この姿は……ヌチ・ギだ! ユータの心臓が大きく跳ねる。
「エークセレンッ!! お見事! それだよ!」
アバドンはキザな仕草で警備兵の肩を叩いた。その声は甲高く、ヌチ・ギそのものだった。アバドンの変装の完璧さに、ユータは思わず息を呑む。
「ヌ、ヌチ・ギ様……?」
警備兵の声が震える。その顔には驚きと畏怖の色が混ざっていた。
「今、屋敷の警備体制を抜き打ちチェックしてるのだよ。君の今の動き、良かったよ!」
アバドンはヌチ・ギ特有の傲慢さと優しさが絶妙に混ざった笑顔で笑いかける。
「きょ、恐縮です……」
うれしそうにビシッと敬礼する警備兵。
「怪しいと感じたらまず連絡。基本を押さえたいい動き……。エレベーターの中まで入ってきたら殺されるかもしれないからな? 君の査定は高くしておこう! 君、所属と名前は?」
アバドンは警備兵の肩に手を置き、腹心の部下に語りかけるような親しみを込めて顔をのぞきこむ。
「はっ! 自分は第一分隊所属ハーヴェルです!」
その表情には、思わぬ褒美に有頂天になった様子が見て取れた。
「ハーヴェル……いい名前じゃないか。なお、これは抜き打ち調査なので、他の人には話さないように……。分かったね?」
ニッコリと笑うアバドン。
「は、はい! かしこまりました!」
警備兵の返事は、弾むように力強い。その瞳には、ヌチ・ギへの忠誠心が燃えていた。
「では、私は屋敷に戻る。引き続き頼んだよ!」
ツカツカとエレベーターに乗りこんだアバドンは、くるっと振り向いて警備兵ににこやかに笑った。
どこまでもヌチ・ギそのものの演技に俺は感心せずにはいられない。
「では、扉、閉めさせていただきます!」
警備兵はガチリとボタンを押しこむ。軋みながら閉じていく扉――――。
その瞬間、九死に一生を得た安堵感が俺の胸に広がった。
はぁぁぁ……。
俺はアバドンをジト目でにらむ。その眼差しには、「危なかったぞ」という非難の色をこれでもかと込めておいた。
アバドンはバツが悪そうな様子で頭をかく。それは、まるで悪戯を見つかった子供みたいに見えた。
「くしゃみは止められないんですよ……」
アバドンは小声で謝る。
「まあ、なんとかなったからいいさ」
俺は溜息まじりに答えた。
◇
扉が閉まってしばらくすると、全身が浮き上がるような奇妙な感覚が全身を貫いた。まるで体が霧のように軽くなり、次の瞬間には別の場所へと引き寄せられるような不思議な感覚だった。屋敷の本館へ転送されたに違いない。俺は緊張で汗ばんだ手のひらをズボンで拭った。
荷物受け取りの人と鉢合わせるとまずいので、ナイフを用意してタイミングを計る。ナイフの冷たい金属の手触りが、現実の危険を思い出させた。心臓の鼓動が早くなる。
チーン!
鳴る音と同時に、俺はエレベーターの奥をナイフで切ると確認もせずに飛び込んだ。
うわぁ!
いきなりまぶしい光に当てられ、爽やかな空気に包まれる――――。
目が慣れてきて辺りを見回すと、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。サラサラと木々の葉が風にそよぐ音だけが辺りに満ちていた。
「こ、ここは……?」
俺はいきなり広がる大自然の風景にたじろぐ。
エレベーターはまるで地下鉄の出入り口のエレベーターのように、森を切り開いた敷地の境目にポツンと立っていたのだ。その不自然な光景に、俺は現実感を失いそうになる。
そっと扉側の様子を伺うと、豪奢な装飾が施された鉄のフェンスが張り巡らされていた。その向こうには見事な庭園が広がり、奥には真っ黒いモダンな建物がそびえている。あれがヌチ・ギの屋敷だろう。高さは五階建てくらいで、現代美術館かと見まがうばかりの前衛的な造りをしており、中の様子はちょっと想像がつかない。それは、周囲の自然と不釣り合いなほど無機質で冷たい印象を与えた。なるほど、ヌチ・ギらしい。
あの中でドロシーは俺の助けを心待ちにしてるはずだ。胸にキュッと切ない痛みが走る。
「ドロシー、待ってろよ……」
俺はギュッとこぶしを握り、ドロシーがまだ無事であること、それだけを祈りながら必死に屋敷の様子を調べてみる。
鑑定を使ってセキュリティシステムを調べてみると、門やフェンスには多彩なセキュリティ装置が多数ついており、とても超えられそうにない。さらには庭園のあちこちにも見えないセキュリティ装置が配置されており、とても屋敷に近づくのは無理そうだった。さすが管理者である。その精巧さと複雑さに、思わずため息が出てしまう。
「旦那様……、どうしますか?」
アバドンがひそひそ声で聞いてくる。
「すごい警備体制だ、とてもバレずに屋敷には入れない……」
すると屋敷から人が出てきた。見ていると、メイドらしき女性が宙に浮かぶ不思議な台車を引き連れながら大きな鉄製の門を開け、エレベーターまでやってくる――――。
メイド服に身を包んだ彼女は何も言わず、淡々と台車に荷物を載せ、また、台車を引っ張って屋敷内へと戻っていく。
「彼女に付いていきましょうか?」
アバドンがニヤリと笑う。
「いや、無理だ。荷物の中に隠れてもセキュリティ装置に引っ掛かるだろう」
俺は渋い顔をしながら首を振る。
いろいろ考えてはみるものの、庭園を超え、多くのセキュリティ装置を突破するのは現実的ではなかった。何しろ見つかったら作戦は失敗、そこに待っているのは死なのだ。賭けるのは今じゃない。
「困りましたね……」
アバドンは首をひねる。
静寂が二人を包んだ。遠くで鳥のさえずりが聞こえる――――。
◇
「持ってるのはナイフだけだしなぁ……」
ため息をつくと、俺は取り出したナイフをクルクルッと手のひらの上で回した。
と、その時、ビビッと何かが閃いた。壁以外にも斬れるのでは?
そう、このナイフは空間を切断するだけだ。何だって斬れる。であれば――――。
「ヨシ! 地中を行こう!」
俺はニヤッとアバドンに笑いかける。
「はぁっ!?」
「こうするんだよ」
驚くアバドンの目の前で、俺はナイフで地面を一直線に切り裂いた――――。
雑草の生える地面はいとも簡単に斬り裂かれ、こんにゃくみたいに揺れながら切り口を晒す。地面は壁と同様に、まるでコンニャクのように柔らかく広げることができたのだ。
両手で切り口をググっと広げてみると、三十センチくらいは斬れている。俺は中へと入ってさらに奥を切り裂いた。するとさらにまた三十センチくらい進める。
「行ける、行ける! さぁ、行くぞ!」
「うはぁ……。こんなの見たことないですよ。さすが旦那様」
アバドンは目を丸くしながら、ナイフでトンネルを掘っていく俺を見下ろした。
俺はアバドンと共に、一緒に地中を進む。一回で三十センチくらい進めるので、百回で三十メートル。三百回も斬れば屋敷には到達できるだろう。無理のない挑戦だ。
アバドンに魔法の明かりで照らしてもらいながら淡々と地中を進む。途中、地下のセキュリティシステムらしいセンサーの断面を見つけたが、俺たちは空間を切り裂いているのでセンサーでは俺たちを捕捉できない。ここはヌチ・ギの想定を超えているだろう。
俺はついニヤッとほくそ笑んでしまう。管理者だって神じゃない。奴の想定を超えさえすれば出し抜けるのだ。
「ドロシー、今行くぞ!」
俺は気合を入れなおし、何度も何度も斬り進めていった。
足場の悪い中、苦労しながら斬り進んでいると急に断面が石になった。いよいよ屋敷にたどり着いたようだ。
俺は深呼吸をしてはやる気持ちを落ち着かせると、そーっとナイフを入れた――――。
明かりだ!
俺は高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、切り口をゆっくりと広げながら中をのぞく……。
「はぁっ!?」
俺は思わず声を出してしまった。
なんと、そこに広がっていたのは、たくさんの美しい女性たちの舞う姿だったのだ。
俺は唖然として凍りつく。管理者の特権を使い、漆黒の巨大建造物の中でひそかに作られていたのは禁断の美の世界だった。
そこは地下の巨大ホールで、何百人もの女性たちが美しい衣装に身を包み、ゆったりと空中を舞っている。百人近い女性たちが何重かの輪になって、それが空中に何層も展開されている。それぞれ煌びやかなドレス、大胆なランジェリー、美しい民族衣装などを身にまとい、ライトアップする魔法のライトと共に、ゆっくりと舞いながら全体が少しずつ回っていた。また、無数の蛍の様な光の微粒子が、舞に合わせてキラキラと光りながらふわふわと飛び回り、幻想的な雰囲気を演出している。
それはまるで王朝絵巻さながらの絢爛豪華な舞踏会だった。
フェロモンを含んだ甘く華やかな香りが漂ってくる。
ほわぁ……。
見ているだけで幻惑され、恍惚となってしまう。
「な、何ですかコレは……」
国中の美女を少しずつ集めて作り上げていた狂気のアートに、アバドンは呆れ果て、首をかしげる。
ちょうど俺たちの前に、碧眼を煌めかせる美しい女性がゆっくりと近づいてきた。スローモーションのような優雅な動きで、彼女は空中を舞う。二十歳前後だろうか、真紅のドレスを身にまとい、露出の多いハートカットネックの胸元にはつやつやとした弾力のある白い肌が魅惑的な造形を見せている。まるで生きた芸術品のようだった。
彼女はゆっくりと右手を高く掲げながら回っていく――――。
そのすらりとしたスタイルの良い肢体の作る優美な曲線に、俺は思わず息をのんだ。その姿は、まるで神話の妖精を思わせるほどの美しさだった。
彼女に限らず、美女たちが次々と広い空間を埋め尽くすように舞っている。
「いや、ちょっと、何だよこれ……」
俺はその常軌を逸した狂気に圧倒された。
広間の中央には身長二十メートルくらいの巨大な美女がいる。最初はモニュメントか何かだと思っていたが、よく見ると彼女も動いているではないか。彼女も生身の人間かもしれない。
彼女は、この幻想的な空間の中でさえ、異質な威圧感を放っていた。革製の巨大なビキニアーマーを装着してモデルのように体を美しくくねらせている。軽く腹筋が浮いた美しい体の造形には思わずため息が出てしまうほどである。その姿は、美と力の化身とでも言うべきものだった。
「美しい……」
俺は不覚にもヌチ・ギの作り出した美の世界に引き込まれ、慌てて自分の頬をパンパンと張った。
美しいことと、非人道的な犯罪は別の話だ。どんなに美しくても彼女たちが望んでいない以上許されない。
それよりもドロシーだ。俺は銀髪の娘はいないかと一生懸命探してみる。
「ど、どうしましょう……?」
アバドンはあまりの狂気に圧倒され、困惑していた。
「ヌチ・ギの狂気に流されちゃダメだ。ドロシーいないか探してくれ」
「わかりやした!」
二人でしばらく探してみたが、まだ居ないようだった。しかし放っておくとここで展示されてしまうだろう。
ドロシーがこんな所に展示され、永遠にクルクル回り続けるようなことになったら俺は死んでも死にきれない。その想像だけで、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「ドロシー……」
俺はドロシーの柔らかな笑顔を思い出し、ギュッと目をつぶった。
絶対に奪還せねばならない。たとえ命を失うことになろうとも必ず奪還してやると、俺はグッとこぶしを握った。
俺は鑑定でホールの隅々まで慎重にセキュリティ装置を探したが、見つからなかった。ヌチ・ギもここまで侵入されることは想定外らしい。その事実に、わずかな安堵を感じる。
「上の階も探してみよう。ドロシーはきっとどこかにいる」
アバドンは無言で頷く。二人の目には、揺るぎない決意の色が宿っていた。美しくも危険なこの空間を抜け出し、ドロシーを救出するための新たな挑戦が始まる。
「では、行くぞ!」
俺はアバドンの耳元で囁いた。
アバドンはサムアップをすると俺を背中につかまらせ、飛行魔法を使ってそっと床にまで降りていく。二人の呼吸が重なり、心臓の鼓動が同期するかのようだった。
目の前を通り過ぎていく煌びやかな踊り子たち――――。
俺は彼女たちの無念が胸に刺さるようで苦しく感じた。その美しさの裏に潜む悲しみが、ユータの心を締め付けた。やはりヌチ・ギの蛮行は許しがたい。彼女たちも解放してあげねばならないと心に誓った。
静かに床に降りたった二人――――。
その時、目の前を通り過ぎる露出の多いピンクのドレスで舞っている女性と目が合った。その瞳には、悲しみと諦めが宿っている。一瞬の交錯で、ユータは彼女の心の叫びを聞いたような気がした。
「え!?」
驚いて見回すと全員が我々を見ていたのだ。意識があるのか!? その事実に、俺は背筋に冷たいものを感じる。
唖然としていると、次にやってきた女性に声をかけられた。その声は、かすかに震えていた。まるで長い沈黙を破るかのようだった。
「そこのお方……」
俺は驚いて声の方向を見ると、美しいランジェリー姿の女性が、手を後ろに組んで胸を突き出すような姿勢でこちらを見ていた。ブラジャーは赤いリボンを結んだだけの大胆なもので、左の太腿にも細いリボンで蝶結びがされていた。何とも煽情的ないで立ちに俺は顔を赤くして、身体を見ないようにしながら、駆け寄った。その姿は美しくも悲しげで心を揺さぶってくる。
「話せるんですね、これ、どうなっているんですか?」
スッと鼻筋の通った整った小顔にクリッとしたアンバーな瞳の彼女。心をざわめかせるほどの美しさに、俺は戸惑いを覚えながら聞いた。
「私はまだ入って間がないので話せますが、そのうち意識が失われていって皆植物人間みたいになってしまうようです」
その言葉に、ユータは怒りと悲しみを感じた。何という非人道的な話だろうか。
「助けますよ!」
俺は彼女の手を掴み、思いっきり引っ張ってみた。しかし、とても強い力で操作されているようで、舞いの動きを止める事すらできない。まるで目に見えない鎖で縛られているかのようだった。
「な、何だこれは……」
その無力感に、俺は歯噛みした。歯ぎしりの音が、静かな空間に響く。
「ヌチ・ギ様の魔法を解かない限りどうしようもありません……。それより、あの中央の巨人が心配なのです」
彼女の声には、恐怖と懸念が滲んでいた。
「やはり彼女も生きているんですか?」
嫌な予感が当たり、心臓が早鐘を打つ。
「そうです。ヌチ・ギ様は巨大化装置を開発され、私たちを戦乙女という巨人兵士にして世界を滅ぼすとおっしゃってました」
そのとんでもない計画に、心臓が凍りついた。
「な、なんだって!?」
俺は戦慄する。単に女の子をもてあそぶだけでなく、兵士に改造して大量殺戮にまで手を染めようだなんて、もはや真正の狂人ではないか。俺の頭の中で、巨大な戦乙女たちが街を火の海へと変えていく光景が浮かび上がり、言葉を失った。
「ラグナロクだ……」
アバドンの低い声が、重い空気を切り裂く。
「ラ、ラグナロク……?」
その重い運命を予感させるような響きに、俺は背筋が寒くなる。
「女巨人が大挙して空から降ってきて、世界を滅ぼす終末思想の神話があるんです。ヌチ・ギはその神話に合わせて一回この世界をリセットするつもりじゃないでしょうか?」
アバドンの言葉が、俺の心に重くのしかかった。
「マ、マジかよ……、狂ってる……」
俺はブルっと震える。世界の終焉を目論む狂気の計画。その底知れぬ残虐さに、言葉を失った。
このまま世界の発展が進まなければ、この星自体が女神によるお取り潰しに遭う。であれば一旦リセットして新たな文明の萌芽を呼ぼうという目論見だろう。しかし、多くの人を殺すような計画などとても容認できない。その思いが、俺の中で熱く燃え上がる。
「私は人を殺したくありません……。何とか止めてもらえないでしょうか……?」
彼女はポロリと涙をこぼす。その一粒の涙に、無数の命の重みが込められているようだった。
ラグナロクなんて起こされたらアンジューのみんなも殺されてしまう。そんな暴挙絶対に止めないとならない。俺の心に、孤児院のみんなの顔が次々と浮かび上がる。笑顔で駆け寄ってくる子供たち、優しく微笑む院長。彼らの笑顔は守らねばならない。
「分かりました。任せてください!」
俺は言葉に揺るぎない決意を込める。相手は世界の管理者、難しいのは百も承知だ。だが、できるかできないかじゃない。やらなければみんなが死んでしまう。
もはや世界の管理者に立ち向かおうなんてクレイジーなことをするのは、自分たちしかいない。やるしかないのだ。
女性の瞳にキラッと小さな希望の光が灯った。
「お願いします……。もうあなたに頼る他ないのです……」
彼女はさめざめと泣きながら、またポーズを変えられていく。その姿は、美しくも悲しく、心を深く揺さぶった。
「では行ってきます! 幸運を祈っててください」
俺は彼女の手をしっかりと両手で包んだ。まだ温かい彼女の手の温もりが、勇気を与えてくれる。
◇
ホールの出入り口へと駆け寄り、俺はドアを切り裂いてそっと向こうをうかがった。薄暗い人気のない通路が見える。その不気味な静寂に、緊張が走る。
俺はアバドンとアイコンタクトをし、うなずき合うとそっとドアの切れ目を広げた。
その時だった――――。
「やめてぇぇぇ!」
かすかだが声が聞こえた。ドロシーだ! 心臓がキューっと痛くなり、冷や汗が流れる。
俺の愛しい人がひどい目に遭っている……。
「は、早くいかなくちゃ……」
俺は足音を立てぬよう慎重に早足で声の方向を目指した。
「ドロシー……、ドロシー……、くぅぅぅ……」
一歩一歩が、永遠のように感じられる。
通路をしばらく行くと部屋のドアがいくつか並んでおり、そのうちの一つから声がする。その扉の向こうに、ドロシーが待っているのだ!
俺は震える手でドアを斬り裂く――――。
そっと切り裂いて中をのぞき、その衝撃的な光景に思わず息が止まった。
なんと、ドロシーが天井から裸のまま宙づりにされていたのだ。その美しい無防備な姿に、怒りと悲しみで言葉を失う。
俺は全身の血が煮えたぎるかのような衝動を覚えた。
俺の大切なドロシーになんてことしやがるのか! その怒りは、まるで火山のマグマのように激しく沸き立つ。
「ほほう、しっとりとして手に吸い付くような手触り……素晴らしい」
ヌチ・ギがいやらしい笑みを浮かべ、ドロシーを味わうかのようになでる。その声には、嗜虐的な喜びが滲んでいた。
「いやぁぁ! あなたぁぁ!」
ドロシーの悲鳴が、楔となって俺の胸に突き刺さった。
今すぐにでも飛び出していきたい。
しかし――――。
ヌチ・ギ相手に勝つのは不可能、死ぬだけだ。俺は必死に衝動と戦う。
歯を食い縛り、拳を握りしめる。その苦痛は、全身の細胞が悲鳴を上げ、血管を灼くようだった。
「ヒッヒッヒ……、その反抗的な態度……、そそるねぇ。さぁ、どこまでもつかな?」
ヌチ・ギの声に含まれる嗜虐的な喜びが、俺の怒りを更に煽り立てる。
そして、彼が小さな注射器を取り出した瞬間、空気が一気に凍りついた。
「な、何よそれ……」
青ざめ、全身を震わせるドロシー。
「最強のセックスドラッグだよ。欲しくて欲しくて狂いそうになる……、素敵な薬さ……」
ヌチ・ギの言葉一つ一つが、俺の理性を削り取っていく。注射器を上に向け、軽く薬液を飛ばす彼の仕草に、ドロシーの運命が垣間見える。そんなものを注射されたら、もうドロシーはドロシーでなくなってしまう。永遠に。
「ダ、ダメ……、止めて……」
おびえて震えるドロシーの声が、かすかに響く。その儚げな姿に、俺の脳の中で何かがブチっと音を立てて切れた――――。
俺はグッとドアの切れ目に力を込める。これ以上の我慢は自分が壊れてしまう。
その時だった――――。
アバドンがガシッと俺を押しとどめた。その手の力に、彼のゆるぎない覚悟が伝わってくる。
「な、何をする! 離せ!」
俺は憤怒に満ちた目でアバドンをにらんだ。
アバドンは何も言わず、錯乱気味の俺の手をギュッと握りしめ、じっと俺を見つめ返す――――。
その温もりが、僅かに俺の理性を呼び覚ます。
「自分が行きます。その間に姐さんをお願いします」
アバドンの目には、燃えるような決意の炎が宿っていた。
「ちょ、ちょっと待て! な、何か勝算があるのか?」
俺は予想外のアバドンの申し出に唖然とする。俺より圧倒的に強いアバドンだったが、それでもヌチ・ギには全く効かないはず。拘束できても持って数十秒――――。そして殺されるだろう。その恐ろしい結末が、頭の中で鮮明に描かれ、背筋が凍る。
しかし、アバドンの目には迷いがない。彼はもはや覚悟を決めているのだ。
「私にとっても姐さんは大切な人なんです。頼みましたよ」
俺の手を包むように握る手からは、ある種の諦念が伝わってくる。そう、これでお別れなのだ――――。
「アバドン……」
俺はいきなり訪れた別れに言葉が出てこない。
アバドンは最後にグッと力強くサムアップすると、まるで聖騎士のように凛々しく、切れ目を抜けて行った。
俺の目にはアバドンの後ろ姿が神々しく映る。悪を愛する魔人? とんでもない。俺なんかよりずっと尊い愛の戦士じゃないか。
そのたくましい背中に思わず滲み出そうになる涙を堪え、俺は急いでアバドンの後を追う。彼の捨て身の決意を無駄にしてはならない。その思いが、俺の体を前へと押し進める。
次の瞬間、アバドンは閃光のごとき速さでヌチ・ギに体当たりを食らわせ、吹き飛ばした。轟音と共に、二人の姿がぶち破られた壁の向こうへと消える。さすがの管理者も、この不意打ちには即座に対応できまい。その隙を逃すまいと、俺は全身の神経を研ぎ澄ませドロシーの元へ駆け寄った。
「今助ける。静かにしてて!」
「あなたぁ!」
ドロシーの目に涙があふれた。
俺はニッコリとうなずくとナイフを取り出し、ドロシーの手首を縛る革製の拘束具を斬る。斬っても切断できるわけではないが、手首はくぐらせることができるのだ。
「うわぁぁぁん! あなたぁ……」
脱力して崩れ落ちそうになる彼女の身体を、優しく、しかし力強く支える。その温もりに、俺は安堵の息を漏らした。
ドロシーが抱きついてきて嗚咽が部屋に響いた。その温かな感触が、俺の全身を包み込む。
「遅くなった。ゴメン……」
ドロシーは何も言わず、ギュッと力強く俺に抱き着いた。
この瞬間、離れ離れになっていた二人の心が一つに繋がったような感覚に包まれる。
しかし、甘美な時間に浸っている暇はない。部屋の奥から激しい衝撃音が間断なく響き渡る。アバドンの奮闘が伝わってくるが、時間の問題だろう。その焦燥感が、俺の背中を押す。
俺はドロシーの手を強く握り、ドアを抜け、薄暗い通路を駆け抜ける。二人の足音が、静寂を切り裂いた――――。
「急いで! 今は説明している時間がないんだ」
息を切らしながら、俺は前を見据えて走り続ける。
「ねぇ、アバドンさんは?」
ドロシーの声に、悲しみと不安が滲む。その問いに、俺の心臓が痛むように締め付けられる。
のどから出かかった言葉を飲み込み、俺は何とか答えた。
「大丈夫、彼なりに勝算があるんだ」
その言葉の裏に隠された真実、アバドンの犠牲――――を、今はドロシーに悟られてはならない。俺たちにできることは、ただひたすらに前へ進み続けること。アバドンの思いを胸に、俺はドロシーと共に薄暗い通路を駆け抜けていく。
突き当たりの壁まで辿り着くと、俺はナイフを振り上げ、躊躇なく切り裂く。
「急いで!」
俺はトンネルを斬り進みながら、ドロシーに手を伸ばす。
「う、うん……」
ナイフでトンネルを掘っていく異様さにドロシーは眉をひそめたが、うなずくと俺の手を取った。
時間との勝負だ。
俺は全ての力を振り絞りながら、土の中を斬りに斬って必死に進む――――。
ヌチ・ギが屋敷内を捜索している間にエレベーターに辿り着ければ、勝ちだ。アバドンの安否が頭をよぎるが、今は彼が作ってくれたチャンスを活かすことを優先せねばならない。その決断に、胸が軋むのを感じる。
懸命に掘り進め、ついにフェンスの断面が見えた。
ヨシ!
斜め上へと斬り進むと明かりが差し込んだ――――。
そっと顔を出すと、目の前にエレベーターが佇んでいる。その姿は、まるで希望の象徴のようだった。さすが俺! その瞬間、希望の灯火が胸の内で揺らめく。
俺は急いで地上に這い出し、震える指でボタンを押す。その一瞬が、永遠のように感じられた。
「早く来てくれ! 頼むぞ!!」
俺はエレベーターの反応を今か今かと祈りながら手を合わせて待った。
籠が到着したチーン! というチャイムが、まるで勝利の鐘のように響く――――。
YES! 俺はグッとこぶしを握る。尊い犠牲の末についに脱出の瞬間がやってきた。後はレヴィアと合流さえすれば奪還計画成功だ! その思いが、俺の体に新たな力を注ぎ込む。
俺は上気した顔でドロシーと一緒にゆっくりと開く扉を見つめる。
しかし――――。
扉の中から現れたのは、ニヤけた小柄な男だった。
「どこへ行こうというのかね?」
希望を打ち砕く悪魔――――。
その冷たい声に、俺の背筋が凍りつく。ヌチ・ギはエレベーターに先回りしていたのだ。俺の心に深い絶望の淵が刻まれていく。
「あ、あぁ……」
万事休す。俺は力なく首を振りながら後ずさった。
青ざめる俺をヌチ・ギは容赦なく殴りつける――――。
ドスッ! 重い音と共に吹き飛ばされる俺の体。世界が回転し、鋭い痛みが全身を貫く。その衝撃は、俺たちの夢と希望が砕け散る音のようだった。
「きゃぁ! あなたぁ!」
ドロシーの悲痛な叫びが響き渡る。しかし、もはやこうなってしまっては打つ手などなかった。
一体なぜバレたのか……。さすが管理者、完敗である。
俺は地面をゴロゴロとぶざまに転がりながら絶望に打ちひしがれた。口の中に広がる鉄錆のような味。それは、全てが無に帰す苦い味がした。
もはや逃げるのは不可能だ。殺される――――。
くぅぅぅ……。
無念が全身を貫く。
だが、殺されるのなら最後まで抗ってやろうじゃないか。その思いが、俺の中に最後の灯火を灯した。
俺は顔を上げ、口から血を垂らしながら、最後の気合を込めヌチ・ギをにらむ。
「お前、戦乙女使ってラグナロク起こすんだってな、そんなこと許されるとでも思ってんのか?」
ゆっくりと体を起こしながら叫んだ。血の味が喉にまで広がっていく。
「ほう? なぜそれを?」
ヌチ・ギの鋭い目線が、刃物のように俺を刺し貫く。その眼差しには、冷徹な知性と底なしの狂気が混在し、蠢いていた。
「大量虐殺は大罪だ、お前の狂った行為は必ずや破滅を呼ぶぞ!」
俺の叫ぶ口からは血飛沫が舞う。次の瞬間殺されててもおかしくない、このアディショナルタイムに俺は開き直り、怒りをぶつけた。
「はっはっは……、知った風な口を利くな!」
ヌチ・ギの嘲笑が響きわたる。
「そもそも文明、文化が停滞している人間側の問題なんだぞ、分かってるのか?」
その声には、揺るぎない確信と蔑みが混ざっていた。
「停滞してたら殺していいのか?」
俺の声に、怒りと疑問が滲む。
「ふぅ……」
ヌチ・ギは肩をすくめ、深いため息をつく。
「お前は全く分かってない。例えば……そうだな。お前の故郷、日本がいい例だろう。日本も文明、文化が停滞してるだろ? なぜだと思う?」
いきなり故郷の問題を突きつけられ、俺は動揺する。そんなこと、今まで真剣に考えたことなどなかったのだ。心臓が早鐘を打つ。
「え? そ、それは……、偉い人がいい政策を実行しない……から?」
自分の言葉の稚拙さに、顔が熱くなる。
ヌチ・ギはあきれたように首を振り、蔑んだ目で言った。
「バカめ! 何が『偉い人』だ。投票して決めたのはお前ら市民だろうが! そんな考えの市民だらけだからダメなんだ!」
その声に、怒りと諦めが混じる。
「いいか? 社会の発達にはイノベーションが必要だ。旧来のビジネスモデルや慣習をぶち壊すことでイノベーションは起こり、それが新たな価値を創造して社会は豊かになり、文明、文化も発達するのだ。Google、Apple、Amazon、OpenAI……、日本にはこれらに対抗できる企業は出て来たかね?」
俺は必死に思い出そうとするが――――、頭の中は真っ白だ。うつむく俺に、自分の無力さが重くのしかかる。
「上層部が既得権益を守るためにガチガチにした社会、そしてそれをぶち壊そうとしない市民、そんな体たらくでは発達などする訳がない!」
こぶしを握って熱弁するヌチ・ギ。その姿に、狂気の中にある一筋の論理を感じずにはいられない。
俺は言葉を失う。既存の大企業中心の社会構造に疑問など持ったこともなかったし、それで日本が衰退していったとしても、自分とは無関係だと思っていた。アンジューの貴族の横暴についても同じだ。逃げることしか思いつかなかった自分。その事実に、激しい自己嫌悪が胸の中で渦巻く。
そんな俺の目の前で、ヌチ・ギの瞳が不気味な光を放つ。
「お前たちのような愚かな人間に、もはや未来を託すことはできない。ラグナロクこそが、この停滞した世界に必要な浄化なのだ」
その言葉に、俺は戦慄する。もちろんだからといって殺戮が正当化されるわけではない。ないのではあるが、目の前のことしか考えずのうのうと暮らしていた自分たち市民の人任せな思考が、女神からの圧力を感じているヌチ・ギを狂気に走らせた。そこに一端の責任を感じずにはいられなかった。
ヌチ・ギは狂気の色が混じったドヤ顔で俺を見下ろす。
「だから、俺がぶち壊してやるのさ」
彼の声が、鋭く響く。
「下らぬ貴族階級支配が隅々までガチガチにし、それに異論も出さないような市民どもでは文明、文化の発達はもはや不可能だ。神話通り、滅ぼしてやる!」
ヌチ・ギはグッとこぶしを突き上げた。
その言葉に、俺は不覚にも圧倒される。ただの狂人だと思っていたが、それなりの根拠があって社会変革を起こそうとしていたとは……。
農業では果樹の実の付きをよくするため、一旦ばっさり枝を刈ることがある。ヌチ・ギはこれを人間社会でやろうというのだ。確かに戦乱を超えて出た若者が新たな時代を築くこともあるだろう。日本も一度焼け野原になって利権を破壊され、結果大きく成長したのは事実だった。彼の論理の前に、自分の正義が揺らぐのを感じる。
「想像してみろ!」
ヌチ・ギの声が、陶酔するかのように高まる。
「炎に包まれた街並み、逃げ惑う人々の悲鳴……、そして、灰色の空に舞い上がる黒煙、焦げた肉の匂いが漂う中、戦乙女たちの銀鎧が紅蓮の炎に照らされて輝くのだ! ああ、なんと美しい光景だろうか」
俺は脳裏に浮かぶその光景に、背筋が凍る。
やはりヌチ・ギは狂人だし、どんな理由があれ、多くの人を虐殺するような行為は正当化などできない。人命はかけがえのない輝きだ。何人たりとも奪ってはならん!
「詭弁だ!!」
俺は拳を握りしめ、全身の力を込めて叫び、自分を奮い立たせる。
「どんな理由があれ、人を殺していい訳がない! それは……それは単なる虐殺だ!」
ヌチ・ギの目が、一瞬だけ揺らぐ。だが、すぐにその表情は消え、再び不敵な笑みに戻る。
「バーカ! このままならこの星は消去される。全員消されるよりリセットして再起を図る方がマシだ! お前にはこの星の運命など理解できまい」
「消去されない方法を模索しろよ!」
俺は最後の力を振り絞って叫ぶ。
「俺がヴィーナ様に提案してやる! きっと、何か解決策があるはずだ! 」
ヴィーナ様、いや、美奈先輩なら、きっと話を聞いてくれるはずだ。そう、必ずや解決策が見つかるに違いない。その希望に、俺は必死に縋る。
しかし、ヌチ・ギは大きく息をつくと、ゆっくりと首を横に振る。その仕草には、どこか哀れみのような感情が垣間見える。
「議論など無意味だ。もう計画は動き出しているのだよ」
ヌチ・ギは俺に向かって静かに手のひらを向けた。その手のひらから、不気味な紫色の光が漏れ始める。その光が、俺の運命を決定づけるかのように、徐々に激しく輝き始めた。
俺は思わず一歩後ずさりした。足が震え、心臓が耳元で鼓動を刻む。
「や、やめろ! 俺がヴィーナ様と話をつけてやるって言ってんだろ!!」
声が掠れ、絶望が喉元まで迫る。だが、ヌチ・ギはさらに手のひらを強く輝かせていく。その唇が残虐な笑みへと歪む様は、まるで死神の微笑のようだった。
「さようなら、愚かな転生者よ」
ヌチ・ギの声が、空気を切り裂く。
「死ね!」
ヌチ・ギの手のひらから放たれる強烈な閃光が、俺の網膜を焼き付ける。その光は、まるで太陽が爆発したかのような輝きを放って辺りを光で埋め尽くした――――。
ぐわっ!
巻き起こる大爆発の轟音が耳を震わせ、全身を揺さぶる。
身体を貫く激しい振動。これで終わりなのか。もうドロシーともお別れ――――。
そんな絶望が心を覆う中、不思議な感覚が全身を包み込む。
これが死――――。
いや……?
あれ? 死んでない……。何か温かいものに守られているような……。その不思議な感覚に、俺は戸惑いを覚えた――――。