3 縮まる距離

 水曜日。朝に洗濯物を干しながら小さなため息が出る。天気もいいし、いつもなら元気をもらえる時間。

あれから和田君のお祖父さんには会っていない。ロビーに出てきていないから会えない。僕が部屋を探すのは変だろう。

今日は施設の自転車置き場で待てばいいのかな。いや、また会ったら挨拶くらいしろよって意味なのかな。もし本当に僕なんかが待っていたらキモイって言われるかも。冗談だったかもしれない。学校では和田君と挨拶もしないし、どうしたらいいのか分からない。

そう言えば和田君はお祖父さんの桜の入れ墨の事を知っているのかな、と疑問が頭に浮かんだ。

「おはよ~」
「おはよ! ユーチューブみた? ○○、動画アップしてたよね~」

学校の朝は賑やか。色々な声が飛ぶが、僕はすべてをすり抜けて自分の机に座る。自分の机と窓の外。見るところはそれくらいにしないと途端に悪口が飛ぶ。視線は下げておく。いつもの事。

目の前の椅子がガタンと鳴る。前の席の人が来たのか。早いな、そう思った。

「おはよ」
僕に向かって声が落ちてくる。びっくりして見上げると、和田君。ぽかんと見つめてしまった。

「影山、今日そのまま行く? どっか寄ってから?」
お祖母ちゃんの施設の話だ。周りが全員こっちを見ているように思えてしまう。顔が熱くなり汗がにじむ。

「そのまま行く?」
もう一度聞かれる。下を向いてコクリと小さくうなずく。精一杯だ。

頭の中では「おはよう」とか「そのまま行くよ」とか返事しなきゃと思っているんだ。だけど、手に汗が出て緊張で声が出てこない。

「うん。分かった」
席を立つ和田君。遠くから「ガッチャン、あいつと知り合い?」など声が飛んでいる。

すぐに話題が流れていった。だけど僕は心臓がバクバク鳴って、その後の授業が全然頭に入らなかった。

 放課後、気持ちがソワソワしてお祖母ちゃんの施設に向かう。一応教室を出る時に和田君をチラリと見た。和田君はいつものように友達と喋っていた。僕のほうが早く着くかな、待っていればいいかな? 本当に来るのかな? そんなことで頭がいっぱいになる。


「お、早いな」
自転車で風と共に現れた和田君。施設の自転車置き場で会う。本当に、来た。待っていた時間の不安が一気に吹き飛び心がホカホカする。僕に普通の友達みたいに声をかけてくる。

「俺、祖父さんとこ行くけど、一緒に行かない? そのあと、影山の祖母ちゃんとこ行こうよ」
和田君は僕がお祖母ちゃんところに来ているって知っていた。施設の人に聞いたのかもしれない。

 二人で黙って歩いていく。お祖母ちゃんとこに行くから歩きながら前髪を分ける。

和田君のお祖父さんはお祖母ちゃんと同じフロアだった。和田君に続いてお祖父さんの部屋に入ると今日はお祖父さんは寝ていた。

「祖父さんさ、寝ていること多いんだよ。起きても、ボーっとしてる。だから、先週お前と話してるの見てビックリした」
先週、どこから見ていたのかな。そんなことを思い和田君を見る。

今日のお祖父さんは起きない。フゴーっと穏やかな顔で寝ている。今日はシベリアの夢じゃないといいな、そう思った。

お祖父さんは小柄で手の大きな骨格のしっかりがっちりタイプ。昔ながらの大工さんが似合いそうだな、と思う。和田君は長身の肩幅の広いスポーツマンタイプ。

運動部には所属していないが、外部のスポーツクラブでテニスをしているって女子が騒いでいた。お祖父さんの顔と見比べる。全然、似ていない。ちょっと口元が緩んでしまった。

「何?」
和田君に顔をのぞかれる。近い。びっくりして後ろに反る。背もたれのないスチール製の丸椅子から落ちそうになる。

「うわっ」
小さく声を上げて、背中に来る衝撃に身構えた。が、温かい。ふわりと良い匂い。

硬い身体を背中に感じる。大きな腕が僕をすっぽり包んでいる。他人の呼吸を頭に感じた。心と心臓が別の活動を始めたみたいに体中がバクバクする。

転ぶはずの僕は、背中を支えられて和田君の胸に抱き留められていた。

「びっくりした」
頭の上から声が降ってくる。こっちもびっくりだよ! ありえない状況に口から言葉が飛び出た。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

「あ、いや。影山、悪い事してないじゃん。顔、真っ赤だな」
ふはは、と笑い僕を解放する。

「いい匂いするね。女子より清潔ないい匂い」
さらりと凄いことを言う。僕は匂いの事で色々と苦労しているから、そこを話題に出来ない。和田君は嫌な匂いがしなかった。

和田君なら匂いのことを口にしても誰もが許すのだろう。きっと僕とは違う世界の人なのだ。

「洗剤の、匂いだよ」
下を向いて小さく答える。

「一歩前進。応えてくれるようになってんじゃん」
僕を見る和田君が嬉しそうに笑う。こんな風に会話をするなんて思っていなかった。さわやかな笑顔がまぶしい。背中がムズムズする。口元が、また緩んでしまった。恥ずかしくて下を向く。そんな僕に笑いかける和田君。

「今日は祖父さん起きないな。影山んち祖母ちゃんとこ、行こ」
お祖父さんの布団から出ている手を見つめる。桜の入れ墨のこと、和田君に言ってみようかな。悩むうちに立ち上がる和田君。慌てて後に続く。寝ているお祖父さんに、ぺこりと頭を下げる。

 迷わずに僕のお祖母ちゃんの部屋に到着する。知っている事に驚いた。
「ココだろ?」

振り返る和田君を見上げてコクリと頷く。
「こんにちは~」
ノックしてスライドドアを開ける。

僕より先に入る。孫の僕より先に入るんだ。ちょっと笑えてしまう。

「あら、こんにちは。新しい方かしら?」
お祖母ちゃんは施設の人かと思っている。制服なのに和田君が大きいから大人に見えたのかな。

「お祖母ちゃん、僕のクラスの、……人」
何て紹介していいのか分からない。僕の言葉にフハっと笑う和田君。

「同じクラスの和田学です。僕の曽祖父も入所しているので今日は影山君と一緒に来ました」
「まぁ、修のお友達? まあ。嬉しい」

ニコニコ椅子を勧めている。ごめんね、友達じゃないんだ。その言葉は飲み込んだ。

「身体が大きいのね。何か運動でもしているの?」
和田君とゆっくり会話をするお祖母ちゃん。和田君はハキハキ聞き取りやすく答えている。親切な対応だ。

僕はいつも傍にいるだけだから、お祖母ちゃん本当は色々話したかったのかな。そう思うと自分が惨めになってくる。和田君は自信があって完璧だ。あんな孫が良かったよね。

会話する二人を見ていたはずが、いつの間にか僕は靴を見ていた。足首を少し動かして自分の靴を眺める。

「影山、ごめん。俺ばかり話して」
ふと僕に話が振られる。目線を上げると僕を見ている二人。

「あ、ううん。大丈夫」
慌ててお祖母ちゃんに笑いかけるが、うまく笑えたかわからない。

「修、ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに。ああ、そうそう。またカーディガンお願いできるかしら?」
洗濯物だ。ちょっと嬉しくなる。僕がお祖母ちゃんにしてあげられる唯一のこと。

「どれ?」
「この、赤いのをお願い。ロビーに出るときに使っているの。そろそろ修が来たら頼もうかと思ったのよ」

「次か、次の次までに持ってくるね」

カーディガンをバッグにしまう。下着や日常のパジャマなんかは請け負うことが出来なくて施設の人が洗濯してくれる。だけど上着やひざ掛けは僕が洗っている。僕はお祖母ちゃんに少しでも外の風の匂いとお日様の匂い、家の匂いを届けたいから。

 背骨の骨折後から下半身が不自由なお祖母ちゃん。そのせいで身体が冷えるって夏でも掛物が欠かせない。

僕が洗ったものを使ってもらえると、僕がお祖母ちゃんを温めているように思えて心が温かくなる。コレは大切な僕の仕事。

お祖母ちゃんが幸せそうに笑ってくれることが本当に嬉しい。お願いされると途端に心がほんわか温まる。さっきまでの沈んだ気持ちは消えていた。

そんな僕とお祖母ちゃんのやりとりを、黙って和田君は見ていた。


「お前って、スゲーな」
自転車置き場に向かいながら和田君が口を開いた。何が? なんで? と思ったが、言葉に出来ず和田君を見つめた。

「俺、塾のついでに祖父さんの様子見て来いって親から言われて、仕方なく祖父さんとこ来てたんだ。ほとんど寝てるし、なんで俺? とかムカついて、はじめのころは顔見たら帰ってたわ」

和田君が足を止める。つられて僕も立ち止まる。

「一年の終わりころかな。ここで影山見かけて。お前も一緒かと思っていたけど、学校にいるときより、ずいぶん良い顔しているから気になって。お前、学校だと隅っこを背中丸めて下向いて歩くのに、ここだと前見て歩くんだよな。

祖父さんとこに来て影山見かけると、気になって少し長く祖父さんとこに居るようになった。そうすると、おんなじ寝顔なのに、毎回祖父さんの表情が違って見えるんだよな。

今日はいい夢見てんのかな、とか思うようになった。あぁ、祖父さん、生きてるんだなって実感したというか」

ゆっくり歩き始める。和田君の言葉は外見のイメージとだいぶ違う。前をまっすぐに向く横顔を見つめながら歩いた。

自転車置き場についたのに和田君は花壇のレンガに腰かけてしまう。これは傍に座ったほうがいいのかな。考えていると、手でポンポンと『ここに座れ』と合図をされる。

「塾に、遅れるよ?」
「大丈夫。今日は休みにしてある。代替で金曜日にしたんだよ」

じゃ、いいのかな。少し間を開けて近くに座る。それを見てフハっと笑う和田君。

「影山、お祖母さんの服、どうしてんの?」
「洗濯、しているよ。上掛けだけ。全部は、ちょっと出来ないから」

「自分で洗濯するの?」
「……うん。洗濯、好きなんだ。僕、ちょっとおかしいんだ。変なんだよ」

恥ずかしくて下を向く。きっとキモイって言われるだろう。

「いや、変じゃないだろ。もしかして家で洗濯担当とか? 家事やってんの?」

予想外にするりと流される。覚悟していた反応と違って、力が抜ける。和田君を見る。

「そういうワケじゃないよ。僕の、自分の分とお祖母ちゃんの洗濯、だけ」
「へ~。こだわり、なのかな。それで影山はいい匂いなんだ」

明るく笑いかけてくる。いい匂い、その言葉で顔が熱を持つ。汗が出そうだ。

「いい匂いって、言えてすごいね」
素直にそう思った。

「え? それくらい言うだろ?」
笑っている和田君には、僕の苦労は分からないだろう。

「お祖母さん、喜ぶといいな」
「うん」
この言葉は、ちょっと嬉しかった。顔が緩む。

「やっぱり、影山は綺麗な顔しているよ。そういう顔は学校で、しないよな」
僕をまっすぐ見つめる視線に、ドキリとする。

そっと前髪をよけられて、びっくりして動けなくなってしまう。本日二回目の心と心臓が追いかけっこ状態になる。心臓、胸に戻って落ち着いて。身体中を走り回らないで。僕の息が上がってしまう。

大きな手が、そのまま頬をなぞり、すっと離れる。ドキドキしすぎて耳鳴りがする。長い前髪がなくなり、視界が開けている。和田君の目線を直に感じる。目線が、外せない。ふわりと和田君が微笑む。息が、心臓が一瞬止まりそうになった。少し遅れて、心臓が存在を主張する。

「帰ろうか」
和田君が立ち上がり手を差し出す。何も考えられず、自然と手を乗せて引っ張られて立ち上がる。

「はは。軽っ」
ご機嫌な和田君。

「じゃあな。また水曜日に」
自転車に乗り去っていく和田君をぼんやり見送った。今日も晴れた空に茶色の髪が輝いている。

 僕から、花壇の土の匂い。嫌いじゃない。