「いやぁぁ! あなたぁぁ!」

 ドロシーの悲鳴(ひめい)が、楔となって俺の胸に突き刺さった。

 今すぐにでも飛び出していきたい。

 しかし――――。

 ヌチ・ギ相手に勝つのは不可能、死ぬだけだ。俺は必死に衝動と戦う。

 歯を食い縛り、拳を握りしめる。その苦痛は、全身の細胞が悲鳴を上げ、血管を()くようだった。

「ヒッヒッヒ……、その反抗的な態度……、そそるねぇ。さぁ、どこまでもつかな?」

 ヌチ・ギの声に含まれる嗜虐的(しぎゃくてき)な喜びが、俺の怒りを更に煽り立てる。

 そして、彼が小さな注射器を取り出した瞬間、空気が一気に凍りついた。

「な、何よそれ……」

 青ざめ、全身を震わせるドロシー。

「最強のセックスドラッグだよ。欲しくて欲しくて狂いそうになる……、素敵な薬さ……」

 ヌチ・ギの言葉一つ一つが、俺の理性を削り取っていく。注射器を上に向け、軽く薬液を飛ばす彼の仕草に、ドロシーの運命が垣間見える。そんなものを注射されたら、もうドロシーはドロシーでなくなってしまう。永遠に。

「ダ、ダメ……、止めて……」

 おびえて震えるドロシーの声が、かすかに響く。その(はかな)げな姿に、俺の脳の中で何かがブチっと音を立てて切れた――――。

 俺はグッとドアの切れ目に力を込める。これ以上の我慢は自分が壊れてしまう。

 その時だった――――。

 アバドンがガシッと俺を押しとどめた。その手の力に、彼のゆるぎない覚悟が伝わってくる。

「な、何をする! 離せ!」

 俺は憤怒(ふんぬ)に満ちた目でアバドンをにらんだ。

 アバドンは何も言わず、錯乱気味の俺の手をギュッと握りしめ、じっと俺を見つめ返す――――。

 その温もりが、僅かに俺の理性を呼び覚ます。

「自分が行きます。その間に(あね)さんをお願いします」

 アバドンの目には、燃えるような決意の炎が宿っていた。

「ちょ、ちょっと待て! な、何か勝算があるのか?」

 俺は予想外のアバドンの申し出に唖然とする。俺より圧倒的に強いアバドンだったが、それでもヌチ・ギには全く効かないはず。拘束できても持って数十秒――――。そして殺されるだろう。その恐ろしい結末が、頭の中で鮮明に描かれ、背筋が凍る。

 しかし、アバドンの目には迷いがない。彼はもはや覚悟を決めているのだ。

「私にとっても(あね)さんは大切な人なんです。頼みましたよ」

 俺の手を包むように握る手からは、ある種の諦念が伝わってくる。そう、これでお別れなのだ――――。

「アバドン……」

 俺はいきなり訪れた別れに言葉が出てこない。

 アバドンは最後にグッと力強くサムアップすると、まるで聖騎士(パラディン)のように凛々しく、切れ目を抜けて行った。

 俺の目にはアバドンの後ろ姿が神々しく映る。悪を愛する魔人? とんでもない。俺なんかよりずっと尊い愛の戦士じゃないか。

 そのたくましい背中に思わず(にじ)み出そうになる涙を(こら)え、俺は急いでアバドンの後を追う。彼の捨て身の決意を無駄にしてはならない。その思いが、俺の体を前へと押し進める。

 次の瞬間、アバドンは閃光(せんこう)のごとき速さでヌチ・ギに体当たりを食らわせ、吹き飛ばした。轟音と共に、二人の姿がぶち破られた壁の向こうへと消える。さすがの管理者も、この不意打ちには即座に対応できまい。その(すき)を逃すまいと、俺は全身の神経を研ぎ澄ませドロシーの元へ駆け寄った。

「今助ける。静かにしてて!」

「あなたぁ!」

 ドロシーの目に涙があふれた。

 俺はニッコリとうなずくとナイフを取り出し、ドロシーの手首を縛る革製の拘束具を斬る。斬っても切断できるわけではないが、手首はくぐらせることができるのだ。

「うわぁぁぁん! あなたぁ……」

 脱力して崩れ落ちそうになる彼女の身体を、優しく、しかし力強く支える。その温もりに、俺は安堵の息を漏らした。