そしてドロシーを守るために、俺は前に進まなければならない。恐怖と戸惑いを押し殺し、俺は決意を固める。
『ドロシー?』

 俺は静かに呼びかける。

 その名を呼ぶだけで、不思議と勇気が湧いてくる。

『はいです』

『準備はいい?』

『はい、頑張る!』

 ドロシーの声に、新たな強さが宿っている。その声は、希望の光のように俺の心を照らす。

『一緒に頑張ろう! じゃあ行くよ!』

『頑張って、あなた……』

 俺はうなずき、微笑む。二人なら、きっと乗り越えられる。たとえ困難が立ち塞がろうとも、俺たちの絆がきっと未来を紡ぐはずだ。

 俺は大きく息を吐き出すと、身体の芯に魔力を呼び起こした。すると、体が羽毛のように軽くなり、地面から浮き上がる。

「じゃあ行きますか……。おわぁ!」

 一気に上空へと吹っ飛んでいく俺――――。

 レベル六万の魔力は想像を絶するほどパワフルで、ほんの少し意識を向けただけで簡単に音速を超えてしまう。その力は、まるで宇宙そのものを操るかのような錯覚さえ覚える。

 俺は戸惑(とまど)いを隠せず、おっかなビックリで空中をあちこちへと吹っ飛びながら、この新たな力に慣れようと必死だった。まるで初めて自転車に乗った子供のように、バランスを取るのに四苦八苦する。

『あなた、逃げてぇ!』

 突如、ドロシーの悲鳴のような叫び声が響く。その声は、俺の背筋に電流を走らせた。

 俺は咄嗟に加速したが、次の瞬間、戦乙女(ヴァルキュリ)の真っ赤に光り輝く巨大な剣が、風切る音とともに俺のすぐ横をかすめていった。その剣先が描く軌跡は、輝く鮮血が飛び散って行くようにすら見えた。

「うぉぁ! ヤバッ!」

 冷や汗が背中を伝う。さっきまでは遠くの存在だった戦乙女(ヴァルキュリ)が、一瞬で間合いに入っている。これはまさに無理ゲーだ。こんな状況で、いったいどうすればいいというのか? 現実離れした状況に、思わず頭を抱えたくなる。

 しかし、泣き言を言っている暇はない。俺は試しにエアスラッシュを戦乙女(ヴァルキュリ)に向けて放ってみる。今までとは比べ物にならないほど強力な風の刃が、ものすごい速度で閃光を放ちながら飛んでいく。その一撃は、大気を切り裂き、轟音を響かせながら標的へと向かう。

 だが、次の瞬間、戦乙女(ヴァルキュリ)の姿が消え、背後から俺を狙って剣を振り下ろしているのだ。その時空を歪めているかのような動きに俺は面食らう。

『逃げてぇ!』

「ひぃっ!」

 またもギリギリでかわす俺。心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖と緊張が全身を駆け巡る。額から流れ落ちる冷や汗が、目に入って視界を曇らせる。

 限界ギリギリの綱渡りだったが、何度かくぐり抜けるうちに少しずつコツがわかってきた。直線的に飛んではダメだ。予測できないようにジグザグに飛び続ける事。これで戦乙女(ヴァルキュリ)の動きを撹乱(かくらん)し続ければ、そう簡単に間合いまでは居られることはない。

 俺はわずかな希望にすがり、上へ左へ下へと命がけのジグザグ飛行を続けながら諏訪湖を目指した。

 時折来るドロシーのアラートの時には全力で回避。全身の筋肉が悲鳴を上げ、息は荒く、ちぎれかけたシャツがバタバタと風にはためく。それでも、諦めるわけにはいかない。ドロシーのため、この世界のため、そして俺自身のために――――。

 しばらく回避を続けた時だった。ドロシーが意外なことを言った。

『上に来るわ!』

「え?」

 俺は半信半疑ですかさず上にエアスラッシュを放った。魔力(まりょく)の刃が虚空を()ぎ払う――――。

 刹那、戦乙女(ヴァルキュリ)の姿が上方に浮かび上がり、激しい衝撃波を放ちながらまともに被弾した。

 ズン! と重い衝撃音が響き渡る――――。

 完璧なタイミングでの一撃。戦乙女(ヴァルキュリ)は何が起こったのか分からないまま、きりもみしながら落ちて行く。なんと、逃げる一方だった戦術の中で、初めて一矢報いたのだ。

『ウヒョー! やった、やった! なんでわかったの!?』

 歓喜にわく俺に、ドロシーの声が返ってくる。その声には、確固たる自信(じしん)が宿っていた。

『うふふっ! 下への攻撃態勢になって跳ぼうとしてたのよ。剣をわずかに振りかぶったので分かったわ』

 必死の思いが紡いでいったドロシーの観察眼は、戦いの中で磨かれ、鋭く確かなものになっていたのだ。

『すごい! ドロシー最高!』

 俺は心からの賛辞を送った。

『ふふっ。ありがと!』

 その瞬間、二人の間に流れる(きずな)がより強固なものになる。戦いの中で芽生えた信頼が、新たな可能性を開いていく。

 戦乙女(ヴァルキュリ)は落ちながらも、優美(ゆうび)な動きで態勢を整え、また、俺を追いかけ始めた。物理攻撃無効とは言え、攻撃を食らったらしばらく安定飛行ができなくなるくらいのダメージは入るようだ。その(すき)は、必ずや勝利への糸口となるにちがいない。


        ◇


『くるわよーーーー、右!』

 ドロシーの声が、運命の糸を紡ぐ女神の宣託のように響き渡る。

『ほいきた!』

 俺は瞬時に反応し、右手に魔力を込めた。

 (ほとばし)る、無数のファイヤーボール――――。

 炎の球はまるで火球のように空を()がし、飛んでいく。

 出てくるなりファイヤーボールの嵐を食らった戦乙女(ヴァルキュリ)が、悲鳴を上げながら吹き飛ばされる。

『やったあ!』

 ドロシーの喜びに満ちた声が響く。連続の攻撃成功は、まさに希望の光だった。

『ドロシー、才能あるよ!』

 絶望的な状況をこじ開けるドロシーの執念、集中力に俺は舌を巻いた。

『えへへ……』

 照れくさそうな返事に愛おしさが胸に溢れてくる。

 俺のドロシーは可愛いだけでなく、すごく頼りになる自慢の奥さんだった――――。

 これが本当の『夫婦の共同作業』というものなのだろう。俺は目頭が熱くなった。
 前方に大きな湖、諏訪湖が見えてきた。山に挟まれた巨大な湖面が青空を反射し、青く輝いて見える。

 前世では有名な花火大会をここで見たのだ。あの時の湖面で広がる壮大な大輪が今も(まぶた)に浮かぶ。

 あの時とは違って、今は建物一つない大自然の中の湖だが、それでも懐かしさがこみあげてくる。

 後はこの調子であそこまで行けば勝ちである。レヴィアが何をするつもりなのかはわからないが、きっとどでかい花火を上げてくれるのだろう。

「よし、このまま一気に――――」

 そう言いかけた時だった。

 突如として、世界が闇に呑み込まれる。光が消え、影が世界を支配した――――。

「な、何だこれは!?」

 俺はいきなり視界を奪われ、どっちが上かもわからなくなった。

『何にも見えないわ!? ど、どうしよう!?』

 ドロシーもパニクってしまう。

 つかみかけていた調子が、一瞬にして崩れ去る。希望の光が、闇に飲み込まれていく。

 辺りを見回すと、不気味な光のリングが浮かんで見える――――。

『日蝕だ!』

 月が太陽を覆いつくし、日蝕の荘厳なリングが不気味に輝いていた。それは神秘的で、同時に不吉な予感を呼び起こす。

 俺はその恐ろしいまでの美しさに身震いがした。畏怖(いふ)の念が全身を包み込む。

 ヌチ・ギの仕業に違いない。月の軌道をいじるなんて、とんでもない事をしやがる。ラグナロク開始を世界中に知らせるためだろうが、実に困った。こんな深淵に放り込まれたかのような闇の中では、諏訪湖も戦乙女(ヴァルキュリ)の位置も全く分からない。

 混乱の中、ドロシーの悲鳴が響く。

『ダメッ! 危ない、逃げてぇ!!』

 この暗闇の中で、ドロシーは必死に戦乙女(ヴァルキュリ)の様子を見抜いたのだが、それはワンテンポ遅かった――――。

 俺は急いで方向転換をしようとするが、間に合わない。

 戦乙女(ヴァルキュリ)の真っ赤に輝く巨大な剣が、闇を切り裂くようにキラッと舞う。まるで死神の(かま)のように――――。

 時が止まったかのような一瞬の静寂(せいじゃく)

 戦乙女(ヴァルキュリ)の渾身の一撃が俺を貫いた。魂を引き裂くような衝撃――――。

「グォッ!」

 全身に燃え上がるような痛みが走る。息が詰まり、意識が朦朧(もうろう)とする。世界が歪み、色彩が失われていく。

 飛行魔法が解け、俺の体はきりもみしながら落下していった――――。

 風を切る音がまるで別世界のことのように耳に響く。

『いやーーーー! あなたぁ!!』

 ドロシーの悲痛な叫び声も、遠くなっていく。

 ズン! と地響きを伴う激しい衝撃――――。

 大地に叩きつけられ、俺の意識は闇に沈んでいく。痛みさえ、遠くなっていった。

 真龍を真っ二つにした剛剣がまともに入って上空から墜落……、その死はゆるぎないように見えた。生命の火が消えてゆく――――。

 妖しく揺れる皆既日食に覆われた戦場には、不気味な静けさが戻ってきた。風だけが、(つぶや)くように吹き抜けていく。俺たちの物語の終わりを告げているかのようだ。

『ねぇ! あなたってばぁ!!』

 ドロシーの叫びももうほとんど聞こえない。

 ごめん。俺は守れなかった――――。

 たくさんの思い出が、走馬灯のように駆け巡る。笑顔、涙、約束……。

 最期の思いを抱きながら、俺の意識は完全に途切れた。闇が全てを包み込み、静寂だけが残される。


        ◇


 そこは暗闇……。なぎ倒されて(くす)ぶる木々の間で、俺は目を開ける。焦げ臭い匂いが鼻をつき、遠くではまだパチパチと木のはぜる音がした。

 俺は衝撃で意識が混濁し、自分が今、何をやっているのか分からなかった。頭の中で記憶が霧のように揺らめき、確かなものを掴もうとしても指の間をすり抜けていく。ただ一つ、心の奥底で燃えているのは、誰かを守らなければという強い思い――――。

 見上げると満天の星々の中に美しい光のリングが浮かんでいる。リングから放たれる幻想的な光芒(こうぼう)は、まるでこの世の物とは思えない禍々しさを持って俺の目に映った。翠玉(すいぎょく)色の光が闇を染め上げ、倒れた木々の影が不気味に揺らめいている。

『あなたぁ! 聞こえる? あなたぁ! うっうっうっ……』

 ドロシーの声が頭の奥に響く……。

 ドロシー……、俺の愛しい人……、どうしたんだろう……。彼女の泣き声が、俺の心を抉るように痛ませる。

 身体のあちこちが痛い……。まるで全身を鉄の棒で殴られたかのような鈍痛が、波のように押し寄せてくる。呼吸をするたびに、肋骨が軋むような感覚。

「いててて……」

 思わず漏れた呻き声は、弱々しく暗闇に溶けていった。

『あなたぁ! 大丈夫?!』

 ここで俺はようやく正気を取り戻した。意識の霧が晴れ、現実が鮮明に浮かび上がってくる。戦乙女(ヴァルキュリ)との戦い、世界を救うための必死の抵抗。すべての記憶が一気に押し寄せてきた。

『あ、あれ? 生きてる……。なんで……?』

 自分の声が不思議なほど遠くから聞こえる。

『あなたぁ! 無事なの!?』

 彼女の声に、安堵と不安が入り混じっている。

『うん、まぁ、なんとか……』

『あなたぁ……、うわぁぁん!』

 ドロシーの泣き声を聞きながら、俺は斬られたところを見てみた。すると、胸ポケットに入れていたバタフライナイフがひしゃげていた。銀色の金属がかすかなリングの光を反射して、歪な光を放っている。なるほど、こいつが俺を守ってくれたらしい。運命の糸が一本、確かにここで俺の命をつなぎとめてくれたのだ。

 戦乙女(ヴァルキュリ)の剣といえどもアーティファクトは両断できなかったようだ。そして、俺のレベル六万の防御力、これが破滅的な被害を防いでくれたようだ。首の皮一枚繋がって、死の淵から這い上がってきた実感が、じわじわと体中に広がっていく。

 まさに九死に一生を得た俺はふぅっと大きく息をつき、自らの異常な幸運に感謝をした。荒野を渡る風が頬を撫でていき、生きているという実感を運んでくる。今この瞬間、生かされているという事実が、これほどまでに鮮烈に感じられたことはなかった。
 やがて皆既日蝕は終わり、また、明るさが戻ってきた。薄明(はくめい)の光が大地を照らし、闇から這い出てきた世界は、新たな世界に来たような新鮮さを感じさせる。

「ヨシッ!」

 俺は気合を入れなおすと、全力で諏訪湖に向けて飛んだ。響いてくる体の痛みを押し殺し、歯を食いしばる。あともう少し――――。今は弱音を吐いている場合ではない。

 超音速で派手に衝撃波を振りまきながら飛ぶ俺を見つけ、戦乙女(ヴァルキュリ)が追いかけてくる。倒したはずの俺が生きて動いていることに動揺が隠せない様子だった。

「ヘイヘーイ! こっちだよ!」

 俺は痛みをこらえながら挑発する。

 轟音が空を引き裂き、雲が渦を巻いて散っていく。

 そして、ブワッと眼下に碧い湖面が広がった――――。

 ついに来た諏訪湖。これで俺たちの勝ちだ!!

『レヴィア様ぁぁぁ! 連れてきましたよ!』

 俺は涙交じりに絶叫する。

『よし! 湖面から逃げろ! 全速じゃ!!』

 レヴィアの声には、いつもの悠揚(ゆうよう)迫らぬ調子が見当たらない。それだけとんでもないことを仕組んでいるということだろう。

 諏訪湖上空でちょうど戦乙女(ヴァルキュリ)が俺の目の前に出たので急反転、その直後だった。諏訪湖の底で巨大な魔法陣が(まばゆ)い金色の光を放った――――。

 ぐわっ!

 湖面が鏡のように輝き、空の青さを吹き飛ばしていく。そして、そのまま諏訪湖の上空全てが漆黒の闇に堕ちた。戦乙女(ヴァルキュリ)も瞬時に闇にのみ込まれる。その姿が消えゆく瞬間、かすかな悲鳴が聞こえた気がした――――。

 山あいの緑豊かな大自然にいきなり立ち上がる漆黒の円柱。それはこの世の物とは思えない禍々しさを放っており、俺は思わず息をのんだ。

「うほぉ……」

 漆黒(しっこく)の柱は天空へと伸び、雲を貫き、まるで天と地を繋ぐ巨大構造物のように立ちはだかる。

 やがて、円柱はぼうっという重低音を残し、消えていく。その音は地鳴りのように体の芯まで響いてくる。諏訪湖の水も戦乙女(ヴァルキュリ)も跡形もなく消え去ったのだった。後に残ったのは、ぽっかりと口を開けた巨大な窪地だけ。

「これが……、神々の戦争……」

 俺はその圧倒的で理不尽な力に身震いがした。人知を超えた力の前では、レベル六万の力さえも、ちっぽけな存在でしかない。

『イッチョあがりじゃぁ! キャハッ!』

 レヴィアのうれしそうな声が響く。その明るい声が、緊張で強張った空気を溶かしていく。

『あなた、お疲れ様! 良かったわ!』

 ドロシーも歓喜に満ちた声を上げる。

 ひとまず、難敵は下した。俺はふぅと大きく息をつく。緊張の糸が切れたように、全身から力が抜けていった。

『いやぁ、ドロシーのおかげだよ、グッジョブ!』

 俺はドロシーをねぎらう。彼女がいなかったらとっくに死んでいただろう。

 夫婦で力を合わせる、それはとても素敵な事だった。二人で分かち合う勝利の喜びは、ただ一人で得る達成感とは比べものにならないほど温かい。俺たちの絆が、また一つ深まったような気がした。

「おーい!」

 諏訪湖(はん)で金髪をキラキラと(きら)めかせながら、手を振るレヴィアを見つけた。草原の中で彼女の姿は、宝石(ほうせき)のように輝いている。

「レヴィア様ぁ! やった、やりましたよ!!」

 俺は涙で視界がぼやける中、全身(ぜんしん)の痛みも忘れて、レヴィアの元へと飛んだ。疲弊(ひへい)した体が、喜びだけで動いている。

「うんうん、よくやった!」

 満面の笑みでレヴィアは両手を上げる。無邪気な瞳の奥に灯る喜びの光は、大いなる管理者というより純粋な少女そのものだった。

 俺はパァン! といい音でハイタッチ。清々しい音が、辺りに勝利の余韻を奏でた。

「イエーイ!」「イェーイ!」

 この瞬間、俺たちは管理者でも人でもない。ただの戦友として喜びを分かち合った。

「いやー、死にかけましたよー!」

 俺はズタズタになったシャツの中にのぞく内出血の赤いあざを見せた。紫がかった(あざ)が、壮絶な戦いの痕跡(こんせき)を示している。

「ほぉ、そんなことがあったんかい。知らんかったわ」

 レヴィアはそっと俺の胸に手を当ててぶつぶつと何かをつぶやく。指先から温かな魔力が伝わってくる。

「え? 見てなかったんですか?」

「なに言っとる! あれだけの巨大な魔法陣をバレずに描くのはどれほど大変か、考えてもみろ!」

 レヴィアは不服そうに俺の胸をパァン! と叩いた。

「痛てて……って、痛くない……? あれ?」

 見れば内出血の跡は綺麗に消えていたのだ。傷があった場所に残るのは、かすかな温もりだけ。

「死んでなければ何度でも復活させてやるわ。カッカッカ!」

 金髪おかっぱの少女は楽しそうに笑う。その笑顔は、この世界の(ことわり)を司る者とは思えないほど(あい)らしいが、俺は今後も死にそうなことをやらされる予感に思わずブルっと震えた。


       ◇


 諏訪湖を見れはすっかりと干上がり、綺麗に丸くくりぬかれた窪地が広がっている――――。

「それにしてもレヴィア様の技には、驚かされました。何ですかこれ?」

 俺はため息をつきながらその生々しい戦いの爪痕を眺めた。

「『強制削除コマンド』じゃ。対象領域を一括削除するんじゃ。このコマンドで消せぬものはない。どうじゃ? すごいじゃろ?」

 ドヤ顔のレヴィア。両手を腰に当て、胸を張る姿は愛矯(あいきょう)たっぷりだ。

「『強制削除』……ですか? もっとカッコいい名前かと思ってました」

「え……?」

 レヴィアは一瞬固まると、

「……。いいんじゃ……。我はこれで気に入っとるんじゃ……」

 と、露骨にしょげた。

 さっきまでの威勢はどこへやら。レヴィアは露骨に肩を落とした。

 その世界最強でいてどこか抜けてる少女に思わず笑みがこぼれる。