僕にとっての千歳紬は、久しぶりにできた友達だった。
昔は普通に友達がいたし、今でも仲のいい奴はいる。それでも次第に誰かとの関係を作るのが面倒になって、わざと人と距離を取るようになっていった。
勝手に理想を押しつけてきて、少し違えば失望して。あるいは、僕のことを必要以上に持ち上げて、僕に取り入って周りからの評価を上げようとして。――もちろんそんな奴らばかりではないということもわかってはいたが、そんな奴らが一定数以上いたのも確か。
優しくするのをやめて、愛想笑いをやめたら、少しだけ面倒から解放された。
きつい物言いに変えてみたら、さらに楽になった。
僕だったら、僕みたいな奴と仲良くなりたいなんて思わない。
それを、紬は。
『……水城くんのこと、好きになりたくて!』
――あまりにもストレートで純粋な、『仲良くなりたい』という主張だった。
それでも若干の警戒心を解かずに話を聞けば、「今日一緒に帰りたい」なんてお願いをされて。
警戒することが馬鹿らしくなったし、興味が湧いた。率直に表せば、僕も紬と仲良くなってみたい、と思ってしまったのだ。
紬と一緒にいる時間は、心地よかった。久しぶりに自然に笑えて、自分でも内心かなり驚いた。
こんなことは絶対に口には出せないが、紬があのとき、僕のことを好きになりたいと言ってくれたことに感謝している。得がたい友達だとも思っている。
――そう、友達。
友達、のはずなのだ。
しかしどうにも最近、何かがおかしいと感じる。
『好いとーよ! とか』
この前だって、その言葉を聞いたときになぜか動揺してしまった。キモかったかと訊かれて思わず即座に肯定したが、本当は気持ち悪くなんてなかった。
むしろ――可愛い、なんていう、意味のわからない感想が出てきてしまったのだ。
確かに紬は、たとえるなら元気のいい子犬のような可愛さを持っているとは思う。だけどそれだけだ。
それなのにあんなに動揺してしまうなんて、絶対におかしい。
他にもおかしいと感じることはあった。
僕以外の友達と話してる紬が、僕といるとき以上に楽しそうだと面白くない気持ちになることとか。
……まあ、それはもしかしたら、久しぶりにできた友達に対する独占欲のようなものなのかもしれない。自分がそんな子どもっぽい嫉妬をしてるとは思いたくないけど。
あとは、紬の緩みきった笑顔に心がざわつくこととか。……あれを見ると、どうしてかすごく、優しくしたくなる。望むことをなんでもしてあげたくなる、と言っても言いすぎではないかもしれない。もっと笑ってほしくなるし、もっと一緒にいたくなる。
そんなだから、紬の好きなゲームを次までに買っておく、なんて言ってしまったのだ。普通ただの友達にそこまでしない、ということすら、紬を前にすると頭から抜けてしまっていた。
絶対に、何かがおかしかった。
「やーやー水城くん、こんなとこで会うなんて奇遇だな!」
登校途中で声をかけられて、思わず顔をしかめる。
振り返った先にいたのは、柏葉という紬の友達。別に嫌いではないが、距離感の近さが少し苦手だった。度々絡まれるのは、正直面倒くさい。けれど紬の友達だから、無碍にもできない相手だ。
「んなあからさまに嫌そうな顔すんなよー。ムギの前じゃ飼い慣らされた猫みたいな顔してるくせに」
「喧嘩売ってる?」
「……や、今のはちょっと、かなり失敗したわ。ムギとの距離感で話しちった、悪りぃ」
こうやって素直に謝ってくるところが、紬の友達だな、と感じる。根本的には善い人間なのだ。
しかしやはり、ムギという呼び名が少し気になる。僕よりも紬と仲がいい証のような呼び名。少し前までは何も思わなかったのに、今はなぜだか面白くない。ムギちゃん、なんて呼ぶこともあるらしいし。
……いや、思い返せば。最初からほんの少しだけ、こういう気持ちを感じていたかもしれない。
つまらない嫉妬を押し殺し、息を吐く。
「それで? 本題があるなら早く入ってほしいんだけど」
柏葉はいつも、適当な雑談ばかり持ちかけてくる。基本的には紬に関することが多いけど、とにかく重要じゃない、上っ面だけの会話だ。
今回も『本題』と呼べるようなことは何もないと思ったのに、柏葉は「んー……」と何かを考えるような声を出した。
「なんていうか、牽制? みたいな?」
「は?」
何のことかわからず、眉根を寄せる。
僕と柏葉の共通点は紬くらいしかない。つまり、その牽制とは……紬に関すること?
「オレ、ムギのことめちゃくちゃ好きなんだよねー」
「……それが何」
二人の仲の良さなんてとっくにわかっている。互いが互いを好きだろうことも、だ。わかりきったことを主張してどうするつもりなのか。
そんな疑問は、続いた言葉によって消し飛んだ。
「そういう意味で、な?」
にいっと笑ったその顔に、再び「は?」と声を漏らしてしまった。あまりにも不機嫌に染まった声に、自分でも驚く。
そういう意味で――それは恋愛的意味で、という話だろう。
そういうことに特段偏見は持っていないつもりだったが、柏葉が紬のことを好きだと聞いて、わずかに嫌悪感を抱いてしまった。
「……それを僕に言って、何がしたいわけ」
「べつにー? ただの牽制だってば。どうしてほしいもこうしてほしいもないワケ。まあ、ムギのこと好きにならないでくれたらありがたいけど?」
「なるわけないでしょ」
――本当に?
即答しておきながら、そんな疑念がよぎる。疑念がよぎること自体、意味がわからなかった。
紬は大事な友達だ。
だから、好きになるなんてありえないのだ。
けれど、そういう『可能性』があることに気づかされてしまった。
仮に僕が紬のことを好きだとしたら、ここ最近のすべてのことに説明がついてしまう。今感じた嫌悪感だって、それなら偏見ではなくただの対抗心ということになる。
まさかそんなはずはないけど、それでも、可能性としては考えられなくない話だ。……それどころか、客観的に見れば可能性として『高い』といえる。
考えたくもない可能性だった。
紬が今、僕にあんなふうに笑ってくれるのは、僕が彼にとって友達だからだ。もしも僕が友情以上の気持ちを持ってしまったら――紬は、笑ってくれなくなるんじゃないか。
好きになりたい、と言ってくれたそこに、恋愛的意味が入っているわけないんだから。
「――なーんちゃってなんちゃって」
混迷してきた思考が、柏葉のわざとらしいまでに明るい声によって遮られる。
柏葉はけらけらと笑い飛ばした。
「好きとか冗談だよ、ちょっと水城くんの反応見たかっただけ~」
「……はあ?」
「いやーいい反応見れた、満足。悪趣味でごめんな?」
「悪趣味にも程があるでしょ」
吐き捨てるように言葉を返してしまった。善い人間、という評価は撤回すべきかもしれない。
でもさぁ、と柏葉は何かを探るように見てくる。
「今の反応、自分でどう思うの?」
「……何が言いたいの」
「その返し、思い当たる節があるっつーことでおっけー?」
「何も。もう先行っていい?」
足を速めれば、柏葉は追ってこなかった。
本当に、悪趣味だ。
いったい何がしたかったのか――なんて、きっと紬のための行動だろうから、僕にそれを咎めることはできないけど。
それでも。
そんな可能性に気づかされたくは、なかった。
普段は紬の登校のほうが僕より遅いけど、今日はすでに教室にいた。教室の入口で、なんとなく小さく深呼吸をする。顔を合わせづらいけど、紬は僕の斜め後ろの席だから、挨拶しない、という選択肢はない。……それに、紬と話したい気持ちのほうが大きい。
平静を装って、いつもどおりに自分の席に向かう。
「あっ、おはよう紫苑くん!」
ぱっと顔を輝かせて、紬がやわらかく笑う。
――ああやっぱり、これを見られなくなるのは、嫌だな。
「おはよう、紬」
怪訝そうな反応をされなかったから、僕はいつもどおりに微笑み返せていたらしい。そのことにほっとする。
……可能性は、あくまで可能性でしかない。僕は紬のことが好きだけど、それは友達として。絶対にそうだ。そうだ、と思わなければ、だめだ。
この心地よい関係を、失いたくないから。
昔は普通に友達がいたし、今でも仲のいい奴はいる。それでも次第に誰かとの関係を作るのが面倒になって、わざと人と距離を取るようになっていった。
勝手に理想を押しつけてきて、少し違えば失望して。あるいは、僕のことを必要以上に持ち上げて、僕に取り入って周りからの評価を上げようとして。――もちろんそんな奴らばかりではないということもわかってはいたが、そんな奴らが一定数以上いたのも確か。
優しくするのをやめて、愛想笑いをやめたら、少しだけ面倒から解放された。
きつい物言いに変えてみたら、さらに楽になった。
僕だったら、僕みたいな奴と仲良くなりたいなんて思わない。
それを、紬は。
『……水城くんのこと、好きになりたくて!』
――あまりにもストレートで純粋な、『仲良くなりたい』という主張だった。
それでも若干の警戒心を解かずに話を聞けば、「今日一緒に帰りたい」なんてお願いをされて。
警戒することが馬鹿らしくなったし、興味が湧いた。率直に表せば、僕も紬と仲良くなってみたい、と思ってしまったのだ。
紬と一緒にいる時間は、心地よかった。久しぶりに自然に笑えて、自分でも内心かなり驚いた。
こんなことは絶対に口には出せないが、紬があのとき、僕のことを好きになりたいと言ってくれたことに感謝している。得がたい友達だとも思っている。
――そう、友達。
友達、のはずなのだ。
しかしどうにも最近、何かがおかしいと感じる。
『好いとーよ! とか』
この前だって、その言葉を聞いたときになぜか動揺してしまった。キモかったかと訊かれて思わず即座に肯定したが、本当は気持ち悪くなんてなかった。
むしろ――可愛い、なんていう、意味のわからない感想が出てきてしまったのだ。
確かに紬は、たとえるなら元気のいい子犬のような可愛さを持っているとは思う。だけどそれだけだ。
それなのにあんなに動揺してしまうなんて、絶対におかしい。
他にもおかしいと感じることはあった。
僕以外の友達と話してる紬が、僕といるとき以上に楽しそうだと面白くない気持ちになることとか。
……まあ、それはもしかしたら、久しぶりにできた友達に対する独占欲のようなものなのかもしれない。自分がそんな子どもっぽい嫉妬をしてるとは思いたくないけど。
あとは、紬の緩みきった笑顔に心がざわつくこととか。……あれを見ると、どうしてかすごく、優しくしたくなる。望むことをなんでもしてあげたくなる、と言っても言いすぎではないかもしれない。もっと笑ってほしくなるし、もっと一緒にいたくなる。
そんなだから、紬の好きなゲームを次までに買っておく、なんて言ってしまったのだ。普通ただの友達にそこまでしない、ということすら、紬を前にすると頭から抜けてしまっていた。
絶対に、何かがおかしかった。
「やーやー水城くん、こんなとこで会うなんて奇遇だな!」
登校途中で声をかけられて、思わず顔をしかめる。
振り返った先にいたのは、柏葉という紬の友達。別に嫌いではないが、距離感の近さが少し苦手だった。度々絡まれるのは、正直面倒くさい。けれど紬の友達だから、無碍にもできない相手だ。
「んなあからさまに嫌そうな顔すんなよー。ムギの前じゃ飼い慣らされた猫みたいな顔してるくせに」
「喧嘩売ってる?」
「……や、今のはちょっと、かなり失敗したわ。ムギとの距離感で話しちった、悪りぃ」
こうやって素直に謝ってくるところが、紬の友達だな、と感じる。根本的には善い人間なのだ。
しかしやはり、ムギという呼び名が少し気になる。僕よりも紬と仲がいい証のような呼び名。少し前までは何も思わなかったのに、今はなぜだか面白くない。ムギちゃん、なんて呼ぶこともあるらしいし。
……いや、思い返せば。最初からほんの少しだけ、こういう気持ちを感じていたかもしれない。
つまらない嫉妬を押し殺し、息を吐く。
「それで? 本題があるなら早く入ってほしいんだけど」
柏葉はいつも、適当な雑談ばかり持ちかけてくる。基本的には紬に関することが多いけど、とにかく重要じゃない、上っ面だけの会話だ。
今回も『本題』と呼べるようなことは何もないと思ったのに、柏葉は「んー……」と何かを考えるような声を出した。
「なんていうか、牽制? みたいな?」
「は?」
何のことかわからず、眉根を寄せる。
僕と柏葉の共通点は紬くらいしかない。つまり、その牽制とは……紬に関すること?
「オレ、ムギのことめちゃくちゃ好きなんだよねー」
「……それが何」
二人の仲の良さなんてとっくにわかっている。互いが互いを好きだろうことも、だ。わかりきったことを主張してどうするつもりなのか。
そんな疑問は、続いた言葉によって消し飛んだ。
「そういう意味で、な?」
にいっと笑ったその顔に、再び「は?」と声を漏らしてしまった。あまりにも不機嫌に染まった声に、自分でも驚く。
そういう意味で――それは恋愛的意味で、という話だろう。
そういうことに特段偏見は持っていないつもりだったが、柏葉が紬のことを好きだと聞いて、わずかに嫌悪感を抱いてしまった。
「……それを僕に言って、何がしたいわけ」
「べつにー? ただの牽制だってば。どうしてほしいもこうしてほしいもないワケ。まあ、ムギのこと好きにならないでくれたらありがたいけど?」
「なるわけないでしょ」
――本当に?
即答しておきながら、そんな疑念がよぎる。疑念がよぎること自体、意味がわからなかった。
紬は大事な友達だ。
だから、好きになるなんてありえないのだ。
けれど、そういう『可能性』があることに気づかされてしまった。
仮に僕が紬のことを好きだとしたら、ここ最近のすべてのことに説明がついてしまう。今感じた嫌悪感だって、それなら偏見ではなくただの対抗心ということになる。
まさかそんなはずはないけど、それでも、可能性としては考えられなくない話だ。……それどころか、客観的に見れば可能性として『高い』といえる。
考えたくもない可能性だった。
紬が今、僕にあんなふうに笑ってくれるのは、僕が彼にとって友達だからだ。もしも僕が友情以上の気持ちを持ってしまったら――紬は、笑ってくれなくなるんじゃないか。
好きになりたい、と言ってくれたそこに、恋愛的意味が入っているわけないんだから。
「――なーんちゃってなんちゃって」
混迷してきた思考が、柏葉のわざとらしいまでに明るい声によって遮られる。
柏葉はけらけらと笑い飛ばした。
「好きとか冗談だよ、ちょっと水城くんの反応見たかっただけ~」
「……はあ?」
「いやーいい反応見れた、満足。悪趣味でごめんな?」
「悪趣味にも程があるでしょ」
吐き捨てるように言葉を返してしまった。善い人間、という評価は撤回すべきかもしれない。
でもさぁ、と柏葉は何かを探るように見てくる。
「今の反応、自分でどう思うの?」
「……何が言いたいの」
「その返し、思い当たる節があるっつーことでおっけー?」
「何も。もう先行っていい?」
足を速めれば、柏葉は追ってこなかった。
本当に、悪趣味だ。
いったい何がしたかったのか――なんて、きっと紬のための行動だろうから、僕にそれを咎めることはできないけど。
それでも。
そんな可能性に気づかされたくは、なかった。
普段は紬の登校のほうが僕より遅いけど、今日はすでに教室にいた。教室の入口で、なんとなく小さく深呼吸をする。顔を合わせづらいけど、紬は僕の斜め後ろの席だから、挨拶しない、という選択肢はない。……それに、紬と話したい気持ちのほうが大きい。
平静を装って、いつもどおりに自分の席に向かう。
「あっ、おはよう紫苑くん!」
ぱっと顔を輝かせて、紬がやわらかく笑う。
――ああやっぱり、これを見られなくなるのは、嫌だな。
「おはよう、紬」
怪訝そうな反応をされなかったから、僕はいつもどおりに微笑み返せていたらしい。そのことにほっとする。
……可能性は、あくまで可能性でしかない。僕は紬のことが好きだけど、それは友達として。絶対にそうだ。そうだ、と思わなければ、だめだ。
この心地よい関係を、失いたくないから。