10 別れ

 お祖父さんは、眠ったままゆっくり呼吸をしていた。いつもと違うのは僕でも分かった。

顔色が土気色。目の下がくぼんで青黒い。可愛らしいフゴーという寝息がしない。酸素投与を受けながら、ゆっくり喘ぐように顎を動かして呼吸している。そっと桜の入れ墨の手をさすってみた。冷たくてびっくりした。手を添えて、涙がこぼれた。

何て声をかけていいのか分からない。胸の内でお祖父さんへ語りかける。

(お祖父さんの穏やかな顔が好きでした。そうかそうか、と繰り返してニコニコ頷くお祖父さんから、優しさが溢れていました。ずっと、そこに居てくれるような安心感がありました。僕に話しかけてくれて、ありがとうございました。和田君と僕をつないでくれて、ありがとうございました。お祖父さんのおかげで、僕は孤独じゃなくなりました)

 そっとお祖父さんの手を撫でて、動かない指先を温めながら心の中で丁寧に「ありがとう」を伝えた。

 和田君は、そんな僕とお祖父さんを静かに見ていた。


 病院からバスで和田君の家に行った。帰宅途中のコンビニで夕食と朝のパンを買った。胸がいっぱいで互いに話すことはなく帰宅した。帰宅したら二十時前になっていた。

「修、ありがとう」
和田君の落ち着いた一言に涙がジワリと浮かぶ。ぐっと堪える。

「長生きだから大往生だ、笑顔で送ってやろうって大人は言うけどさ、俺も覚悟していたけどさ、やっぱし悲しいものは悲しいよな」
そっと静かに涙する和田君。

大きな背中を包み込んであげたい。そんな気持ちで後ろから和田君を抱き締める。やっぱり大きい。和田君はそのまま静かに泣いた。しばらくそのまま過ごした。和田君が顔を上げて袖で涙を拭う。
「飯にしよう」
振り向いて僕を見る和田君の顔は優しい笑顔だった。

 お弁当をチンする。何買ったの? とお互いに見せあう。小さく笑って心がふわりと軽くなる。広い和田君の家。今日は泊ることにして良かった。和田君一人ではもっと広く感じてしまうだろう。二人でたわいもない学校の話をした。食事をしてお風呂を借りて布団に入る。和田君の部屋に布団を準備してくれた。

「灯り消すよ。おやすみ」
「おやすみ」
小さな灯りにしてくれて真っ暗じゃない。
「なぁ。人って死ぬ前に冷たくなるんだな。まだ生きているのに祖父さんの手、冷たかった」
暗い部屋に和田君の優しい声が響く。

「うん。僕も驚いた」
「今日、一緒にいてくれてありがとう。祖父さんってずっとあのまま生きているんだろうって思っていたから、本当に死んじゃうのかって目の当たりにすると、やっぱショックだわ」
「うん」
「だから夜が一人って、ちょっとしんどかった。高校生にもなって恥ずかしいけど」
「僕が、いるよ。和田君がしんどい時は、僕が傍に居る」
「そっか。修が居てくれるのか。それなら、大丈夫かな」
「うん」

「そっち、行ってもいい?」
「狭くなるよ?」
「いい。今日は人肌が恋しい」
「じゃ、どうぞ」
暗闇に大きな影が動いて僕の布団に和田君が入ってくる。和田君の肌は温かい。やさしく抱きしめられて和田君の体温も呼吸も伝わってくる。

「あったかい」
和田君の声が僕の身体に響く。
「うん。温かいね」
その日は一つの布団で密着して眠った。キスや変な事にはならず、お互いの存在を温め合うように優しい眠りについた。まるで和田君の心を抱き締めているような夜だった。大きな身体の和田君を包み込んであげたいと思った。和田君の良い匂いに包まれて幸せ。心臓が高鳴って心が満たされる。僕は和田君が好きだ。和田君が、大好きだ。

いつか和田君に僕の想いを伝えられるといいけれど。でも目の前の和田君との時間を壊したくない。いつまでも輝く時間の中にいたいと願ってしまう。僕は欲が深いなぁと自分に笑う。
 

 次の日の夕方、和田君の曽祖父さんは息を引き取った。五月晴れのいい日だった。百一歳の長寿だった。

僕は、菜の花を見るたびに、桜の花びらを見るたびに、和田君のお祖父さんを思い出すだろう。晴れた空に『ありがとう』を送った。
   【完】