4 広がる世界

 それから僕たちは学校でも時々挨拶をする。

「おはよう」と声を掛け合う相手のいる事がこんなに嬉しいなんて知らなかった。学校では下か外を見ていた僕に見ても許される存在ができた。

友達と話している和田君をこっそり見る。いつも和田君は周りの友達の話を良く聞いている。タイミングよく話を盛り上げたり、切ったりもする。沢山は喋っていないのに会話を仕切っているのは和田君だと分かる。目が広くて全体を把握しているんだな、と思う。

これまで下を向いてきたから気がつかなかったけれど、僕みたいな存在に悪意を持っている人ばかりじゃないようだ。どちらかというと、僕をそっとしてくれている人が多いように思った。

目線を上げることで見えてきたこともあるし、和田君を見ることで「キョロキョロしてんなよ、キモイ」と悪口が飛ぶこともある。その時はすぐに下を向くようにする。一部からは、僕は底辺の存在なのは確かだ。でも、クラス全員が怖いことはないと分かったことは、嬉しかった。


 水曜日に介護施設に一緒に行く。いつの間にか僕と和田君の恒例行事になっている。誰かと過ごすことがくすぐったくて温かくて嬉しい。

「今日、アイス食べてかない?」
十月はじめでまだ暑い日。施設の一階にあるアイスの自動販売機前で和田君が言う。

夏にはいつも食べたいと思っていた。でも一人でアイスなんて恥ずかしくて買えなかった。いつも眺めるだけの素通り自動販売機。嬉しくて心臓が目の前まで高跳びしてくるみたい。

「うん。暑いよね。食べたい」
頬が熱くなりながら返事をする。

「かーわいい」
和田君に頬をなでられる。和田君はスキンシップが多い。こんな些細な事に僕の心はバクバク鳴りっぱなしになる。何も言い返せず、ただ顔が熱くなる。何だか恥ずかしい。

 
 今日のお祖父さんは起きていて、ニコニコしていた。和田君が誰か分かっていない様子だった。

声をかけても、「そうか、そうか」しか言わない。「いつものことだよ」と和田君は言う。時には分かっているときもあるようだ。何回か一緒に来ているが、起きていたのは今日を含めて二回。

 和田君のお祖父さんは、寝顔も起きている顔も穏やか。その顔を見て、目元の穏やかさと、口元のきれいに左右対称に上がる微笑み方が和田君とソックリなのだと分かった。僕と話して以降、長くお祖父さんが話すことはない。

 僕はまだ、桜の入れ墨の話を和田君にできていない。

 僕のお祖母ちゃんとこにも、水曜日は一緒に部屋に入る。お祖母ちゃんは和田君が来ると喜ぶ。修のお友達、として歓迎してくれる。くすぐったい。友達と呼ばれて否定しない和田君。優しいと思う。

 今日はこの後アイス食べるんだよ、お祖母ちゃんに言いたくてウズウズした。

「今日はなんだか楽しそうねぇ」
お祖母ちゃんに言われて和田君と顔を合わせて笑ってしまった。お祖母ちゃんに言いたいのに、言ったら勿体ないような心が沸き上がる。

「二人の内緒、なのね」
うふふ、と笑いながら言うお祖母ちゃん。

「そーです」
そう答える和田君も笑顔。二人の秘密、という特別な言葉がくすぐったくて僕も笑顔になる。三人で笑う。

 お祖母ちゃんの部屋がフワッと明るくなったように見えた。


 一階の自動販売機。何を選ぼうか迷ってしまう。悩んだ末に、チョコミントを選んだ。和田君はソーダ味。二人で冷たいアイスをもって自転車置き場の花壇に座る。お決まりの場所になった、日陰の花壇。

「まだ暑いな~。アイス日和だ」
和田君がパクリとアイスにかぶりつく。友達と、アイス。これまで想像もしなかったことに、頬が緩む。好きなチョコミント味をペロリと舐める。アイスってこんなに美味しかったかな。心が躍る美味しさだ。

「冷たくて、染み入るうまさ~~」
「うん。染み入るね。美味しい」
パクパク食べる和田君を見つめる。

「影山、垂れてる!」
僕のアイスが手に垂れてきていた。

「あ、大変っ」
慌てて手の位置を遠くにする。溶け始めているところを舐める。

和田君が、さっとティッシュを出して、僕の手を拭いてくれる。横を見ると、自分のアイスを口にくわえている。置くところがないから、口か。そんな姿も様になっている。かっこいいな、見惚れてしまう。

「あとで洗おう」
拭いても取れないベタベタに笑ってしまった。

花壇にはパンジーが咲いている。風に揺れて、花と土の匂い。ここで食べるアイスの美味しさに感動する。

和田君との少し沈黙の時間。二人で何となくここに座ることに慣れてしまった。話をするのも、静かな沈黙も和田君とは苦痛じゃない。和田君が大学生のお姉ちゃんと二人兄弟で、僕は一人っ子だと話す。そんな、ささいな会話がすごく楽しい。

ふわりと風が吹き戻したはずの僕の前髪が分かれる。和田君は僕の前髪をよく分ける。顔を出してみたら、と言われるけれどそれには苦笑い。和田君みたいな華やかな人には分からない苦労があるのだ。

前髪の分かれてしまった僕の顔を和田君が見ている。照れ笑いして髪を戻そうとするが、手がアイスでベトベトだった。しばらくいいか、とそのままにする。

「そういえば、和田君のお祖父さん、手に入れ墨があるんだね」
「ああ。見た?」

「うん。初めてお祖父さんに会ったときに。僕、入れ墨ってヤクザがするものだと思っていたから、悲しい入れ墨なんだって知って、チラチラ見て悪いことをしたと思ったんだ」

「爺さんと話してたのって、その話?」
「うん」

「俺は親から聞いたけど、戦争のせいでできた痣みたいなものって聞いたよ。詳しくは知らない。祖父さんにとって良いものではないから、直接聞いちゃだめって言われてる」

アイスを食べ終えて、手をティッシュで拭く。

「なあ、祖父さん、何て言ってた?」

「手の入れ墨は、シベリア抑留の時にソ連の人に勝手に彫られてしまったんだって。今でも鉄道作業の夢を見るって言っていたよ」

「ふぅん」
風がふわりと流れる。

「影山、どう思った?」
和田君は、まっすぐな目で僕を見ている。

「……僕は、お祖父さんが辛い話を、優しい顔で話してくれたことが心に残った、かな。もう痛くないよってニッコリしてくれた顔は、優しかったよ。家でシベリア抑留を調べて泣いちゃった。多分、そんな簡単な一言じゃすまないんだろうけど、心に、残ったよ」

僕をじっと見る和田君。何だろう。変な事言っちゃったかな。不安になる。しばらく沈黙。フハっと笑う和田君。

「あー、祖父さんに感謝だな。祖父さんが話してなきゃ、俺はヤクザの孫だって思われてたか」

「え、あの。ごめん」
焦ってしまい、謝ってしまった。

「なんで謝るんだよ。面白いなぁ。あのさ、祖父さん一緒に暮らしていても戦争の話は絶対しなかったんだ。小学校とかで戦争のこと授業でやるじゃん。それとかも、絶対協力してくれないの。なんでだよって思っていたけれど、祖父さんの中では、まだまだ苦しさが続いてたのかな。俺は、色々と、不出来なひ孫だわ」

空を見上げている和田君の目から、涙が一粒こぼれた。

「影山が、心に残ったって言ってくれたこと、俺、忘れない」

一筋だけ綺麗な涙を流した和田君は、袖でグイっと顔を拭った。僕は、どうしていいのかわからなかった。

「さて、ごみ捨てて手、洗ってくるか」
僕を見る顔は、輝く笑顔だった。

 チョコミントは色が食べ物の色じゃない、と話しながら手を洗う。それでも美味しいことを伝えるが、僕の語力では、うまく伝わらない。

じゃあ、来週も晴れていたらアイスにしようと約束する。新しい約束だ。嬉しくて心臓がソワソワしだす。

晴れた空を見て、まだまだ暑さが続くように願った。