翌日の追試。
 クリア……できなかった……! 最後の最後、時間ギリギリにやったテストは、一問だけ間違えるという痛恨のミス。うぅ、今回も結局三日目でのクリアになるのかな。
 だめでした、としおしおになって報告した俺に、今日も自習室で待っていてくれた紫苑くんは「じゃあ今日も勉強しようか」とさらっと言った。

「そ、それは今日も勉強教えてくれるってこと!?」
「うん、特に予定もないし。最終的に一問しか間違えなかったなら、もう十分かもしれないけどね」

 さすがに迷惑すぎるんじゃ、と思ったけど、それを言うほうが迷惑なのはわかっている。
 紫苑くんをずっと待たせ続けたくはないから、なんとしてでも明日には追試をクリアしたい。一人で勉強するのと紫苑くんと勉強するの、ちゃんと身になるのは……絶対後者、だよな。
 一応、前回の追試のことを考えると問題暗記でいけなくもない。でもそもそも、前回と同じくらいのバリエーションかどうかも確定じゃなくて……。

「……今日もお願いします」
「ん、昨日と同じとこでいいよね」

 そう言って向かったファミレスは満員だった。並んでいる人も結構いて、しばらく待ちそうな雰囲気だ。
 勉強してても嫌な顔をされない店、この辺りで他にあるか……?

「このまま待つより、僕の家に行ったほうが早い気がするけど……どうする?」

 紫苑くんの家はここから一駅のところだ。俺とは反対方面の電車。
 この混み具合だと、確かに待つよりは早いだろう。だとしても……紫苑くんの、家……。

「……て、手土産とかいる?」

 ここは追試クリアへの本気を見せるべきところだろう。緊張するからという理由だけで、それなら帰って一人で勉強するよ、と断るのは違う気がした。

「気にしないでいいよ。そもそも急なことだし」

 紫苑くんは手早くスマホを操作した。たぶん家族にでも連絡したんだろう。
 ファミレスを出て、紫苑くんの隣をぎくしゃくと歩く。友達の家にお邪魔するだけでここまで緊張するのってなかなかない。

「母親いるけど、勉強するからそっとしておいてって言ってあるから絡んでこないと思う」
「お、お母様が……!」
「父親も途中で帰ってくると思うけど、気にしないで。姉さんはバイトだから今日は遭遇しないはず」
「了解です……」
「……そんな緊張するもの?」

 理解できない、という顔をされた。俺だって実際、この緊張の理由がいまいちわからない。

「なんか、紫苑くんの家だって思うと、自然と……」
「……紬って本当に僕のこと友達だって思ってる?」
「思ってるよ!! でも、ほら、紫苑くんってかっこいいし全然俺と雰囲気違うから。そういうのが似合う家なんだろうなって思うと……緊張する、のかな?」
「僕に訊かれても。紬の家とそう変わらないと思うよ」

 電車に少しだけ揺られて着いた家は、大きめではあるけど一般家庭の域を出ない一軒家だった。
 鍵を開けて「ただいま」と入る紫苑くんに続く。お邪魔します、とおそるおそる入った玄関には、額縁に入った絵が飾られていた。なんかよくわからない、抽象的で、でも綺麗な絵。
 あっ、花まで飾られてる……やっぱ俺の家とは違うんじゃないかな!?

「おかえり、紫苑ちゃん。お友達もいらっしゃい。うちの子と仲良くしてくれてありがとね」
「い、いえ、こちらこそ仲良くしてもらってて……!」
「母さん、そういうのいいから」

 出迎えてくれたお母さんはにこにこと微笑んでいて、なんとも朗らかな雰囲気があった。

「ごはんもうできてるけど、部屋で食べる?」
「うん、ありがとう」
「じゃあお盆載っけちゃうから、手を洗ったら二人で持っていってね」

 洗面所に案内されて、手を洗ってからキッチンに向かう。どこもかしこも、なんというかナチュラルなおしゃれさがあるデザインだった。しかも余計なものが出しっぱなしにされてなくて、綺麗に片付いている。
 紬くんはこっちね、と待たされたトレイには、山盛りの白米、山盛りのサラダ、具沢山のポトフ、大きめのハンバーグが三つ、青梗菜とにんじんの胡麻和えみたいなやつがたっぷり。
 ちらっと紫苑くんのトレイも見ると、同じラインナップだった。……そういえば紫苑くんって、いっぱい食べる人だった。

「ごはんとポトフはおかわりしても大丈夫だからね」
「……あ、あの。俺、もっと少なくて大丈夫です」
「あら、遠慮しなくていいのよ。どうぞいっぱい召し上がって」
「ええっと、俺は運動とかも特にやってなくて……いや紫苑くんもそうですけど、紫苑くんはその中でもちょっと、いっぱい食べる人だと思います」
「紬が少食なだけだと思うけど」
「えっ、そうなのかな!?」
「お弁当箱とかもちっちゃいし」
「俺は紫苑くんの弁当箱デカいなって思ってたよ……」

 俺たちのやりとりを見て、お母さんがくすくすと笑う。

「まあまあ、そのまま持っていっちゃって。お腹いっぱいになったら、紫苑ちゃんにあげればいいわよ。この子足りないと思うし」
「食べ残しを紫苑くんに……!?」
「人の食べかけでも別に気にしないよ。ほら、行こ。勉強するんでしょ」

 流されるまま、二階の紫苑くんの部屋へ。ローテーブルにトレイを並べる。紫苑くんが置いてくれた座布団に座って、こっそりと視線だけで部屋を見回す。
 ……めちゃくちゃ綺麗な部屋だ。というかものが少ない。勉強机と椅子、ベッド、小さな本棚、ローテーブルくらい。あとはたぶん、クローゼットにきっちり収納されているんだろう。

 食べ終わらなければ勉強するスペースがないので、先に夕飯を済ませてしまうことにする。
 どれもものすごく美味しいが、やっぱり量が多い。
 ……こんなに食べさせてもらってお返しなしってだめだよな。食事代として現金をお渡しするのは失礼かもしれないし、今度お礼の品買って紫苑くんに持って帰ってもらおう。

「……ごめん、もうお腹いっぱい」

 三分の二くらい食べたところでギブアップすると、紫苑くんは「やっぱり少食だと思うよ」と言いながらぺろりと食べ切ってくれた。
 王子様みたいな見た目とのギャップがすごい。食べ方自体は上品だから、そこだけ切り取れば普通に王子様みたいなんだけど……。
 食べ終わった食器を持って、キッチンに片づけにいく。

「ごちそうさまでした、おいしかったです!」
「ふふ、お粗末さまでした。紫苑ちゃんももういいの? おかわりは?」
「勉強するの遅くなっちゃうから、今はいい。あとでお腹空いたら、ポトフの残り食べてもいい?」
「もちろん」

 ほ、ほんとによく食べるなぁ……。
 部屋に戻って、勉強道具を広げる。お腹もいっぱいになって、緊張は十分ほぐれた。

「……紫苑ちゃん」

 我慢しきれずついつぶやいた俺を、紫苑くんは「なに?」とじろりと見てきた。

「家族全員からそう呼ばれてたりする?」
「父さんからは普通に呼び捨てだけど」

 つまりお姉さんには紫苑ちゃんと呼ばれていると……。
 か、可愛いな。微笑ましいっていうか、ほっこりする。

「紬ちゃんって呼ばれたくなかったら、その顔やめて」
「……ふ、ふふ、紫苑くんに呼ばれるならありかも。そもそも康平もふざけてムギちゃんとか呼んでくることあるし、そんな抵抗ないよ」
「……へえ。まあ、無駄話はこの辺りにして、勉強に集中」
「はーい! 頑張ります」

 時計の針の音とシャーペンを動かす音しか聞こえない部屋は静かで、紫苑くんと二人きりだ、ということをはっきりと感じた。……うん、落ち着く。
 まだ理解しきれていない部分を紫苑くんに解説してもらいながら、一通りの勉強を終わらせた。

「あー、疲れた……。付き合ってくれてありがと、紫苑くん……」

 ぐーっと伸びをする。肩がぽきっと鳴った。

「どういたしまして。お疲れさま、ハーブティーでも淹れようか?」
「ハーブティー!? そ、そんなおしゃれなの飲んだことないんだけど」
「普通の飲みものだよ。夜だし、カフェイン入ってないほうがいいでしょ。麦茶もあるけど、そっちがいい?」
「……せっかくならハーブティー試してみたい」

 了解、と微笑んで、紫苑くんは部屋を出ていった。残された俺は無駄に姿勢よく紫苑くんを待った。
 ……入った瞬間からなんとなく思ってたけど、この部屋……なんかいい匂いする。男の部屋って普通こんな匂いしないだろって匂いする。今まで入ったことある友達の部屋と全然違う。
 本人もいない空間でこの匂いをあまり嗅いではいけない気がして、俺は呼吸を控えめにした。

「お待たせ。なんでまた緊張してるの?」
「緊張してるわけじゃないよ……ええっと、ハーブティーありがとう」

 温かいカップを受け取って、息を吹きかけて冷ます。「いただきます」とそっと口に含んでみると、意外にも甘い風味がして美味しかった。

「おお……。ハーブティーって苦いイメージだったけど、結構甘いんだね」
「キャラメル風味のやつ。紬はこういうののほうが好きそうだと思って」
「……俺の好みに合わせてくれたんだ」
「姉さんが買ってきたやつなんだけど、僕も初めて飲む。……うん、結構美味しいね」

 そ、そんなわざわざお姉さんのハーブティーを……。
 というか、これまでにも家族の話結構聞いてたからわかってたことだけど、仲良いなぁ。お姉さんがいる友達、だいたい下僕みたいな扱い受けてたんだけど……それもそれで特殊なのかな。

「こんな夜まで友達が家にいるの初めてだから、なんか変な感じ」
「わくわくするってこと?」
「ふ、わくわくはしないけど」

 小さく笑って否定する紫苑くん。

「勉強とかじゃなくても、また来なよ」
「いいの?」
「よくなきゃ誘わない」
「……じゃあ、また来る。でも俺、友達んちで遊ぶってゲームくらいしかしたことなくて、他だとどう過ごせばいいのかよくわかんないんだけど……!」
「ゲーム、どういうのが好きなの。次までに買っておくよ」
「えっ!?」

 俺のデカい声に、紫苑くんは肩を揺らした。そしてちょっと眉根を寄せる。

「なに、そんなびっくりすること?」
「び、びっくりもするよ……。いいよ、そこまでしなくて。ゲームしなくたって、紫苑くんといるの楽しいし」

 この部屋にはゲーム機もないし、そこから揃えるとなるとかなり負担が大きいだろう。紫苑くん自身がゲーム好きならともかく、俺と遊ぶためという理由で買わせるのは申し訳なかった。
 俺の言葉に、紫苑くんは黙り込んだ。そしてしばらくして、ぽつりと言う。

「……確かに普通、そこまでしないね。びっくりするのも当たり前だ」
「う、うん、だよね」
「これは単純に、友達できるのが久しぶりすぎて、普通の感覚忘れてただけだから。変なこと言ってごめん」

 ん、んんん……?
 言われたことの意味を、よく咀嚼する。つまり、たぶん――久しぶりの友達に浮かれてたってこと、だと思う。俺の意訳が正しければ。

「……へへ」
「……その顔、ちょっと腹立つ」
「へへへ、ごめん」

 にやけながら謝ると、紫苑くんは照れたようにため息をついた。
 可愛いな、と思うと心が浮つく。紫苑くんが自分の調子を狂わされてしまうほど、俺のことを好きになってくれたのだと思うと、ものすごく嬉しい。
 ……でもその『好き』はあくまで友達で。
 俺の『好き』も今はまだ友達だけど、これから先どうなるかはわからなくて……どうしたいのかも、わからない。

 ――脳内に復活してしまった悩みを、そっと振り払う。
 まずは、明日の追試に向き合わなきゃ。