2 出会い

 水曜日。今日もいい天気だ。放課後に施設までの自転車で汗が流れる季節。息が上がるけど気持ちがいい。

お祖母ちゃんはロビーに車椅子でいた。僕を見て微笑んでくれる。

そっとお祖母ちゃんの傍に行く。時々こうしてロビーに入所者が集まっている。集まっているというか、集められているのかな。みんなで日向ぼっこしているみたいに見える。穏やかな光景だ。

 お祖母ちゃんの横に車椅子に座った、すごく歳の多いお爺さんがいた。

ふとお爺さんの手を見ると、手の甲に桜の花びらの入れ墨。灰色で輪郭だけ描いてある。薄いけれど入れ墨だ。ドキッとした。

きっとヤクザなのかもしれない。お祖母ちゃんが近くにいて大丈夫なのかな。ドキドキしてしまう。チラチラ見てしまっていたかもしれない。

「これなぁ、気になるか?」
ニコニコしながら、お爺さんが話しかけてきた。

ヤクザには見えない優しい感じだ。僕はフルフル首を横に振った。お爺さんはニコニコして続ける。

「これな、ソ連に彫られただよ。俺はな、シベリアに捕虜になっててな。そん時に、夜になると、ソ連が入れ墨やるぞーって。

腕やら、手やら。とうとう俺の番がきて、何を彫られるかと思ったら、日本なら桜だって言われたなぁ。

痛くても声を上げるなって言われて。死にたくはないから我慢したなぁ。日本に、家に帰りたかっただよ。

最近なぁ、あの頃を思い出すだよ。これまで、なるたけ思い出さんようにしていたがな。今でも線路の枕木を変えてる気になる。日本に帰れて、仕事して、家族がいて、幸せな日を思い浮かべればいいだが、なんで辛い記憶が巡るだか。

寒くても、熱が出ても、腹が捻じれるほど減ってても、枕木の固定してある鉄を抜いて、古い木をどけて新しいの置いて、また鉄の杭を打ち込んで固定して。ずーっとあの繰り返しだ。線路は長くて終わりがなくてなぁ。

夢に見ると、身体があん時のように動いてることもあるなぁ」

僕はびっくりしてしまった。この灰色の入れ墨はお爺さんの見られたくないものだったのかもしれない。じっと見てしまった自分が恥ずかしい。どうしよう。ごめんなさい、それも違う気がする。

「あのぅ、もう、痛くはないですか?」
そっと聞いてみた。

「あぁ、痛かぁないよ」
大きくない僕の声はお爺さんに届いた。ニコニコ返事をするお爺さん。優しい顔だ。

「お部屋戻りましょうね~~」
職員のお姉さんに連れられてお爺さんが去っていく。

僕はお祖母ちゃんの顔を見ながら、悪いことをしたような、どうしていいのか分からない悲しさがこみ上げた。

「大丈夫よ。年寄りは、みぃんな色々あるものだから」
ニコニコ穏やかなお祖母ちゃん。

「また、おいで。ありがとうね」
今日も温かい言葉をくれる。

 色々と考えてしまいボーっと自転車置き場に向かって歩いた。


「おい」
急に声がかかる。びっくりして飛び上がってしまう。

え? 僕? 心臓がドクドク鳴る。身体が静止する。誰? 僕、何かした?

「お前、同じクラスの影山だろ」
ゆっくり振り返ると、同じクラスの和田学君がいた。

学とかいて「がく」と読む。みんなからガッチャンと呼ばれているクラスの華やか男子。短い茶色い髪。すっきり額が出るようにセットしている。すっと通った眉にややたれ目。迷いなく僕を見つめる目線。百八十センチを超す大きな身体。いつも友達の輪にいて、僕とは違いすぎるタイプの男子だ。

なんで、ここにいる? 緊張で変な汗が出る。

「影山、聞いている?」
声がかけられるが喉が震えて返事が出来ない。

「お前が話していたの、俺の曽祖父さん。百歳ジャストだぜ。時々様子見るためにココに立ち寄っていたんだよ。これ、クラスの奴には言ってない。塾の日の前に来られる時だけ来ている。今日は久しぶりに喋っている祖父さん見れて、ちょっと嬉しかったな」

僕が返事をしていないのに勝手に話をしている。僕はどうしていいか分からなくて下を向いてやり過ごす。分けていた前髪をもとに戻す。

「お前は?」
聞かれたけれど小学校で軽いいじめに会ってから同級生と話す機会がなく緊張して汗が出るばかりだ。

声が出ない。心臓がドクドク鳴りっぱなし。早く立ち去ってください。心の中で願った。

無言でいると上から頭をポンポンと軽く叩かれる。何事かと顔を上げる。
「ちょっと顔上げろよ。せっかく綺麗な顔しているのに勿体ない」

驚いて見上げてしまい目が合う。前髪をしっかり分けられる。

「野生のリス? うん。小動物みたいだなぁ」
ふはは、と笑う和田君。顔がカーっと熱くなる。華やかな人というのは、何を考えているのか分からない。

「ま、いいや。俺、塾が水曜日なんだ。塾前に寄るから、来週水曜日またここで」

颯爽と自転車で去っていく和田君。茶色い髪が日の光にあたり綺麗だ。

 ポンポンされた頭を自分でなでてみる。人に触られるなんて。僕に向けられる言葉は意地悪な言葉が多いのに和田君は違った。心臓のドキドキと頬の火照りが残っている。

 来週、水曜日か。また考えることが出来てしまった。


 その日の夜。第二次世界大戦後シベリア抑留の日本人のことを調べた。ケータイで調べながら涙が出た。僕は遠い過去の話だと思っていたけれど、和田君のお祖父さんは今もその苦しさを背負っている。苦しい思いを抱えて、優しい顔をしている。

桜の花びらの入れ墨を思い出して、涙が溢れた。