自転車から下りてすぐ、防波堤の階段を下りていった雪輝が両方の手を振り上げる。

「つーいたあー!!」

 置いていかれた夏は防波堤の上で止まり、「おい!」と叫んだ。

「おい、って! 雪輝!」

 雪輝はスニーカーと靴下を脱ぎ捨てて海へと足を突っ込んでいく。それを見た夏はあの馬鹿ッ、と手の平を右目の上に勢いよく当てた。

「クラゲに刺されても知らないぞ……」

 そうは言いつつも、夏は階段を下りて水遊びをしている雪輝の元へと走っていく。

「夏ーっ! めっちゃくちゃ気持ちいーぞー!」

 近づいたら、雪輝がそう言いながら海の水を手にすくって夏にかけた。夏はうわっと叫んでよろめき、後退する。

「なにするんだ!」

「冷たくて気持ちよくねえ?」

「生ぬるいわ! 馬鹿か!」

 大きな声を出してみても、雪輝は笑ったままだ。心配して損をした、という気分になってきた夏は大きく息を吐きだして背中を向ける。

「馬鹿らしい。水遊びが終わったら声かけろ」

「えーっ」

「一緒に遊ばない。クラゲに刺されるんだったら一人で刺されてろ」

 俺は知らないと冷たく言うと、雪輝は分かった分かったと言って海から上がってくる。放り投げていたスニーカーに靴下を詰め込んで、持ち上げた。

「悪かったって、夏。拗ねんなよー」

「拗ねてない」

 後から追ってきた雪輝は夏を追い越して、目の前に立つ。いきなりのことで、雪輝とぶつかりかけた夏は衝突を避けるために立ち止まった。

「な、なんだ」

 腰に手を当てた雪輝は、左に体の重心を倒して夏の顔を覗きこんでくる。

「……心配した?」

 背中がぞくっとするくらいに甘い笑顔に、ぼっと火が点いたように顔が熱くなった。慌てて顔を反らしたものの、今度は雪輝も追ってくる。

「したさ。悪いか」

 下唇を押し上げながら言うと、雪輝はははっと明るい笑い声を上げた。

「ぜんぜん! サンキューな、夏」

「別に」

 いいから戻るぞと言って背を向けると、雪輝はまだニヤニヤとした笑いを浮かべながら後をついてくる。

「なあ、雪輝」

 砂浜に落ちている石を蹴り飛ばしながら、問うた。答えることはないとは思いつつも、白くて細かい砂をじゃりじゃりとスニーカーの底でかき混ぜる。中にまで入ってきて気持ちが悪いが、それ以上に胸のわだかまりの方が気になっていた。
 だが雪輝は黙ったままだった。答えるはずがないかと眉を強く寄せて目を閉じて歩き始める。その時、ふいに後ろから腕が伸びてきて、熱い体に抱き締められた。

「夏がどこにも行かないように――って、お願いしてたんだ」

 耳をくすぐるように囁かれた言葉に驚いて振り返ると、雪輝は目を凛々しく開いた真剣な表情をしていた。だが、言われた言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、処理しきれない。

「――は?」

 自分が考えていたことがバレてしまったのではないかと怖くなった夏は眉をしかめて口の右側を上向け、「一体なんことだ」と感情を出さないように努めて呟いた。

「だから、お前に置いてかれないようにって」

「いつ俺がお前を置いていくと言ったことがあるんだ」

 置いていかれたくないと思っていたのは、自分の方だ、雪輝じゃないと夏は自分自身に頭の中で言い聞かす。

「だってよお、夏……東京行くんだろ!?」

「だからそれはなんの妄想だ」

 雪輝の腕を振り払った夏は、雪輝の顔を正面から見た。ぺったりと垂れた犬の耳が見えるようである。

「雪輝、宿題のしすぎてネジでも飛んだか?」

「飛んでねえし、宿題はまだやってねーよ」

「なら、なんなんだ。分かるように話せ」

 あえて宿題には触れずに訊くと、雪輝は夏の手を握ってきた。

「夏は東京の大学に進むんだろ?」

「ああ。学びたい分野を専門にしている教授の元で研究をしたいと思っているからな。だが、それは一年の時にはお前に言ってただろ」

 夏は答えつつ、なぜ雪輝が神に願ったのかを納得する。

「……お前は地元で進学するんだったか?」

「決まってねえ、けど。俺馬鹿だからさ」

 東京は無理かも、と小さな声で呟く雪輝に、夏ははあ? と首を傾げた。

「お前は本当に馬鹿だな」

 そう言うと、雪輝は勢いよく顔を上げて「馬鹿って言うなよ! 最近めちゃくちゃ気にしてんだから!」と叫ぶ。

「気にしてるなら勉強しろよ」

「なにが分からないのかが分かんねーんだって!」

 これは問題だなと雪輝が通う学校の教師に申し訳なく思いながらも、夏は額より少し下のところに手を押し当てた。

「俺も教えてやるから頑張れ」

「マジ!?」

「本当だ。それに、雪輝」

 胸倉をつかんで引き寄せた夏は口の片端を吊り上げて、また「馬鹿」と言う。

「なんのためにスポーツ推薦があるんだ」

 それを聞いた雪輝は目を輝かせて口を大きく開けた。そして、夏の鼓膜が破れるんじゃないかと思う程の音量で「すっげえー!」と叫ぶ。両拳を握って、中腰になった雪輝に、夏は目をしばたたかせた。

「……気づかなかった! そっか、その方法もあんだ」

「お前なあ」

 頭痛がしそうだと細く息を口から吐きだす夏に、大型犬のように雪輝は飛びつく。飛びつかれた夏は自分よりも大柄な雪輝を受け止めきれずに砂浜に転がった。起き上ろうとするが、胸に雪輝が顔を擦りつけてきてそれもできなくなる。

「好きだ、夏!」

 とびっきり人懐っこい笑顔でそう言われた夏は顔を赤らめ、眉間の皺を取り去った。

「俺もだよ、雪輝」

 答えた途端に頬を大きな手で包み込まれ、雪輝の唇が瞼の上辺りに押し当てられる。二人の目がピッタリ合って、気恥ずかしくなった夏は目を閉じた。雪輝の体の温かさが、先程かけられた海水に似ているようで、波に攫われるような心地に陥ってしまう。
 熱い唇が合わさって、夏の喉が鳴った。高揚感が喉から抜け出てしまうのが怖くて、夏は雪輝の首に腕を回す。幾度が重ね合わせて目を開けた二人はまた見つめ合い、微笑み合った。

「ずっと一緒だ、雪輝」

「……うん」