「今日、僕の家に来ない?」

 いつもどおり一緒に帰っている道中、紫苑くんがそんな誘いをしてきた。
 ……好きになりたかった、と打ち明けた相手にそんな誘い、不用心じゃないか?
 なんて思ったら、自然と『それなら僕を好きになればいいでしょ』という言葉も思い出してしまって、慌てて振り払う。忘れるって約束したんだから……!

「い、いいよ」

 返事をする声は上擦ってしまったけど、紫苑くんは気にする様子もなく「よかった」と微笑んだ。

 ――あのやりとりから、数日。紫苑くんは明らかに表情がやわらかくなった。笑ってくれることも、微笑んでくれることも増えて、言動もさらに優しくなった。昼飯にも毎日誘ってくれるようになった。
 昼飯を食べる場所はクラスじゃなくて空き教室だから、それほど人目を気にしなくていいのは助かる。……授業や部活以外では基本使えないはずなので、どうやって許可を取ったのかは気になるところだった。

 避けられたりすることは予想してたんだけど、この方向性は完全に予想外だ。
 いったいあの日、紫苑くんの中でどんな心情の変化があったのか。訊けば案外教えてくれるのかもしれないけど、訊く勇気が出せなかった。

「紬、苦手なフルーツある?」
「特にない、けど……? え、もしかして、果物使うお菓子とか作ってくれるつもり?」
「さあ、どうでしょう」

 これ絶対そういうことだよな。いきなりなんで!?
 混乱しながらも、いつもどおりを心がけて紫苑くんと話し、紫苑くんの家に到着する。今日は誰も家にいないみたいで、鍵を開けた紫苑くんはただいまも言わずに家に入った。

「用意するから、紬は座って待ってて。……いや、もし見たかったら、近くにいてもいいよ」

 手を洗った後そんなことを言われたので、それならと紫苑くんの近くにいることにした。お菓子作りという俺の予想が合ってるなら、近くで見てみたい。

 紫苑くんはまず、りんごとキウイとバナナを切った。りんごはわざわざ兎型だ。
 そしてさくらんぼの缶詰とパイナップルの缶詰を開ける。……めっちゃフルーツ使うお菓子? 何だろう。
 そして紫苑くんは冷蔵庫から――大きめのお皿に乗った、プリンを取り出した。

「プリン!? それ紫苑くんが作ったやつ!?」
「うん。家でなら、冷蔵とか気にせず食べられるでしょ。で、せっかく家なら、プリンアラモードにしてみようと思って」

 俺が前にリクエストしたお菓子。……覚えてて、作ってくれたんだ。
 嬉しさが、ぶわっと胸の中に広がる。前にもらったチョコマフィンだってもちろんめちゃくちゃ嬉しかったけど、この嬉しさは段違いだった。

 アイス屋さんで見るような道具で大きなバニラアイスをまあるく取って、紫苑くんはそれをプリンの隣に置く。そして丁寧に手早く、センス良くフルーツを添えていき、最後にホイップクリームを絞るやつを手に持った。

「……クリーム絞ってみる?」

 俺がそわそわしているようにでも見えたのか、紫苑くんはクリームを差し出した。

「確かにこういうのやったことないから気になるけど……! 俺がやると、紫苑くんのプリンアラモード台無しにしちゃうと思う」
「味は変わらないよ。僕だけで作ったのが食べたいなら、僕が絞るけど」
「……紫苑くんだけで作ったやつが食べたい、かも」
「かも?」
「食べたい! です!」

 せっかくこんなサプライズを用意してくれたのだから、俺の手が少しでも入ってしまうのは無粋っていうか……。
 紫苑くんは「そう」とどことなく嬉しそうにうなずいて、丁寧にクリームを絞った。すべての作業が丁寧で、そんなふうに作ってもらえたものを食べられるんだと思うと、どこかくすぐったい気持ちになる。

 ――そうして完成したプリンアラモードは、ものすっごくわくわくする見た目だった。こんな感じなんだプリンアラモード……!
 今日はリビングで食べようと言われたので、紫苑くんが淹れてくれた紅茶のカップと一緒に、テーブルに皿を運ぶ。
 椅子に座って、俺はプリンアラモードを見下ろした。輝いて見える。う、美味そー……。
 けど、少しだけ気にかかることがあった。

「……フルーツ、かなり余りあるよね? こんな贅沢な使わせ方しちゃって大丈夫だった?」
「キウイと缶詰のは夜家族で食べ切れるし、変色しちゃうやつは今僕が食べるから大丈夫」

 向かいに座った紫苑くんの前には、確かにりんごとバナナが適当に添えられたプリンがある。あと紅茶も。
 ……プリンって作り方知らないからよくわかんないけど、クッキーを一枚だけで焼くことがないみたいに、プリンも一個だけじゃ作らないのかな。

「もし金銭面の心配してるなら、特に欲しいものもなくてお小遣い有り余ってるから平気」

 紫苑くんの部屋を思い出して、確かに、と思う。あんな必要最低限のものしかない部屋(本棚すら、教科書と参考書、あとは話題になった小説が数冊ある程度だった)、物欲がない人の部屋だ。
 納得する俺に、紫苑くんはぼそっと「……自分のお金じゃない時点で偉そうな顔できないけど」とばつが悪そうに言う。

「でも無駄遣いじゃないなら、親も気にしないんじゃない?」
「…………無駄遣いしてもうちの親なら気にしない。むしろ喜ぶと思う」
「あははっ、愛されてるんだ、紫苑ちゃん」
「そうだね」

 出来心でからかってみたら、紫苑くんは平然と肯定した。呼び名に対してもツッコミなし。……逆にこっちがめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。
 黙ってしまった俺に、紫苑くんはくすりと笑って、自分のりんごにフォークを刺した。

「アイス溶ける前に早く食べなよ、紬ちゃん」
「……いただきます」
「うん、どうぞ」

 自分でもいただきますと言ってから、りんごに小さくかじりつく紫苑くん。
 それを視界の端に映しつつ、俺はまずプリンをすくい取った。アイスは早めに食べなきゃいけないけど、最初はやっぱりメインからだろう。
 ぱくんと一口。しっかりと固いプリンで、卵の風味が感じられるナチュラルな甘さだった。カラメルソースがちょっとほろ苦くて、その甘さとすごく合う。

「うま……!」
「よかった。プリン、姉さんが好きじゃないから最近まで作ったことなかったんだけど、練習した甲斐あったよ」
「わ、わざわざ練習してくれたの……!?」
「美味しくないもの食べさせるわけにはいかないでしょ」
「……ありがとう」

 嬉しくて、ふわふわとだらしなく笑ってしまった。紫苑くんはそんな俺をじっと見つめて、それから「どういたしまして」と少し照れた様子で口角を上げた。……耳の先が赤くてかわいい。
 プリン単体だけじゃなくて、他のものともいろいろ組み合わせて食べ進める。どれもそれぞれ違った味わいで、夢中で食べきってしまった。

「美味かったぁ……。ほんとにありがとう、紫苑くん」
「うん。またいつでも食べにきなよ。プリンだけじゃなくて、そうだな……今度は焼き立てのフォンダンショコラとか。どう?」
「うわっ、なにそれ最高……いやでも、さすがにそんなに何回もごちそうになるわけにはいかないよ!」

 反射的にお願いしかけて、いやいやと首を振る。たとえば誕生日とかならまだしも、なんでもないときにこんなの、いくら嬉しくたって申し訳なさが勝つ。
 だけど紫苑くんは、不満そうに反論してきた。

「僕がやりたくて提案してることなのに? ものすごくやりたいのに?」
「そ、んな、やりたいの?」
「やりたい」

 きっぱりとした即答に、うぅ、と呻いてしまう。
 ……なんで、って。訊いてもいいだろうか。そう迷うくらいなら訊いてしまえばいいのに、これもまた、なぜか勇気が出せなかった。
 紬、と甘えるように名前を呼ばれる。

「だめ?」
「だめじゃない!」

 ――だめだって言ったら、きっとしょんぼりするんだろうな。
 そう思うような訊き方で、気づいたら俺は全力で否定していた。だって、紫苑くんにそんな顔させたくない。

「ん、よかった。じゃあ、また来て。家で食べなくてよさそうなお菓子は、学校であげるよ」
「なあ、もしかして餌付けしようとしてたりする?」
「餌付けだとは思ってないけど……でも、君が僕の作ったものを美味しそうに食べてくれるのは、見てていい気分だよ」
「あー……確かにそういうのならわからなくもない、な。俺も紫苑くんが、俺の前で嬉しそうにしてくれるといい気分になるし」
「……そ」

 随分と素直に喋るようになったのに、照れを素直に出す気はないらしい。わかりやすいから問題はない、どころか可愛くて微笑ましいんだけど。
 ついふふっと笑うと、紫苑くんは一瞬じろりと睨んできたが、すぐに相好を崩した。

「――プリン、もうちょっと甘いほうがいいとかある?」
「へ? いや、めちゃくちゃ美味かったよ?」

 唐突、とまではいかないけれど、少し急な話題転換に目を瞬く。

「完璧に君好み?」
「完璧かって訊かれると自信はないけど……。俺の舌、結構大雑把だから」
「じゃあ、今後勝手に試行錯誤するよ。紬が飽きない程度に……年に二、三回くらい?」

 年に二、三回。
 そんなふうに言うってことは、今後もしばらくは継続的に付き合いを続けてくれるつもり、なんだろうか。それとも今年だけの話?

「……来年、クラス離れちゃっても、俺と遊んでくれるの?」

 なんとなく、紫苑くんとの縁は今年きりだと思っていた。そう思っていたことに、今気づいた。
『これからもずっと友達でいよう』と決めたことは事実だけど、やっぱり俺はまだ、嘘をついて近づいた負い目を捨てきれていないらしい。 

「クラス離れるくらいで、僕が紬との付き合いをやめるって? 本気で言ってる? まあ、受験生になるし、遊んでばっかりはいられないけど」
「……大学離れても?」
「逆に君は、僕との付き合いを今年っきりにしたいわけ?」

 そう言って、紫苑くんは頬杖をつく。なじるような声とは裏腹に、その表情は優しい。そんなわけない、と確信している顔だった。
 ここで俺の考えていることを打ち明けたりしたら、無駄な罪悪感なんかさっさと捨てなよ、とでも言われるに違いない。

 罪悪感を脇に置いて。
 ただ、俺の気持ちだけを答えていいなら――

「……俺も、これからも仲良くできたら嬉しいよ」
「うん、僕も」

 にこりと笑みを浮かべる紫苑くんに、俺もにへっと笑い返す。
 ……改まってこんなこと言うと、ちょっと照れるな。照れ隠しに、紅茶のカップを口に運ぶ。うわ、もう飲みきったんだった。
 それでも空の紅茶を飲んだふりをすると、紫苑くんはお見通しのようにおかしそうに笑った。

「そ、そういえば今日、家に誘ってくれたの急だったけど、もし俺に予定あったらプリンはどうなってた?」

 話題を変えると、ゆるりと目を細めて乗ってくれる。

「自分で全部食べるつもりだったよ」
「全部って……もしかしてまだ冷蔵庫にあったりする?」
「あと一個だけね。まあ、明日くらいまでは日持ちするし」
「ならよかった……? でも次から、作る前に誘ってくれると嬉しいな。俺のために作ってくれたもの、食べ逃したくないから」
「……ん。わかった」

 どことなく気まずげに視線を逸らす紫苑くん。
 その様子に俺が首をかしげると、ぼそりと説明してくれる。

「……今回は、美味しいプリン作ることだけ考えてて、誘うの忘れてた」

 つまり、ついうっかり、ということらしい。
 ――きゅう、と。心臓がやわらかく締めつけられるような感覚があった。……紫苑くんって、かっこいいのに可愛いからずるい。