――俺は紫苑くんに、嘘をついて近づいた。
好きになりたくて、という理由は厳密には嘘ではないが、正確な意味を伝えようとしていない時点で嘘だ。
紫苑くんと仲良くなった、と感じるたびに、息が苦しくなる。だって俺は、紫苑くんのことを騙しているんだから。
いっそすべてを話してしまえば、とも思ってしまったが、それで楽になるのは俺だけだ。紫苑くんを傷つける自己満足な選択。そんなものを選べるはずがなかった。
だから俺は、この嘘を一生隠し通さなければならない。
そしてもしも万が一、本当に紫苑くんに恋をしてしまった、そのときには。……気持ちがばれてしまう前に、そっと離れよう。嫌われるよりは、他人に戻ったほうが何倍もマシだ。
――隠し事が苦手なことなんてすっかり忘れて、俺はそう決意したのだった。
そんなこんなでエンドレス追試を無事クリアし、しばらくして。
「……あのー、紫苑、さん?」
「なに」
ひっくい声に、ひえっと小さい悲鳴が漏れてしまった。
「あ、その、えっと……なんか最近、嫌なことでもあった?」
最初はちょっと、なんか機嫌良くないな……? くらいだったのだ。それがなぜか日に日に悪化し、女子への対応もいつも以上に無愛想で(それでもちゃんと目を見て対応するのだから律儀だ)、俺と一緒にいても笑わなくなった。
数日様子見をしても一向に戻らなかったので、俺はついに尋ねてしまった。
いやマジで怖いんだよ。気を抜いたまま近づいたら凍っちゃうんじゃないかってくらい冷たいオーラ出てる。
紫苑くんは俺の問いに目を瞬いて、それからにっこりと、それはそれは美しい笑みを浮かべた。
「へえ、君がそれを言うんだ?」
「うえっ!?」
なに、なになに、俺そこまで紫苑くん怒らせるようなことした!? 不機嫌な理由に俺が関わってるとか思ってなかったんだけど!? だって変わらず毎日一緒に帰ってくれるし!!
焦りを募らせる俺に、紫苑くんは恐ろしいまでに優しい声で名前を呼ぶ。
「紬」
「ひゃい!」
ぴしっと背筋を伸ばして、何を言われるのだろうと震えながら待つ。
「目が合わない、よそよそしい、僕の名前を呼ぶ回数が減った、笑わなくなった――その全部に心当たりがないなんて、まさか言わないよね?」
「…………」
そのまさかです、と今この場で口にする勇気はなかった。だらだらと冷や汗が流れる。
嘘だろ、俺そんなことになってたの?
自分の行動を思い返してみても、自分じゃよくわからなかった。俺としては、ちゃんといつもどおり接しているつもりだったのだ。
しかし、絶対にいつもどおりだった、と自信満々に言うことはできない。嘘を隠さなければいけない、という気持ちが無意識に作用していたっておかしくなかった。というか、そういうことなのだろう。だからこそ紫苑くんは俺の異変に気づいたんだろうし。
俺の反応に、紫苑くんは顔をしかめたまま小さくため息をついた。
「……わざとじゃないのはわかった。でも、何かしら思うところはあるってことだよね。言いたいことあるなら、言ったら」
「えっ!? な、なんにも!」
「うそつき」
そんなふうになじられるとは思っていなくて、ひゅっと息を呑む。
うそつき。……嘘つき。それを言われるのは痛かった。俺は紫苑くんに対して、最初から嘘つきだったから。
否定もせずにうつむくと、紫苑くんがぽつりとつぶやく。
「……君も、嘘なんてつくんだ」
――傷つけた。
傷つけたくないから隠そうとしたのに、結局傷つけてしまった。
泣きたくなって、でも俺に泣く資格なんかないからぐっとこらえる。
顔を上げれば、紫苑くんと目が合った。……確かに、正面から目を合わせるのは久しぶりだ、と感じた。綺麗な琥珀色の瞳に、今は寂しげな影が落ちている。それでもなお綺麗だけど、一番綺麗なのは、やっぱり笑っているときなのだ。
「ごめん」
「……立ち話するようなことじゃなかったね。移動しよう」
俺の謝罪を受け取ってくれたのか、受け取ってくれなかったのか。それも窺わせない表情で、紫苑くんは歩き出した。
「この時間ならまだ親もいないんだけど、うち来る?」
「え、ええっ、と……」
「……なら別の場所にしよう。静かなところがいいよね」
紫苑くんの家で二人きりは気まずい、と思ってしまったのをすぐに察して、紫苑くんは提案を引っ込めた。
結局向かった先は、前にも来た喫茶店。幸運にも、というべきか、俺たち以外の客はいなかった。
コーヒーと紅茶を注文して、紫苑くんはそれが運ばれてくるまで一言も発さなかった。……何も言わなかったのは、俺も同じだけど。
こんなときでも紫苑くんは「いただきます」とつぶやいて、コーヒーカップを傾ける。
俺も一口だけ紅茶を飲んだ。この状況でどっさりと砂糖を入れる気にもなれなかったので、ストレートだ。ミルクも入れない。
「……砂糖、入れないの」
「い、今は、気分じゃないかな……」
「そ」
いまだかつてないほどのぎすぎすとした空気。紫苑くんといて居心地が悪いと感じるなんて、最初に話したとき以来だった。
紫苑くんが音も立てずにカップを置いたので、ついに話の続きが来るか、と姿勢を正す。
真剣な表情で、紫苑くんは単刀直入に切り出した。
「謝罪は求めてない。あんな態度取った、理由を聞かせて」
どこまでもまっすぐな視線だった。
紫苑くんは本当に、どんなときでも自分を保つことができるんだと思う。そのくらい強い芯があるのだ。そういうところが好きだと感じて――思考を打ち切る。
こんなときにまで好きなところ探しとか、何考えてんだ俺。癖になってるって言ったって、さすがに今はだめだろ。
そう自分を叱咤してから、俺はゆっくりと言葉を返し始める。
「……俺、紫苑くんに言ってないことがあって」
「……うん」
「でもそれを言って楽になるのは俺だけで、ただの自己満足で、紫苑くんを傷つけることになるから、だから……隠さなきゃって、思ってたんだけど」
訥々と告白しながら、目を逸らしたくなる。でも、こんなまっすぐ見てくれる人から目を逸らすなんて不誠実なことはできない。
琥珀色の瞳を見つめながら、わずかに震える声を吐き出す。
「……結局、そのせいで紫苑くんを傷つけちゃってごめん」
「謝罪は求めてないって言ったはずだけど。僕に言ってないことって、何」
「うっ、やっぱり言わなきゃだめ、だよなぁ」
間髪入れずに返された言葉に呻けば、紫苑くんは「当たり前でしょ」と鼻を鳴らした。
「そもそも君に隠し事なんて無理なんだから、さっさと話しておけばよかったのに」
「お、俺が隠し事苦手なことなんて紫苑くんは知らないじゃん……」
「語るに落ちてる……は、ちょっと違うか。聞いても聞いてなくても、どうせ口滑らせそうだもんね」
「う、うん……??」
とりあえず、いつもの調子を取り戻し始めてくれたってことでいいのか……? なんとなく纏う空気も和らいだ気がする。
それでもなおまっすぐな目で、紫苑くんは静かに言う。
「隠してること、全部吐きなよ」
「……そしたらもっと傷つけるかも」
「言ってみなきゃわからないでしょ。それに君、僕を傷つけることより、それで僕に嫌われることのほうが怖いんじゃないの。僕を気遣うふりはやめてよね」
「ちがっ……! そりゃあ、嫌われるのは怖いけど!」
思わず椅子を蹴って立ち上がりそうになって、すんでのところで止める。この静かな喫茶店を荒らす存在にはなりたくなかった。
座り直して、ぎゅうっと拳を握る。
「でも、ふりなんてしてない! 信じてもらえないかもしれないけど、俺は、ほんとに紫苑くんを傷つけたくなくて……」
「……ごめん、僕の言い方も悪かった」
はあ、と吐かれたため息に反射的にびくりとすれば、「今のは君に対してじゃないよ」とフォローされる。
そして紫苑くんは、どこか優しい表情で、しかし堂々と宣言した。
「紬に隠し事されてたくらいで、僕は傷つかないから。見くびらないでくれる?」
……本当にそうなのかどうかはともかくとして、そうなんだろうな、と信じさせる力がすごい。
ここまで言われれば、観念してすべて話すしかなかった。
――誰かに恋をしてみたかったこと。
自分から動かなきゃ駄目だとアドバイスを受けて、とりあえず一番顔が好きだと思った紫苑くんを好きになろうと、好きなところ探しから始めたこと。
好きになれなかったら一年でやめるつもりだったこと。
観察していることが初日でバレて、それからなぜかこんなふうに仲良くなれたこと。
傷つけたくなくて、嘘を絶対に隠し通そうと思ったこと。……結局失敗してしまったこと。
「……だから、最初に言った『好きになりたくて』っていうのは、そういう意味だったんだ。ずっと騙しててごめん」
返ってきたのは、「ふぅん」という軽い相槌だった。傷ついている様子は少なくとも俺からは見えなくて、こっそり胸をなで下ろす。
紫苑くんは、残ったコーヒーをゆっくりと飲んでいった。頭の中を整理しているんだろうな、と思ったので、余計なことを言わずに俺も紅茶を飲む。
……やっぱりストレートはきつい。砂糖入れちゃおう。どぼどぼと砂糖を入れる俺を見て、紫苑くんは目を細める。どことなく優しい顔だった。
数分後、紫苑くんはおもむろに口を開いた。
「それで? 僕のこと好きになれたわけ」
最初に飛び出してきた問いがそれだということに驚きつつも、うぅぅぅん、と悩む。
紫苑くんのことは好きだし、これがときめいてるってことなんだろうな、と思うことも結構ある。それでも俺には、まだ恋だとは思えない。
思いたくないだけなんじゃないか? と自分自身に問いかけてみても、でもやっぱり違うと思うよ、と返ってくる。あやふやで自信のない答えだから、いまいち信頼できないけど……。
「好きだなって思うところはいっぱい見つけたけど、やっぱ恋とかよくわかんないっていうか……大好きな友達、って感じだなぁ」
「……そ」
「でも、こうやって全部話したうえで紫苑くんのこと好きになるのはもう無理だし、他の人好きになれるように頑張ってみようかな。そのほうが紫苑くんも安心だよね?」
恋愛をするつもりのない相手からそういう好意を向けられる可能性がある、というのは、きっと負担だろう。
その負担を他の人にならかけてもいい、ということにはならないけど、今度はバレないようにできるんじゃないだろうか。観察はやめて、日常生活の中で、自然に好きになれるようにどうにか頑張って――
「は?」
「え?」
むっとした紫苑くんに、思いきり戸惑う。
え、だって、え? 今の「は?」は何に対して? よくわかんないんだけど……!? そうだねってうなずく一択なとこじゃなかった!?
「一年って期限はどうしたの」
「こうなっちゃったらもう期限とか関係なくない……? そもそも適当に自分で決めてた期限だし……」
「僕以上に好きな顔の奴はいるの?」
「いや、そりゃあいないけど……でも別にそこまで顔にこだわりもないっていうか……」
「どういう奴を好きになりたいか、もう決めてるわけ?」
「や、優しい人……とか……?」
矢継ぎ早な質問に、しどろもどろに返していく。
な、なんでこんなに不機嫌? 紫苑くん、俺に何を言わせたいんだろう。
「僕はすごい優しいと思うけど」
「まあ、うん……紫苑くんはめっちゃ優しい、けど」
「それなら僕を好きになればいいでしょ」
「――はい?」
ちょっと待て、話がすっとんきょうな方向に飛ばなかったか?
ぽかんとすれば、真剣な目と視線がぶつかる。
けれど徐々にその目は見開かれ――とんでもないことを言ってしまった、とばかりに、うろ、と視線が泳ぎ始める。非常に珍しいことだった。
「何でもない、忘れて」
「しお――」
「忘れろ。いいね?」
「…………うん」
忘れたくない、と。なぜか言いたくなって、口元を押さえる。
――なんで?
なんで、忘れたくないなんて思うんだ。
困惑で脳内がぐちゃぐちゃだった。忘れろと言われたからには忘れるしかないけど、でも、忘れるなんてできるか? 忘れたくないのに。なんで忘れたくない? ……なんでだろ。
俺は――『僕を好きになればいいでしょ』と言われて、たぶん、すごく嬉しかったのだ。
気持ち悪がられなかったことが、嫌われなかったことが嬉しかったんだろうか。……いや、たぶん違う。それだったらもっとなんというか、安心が大きい気がする。今は安心というには心臓がざわめきすぎているし、なんだかそわそわするし……。
これは、なんだ?
……なんなんだよ。
「……認めるしかないか」
ぼそっと聞こえた声に、意識が引き戻される。
「み、認めるって何を……?」
「別に。僕ってちょっとだけ変わった趣味してるなって思っただけ。……いや、いい趣味か」
そう言いながら、紫苑くんは頬を緩めた。まるでふわりと花が咲いたような、そんな笑みだった。
不意打ちの笑顔に、鼓動が速まる。
「そ、そうなんだ……?」
……なんにもわからない、けど。
傷つけることも、嫌われることもなかったんだから、もうそれでよしにしよう。
「そうなんだよ」と適当な感じでうなずいた紫苑くんは、俺のためになぜかスフレチーズケーキを追加注文してくれた。それでこの話は終わり、ということなのだろう。
思っていた以上にあっさりと終わってしまったことに、余計困惑が深まる。
もっと何かないんだろうか。……ないんだろうな。あったら遠慮なく言ってくれるだろうから。
でも結局、俺はどうしたらいいんだろう。忘れろって言われたから、つまりは俺のしたいようにしていいってこと……? それなら、やっぱり好きなところ探しはもうやめて、純粋な友達として仲良くしていればいいんだろうか。
それを紫苑くんが許してくれるなら、だけど。
そんなことを思いながらちらりと紫苑くんを見れば、「何?」と首を傾げられる。
「……ううん、なんでもない」
その表情はすごく柔らかくて、許された、と感じた。
……なら、うん。
俺は、紫苑くんとこれからもずっと友達でいよう。
スフレチーズケーキはしっとりかつふわふわで美味しかったけど、食べてる間中じっと観察するかのような視線を向けられていて、めちゃくちゃ緊張した。
「今日、僕の家に来ない?」
いつもどおり一緒に帰っている道中、紫苑くんがそんな誘いをしてきた。
……好きになりたかった、と打ち明けた相手にそんな誘い、不用心じゃないか?
なんて思ったら、自然と『それなら僕を好きになればいいでしょ』という言葉も思い出してしまって、慌てて振り払う。忘れるって約束したんだから……!
「い、いいよ」
返事をする声は上擦ってしまったけど、紫苑くんは気にする様子もなく「よかった」と微笑んだ。
――あのやりとりから、数日。紫苑くんは明らかに表情がやわらかくなった。笑ってくれることも、微笑んでくれることも増えて、言動もさらに優しくなった。昼飯にも毎日誘ってくれるようになった。
昼飯を食べる場所はクラスじゃなくて空き教室だから、それほど人目を気にしなくていいのは助かる。……授業や部活以外では基本使えないはずなので、どうやって許可を取ったのかは気になるところだった。
避けられたりすることは予想してたんだけど、この方向性は完全に予想外だ。
いったいあの日、紫苑くんの中でどんな心情の変化があったのか。訊けば案外教えてくれるのかもしれないけど、訊く勇気が出せなかった。
「紬、苦手なフルーツある?」
「特にない、けど……? え、もしかして、果物使うお菓子とか作ってくれるつもり?」
「さあ、どうでしょう」
これ絶対そういうことだよな。いきなりなんで!?
混乱しながらも、いつもどおりを心がけて紫苑くんと話し、紫苑くんの家に到着する。今日は誰も家にいないみたいで、鍵を開けた紫苑くんはただいまも言わずに家に入った。
「用意するから、紬は座って待ってて。……いや、もし見たかったら、近くにいてもいいよ」
手を洗った後そんなことを言われたので、それならと紫苑くんの近くにいることにした。お菓子作りという俺の予想が合ってるなら、近くで見てみたい。
紫苑くんはまず、りんごとキウイとバナナを切った。りんごはわざわざ兎型だ。
そしてさくらんぼの缶詰とパイナップルの缶詰を開ける。……めっちゃフルーツ使うお菓子? 何だろう。
そして紫苑くんは冷蔵庫から――大きめのお皿に乗った、プリンを取り出した。
「プリン!? それ紫苑くんが作ったやつ!?」
「うん。家でなら、冷蔵とか気にせず食べられるでしょ。で、せっかく家なら、プリンアラモードにしてみようと思って」
俺が前にリクエストしたお菓子。……覚えてて、作ってくれたんだ。
嬉しさが、ぶわっと胸の中に広がる。前にもらったチョコマフィンだってもちろんめちゃくちゃ嬉しかったけど、この嬉しさは段違いだった。
アイス屋さんで見るような道具で大きなバニラアイスをまあるく取って、紫苑くんはそれをプリンの隣に置く。そして丁寧に手早く、センス良くフルーツを添えていき、最後にホイップクリームを絞るやつを手に持った。
「……クリーム絞ってみる?」
俺がそわそわしているようにでも見えたのか、紫苑くんはクリームを差し出した。
「確かにこういうのやったことないから気になるけど……! 俺がやると、紫苑くんのプリンアラモード台無しにしちゃうと思う」
「味は変わらないよ。僕だけで作ったのが食べたいなら、僕が絞るけど」
「……紫苑くんだけで作ったやつが食べたい、かも」
「かも?」
「食べたい! です!」
せっかくこんなサプライズを用意してくれたのだから、俺の手が少しでも入ってしまうのは無粋っていうか……。
紫苑くんは「そう」とどことなく嬉しそうにうなずいて、丁寧にクリームを絞った。すべての作業が丁寧で、そんなふうに作ってもらえたものを食べられるんだと思うと、どこかくすぐったい気持ちになる。
――そうして完成したプリンアラモードは、ものすっごくわくわくする見た目だった。こんな感じなんだプリンアラモード……!
今日はリビングで食べようと言われたので、紫苑くんが淹れてくれた紅茶のカップと一緒に、テーブルに皿を運ぶ。
椅子に座って、俺はプリンアラモードを見下ろした。輝いて見える。う、美味そー……。
けど、少しだけ気にかかることがあった。
「……フルーツ、かなり余りあるよね? こんな贅沢な使わせ方しちゃって大丈夫だった?」
「キウイと缶詰のは夜家族で食べ切れるし、変色しちゃうやつは今僕が食べるから大丈夫」
向かいに座った紫苑くんの前には、確かにりんごとバナナが適当に添えられたプリンがある。あと紅茶も。
……プリンって作り方知らないからよくわかんないけど、クッキーを一枚だけで焼くことがないみたいに、プリンも一個だけじゃ作らないのかな。
「もし金銭面の心配してるなら、特に欲しいものもなくてお小遣い有り余ってるから平気」
紫苑くんの部屋を思い出して、確かに、と思う。あんな必要最低限のものしかない部屋(本棚すら、教科書と参考書、あとは話題になった小説が数冊ある程度だった)、物欲がない人の部屋だ。
納得する俺に、紫苑くんはぼそっと「……自分のお金じゃない時点で偉そうな顔できないけど」とばつが悪そうに言う。
「でも無駄遣いじゃないなら、親も気にしないんじゃない?」
「…………無駄遣いしてもうちの親なら気にしない。むしろ喜ぶと思う」
「あははっ、愛されてるんだ、紫苑ちゃん」
「そうだね」
出来心でからかってみたら、紫苑くんは平然と肯定した。呼び名に対してもツッコミなし。……逆にこっちがめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。
黙ってしまった俺に、紫苑くんはくすりと笑って、自分のりんごにフォークを刺した。
「アイス溶ける前に早く食べなよ、紬ちゃん」
「……いただきます」
「うん、どうぞ」
自分でもいただきますと言ってから、りんごに小さくかじりつく紫苑くん。
それを視界の端に映しつつ、俺はまずプリンをすくい取った。アイスは早めに食べなきゃいけないけど、最初はやっぱりメインからだろう。
ぱくんと一口。しっかりと固いプリンで、卵の風味が感じられるナチュラルな甘さだった。カラメルソースがちょっとほろ苦くて、その甘さとすごく合う。
「うま……!」
「よかった。プリン、姉さんが好きじゃないから最近まで作ったことなかったんだけど、練習した甲斐あったよ」
「わ、わざわざ練習してくれたの……!?」
「美味しくないもの食べさせるわけにはいかないでしょ」
「……ありがとう」
嬉しくて、ふわふわとだらしなく笑ってしまった。紫苑くんはそんな俺をじっと見つめて、それから「どういたしまして」と少し照れた様子で口角を上げた。……耳の先が赤くてかわいい。
プリン単体だけじゃなくて、他のものともいろいろ組み合わせて食べ進める。どれもそれぞれ違った味わいで、夢中で食べきってしまった。
「美味かったぁ……。ほんとにありがとう、紫苑くん」
「うん。またいつでも食べにきなよ。プリンだけじゃなくて、そうだな……今度は焼き立てのフォンダンショコラとか。どう?」
「うわっ、なにそれ最高……いやでも、さすがにそんなに何回もごちそうになるわけにはいかないよ!」
反射的にお願いしかけて、いやいやと首を振る。たとえば誕生日とかならまだしも、なんでもないときにこんなの、いくら嬉しくたって申し訳なさが勝つ。
だけど紫苑くんは、不満そうに反論してきた。
「僕がやりたくて提案してることなのに? ものすごくやりたいのに?」
「そ、んな、やりたいの?」
「やりたい」
きっぱりとした即答に、うぅ、と呻いてしまう。
……なんで、って。訊いてもいいだろうか。そう迷うくらいなら訊いてしまえばいいのに、これもまた、なぜか勇気が出せなかった。
紬、と甘えるように名前を呼ばれる。
「だめ?」
「だめじゃない!」
――だめだって言ったら、きっとしょんぼりするんだろうな。
そう思うような訊き方で、気づいたら俺は全力で否定していた。だって、紫苑くんにそんな顔させたくない。
「ん、よかった。じゃあ、また来て。家で食べなくてよさそうなお菓子は、学校であげるよ」
「なあ、もしかして餌付けしようとしてたりする?」
「餌付けだとは思ってないけど……でも、君が僕の作ったものを美味しそうに食べてくれるのは、見てていい気分だよ」
「あー……確かにそういうのならわからなくもない、な。俺も紫苑くんが、俺の前で嬉しそうにしてくれるといい気分になるし」
「……そ」
随分と素直に喋るようになったのに、照れを素直に出す気はないらしい。わかりやすいから問題はない、どころか可愛くて微笑ましいんだけど。
ついふふっと笑うと、紫苑くんは一瞬じろりと睨んできたが、すぐに相好を崩した。
「――プリン、もうちょっと甘いほうがいいとかある?」
「へ? いや、めちゃくちゃ美味かったよ?」
唐突、とまではいかないけれど、少し急な話題転換に目を瞬く。
「完璧に君好み?」
「完璧かって訊かれると自信はないけど……。俺の舌、結構大雑把だから」
「じゃあ、今後勝手に試行錯誤するよ。紬が飽きない程度に……年に二、三回くらい?」
年に二、三回。
そんなふうに言うってことは、今後もしばらくは継続的に付き合いを続けてくれるつもり、なんだろうか。それとも今年だけの話?
「……来年、クラス離れちゃっても、俺と遊んでくれるの?」
なんとなく、紫苑くんとの縁は今年きりだと思っていた。そう思っていたことに、今気づいた。
『これからもずっと友達でいよう』と決めたことは事実だけど、やっぱり俺はまだ、嘘をついて近づいた負い目を捨てきれていないらしい。
「クラス離れるくらいで、僕が紬との付き合いをやめるって? 本気で言ってる? まあ、受験生になるし、遊んでばっかりはいられないけど」
「……大学離れても?」
「逆に君は、僕との付き合いを今年っきりにしたいわけ?」
そう言って、紫苑くんは頬杖をつく。なじるような声とは裏腹に、その表情は優しい。そんなわけない、と確信している顔だった。
ここで俺の考えていることを打ち明けたりしたら、無駄な罪悪感なんかさっさと捨てなよ、とでも言われるに違いない。
罪悪感を脇に置いて。
ただ、俺の気持ちだけを答えていいなら――
「……俺も、これからも仲良くできたら嬉しいよ」
「うん、僕も」
にこりと笑みを浮かべる紫苑くんに、俺もにへっと笑い返す。
……改まってこんなこと言うと、ちょっと照れるな。照れ隠しに、紅茶のカップを口に運ぶ。うわ、もう飲みきったんだった。
それでも空の紅茶を飲んだふりをすると、紫苑くんはお見通しのようにおかしそうに笑った。
「そ、そういえば今日、家に誘ってくれたの急だったけど、もし俺に予定あったらプリンはどうなってた?」
話題を変えると、ゆるりと目を細めて乗ってくれる。
「自分で全部食べるつもりだったよ」
「全部って……もしかしてまだ冷蔵庫にあったりする?」
「あと一個だけね。まあ、明日くらいまでは日持ちするし」
「ならよかった……? でも次から、作る前に誘ってくれると嬉しいな。俺のために作ってくれたもの、食べ逃したくないから」
「……ん。わかった」
どことなく気まずげに視線を逸らす紫苑くん。
その様子に俺が首をかしげると、ぼそりと説明してくれる。
「……今回は、美味しいプリン作ることだけ考えてて、誘うの忘れてた」
つまり、ついうっかり、ということらしい。
――きゅう、と。心臓がやわらかく締めつけられるような感覚があった。……紫苑くんって、かっこいいのに可愛いからずるい。
紫苑くんは宣言どおり、週に一、二度は手作りのお菓子を作ってきてくれるようになった。
今日も昼休み、弁当を食べるため一緒に空き教室に行くと、紫苑くんはさっそくお菓子を披露してくれる。
「今日はドーナツ作ってきた」
「おおお……!」
丸いドーナツは、一部がおしゃれにホワイトチョコでコーティングされてる。今日のも美味そう……!
――マドレーヌ、パウンドケーキ、マカロン、などなど。紫苑くんが作ってくれるお菓子は多岐に渡った。本人はほぼ食べずに俺が食べるのを眺めているので、なんだかやっぱり餌付けされている気分だ。
俺なんかが独り占めしちゃっていいんだろうか、と思いつつも、おそらく俺用に甘めに作られているそれらを、いつもぺろりと食べてしまう。
「ごちそうさま! 今日も美味かった、ありがとう」
「どういたしまして」
「……ところでテスト近いけど、こんなにお菓子作りして平気?」
「気分転換だよ」
「なるほど……?」
紫苑くんはなんだか楽しげだった。
紫苑くんがどんなレシピで作っているかはわからないけど、お菓子作りってどれくらい手間暇がかかるんだろう、と最近いろいろと検索してみている。お菓子作りに挑戦したことのない俺からしてみれば、出てくるどのレシピも、まったく『気分転換』の範疇に収まらない。勉強する時間なんてあるの? って感じだ。
でも本人が気分転換になるって言うなら、いいのかな……。俺が紫苑くんの心配をするのもおこがましいもんな。また赤点を取らないように、自分のことに集中すべきだ。
「そういえば紬」
ふと思い出したように、紫苑くんが口を開く。
「僕の顔好きって言ってたけど、具体的にどこが好きなの?」
「どっ……!?」
危なっ! 口の中に何か入ってたら絶対吹き出してた!! なんでわざわざ掘り返すんだ!?
あたふたする俺にも、紫苑くんは素知らぬ顔。頬杖をついて俺の答えを待っている。
具体的? 具体的って、何だ。何を答えればいいんだ。ぐるぐる必死に頭の中で回答を練る。
「ぜ、全部、かな……」
視線を逸らしながら絞り出せば、「その答えは逃げとみなすけど」とぴしゃりと言われてしまった。
「えええ!? だって具体的って、言ったらキモくない!?」
「気持ち悪いと思うなら、僕からこんな話始めないでしょ」
「それはそうだろうけど、そもそもなんでこんな話!?」
「別に、ちょっと気になっただけ。男にこの顔好きって言われたの初めてだし」
「うぅぅ……でも全部って答えが駄目なら困る……ほんとに全部好きだし……」
一つ一つ具体的に説明しろ、と言われればできなくはないだろうけど、どこが好きかなんて考えたことがないから、上手く説明できる自信がない。ちょっと気になっただけっていうなら、『全部』ってことで納得してほしいんだけど。
紫苑くんは目を細めて、なぜか機嫌良さげに「ふぅん」とうなずいた。
「まあ、わかった」
「よかっ――」
「じゃあ、僕のどういう顔が好き?」
「よくなかった!!」
俺の反応が予想どおりだったのか、紫苑くんは小さく噴き出す。い、意地悪だ……! 前より優しくなったのに、前よりこういうこと増えた気がする!
意地悪はやめてほしいと言ったら、きっと引いてくれるんだろう。でも別に、強いてやめさせたいほど嫌なわけでもない。むしろ、気心の知れた友達、みたいで嬉しくもある。
だからしどろもどろになりながらも、俺は何とか答えた。
「ど、どういう顔してても好きだけど、やっぱり楽しそうに笑っててくれるのが一番好き、かな……!?」
俺はいったい何を言わされてるんだろう。
素直に答えなきゃいい話なのかもしれないけど、俺はもう、たぶん紫苑くんに嘘はつけない。つきたくない。無理だよ。
「そう」
満足そうに笑う紫苑くんは綺麗というか可愛いんだけど、何がどうしてそんな質問してこんな答え聞いて笑えるのか、全っ然わからない。俺だったら俺が顔真っ赤にしてこんなこと言ってたら、キモ……ってドン引きするんだけど!
「なんか最近、紫苑くんおかしくない!? どうした!?」
ついに耐えかねて訊いてしまった。変わったきっかけが俺のあの告白であることは間違いないから、墓穴を掘る可能性も大だけど、それでも訊かずにはいられなかった。
勇気が出せない、なんて思ってたけど、ここまでされたらもはや勇気とかそういう問題じゃない。おかしすぎる。
紫苑くんはふっと微笑んで、小さく首を傾げた。
「知りたい?」
――……たぶん、こういうのを、蠱惑的、と言うのだろう。
もともと熱くなっていた顔に、さらに熱が上る。
何が目的で俺にこんな微笑みを見せるのかわからないけど、何にしてもたちが悪かった。紫苑くんは自分の顔の良さを自覚しているし、おまけに俺が紫苑くんの顔が好きなことも知っているのだから。
けれどここで引き下がるのはなんだか負けた気がして、俺はこくこくとうなずきを返した。
「そう。知りたいなら仕方ないよね。君が知りたいって言ったんだから」
「え、なになになに……その言い方は怖い」
「そうだね、もしかしたら怖いことかも。それでも聞く?」
探るように、琥珀色の瞳がそっと俺を見る。
……その様子はむしろ、紫苑くんこそ何かを怖がっているように見えて。
俺はためらわず、「聞きたい」と力いっぱいうなずいた。俺の返答に、紫苑くんは少し気の抜けたような笑いをこぼしてから、すっと真面目な顔つきになる。
「……知りたいなら仕方ない、って君に責任押しつけるような言い方しちゃったけど、君に責任は何一つない。僕が勝手に言いたくて言うだけだよ。だから、聞かなきゃよかったって思ってもいい」
「思わないよ」
「……聞いてもないのに、そんな自信満々に言っちゃっていいの?」
「紫苑くんの言葉で、聞きたくないものなんて一つもないと思うから」
紫苑くんは、はあ、と小さく息を吐いた。眉を下げて力なく笑って、そっか、とつぶやく。
「……でもよく考えたら、もうすぐ期末テストだもんね。テストの邪魔はしたくないから、終わってから話すよ」
「気になって集中できない気がするんだけど!?」
「断言するけど、僕が今話したほうが、紬は集中できなくなる」
あまりにも自信満々に言われたので、俺はしぶしぶ納得するしかなかった。
そして迎えた期末テスト。前回の反省を活かし、数学をこれでもかと勉強していったので、手応えは上々だった。他の科目も、まあどれだけ低くても平均は超えてる。
テスト最終日、どこか緊張した紫苑くんに「一緒に帰ろう」と誘われた。俺もつられて緊張しながら了承する。歩きながらする話でもないということで、何度目かになる喫茶店を訪れた。
二人分の注文が届いてから、紫苑くんは真面目な顔で俺を見た。その雰囲気に呑まれて、思わずごくりと唾を呑む。
「紬」
形のいい唇が、はっきりと俺の名前を紡いで。
「――君のことが好きみたいなんだけど、どうしたらいい?」
「………………は?」
すき。
すきみたい。
きみのことが。だれのことが?
すき? 友達の好き? それだったら、どうしたらいい、なんて訊く必要もなくて、つまりこのすきは、すきって、好きっていうのは、
「なん、で」
混乱極まる中、口から零すことができた声はたった三音だった。
紫苑くんは凪いだ笑みで、淡々と理由を答える。
「しいて理由を挙げるとしたら、一緒にいるのが楽だから。楽しいから。君が笑ってると、優しくしたくなるから。もっと笑ってほしいって思うから。君といると、自然に笑えるから。悪いことなんて全然考えられないところが可愛いから。真っ直ぐに褒めてくれるのが、眩しいなって思うから。それから、」
「し、しいてって言ったのに、なんでそんな、」
「挙げる理由が一つだけなんて言ってないでしょ」
きっとこれは紛れもなく告白なのに、紫苑くんの澄まし顔が、まるで軽い雑談でもしているかのように錯覚させる。余計に混乱する。もしかしたら、それすら意図的なのかもしれない。
……俺は、ずっと友達でいようって決めたのに。決めたばかりなのに。なのに、なんでいきなりそんな。だったらあのとき言ってくれれば――いや、ちがう。こんな、紫苑くんを責めるみたいな思考は駄目だ。悪いのは全部俺だったんだから。
「紬」
また紫苑くんが、俺の名前を呼ぶ。
その声を聞いたら、不思議と少しだけ気持ちが落ち着いた。
紫苑くんは相変わらずまっすぐに俺のことを見てくる。
「今ここで、返事がほしい。君が友達でいたいって言うならそれでいいし、恋人になりたいって言うならもちろんそれもいい。もう話しかけないでほしいとかそういう答えは却下だけど、君も僕のこと友達としては確実に好きなんだから、そんなことは言わないよね?」
にっこりと圧をかけられて、ひえっ、と声が出そうになった。
もちろん言わない。言わないけど、だとしても友達か恋人か今ここでさっさと決めろ、というのはちょっといかがなものか。いや文句とかはないんだけど、でも、でもさ、ちょっとくらい考える時間くれたって――
「君の場合、たぶん追い詰められて直感的に答えるくらいがちょうどいいから。ゆっくり考えさせてあげられないのは悪いと思ってる」
心が読めるんですか? ってくらい絶妙なタイミングでの補足に、「あっ、はい……」と言うことしかできない。本当に悪いと思ってるんですか?
――友達か、恋人か。
えっと、えっと……と必死に悩む俺を、紫苑くんは静かに見つめていた。早く何かを言わなければと、何もまとまっていないままに口を開く。
「こっ……恋するなら紫苑くんがいい、とは、思ってて……でも、まだ恋とかよくわかんなくて、こんな中途半端な気持ちで付き合うなんて無理だし、と、友達、じゃ、だめ……かな……」
正直な気持ちを、そのまま吐露した。
窺うように上目で見れば、よくできました、と言わんばかりに頭をぽん、となでられて、俺は思わず固まってしまった。紫苑くんに、頭なでられた……!?
「だめなわけないでしょ。こっちから選択肢として出してるくらいなんだし」
手はすぐに離れていった。
それをなんとなく名残惜しく見てしまったことに気づいたのか、紫苑くんはちょっと笑って、もう一度だけ俺の頭をなでてくれた。子ども扱いっていうか、なんか犬みたいな扱い受けてる気がする。
「……まあでも、今の答え聞いてわかった」
いっそドヤ顔にすら見える自信満々な顔で、紫苑くんは言った。
「紬は僕のことが好きだよ。恋愛的意味で」
「えっ」
「自覚するまで待っててあげてもいいけど――僕は、そんなに気が長くないから」
「えっ、えっ」
「無理やり奪われたくなかったら、せいぜい頑張って」
キラキラしいくらいのご機嫌な笑顔だった。めちゃくちゃ眼福ではあるが、不穏なことを言われた俺はそれどころじゃない。
「う、うば……!? 何をですか!?」
「さて、なんだろうね。楽しみにしてていいよ」
「怖いんだけど!!」
「怖がる必要ある? 何をされるとしても、相手は僕だよ?」
「だとしても怖いものは怖い!!」
さっきは自分の告白を『怖いことかも』なんて弱気になってたくせに!
そんなやりとりをしているうちに、予鈴のチャイムが鳴ってしまった。「ほら、行くよ」と立ち上がった紫苑くんを止める術などなく、俺も大人しく教室に戻る。間違っても他に人がいるところでできる話でもないし。
席について次の授業の準備をしながら、考える。
……紫苑くんが、俺のことを好き。
それで、俺も紫苑くんが好き? 好きって何だ、恋ってどういうのなんだ。まだ恋じゃないと思ってたのに、気づかないうちに恋になってた? でも恋って……こういう感じなの?
考えても考えてもわからなかった。紫苑くんはなぜあんなにも自信満々に言えたのか。
……だけど。
紫苑くんが、俺のことを好きだと言うのなら。
――俺は紫苑くんに恋をしてもいいんだな、と。
そう思って、安心してしまう自分もいて。
ますます何もわからなくなった。
「恋って何……?」
「哲学やってんな~」
けらけら笑う康平を、じとっと睨む。馬鹿にしているんじゃなくてただ面白がっているだけということはわかるけど、今はそれにも寛容になれなかった。「笑うなよ」と文句を言えば、悪りぃ悪りぃ、と悪びれない謝罪。
ぶすくれながら、俺は購買のフルーツサンドにかぶりついた。珍しく残っていたので即買ったけど、やっぱり美味い。
紫苑くんから告白を受けた翌日。
ここ最近は毎日紫苑くんと昼を一緒にしていたので、康平と食べるのも久しぶりだった。七月に入って屋上はすっかり暑いが、影になっているところは割と過ごしやすい。
今日は康平と食べる、と言ったとき、紫苑くんはつまらなそうな顔をしていたけど……それも俺のことを好きだからなのかと思うと、心が変なふうにそわそわする。
「水城くんと進展でもあった?」
「…………なんにも」
「へー、あったんだ。告白でもされた?」
「なんで!?」
「あ、マジで?」
にまーっと笑う康平に、ただ鎌をかけられたのだと悟っても時すでに遅し。「なんだよ~、そういうことはもっと早く言えよな~」とばんばん背中を叩かれて、呻くことしかできなかった。
「……言えるわけないだろ」
「そりゃそうだろーけど。まぁでも、それで恋って何、って悩んでるっつーことは、まだちゃんと返事はしてないわけか」
「返事は一応した、んだけど……なんかよくわかんないことになった……」
頑張って自覚する、っていってもどうしたらいいんだろう。俺って本当に紫苑くんのことそういう意味で好きなの? 恋って何?
この頃はその堂々巡りで、紫苑くんの前だと緊張して挙動不審になってしまう。たぶん以前より今のほうがよっぽど視線合わせたりとかできてないと思うんだけど、今回は原因がわかっているからか、紫苑くんの機嫌は悪くなっていなかった。むしろやたらといい。
「よくわかんないことって?」
「さすがにそこまでは言わない。ほいほい喋ることでもないだろ」
「あーい」
「……でもなんで紫苑くんが俺に、こ、告白した、とかわかったんだ?」
もう暑いからか屋上に他に人はいないが、一応声を潜めて訊く。何も言わずとも、康平も声のボリュームを落としてくれた。
「んー、たぶんー、オレがその原因の一端を担ってるってゆうかぁ」
「……どういうこと?」
「水城くんがどういうつもりか知りたかったからさ、ちょっと突っついてみたんだわ。そしたら反応的に、お、こいつムギのこと好きじゃね? ってなって。で、水城くんもそこでうっすら自覚しちゃったっぽい」
「はあ!?」
知らない間に何やってんだ康平!?
「でもあくまでうっすらよ? 決定打はたぶんオレじゃないから、オレに責任はありません。おっけー?」
「オッケーじゃない!!」
「えー、恋したいっていう友達の背中を押してやってるのにさぁ」
「押したのは俺の背中じゃなくない!?」
「同じことっしょ。このままいけばお前、ちゃんと恋できると思うぜ?」
なんで俺の周りには、他人のことで自信満々になれる人が多いんだろうか。割と真面目にそんなことを思ってしまった。
俺が呆れているうちに、康平はふと真剣な顔になった。こいつがこんな顔をするなんて珍しいので、ちょっと驚いてしまう。
「なあムギ」
「何?」
「俺お前のこと好きなんだけど」
あまりにもさらっと言われた言葉は、一瞬そのまま耳から耳へ通り過ぎてしまった。
目を瞬きながら待ってみても、訂正の言葉は続かない。
「……本気? 悪ノリ?」
「うわ、そっから疑うワケ?」
「タイミング的にそうなるだろ……」
「まぁな。でも本気」
――百パーセント悪ノリだと思っていただけに、思考が止まった。
……本気っていうのも嘘じゃないのか? さすがにそこまで疑うのはひどすぎる? でも康平だし、ありえないとは言い切れない。
完全に固まった俺を見て、しばらく。ぶはっと康平が吹き出した。
「あははははっ、ムギすっげぇ顔してる」
ひーっと腹を抱える悪ふざけ好きな友人を、大分本気で殴りたくなった。
「お、おまえなー! 反応に困る冗談やめろよ!」
「とまあ、こんなふうに、水城くんにもオレがムギのこと好きだって嘘ついたわけっすよ」
「実演必要あった!?」
「あったよ、あった。お前、オレに告られてどう思った?」
どう思ったかなんて訊かれても、本気なのか冗談なのか判断がつかなかった、としか言えない。
俺のその答えが読めたのか、「あー、なら質問変えるけど」と康平は続ける。
「もしほんとに本気の告白だったら、どう思ったと思う? 水城くんに告られたときと違いあった?」
「……ちがい」
考えてみる。
もし、康平から本気で告白されたら? ……どう傷つけずに断るか悩むことになるだろう。そのまま友達でいたい、という気持ちが許されるのかどうかも。
それで、紫苑くんに告白されたときは……状況が違いすぎるからなんとも言えない、けど。
友達でいようって決めたばっかりなのに、ってちょっとだけ恨めしくなって。だけど気持ち自体は――嬉しくて。
恋がわからないことが、そのせいで応えられないことが申し訳なくて。
「…………確かに、なんとなく、違う気がしなくもない?」
「あ~このやり方じゃ駄目だったか~」
呆れを隠しもせずに、康平がわざとらしく天を仰いだ。
「まったく、これだから恋愛初心者は」
「恋多き人間的に、最初の質問の答えはどうなるんですかねっ!」
「恋とは何かってやつ?」
むっとしながら、結局答えてもらってなかった問いをもう一度投げる。康平は「んー」と視線を斜め上に向けた。
「つってもなぁ、そんなんわかんねーよ。オレの場合は、好きだなーって思っちゃったらもう恋なわけ」
「……その『好きだなー』に理由はないってこと?」
「まあ、後からなら色々理由付けられるだろーけどさ。理由なんてあってもなくても、わかってもわかんなくても、好きだって思ったら好きなの。少なくとも、オレはな」
最後の一言を強調して、康平は笑う。
「ま、悩めばいいと思うぜ。どうせなるようになるだろうし」
「なるようにって何だよ……」
「大丈夫ダイジョーブ。チョコでも食べる?」
「なんで……食べるけど……」
康平はちょっとしたお菓子をいつも持ち歩いている。大体は個包装のチョコだ。今日のもチョコで、暑さのせいで少し溶けかけている。
もらったチョコをころんと口の中で転がしながら、また考える。
好きだって思ったら、恋。……普通の好きとその『好き』の違いがわかんない場合はどうするんだよ。
元から期待はしていなかったが、やっぱり康平の考え方は参考にならなかった。俺にとって、というだけで、その考え方で納得する人もいるんだろうけど。
「……まーでも、友達って好きになりたくねぇよなー。逆に、なられても困るときあるし」
そういえば康平は、女友達が多いのだった。今まで好きになったりなられたりした人の中には、当然女友達も含まれているんだろう。そして今の口ぶり的に、そういうときは康平だって悩むのだ。
「関係変える意味ある? って思っちゃうんだよな。今で十分楽しいのにさ」
どことなく遠くを見ながら、康平が言う。
「……オレは好きな奴コロコロ変わるけど、告れなかった奴も普通にいる。引きずってねぇし、別に後悔とかもしなかったけど、好きだった奴ってそんだけで大分特別だからさ。幸せになってほしいなーとか柄にもなく思っちゃうワケ」
いったい何語りが始まったのか。
ついていけずに目を瞬く俺に、康平は彼らしくもなく、くすりと控えめに笑った。
「まあ、そういう話なんだよな」
「……どういう話?」
「わかんなくていーんだよ、ムギちゃんは。チョコもいっこいる?」
「それはもらうけど……」
もう一つもらったチョコも、やっぱり少し溶けかけていた。
いくら緊張しても、挙動不審になっても、紫苑くんとはあれからも毎日一緒に帰っている。自覚したかとは訊かれないし、急かされもしないが、会話にしれっと告白じみた言葉を交ぜてくるので心臓に悪かった。
もうすぐ夏休みだというのが、救いになるのかならないのか。……どちらにしても、きっと早く結論づけたほうがいいことだ。
「あ、そうだ。紬、本屋行かない?」
紫苑くんがそう言い出したのは、駅近くまで来てからだった。
「君が好きだった絵本、教えてよ」
「……い、いいけど、特にこれが好きっていうのはなかったから、何冊か選ぶことになるよ。色々好きだったから」
紫苑くんといるときの気持ちを語った、あの恥ずかしい記憶を思い出してちょっとどもってしまう。
そんな俺の内心なんてお見通しなのだろう、紫苑くんは「それでいいんだよ」と笑った。
紫苑くんと連れ立って、駅ビルの本屋に入る。
カラフルな絵本コーナーは、場違い感がすごかった。絶対男子高生が二人で来るような場所じゃない。……でも、紫苑くんはなんか似合うんだよな。
紫苑くんに似合わない場所なんてあるんだろうか、なんて馬鹿なことを考えながら、好きだった絵本を探す。いっぱいねこが登場するシリーズとか、仲間外れにされてるクレヨンの話とか、怪獣たちの王様になる話とか。
あんまり紫苑くんを待たせたくなかったので、印象に強く残っている絵本を手早く選んでいった。とはいっても、絵本コーナーの全体をざっと見て回ったので十五分くらいはかかってしまったけど。その間も紫苑くんは楽しそうだったのでよしとする。
「こんな感じかな……適当に十冊選んじゃったけど、読んだことあるやつある?」
「たぶん全部読んだことある。でももうあんまり記憶にないから、全部買ってくるよ」
「えっ全部買うの!?」
思わず大声を出してしまって、慌てて口を閉じる。本屋は図書館とかに比べれば音があるけど、それでも静かな場所だ。
絵本というものは、意外でもないかもしれないが一冊の値段が結構高い。十冊も買えば余裕で万に到達してしまうので、一気に散財させてしまうことになる。あと、十冊一気に持ち帰るのってかさばるし重くない? 大丈夫かな……。
せめて五冊くらいに厳選しとけばよかった、と後悔しているうちに、紫苑くんは遠慮なく俺の手から十冊を取っていく。
「紬が僕といるときにどんな気持ちになるのか、知りたいんだ」
さらりと放たれた言葉は、その何気なさに見合わない威力を持っていた。つまるところ、心臓が変な音を立てた。
……いや、だって、こういうの、ずるいじゃん。ずるいじゃんね!?
「まあ、想像はつくんだけど」
絵本を持ちやすいように抱え直しながら、紫苑くんが俺を見る。
「僕が紬といるときの気持ちも、たぶん君とほとんど同じだから」
――『そんな恥ずかしいこと』と言っていた紫苑くんが。
いつもみたいにまっすぐな瞳で、とても愛おしそうに微笑んで、君と同じだと言ってくれて。
今まで感じたことのないような、感じたことがあったような、それすらもはっきりしない何かが、じわりじわりと胸に広がっていく。
――好きだな。
ふっと、そう思ってしまった。それは確実に、今までの好きとは違う好きだった。
思ってしまったことにも、理解できてしまったことにも驚いて、目を見開く。「紬?」と不思議そうに首を傾げる紫苑くんに、返事ができなかった。
それくらい驚いて……でも同時に、納得もした。欠けていたピースがすっかりと埋まったような、そんな満足感にも似た納得。
ああ、そっか。
俺はたぶん、大分前から紫苑くんのことを好きになりかけていて――それで今、ちゃんと恋に落ちたんだ。
好きだって思ったら、恋。全然俺には合わない考え方だと思ったけど、そうでもなかったらしい。
「し、おんくん」
最初に呼んだときみたいな、ぎこちない呼び声。「何?」と訊いてくれる紫苑くんに、今すぐにでも気持ちを伝えたくなった。
しかしここは、本屋という公衆の面前。こんなところで告白でもしようものなら確実に目立ってしまうだろう。
「……それ、貸して。俺が買ってくる」
「いや、自分で買うよ。君に買われたら格好つかないでしょ」
「紫苑くんはいつでもかっこいいから大丈夫、貸して」
「は、え、あっ、ちょっと」
動揺した紫苑くんから絵本を奪い返して、足早にレジへ向か――おうとして、立ち止まる。
「…………ごめん、十冊も買えるほどお金持ってなかった」
冷静でいたつもりだったけど、全然冷静じゃなかった。
ぷっと吹き出した紫苑くんが、笑いをこらえながら「とにかく急ぎたいんだね?」と言って手早く会計をしてきてくれた。うっ、恥ずかしい……格好つかないのは俺だ……。
「それで、そんなに急いで何がしたかったの」
「……えっと、ちょっと来て」
はやる気持ちを抑えて、紫苑くんの腕を取ってぐいぐい引っ張っていく。もしかしたら抑えられていないかもしれない。
紫苑くんは戸惑いつつも、大人しくされるがままになってくれた。
駅ビルを出て、ひたすら人の少ない場所を探し歩く。誰も、誰もいないところへ。
普段歩かないような小道を通って、やっと立ち止まったのは小さな公園。
「紫苑くん」
くるりと振り返って、手を離す。
雰囲気作りも何もなく、ただ、それを伝えたいから口にする。
「好き」
「…………っはぁ!?」
ぎょっとした紫苑くんの顔が、みるみる赤くなっていく。
わ、首まで真っ赤。耳しか赤くならないタイプかと思っていたのだが、場合によるらしい。
「さっきわかったんだ。俺、紫苑くんのことすごい好きだった!」
「まって、ちょっとまって、ごめん」
「好きだよ」
「待ってってば!」
聞こえていないふりをしてなおも続けたら、焦り混じりの強い口調で止められてしまった。こんなふうに言われてしまったら、言い足りなくても待つしかない。
紫苑くんは赤くなった顔を隠すように、口元に手を当てた。少し視線を揺らしてから、また俺と目を合わせる。
「……念のため訊くけど、それは友達とは違う『好き』ってことでいいんだよね?」
「友達としてもすごい好きだけど、違う意味でもすごい好き」
「……そ」
随分恥ずかしいことを言っている自覚はあったが、ここまで照れている相手を前にすると羞恥心は消えてしまう。
……紫苑くんがこんなにわかりやすく照れること、もうこの先ないかもしれない。しっかり目に焼きつけておこう、と見つめると、睨むような視線を返された。たぶん照れ隠しだ。
「せいぜい頑張ってとは言ったけど、自覚早すぎでしょ。こっちは年単位も覚悟してたんだけど。なんなの?」
「……だめだった?」
「だめとは言ってない」
「だよね!」
元気にうなずけば、はああ、と深いため息。これも照れ隠し。……いや、呆れてるんだろうか。これまで照れ隠しだって思うのは調子乗りすぎ?
「ほんっと紬って……そういうところあるよね」
「え、どういうとこ?」
「そういうところはそういうところ」
表情はやわらかいから、悪い意味ではないのだろう。ならいいか、とそれ以上は訊かないことにしておく。
少しの沈黙の後、紫苑くんは改めて俺と向き直った。顔はまだ若干赤いが、それでもほとんどいつもどおり。ただし、耳だけは普通に赤いのが可愛い。
「……僕と恋人になるってことでいいの」
「うん、紫苑くんが嫌じゃなければ」
「嫌なわけないでしょ。僕も紬が好きなんだから」
「…………うん」
「言われるのはやっぱり照れるんだね」
紫苑くんの照れ様を見て楽しんでいたことはバレていたらしい。軽く仕返しを受けて、ふっと笑われてしまった。
「紫苑くんだってさっきまで顔真っ赤だったくせに……!」
「さあ、何のこと?」
「可愛かったよ」
「……可愛いのは君のほうでしょ」
「えっ!? そこでそう返すのはずるくない!?」
「何が」
さっきみたいに照れてくれることは本当にもうないのかもしれない。よかった、ちゃんと見ておいて……。
ほっとする俺を、「何か変なこと考えてない?」と紫苑くんはじと目で見てくる。察しが良すぎる。
「べ、別に何も! ただ、えーっと、このまま帰るのはちょっと寂しいなって」
「それならうち来る? 何もしないって約束するから」
「そういうことじゃな……っ何もって何!?」
さあ、と笑顔で首を傾げる紫苑くん。
何もってマジで何。……そういう話? 俺が何かされる側なの?
え、いやそもそも紫苑くんとそういうことするとか想像まったくできないんだけど……? でもするとしたら確かに俺がされる側のほうがいいのか? どうするのかわかんないけど、される側のほうが怖そうだし……紫苑くんにそんなことさせるわけにはいかない。
「まあ、そういうことは追々考えればいいとして」
「あ、はい……」
「とりあえずは、そうだな……どこか涼しくて落ち着ける場所で、一緒に絵本でも読もうか」
俺のおかしな返事なんて気にもせず、紫苑くんはそう言って手に持った袋を示した。
「うわっ、ごめん、暑いし重いよな!? も、持つよ!」
「持たせないから。手が空いてるなら、僕のこっちの手でも握ってなよ」
するりと手を繋がれて、心臓が飛び出るかと思った。
――そういえば前、紫苑くんと手を繋いで歩く夢を見たんだった。ふと思い出す。俺の体調が悪くて、紫苑くんが手で熱を確認してくれた日。
あの日触られて感じたのは、ただの驚きだった。ときめきなんて一切存在しなかった。でも、今は、この心臓の暴れ様は……! ときめきでしかない!
っていうか、こんなことしてクサくならない人が実在する!? いやクサいのはクサいのかもしれないけど普通にめっちゃ似合うっていうか、様になってるっていうか、とにかくおかしくはなくて、むしろかっこよくてビビってしまう。
わかってたことだけど、俺ってすごい人と恋人になってしまったんじゃ……? こんなに綺麗でかっこよくておまけに可愛い人が俺のこと好きとか、まさか夢?
「百面相してないで、行くよ。いつもの喫茶店でいい? 絵本読むにはちょっと薄暗いかもしれないけど」
「ぜ、全然いいです……」
「うちでもいいよ?」
「喫茶店で!!」
「……ふふ、もう手を繋ぐには向かない季節だね」
「手汗やばい!? 離す!?」
「まだ。好き勝手言われるのは嫌だから人目のあるところでは離すけど、今は僕たちしかいないでしょ」
歩き出した紫苑くんに、ぎゅっと手の力を強められた。……うおあ、死にそう。心臓ってなんで取り外しできないんだろう。せめて口から吐けたりしたら……いやグロいな……。
どきどきしすぎて思考が変な方向に飛んでしまった。自分で思っている以上にパニックになっているのかもしれない。
――見た目だけなら、童話の中から飛び出してきた王子様と言われても不思議じゃない。小鳥と一緒に歌い出したってびっくりしない。
俺がどうしてもと頼み込めば、きっとそんなことでも本当にやってくれるだろう。文句を言いながら、しぶしぶと。
真っ直ぐな言葉に弱くて、わかりにくいけど優しくて、自分の芯をしっかりと持っているひと。
「紬」
俺を呼ぶ声はあたたかくて、やわらかい。
「好きだよ」
伝えてくれる言葉は基本的には素直じゃなくて、でもたまに、すごく素直だったりする。
それが、水城紫苑という、俺の『好きになりたい人』――ではなく。
「……うん、俺も好き」
俺の、『好きな人』だった。