いくら緊張しても、挙動不審になっても、紫苑くんとはあれからも毎日一緒に帰っている。自覚したかとは訊かれないし、急かされもしないが、会話にしれっと告白じみた言葉を交ぜてくるので心臓に悪かった。
 もうすぐ夏休みだというのが、救いになるのかならないのか。……どちらにしても、きっと早く結論づけたほうがいいことだ。

「あ、そうだ。紬、本屋行かない?」

 紫苑くんがそう言い出したのは、駅近くまで来てからだった。

「君が好きだった絵本、教えてよ」
「……い、いいけど、特にこれが好きっていうのはなかったから、何冊か選ぶことになるよ。色々好きだったから」

 紫苑くんといるときの気持ちを語った、あの恥ずかしい記憶を思い出してちょっとどもってしまう。
 そんな俺の内心なんてお見通しなのだろう、紫苑くんは「それでいいんだよ」と笑った。

 紫苑くんと連れ立って、駅ビルの本屋に入る。
 カラフルな絵本コーナーは、場違い感がすごかった。絶対男子高生が二人で来るような場所じゃない。……でも、紫苑くんはなんか似合うんだよな。
 紫苑くんに似合わない場所なんてあるんだろうか、なんて馬鹿なことを考えながら、好きだった絵本を探す。いっぱいねこが登場するシリーズとか、仲間外れにされてるクレヨンの話とか、怪獣たちの王様になる話とか。

 あんまり紫苑くんを待たせたくなかったので、印象に強く残っている絵本を手早く選んでいった。とはいっても、絵本コーナーの全体をざっと見て回ったので十五分くらいはかかってしまったけど。その間も紫苑くんは楽しそうだったのでよしとする。

「こんな感じかな……適当に十冊選んじゃったけど、読んだことあるやつある?」
「たぶん全部読んだことある。でももうあんまり記憶にないから、全部買ってくるよ」
「えっ全部買うの!?」

 思わず大声を出してしまって、慌てて口を閉じる。本屋は図書館とかに比べれば音があるけど、それでも静かな場所だ。

 絵本というものは、意外でもないかもしれないが一冊の値段が結構高い。十冊も買えば余裕で万に到達してしまうので、一気に散財させてしまうことになる。あと、十冊一気に持ち帰るのってかさばるし重くない? 大丈夫かな……。
 せめて五冊くらいに厳選しとけばよかった、と後悔しているうちに、紫苑くんは遠慮なく俺の手から十冊を取っていく。

「紬が僕といるときにどんな気持ちになるのか、知りたいんだ」

 さらりと放たれた言葉は、その何気なさに見合わない威力を持っていた。つまるところ、心臓が変な音を立てた。
 ……いや、だって、こういうの、ずるいじゃん。ずるいじゃんね!?

「まあ、想像はつくんだけど」

 絵本を持ちやすいように抱え直しながら、紫苑くんが俺を見る。


「僕が紬といるときの気持ちも、たぶん君とほとんど同じだから」


 ――『そんな恥ずかしいこと』と言っていた紫苑くんが。
 いつもみたいにまっすぐな瞳で、とても愛おしそうに微笑んで、君と同じだと言ってくれて。
 今まで感じたことのないような、感じたことがあったような、それすらもはっきりしない何かが、じわりじわりと胸に広がっていく。


 ――好きだな。

 ふっと、そう思ってしまった。それは確実に、今までの好きとは違う好きだった。
 思ってしまったことにも、理解できてしまったことにも驚いて、目を見開く。「紬?」と不思議そうに首を傾げる紫苑くんに、返事ができなかった。
 それくらい驚いて……でも同時に、納得もした。欠けていたピースがすっかりと埋まったような、そんな満足感にも似た納得。

 ああ、そっか。
 俺はたぶん、大分前から紫苑くんのことを好きになりかけていて――それで今、ちゃんと恋に落ちたんだ。
 好きだって思ったら、恋。全然俺には合わない考え方だと思ったけど、そうでもなかったらしい。

「し、おんくん」

 最初に呼んだときみたいな、ぎこちない呼び声。「何?」と訊いてくれる紫苑くんに、今すぐにでも気持ちを伝えたくなった。
 しかしここは、本屋という公衆の面前。こんなところで告白でもしようものなら確実に目立ってしまうだろう。

「……それ、貸して。俺が買ってくる」
「いや、自分で買うよ。君に買われたら格好つかないでしょ」
「紫苑くんはいつでもかっこいいから大丈夫、貸して」
「は、え、あっ、ちょっと」

 動揺した紫苑くんから絵本を奪い返して、足早にレジへ向か――おうとして、立ち止まる。

「…………ごめん、十冊も買えるほどお金持ってなかった」

 冷静でいたつもりだったけど、全然冷静じゃなかった。
 ぷっと吹き出した紫苑くんが、笑いをこらえながら「とにかく急ぎたいんだね?」と言って手早く会計をしてきてくれた。うっ、恥ずかしい……格好つかないのは俺だ……。

「それで、そんなに急いで何がしたかったの」
「……えっと、ちょっと来て」

 はやる気持ちを抑えて、紫苑くんの腕を取ってぐいぐい引っ張っていく。もしかしたら抑えられていないかもしれない。
 紫苑くんは戸惑いつつも、大人しくされるがままになってくれた。

 駅ビルを出て、ひたすら人の少ない場所を探し歩く。誰も、誰もいないところへ。
 普段歩かないような小道を通って、やっと立ち止まったのは小さな公園。

「紫苑くん」

 くるりと振り返って、手を離す。
 雰囲気作りも何もなく、ただ、それを伝えたいから口にする。

「好き」

「…………っはぁ!?」

 ぎょっとした紫苑くんの顔が、みるみる赤くなっていく。
 わ、首まで真っ赤。耳しか赤くならないタイプかと思っていたのだが、場合によるらしい。

「さっきわかったんだ。俺、紫苑くんのことすごい好きだった!」
「まって、ちょっとまって、ごめん」
「好きだよ」
「待ってってば!」

 聞こえていないふりをしてなおも続けたら、焦り混じりの強い口調で止められてしまった。こんなふうに言われてしまったら、言い足りなくても待つしかない。
 紫苑くんは赤くなった顔を隠すように、口元に手を当てた。少し視線を揺らしてから、また俺と目を合わせる。

「……念のため訊くけど、それは友達とは違う『好き』ってことでいいんだよね?」
「友達としてもすごい好きだけど、違う意味でもすごい好き」
「……そ」

 随分恥ずかしいことを言っている自覚はあったが、ここまで照れている相手を前にすると羞恥心は消えてしまう。
 ……紫苑くんがこんなにわかりやすく照れること、もうこの先ないかもしれない。しっかり目に焼きつけておこう、と見つめると、睨むような視線を返された。たぶん照れ隠しだ。

「せいぜい頑張ってとは言ったけど、自覚早すぎでしょ。こっちは年単位も覚悟してたんだけど。なんなの?」
「……だめだった?」
「だめとは言ってない」
「だよね!」

 元気にうなずけば、はああ、と深いため息。これも照れ隠し。……いや、呆れてるんだろうか。これまで照れ隠しだって思うのは調子乗りすぎ?

「ほんっと紬って……そういうところあるよね」
「え、どういうとこ?」
「そういうところはそういうところ」

 表情はやわらかいから、悪い意味ではないのだろう。ならいいか、とそれ以上は訊かないことにしておく。
 少しの沈黙の後、紫苑くんは改めて俺と向き直った。顔はまだ若干赤いが、それでもほとんどいつもどおり。ただし、耳だけは普通に赤いのが可愛い。

「……僕と恋人になるってことでいいの」
「うん、紫苑くんが嫌じゃなければ」
「嫌なわけないでしょ。僕も紬が好きなんだから」
「…………うん」
「言われるのはやっぱり照れるんだね」

 紫苑くんの照れ様を見て楽しんでいたことはバレていたらしい。軽く仕返しを受けて、ふっと笑われてしまった。

「紫苑くんだってさっきまで顔真っ赤だったくせに……!」
「さあ、何のこと?」
「可愛かったよ」
「……可愛いのは君のほうでしょ」
「えっ!? そこでそう返すのはずるくない!?」
「何が」

 さっきみたいに照れてくれることは本当にもうないのかもしれない。よかった、ちゃんと見ておいて……。
 ほっとする俺を、「何か変なこと考えてない?」と紫苑くんはじと目で見てくる。察しが良すぎる。

「べ、別に何も! ただ、えーっと、このまま帰るのはちょっと寂しいなって」
「それならうち来る? 何もしないって約束するから」
「そういうことじゃな……っ何もって何!?」

 さあ、と笑顔で首を傾げる紫苑くん。
 何もってマジで何。……そういう話? 俺が何かされる側なの?
 え、いやそもそも紫苑くんとそういうことするとか想像まったくできないんだけど……? でもするとしたら確かに俺がされる側のほうがいいのか? どうするのかわかんないけど、される側のほうが怖そうだし……紫苑くんにそんなことさせるわけにはいかない。

「まあ、そういうことは追々考えればいいとして」
「あ、はい……」
「とりあえずは、そうだな……どこか涼しくて落ち着ける場所で、一緒に絵本でも読もうか」

 俺のおかしな返事なんて気にもせず、紫苑くんはそう言って手に持った袋を示した。

「うわっ、ごめん、暑いし重いよな!? も、持つよ!」
「持たせないから。手が空いてるなら、僕のこっちの手でも握ってなよ」

 するりと手を繋がれて、心臓が飛び出るかと思った。
 ――そういえば前、紫苑くんと手を繋いで歩く夢を見たんだった。ふと思い出す。俺の体調が悪くて、紫苑くんが手で熱を確認してくれた日。
 あの日触られて感じたのは、ただの驚きだった。ときめきなんて一切存在しなかった。でも、今は、この心臓の暴れ様は……! ときめきでしかない!

 っていうか、こんなことしてクサくならない人が実在する!? いやクサいのはクサいのかもしれないけど普通にめっちゃ似合うっていうか、様になってるっていうか、とにかくおかしくはなくて、むしろかっこよくてビビってしまう。
 わかってたことだけど、俺ってすごい人と恋人になってしまったんじゃ……? こんなに綺麗でかっこよくておまけに可愛い人が俺のこと好きとか、まさか夢?

「百面相してないで、行くよ。いつもの喫茶店でいい? 絵本読むにはちょっと薄暗いかもしれないけど」
「ぜ、全然いいです……」
「うちでもいいよ?」
「喫茶店で!!」
「……ふふ、もう手を繋ぐには向かない季節だね」
「手汗やばい!? 離す!?」
「まだ。好き勝手言われるのは嫌だから人目のあるところでは離すけど、今は僕たちしかいないでしょ」

 歩き出した紫苑くんに、ぎゅっと手の力を強められた。……うおあ、死にそう。心臓ってなんで取り外しできないんだろう。せめて口から吐けたりしたら……いやグロいな……。
 どきどきしすぎて思考が変な方向に飛んでしまった。自分で思っている以上にパニックになっているのかもしれない。





 ――見た目だけなら、童話の中から飛び出してきた王子様と言われても不思議じゃない。小鳥と一緒に歌い出したってびっくりしない。

 俺がどうしてもと頼み込めば、きっとそんなことでも本当にやってくれるだろう。文句を言いながら、しぶしぶと。
 真っ直ぐな言葉に弱くて、わかりにくいけど優しくて、自分の芯をしっかりと持っているひと。


「紬」

 俺を呼ぶ声はあたたかくて、やわらかい。

「好きだよ」

 伝えてくれる言葉は基本的には素直じゃなくて、でもたまに、すごく素直だったりする。


 それが、水城紫苑という、俺の『好きになりたい人』――ではなく。

「……うん、俺も好き」


 俺の、『好きな人』だった。