――俺は紫苑くんに、嘘をついて近づいた。
好きになりたくて、という理由は厳密には嘘ではないが、正確な意味を伝えようとしていない時点で嘘だ。
紫苑くんと仲良くなった、と感じるたびに、息が苦しくなる。だって俺は、紫苑くんのことを騙しているんだから。
いっそすべてを話してしまえば、とも思ってしまったが、それで楽になるのは俺だけだ。紫苑くんを傷つける自己満足な選択。そんなものを選べるはずがなかった。
だから俺は、この嘘を一生隠し通さなければならない。
そしてもしも万が一、本当に紫苑くんに恋をしてしまった、そのときには。……気持ちがばれてしまう前に、そっと離れよう。嫌われるよりは、他人に戻ったほうが何倍もマシだ。
――隠し事が苦手なことなんてすっかり忘れて、俺はそう決意したのだった。
そんなこんなでエンドレス追試を無事クリアし、しばらくして。
「……あのー、紫苑、さん?」
「なに」
ひっくい声に、ひえっと小さい悲鳴が漏れてしまった。
「あ、その、えっと……なんか最近、嫌なことでもあった?」
最初はちょっと、なんか機嫌良くないな……? くらいだったのだ。それがなぜか日に日に悪化し、女子への対応もいつも以上に無愛想で(それでもちゃんと目を見て対応するのだから律儀だ)、俺と一緒にいても笑わなくなった。
数日様子見をしても一向に戻らなかったので、俺はついに尋ねてしまった。
いやマジで怖いんだよ。気を抜いたまま近づいたら凍っちゃうんじゃないかってくらい冷たいオーラ出てる。
紫苑くんは俺の問いに目を瞬いて、それからにっこりと、それはそれは美しい笑みを浮かべた。
「へえ、君がそれを言うんだ?」
「うえっ!?」
なに、なになに、俺そこまで紫苑くん怒らせるようなことした!? 不機嫌な理由に俺が関わってるとか思ってなかったんだけど!? だって変わらず毎日一緒に帰ってくれるし!!
焦りを募らせる俺に、紫苑くんは恐ろしいまでに優しい声で名前を呼ぶ。
「紬」
「ひゃい!」
ぴしっと背筋を伸ばして、何を言われるのだろうと震えながら待つ。
「目が合わない、よそよそしい、僕の名前を呼ぶ回数が減った、笑わなくなった――その全部に心当たりがないなんて、まさか言わないよね?」
「…………」
そのまさかです、と今この場で口にする勇気はなかった。だらだらと冷や汗が流れる。
嘘だろ、俺そんなことになってたの?
自分の行動を思い返してみても、自分じゃよくわからなかった。俺としては、ちゃんといつもどおり接しているつもりだったのだ。
しかし、絶対にいつもどおりだった、と自信満々に言うことはできない。嘘を隠さなければいけない、という気持ちが無意識に作用していたっておかしくなかった。というか、そういうことなのだろう。だからこそ紫苑くんは俺の異変に気づいたんだろうし。
俺の反応に、紫苑くんは顔をしかめたまま小さくため息をついた。
「……わざとじゃないのはわかった。でも、何かしら思うところはあるってことだよね。言いたいことあるなら、言ったら」
「えっ!? な、なんにも!」
「うそつき」
そんなふうになじられるとは思っていなくて、ひゅっと息を呑む。
うそつき。……嘘つき。それを言われるのは痛かった。俺は紫苑くんに対して、最初から嘘つきだったから。
否定もせずにうつむくと、紫苑くんがぽつりとつぶやく。
「……君も、嘘なんてつくんだ」
――傷つけた。
傷つけたくないから隠そうとしたのに、結局傷つけてしまった。
泣きたくなって、でも俺に泣く資格なんかないからぐっとこらえる。
顔を上げれば、紫苑くんと目が合った。……確かに、正面から目を合わせるのは久しぶりだ、と感じた。綺麗な琥珀色の瞳に、今は寂しげな影が落ちている。それでもなお綺麗だけど、一番綺麗なのは、やっぱり笑っているときなのだ。
「ごめん」
「……立ち話するようなことじゃなかったね。移動しよう」
俺の謝罪を受け取ってくれたのか、受け取ってくれなかったのか。それも窺わせない表情で、紫苑くんは歩き出した。
「この時間ならまだ親もいないんだけど、うち来る?」
「え、ええっ、と……」
「……なら別の場所にしよう。静かなところがいいよね」
紫苑くんの家で二人きりは気まずい、と思ってしまったのをすぐに察して、紫苑くんは提案を引っ込めた。
結局向かった先は、前にも来た喫茶店。幸運にも、というべきか、俺たち以外の客はいなかった。
コーヒーと紅茶を注文して、紫苑くんはそれが運ばれてくるまで一言も発さなかった。……何も言わなかったのは、俺も同じだけど。
こんなときでも紫苑くんは「いただきます」とつぶやいて、コーヒーカップを傾ける。
俺も一口だけ紅茶を飲んだ。この状況でどっさりと砂糖を入れる気にもなれなかったので、ストレートだ。ミルクも入れない。
「……砂糖、入れないの」
「い、今は、気分じゃないかな……」
「そ」
いまだかつてないほどのぎすぎすとした空気。紫苑くんといて居心地が悪いと感じるなんて、最初に話したとき以来だった。
紫苑くんが音も立てずにカップを置いたので、ついに話の続きが来るか、と姿勢を正す。
真剣な表情で、紫苑くんは単刀直入に切り出した。
「謝罪は求めてない。あんな態度取った、理由を聞かせて」
どこまでもまっすぐな視線だった。
紫苑くんは本当に、どんなときでも自分を保つことができるんだと思う。そのくらい強い芯があるのだ。そういうところが好きだと感じて――思考を打ち切る。
こんなときにまで好きなところ探しとか、何考えてんだ俺。癖になってるって言ったって、さすがに今はだめだろ。
そう自分を叱咤してから、俺はゆっくりと言葉を返し始める。
「……俺、紫苑くんに言ってないことがあって」
「……うん」
「でもそれを言って楽になるのは俺だけで、ただの自己満足で、紫苑くんを傷つけることになるから、だから……隠さなきゃって、思ってたんだけど」
訥々と告白しながら、目を逸らしたくなる。でも、こんなまっすぐ見てくれる人から目を逸らすなんて不誠実なことはできない。
琥珀色の瞳を見つめながら、わずかに震える声を吐き出す。
「……結局、そのせいで紫苑くんを傷つけちゃってごめん」
「謝罪は求めてないって言ったはずだけど。僕に言ってないことって、何」
「うっ、やっぱり言わなきゃだめ、だよなぁ」
間髪入れずに返された言葉に呻けば、紫苑くんは「当たり前でしょ」と鼻を鳴らした。
「そもそも君に隠し事なんて無理なんだから、さっさと話しておけばよかったのに」
「お、俺が隠し事苦手なことなんて紫苑くんは知らないじゃん……」
「語るに落ちてる……は、ちょっと違うか。聞いても聞いてなくても、どうせ口滑らせそうだもんね」
「う、うん……??」
とりあえず、いつもの調子を取り戻し始めてくれたってことでいいのか……? なんとなく纏う空気も和らいだ気がする。
それでもなおまっすぐな目で、紫苑くんは静かに言う。
「隠してること、全部吐きなよ」
「……そしたらもっと傷つけるかも」
「言ってみなきゃわからないでしょ。それに君、僕を傷つけることより、それで僕に嫌われることのほうが怖いんじゃないの。僕を気遣うふりはやめてよね」
「ちがっ……! そりゃあ、嫌われるのは怖いけど!」
思わず椅子を蹴って立ち上がりそうになって、すんでのところで止める。この静かな喫茶店を荒らす存在にはなりたくなかった。
座り直して、ぎゅうっと拳を握る。
「でも、ふりなんてしてない! 信じてもらえないかもしれないけど、俺は、ほんとに紫苑くんを傷つけたくなくて……」
「……ごめん、僕の言い方も悪かった」
はあ、と吐かれたため息に反射的にびくりとすれば、「今のは君に対してじゃないよ」とフォローされる。
そして紫苑くんは、どこか優しい表情で、しかし堂々と宣言した。
「紬に隠し事されてたくらいで、僕は傷つかないから。見くびらないでくれる?」
……本当にそうなのかどうかはともかくとして、そうなんだろうな、と信じさせる力がすごい。
ここまで言われれば、観念してすべて話すしかなかった。
――誰かに恋をしてみたかったこと。
自分から動かなきゃ駄目だとアドバイスを受けて、とりあえず一番顔が好きだと思った紫苑くんを好きになろうと、好きなところ探しから始めたこと。
好きになれなかったら一年でやめるつもりだったこと。
観察していることが初日でバレて、それからなぜかこんなふうに仲良くなれたこと。
傷つけたくなくて、嘘を絶対に隠し通そうと思ったこと。……結局失敗してしまったこと。
「……だから、最初に言った『好きになりたくて』っていうのは、そういう意味だったんだ。ずっと騙しててごめん」
返ってきたのは、「ふぅん」という軽い相槌だった。傷ついている様子は少なくとも俺からは見えなくて、こっそり胸をなで下ろす。
紫苑くんは、残ったコーヒーをゆっくりと飲んでいった。頭の中を整理しているんだろうな、と思ったので、余計なことを言わずに俺も紅茶を飲む。
……やっぱりストレートはきつい。砂糖入れちゃおう。どぼどぼと砂糖を入れる俺を見て、紫苑くんは目を細める。どことなく優しい顔だった。
数分後、紫苑くんはおもむろに口を開いた。
「それで? 僕のこと好きになれたわけ」
最初に飛び出してきた問いがそれだということに驚きつつも、うぅぅぅん、と悩む。
紫苑くんのことは好きだし、これがときめいてるってことなんだろうな、と思うことも結構ある。それでも俺には、まだ恋だとは思えない。
思いたくないだけなんじゃないか? と自分自身に問いかけてみても、でもやっぱり違うと思うよ、と返ってくる。あやふやで自信のない答えだから、いまいち信頼できないけど……。
「好きだなって思うところはいっぱい見つけたけど、やっぱ恋とかよくわかんないっていうか……大好きな友達、って感じだなぁ」
「……そ」
「でも、こうやって全部話したうえで紫苑くんのこと好きになるのはもう無理だし、他の人好きになれるように頑張ってみようかな。そのほうが紫苑くんも安心だよね?」
恋愛をするつもりのない相手からそういう好意を向けられる可能性がある、というのは、きっと負担だろう。
その負担を他の人にならかけてもいい、ということにはならないけど、今度はバレないようにできるんじゃないだろうか。観察はやめて、日常生活の中で、自然に好きになれるようにどうにか頑張って――
「は?」
「え?」
むっとした紫苑くんに、思いきり戸惑う。
え、だって、え? 今の「は?」は何に対して? よくわかんないんだけど……!? そうだねってうなずく一択なとこじゃなかった!?
「一年って期限はどうしたの」
「こうなっちゃったらもう期限とか関係なくない……? そもそも適当に自分で決めてた期限だし……」
「僕以上に好きな顔の奴はいるの?」
「いや、そりゃあいないけど……でも別にそこまで顔にこだわりもないっていうか……」
「どういう奴を好きになりたいか、もう決めてるわけ?」
「や、優しい人……とか……?」
矢継ぎ早な質問に、しどろもどろに返していく。
な、なんでこんなに不機嫌? 紫苑くん、俺に何を言わせたいんだろう。
「僕はすごい優しいと思うけど」
「まあ、うん……紫苑くんはめっちゃ優しい、けど」
「それなら僕を好きになればいいでしょ」
「――はい?」
ちょっと待て、話がすっとんきょうな方向に飛ばなかったか?
ぽかんとすれば、真剣な目と視線がぶつかる。
けれど徐々にその目は見開かれ――とんでもないことを言ってしまった、とばかりに、うろ、と視線が泳ぎ始める。非常に珍しいことだった。
「何でもない、忘れて」
「しお――」
「忘れろ。いいね?」
「…………うん」
忘れたくない、と。なぜか言いたくなって、口元を押さえる。
――なんで?
なんで、忘れたくないなんて思うんだ。
困惑で脳内がぐちゃぐちゃだった。忘れろと言われたからには忘れるしかないけど、でも、忘れるなんてできるか? 忘れたくないのに。なんで忘れたくない? ……なんでだろ。
俺は――『僕を好きになればいいでしょ』と言われて、たぶん、すごく嬉しかったのだ。
気持ち悪がられなかったことが、嫌われなかったことが嬉しかったんだろうか。……いや、たぶん違う。それだったらもっとなんというか、安心が大きい気がする。今は安心というには心臓がざわめきすぎているし、なんだかそわそわするし……。
これは、なんだ?
……なんなんだよ。
「……認めるしかないか」
ぼそっと聞こえた声に、意識が引き戻される。
「み、認めるって何を……?」
「別に。僕ってちょっとだけ変わった趣味してるなって思っただけ。……いや、いい趣味か」
そう言いながら、紫苑くんは頬を緩めた。まるでふわりと花が咲いたような、そんな笑みだった。
不意打ちの笑顔に、鼓動が速まる。
「そ、そうなんだ……?」
……なんにもわからない、けど。
傷つけることも、嫌われることもなかったんだから、もうそれでよしにしよう。
「そうなんだよ」と適当な感じでうなずいた紫苑くんは、俺のためになぜかスフレチーズケーキを追加注文してくれた。それでこの話は終わり、ということなのだろう。
思っていた以上にあっさりと終わってしまったことに、余計困惑が深まる。
もっと何かないんだろうか。……ないんだろうな。あったら遠慮なく言ってくれるだろうから。
でも結局、俺はどうしたらいいんだろう。忘れろって言われたから、つまりは俺のしたいようにしていいってこと……? それなら、やっぱり好きなところ探しはもうやめて、純粋な友達として仲良くしていればいいんだろうか。
それを紫苑くんが許してくれるなら、だけど。
そんなことを思いながらちらりと紫苑くんを見れば、「何?」と首を傾げられる。
「……ううん、なんでもない」
その表情はすごく柔らかくて、許された、と感じた。
……なら、うん。
俺は、紫苑くんとこれからもずっと友達でいよう。
スフレチーズケーキはしっとりかつふわふわで美味しかったけど、食べてる間中じっと観察するかのような視線を向けられていて、めちゃくちゃ緊張した。
好きになりたくて、という理由は厳密には嘘ではないが、正確な意味を伝えようとしていない時点で嘘だ。
紫苑くんと仲良くなった、と感じるたびに、息が苦しくなる。だって俺は、紫苑くんのことを騙しているんだから。
いっそすべてを話してしまえば、とも思ってしまったが、それで楽になるのは俺だけだ。紫苑くんを傷つける自己満足な選択。そんなものを選べるはずがなかった。
だから俺は、この嘘を一生隠し通さなければならない。
そしてもしも万が一、本当に紫苑くんに恋をしてしまった、そのときには。……気持ちがばれてしまう前に、そっと離れよう。嫌われるよりは、他人に戻ったほうが何倍もマシだ。
――隠し事が苦手なことなんてすっかり忘れて、俺はそう決意したのだった。
そんなこんなでエンドレス追試を無事クリアし、しばらくして。
「……あのー、紫苑、さん?」
「なに」
ひっくい声に、ひえっと小さい悲鳴が漏れてしまった。
「あ、その、えっと……なんか最近、嫌なことでもあった?」
最初はちょっと、なんか機嫌良くないな……? くらいだったのだ。それがなぜか日に日に悪化し、女子への対応もいつも以上に無愛想で(それでもちゃんと目を見て対応するのだから律儀だ)、俺と一緒にいても笑わなくなった。
数日様子見をしても一向に戻らなかったので、俺はついに尋ねてしまった。
いやマジで怖いんだよ。気を抜いたまま近づいたら凍っちゃうんじゃないかってくらい冷たいオーラ出てる。
紫苑くんは俺の問いに目を瞬いて、それからにっこりと、それはそれは美しい笑みを浮かべた。
「へえ、君がそれを言うんだ?」
「うえっ!?」
なに、なになに、俺そこまで紫苑くん怒らせるようなことした!? 不機嫌な理由に俺が関わってるとか思ってなかったんだけど!? だって変わらず毎日一緒に帰ってくれるし!!
焦りを募らせる俺に、紫苑くんは恐ろしいまでに優しい声で名前を呼ぶ。
「紬」
「ひゃい!」
ぴしっと背筋を伸ばして、何を言われるのだろうと震えながら待つ。
「目が合わない、よそよそしい、僕の名前を呼ぶ回数が減った、笑わなくなった――その全部に心当たりがないなんて、まさか言わないよね?」
「…………」
そのまさかです、と今この場で口にする勇気はなかった。だらだらと冷や汗が流れる。
嘘だろ、俺そんなことになってたの?
自分の行動を思い返してみても、自分じゃよくわからなかった。俺としては、ちゃんといつもどおり接しているつもりだったのだ。
しかし、絶対にいつもどおりだった、と自信満々に言うことはできない。嘘を隠さなければいけない、という気持ちが無意識に作用していたっておかしくなかった。というか、そういうことなのだろう。だからこそ紫苑くんは俺の異変に気づいたんだろうし。
俺の反応に、紫苑くんは顔をしかめたまま小さくため息をついた。
「……わざとじゃないのはわかった。でも、何かしら思うところはあるってことだよね。言いたいことあるなら、言ったら」
「えっ!? な、なんにも!」
「うそつき」
そんなふうになじられるとは思っていなくて、ひゅっと息を呑む。
うそつき。……嘘つき。それを言われるのは痛かった。俺は紫苑くんに対して、最初から嘘つきだったから。
否定もせずにうつむくと、紫苑くんがぽつりとつぶやく。
「……君も、嘘なんてつくんだ」
――傷つけた。
傷つけたくないから隠そうとしたのに、結局傷つけてしまった。
泣きたくなって、でも俺に泣く資格なんかないからぐっとこらえる。
顔を上げれば、紫苑くんと目が合った。……確かに、正面から目を合わせるのは久しぶりだ、と感じた。綺麗な琥珀色の瞳に、今は寂しげな影が落ちている。それでもなお綺麗だけど、一番綺麗なのは、やっぱり笑っているときなのだ。
「ごめん」
「……立ち話するようなことじゃなかったね。移動しよう」
俺の謝罪を受け取ってくれたのか、受け取ってくれなかったのか。それも窺わせない表情で、紫苑くんは歩き出した。
「この時間ならまだ親もいないんだけど、うち来る?」
「え、ええっ、と……」
「……なら別の場所にしよう。静かなところがいいよね」
紫苑くんの家で二人きりは気まずい、と思ってしまったのをすぐに察して、紫苑くんは提案を引っ込めた。
結局向かった先は、前にも来た喫茶店。幸運にも、というべきか、俺たち以外の客はいなかった。
コーヒーと紅茶を注文して、紫苑くんはそれが運ばれてくるまで一言も発さなかった。……何も言わなかったのは、俺も同じだけど。
こんなときでも紫苑くんは「いただきます」とつぶやいて、コーヒーカップを傾ける。
俺も一口だけ紅茶を飲んだ。この状況でどっさりと砂糖を入れる気にもなれなかったので、ストレートだ。ミルクも入れない。
「……砂糖、入れないの」
「い、今は、気分じゃないかな……」
「そ」
いまだかつてないほどのぎすぎすとした空気。紫苑くんといて居心地が悪いと感じるなんて、最初に話したとき以来だった。
紫苑くんが音も立てずにカップを置いたので、ついに話の続きが来るか、と姿勢を正す。
真剣な表情で、紫苑くんは単刀直入に切り出した。
「謝罪は求めてない。あんな態度取った、理由を聞かせて」
どこまでもまっすぐな視線だった。
紫苑くんは本当に、どんなときでも自分を保つことができるんだと思う。そのくらい強い芯があるのだ。そういうところが好きだと感じて――思考を打ち切る。
こんなときにまで好きなところ探しとか、何考えてんだ俺。癖になってるって言ったって、さすがに今はだめだろ。
そう自分を叱咤してから、俺はゆっくりと言葉を返し始める。
「……俺、紫苑くんに言ってないことがあって」
「……うん」
「でもそれを言って楽になるのは俺だけで、ただの自己満足で、紫苑くんを傷つけることになるから、だから……隠さなきゃって、思ってたんだけど」
訥々と告白しながら、目を逸らしたくなる。でも、こんなまっすぐ見てくれる人から目を逸らすなんて不誠実なことはできない。
琥珀色の瞳を見つめながら、わずかに震える声を吐き出す。
「……結局、そのせいで紫苑くんを傷つけちゃってごめん」
「謝罪は求めてないって言ったはずだけど。僕に言ってないことって、何」
「うっ、やっぱり言わなきゃだめ、だよなぁ」
間髪入れずに返された言葉に呻けば、紫苑くんは「当たり前でしょ」と鼻を鳴らした。
「そもそも君に隠し事なんて無理なんだから、さっさと話しておけばよかったのに」
「お、俺が隠し事苦手なことなんて紫苑くんは知らないじゃん……」
「語るに落ちてる……は、ちょっと違うか。聞いても聞いてなくても、どうせ口滑らせそうだもんね」
「う、うん……??」
とりあえず、いつもの調子を取り戻し始めてくれたってことでいいのか……? なんとなく纏う空気も和らいだ気がする。
それでもなおまっすぐな目で、紫苑くんは静かに言う。
「隠してること、全部吐きなよ」
「……そしたらもっと傷つけるかも」
「言ってみなきゃわからないでしょ。それに君、僕を傷つけることより、それで僕に嫌われることのほうが怖いんじゃないの。僕を気遣うふりはやめてよね」
「ちがっ……! そりゃあ、嫌われるのは怖いけど!」
思わず椅子を蹴って立ち上がりそうになって、すんでのところで止める。この静かな喫茶店を荒らす存在にはなりたくなかった。
座り直して、ぎゅうっと拳を握る。
「でも、ふりなんてしてない! 信じてもらえないかもしれないけど、俺は、ほんとに紫苑くんを傷つけたくなくて……」
「……ごめん、僕の言い方も悪かった」
はあ、と吐かれたため息に反射的にびくりとすれば、「今のは君に対してじゃないよ」とフォローされる。
そして紫苑くんは、どこか優しい表情で、しかし堂々と宣言した。
「紬に隠し事されてたくらいで、僕は傷つかないから。見くびらないでくれる?」
……本当にそうなのかどうかはともかくとして、そうなんだろうな、と信じさせる力がすごい。
ここまで言われれば、観念してすべて話すしかなかった。
――誰かに恋をしてみたかったこと。
自分から動かなきゃ駄目だとアドバイスを受けて、とりあえず一番顔が好きだと思った紫苑くんを好きになろうと、好きなところ探しから始めたこと。
好きになれなかったら一年でやめるつもりだったこと。
観察していることが初日でバレて、それからなぜかこんなふうに仲良くなれたこと。
傷つけたくなくて、嘘を絶対に隠し通そうと思ったこと。……結局失敗してしまったこと。
「……だから、最初に言った『好きになりたくて』っていうのは、そういう意味だったんだ。ずっと騙しててごめん」
返ってきたのは、「ふぅん」という軽い相槌だった。傷ついている様子は少なくとも俺からは見えなくて、こっそり胸をなで下ろす。
紫苑くんは、残ったコーヒーをゆっくりと飲んでいった。頭の中を整理しているんだろうな、と思ったので、余計なことを言わずに俺も紅茶を飲む。
……やっぱりストレートはきつい。砂糖入れちゃおう。どぼどぼと砂糖を入れる俺を見て、紫苑くんは目を細める。どことなく優しい顔だった。
数分後、紫苑くんはおもむろに口を開いた。
「それで? 僕のこと好きになれたわけ」
最初に飛び出してきた問いがそれだということに驚きつつも、うぅぅぅん、と悩む。
紫苑くんのことは好きだし、これがときめいてるってことなんだろうな、と思うことも結構ある。それでも俺には、まだ恋だとは思えない。
思いたくないだけなんじゃないか? と自分自身に問いかけてみても、でもやっぱり違うと思うよ、と返ってくる。あやふやで自信のない答えだから、いまいち信頼できないけど……。
「好きだなって思うところはいっぱい見つけたけど、やっぱ恋とかよくわかんないっていうか……大好きな友達、って感じだなぁ」
「……そ」
「でも、こうやって全部話したうえで紫苑くんのこと好きになるのはもう無理だし、他の人好きになれるように頑張ってみようかな。そのほうが紫苑くんも安心だよね?」
恋愛をするつもりのない相手からそういう好意を向けられる可能性がある、というのは、きっと負担だろう。
その負担を他の人にならかけてもいい、ということにはならないけど、今度はバレないようにできるんじゃないだろうか。観察はやめて、日常生活の中で、自然に好きになれるようにどうにか頑張って――
「は?」
「え?」
むっとした紫苑くんに、思いきり戸惑う。
え、だって、え? 今の「は?」は何に対して? よくわかんないんだけど……!? そうだねってうなずく一択なとこじゃなかった!?
「一年って期限はどうしたの」
「こうなっちゃったらもう期限とか関係なくない……? そもそも適当に自分で決めてた期限だし……」
「僕以上に好きな顔の奴はいるの?」
「いや、そりゃあいないけど……でも別にそこまで顔にこだわりもないっていうか……」
「どういう奴を好きになりたいか、もう決めてるわけ?」
「や、優しい人……とか……?」
矢継ぎ早な質問に、しどろもどろに返していく。
な、なんでこんなに不機嫌? 紫苑くん、俺に何を言わせたいんだろう。
「僕はすごい優しいと思うけど」
「まあ、うん……紫苑くんはめっちゃ優しい、けど」
「それなら僕を好きになればいいでしょ」
「――はい?」
ちょっと待て、話がすっとんきょうな方向に飛ばなかったか?
ぽかんとすれば、真剣な目と視線がぶつかる。
けれど徐々にその目は見開かれ――とんでもないことを言ってしまった、とばかりに、うろ、と視線が泳ぎ始める。非常に珍しいことだった。
「何でもない、忘れて」
「しお――」
「忘れろ。いいね?」
「…………うん」
忘れたくない、と。なぜか言いたくなって、口元を押さえる。
――なんで?
なんで、忘れたくないなんて思うんだ。
困惑で脳内がぐちゃぐちゃだった。忘れろと言われたからには忘れるしかないけど、でも、忘れるなんてできるか? 忘れたくないのに。なんで忘れたくない? ……なんでだろ。
俺は――『僕を好きになればいいでしょ』と言われて、たぶん、すごく嬉しかったのだ。
気持ち悪がられなかったことが、嫌われなかったことが嬉しかったんだろうか。……いや、たぶん違う。それだったらもっとなんというか、安心が大きい気がする。今は安心というには心臓がざわめきすぎているし、なんだかそわそわするし……。
これは、なんだ?
……なんなんだよ。
「……認めるしかないか」
ぼそっと聞こえた声に、意識が引き戻される。
「み、認めるって何を……?」
「別に。僕ってちょっとだけ変わった趣味してるなって思っただけ。……いや、いい趣味か」
そう言いながら、紫苑くんは頬を緩めた。まるでふわりと花が咲いたような、そんな笑みだった。
不意打ちの笑顔に、鼓動が速まる。
「そ、そうなんだ……?」
……なんにもわからない、けど。
傷つけることも、嫌われることもなかったんだから、もうそれでよしにしよう。
「そうなんだよ」と適当な感じでうなずいた紫苑くんは、俺のためになぜかスフレチーズケーキを追加注文してくれた。それでこの話は終わり、ということなのだろう。
思っていた以上にあっさりと終わってしまったことに、余計困惑が深まる。
もっと何かないんだろうか。……ないんだろうな。あったら遠慮なく言ってくれるだろうから。
でも結局、俺はどうしたらいいんだろう。忘れろって言われたから、つまりは俺のしたいようにしていいってこと……? それなら、やっぱり好きなところ探しはもうやめて、純粋な友達として仲良くしていればいいんだろうか。
それを紫苑くんが許してくれるなら、だけど。
そんなことを思いながらちらりと紫苑くんを見れば、「何?」と首を傾げられる。
「……ううん、なんでもない」
その表情はすごく柔らかくて、許された、と感じた。
……なら、うん。
俺は、紫苑くんとこれからもずっと友達でいよう。
スフレチーズケーキはしっとりかつふわふわで美味しかったけど、食べてる間中じっと観察するかのような視線を向けられていて、めちゃくちゃ緊張した。