「ところで、なにを使って行くんだ?」

 階段を下りつつ訊ねると、雪輝は顔だけ夏に向けて歯を見せた笑みを繰り出した。

「秘密っ!」

 口の前に人差し指を立てる姿に、夏は眉を下げて苦笑する。雪輝の図体は大きいが、こういう所作に愛嬌や可愛げがあるところが夏は好きだ。

「そんな、子どもみたいなことを……」

「だって俺まだ子どもだもーん」

 唇を鳥のクチバシのように尖らせ、手を広げながら雪輝が階段を下りて行く。収まりが全くついていない髪のグシャグシャ加減を見つめた夏は、はあと短くため息を吐いた。

「じゃあ、母さん行ってくるよー」

 一階に下りてすぐに台所がある方に向かって叫ぶと、スリッパの音を響かせて母親が走ってくる。部屋の前で会った時には着けていなかったピンクの花柄のエプロンを着ていた。

「二人共、気を付けて行ってきてね」

「はい!!」

「分かってるよ」

 元気よく右手を挙げる雪輝と、目を逸らす夏。二人を代わる代わる見た母親は、ふっと笑って手に持っていた包みと凍ったお茶の入ったペットボトルを「はいっ」と言って突き出した。

「おにぎり! どっかで食べなさい」

「本当に作ってくれたの?」

「もっちろん!」

 受け取りながら夏が訊ねると、母親は胸をどんと叩いて首を頷かせる。

「ありがとう、母さん」

「おばちゃんサンキュー!」

「さっ、早く行かないと遅くなっちゃうわよ」

 早く行きなさいと母親は、夏の肩を叩いた。夏は部屋を出る時に付けてきた腕時計を見ると、時計の針は十時五分を指している。それもそうだと夏は雪輝に腕時計を見せた。

「あまり遅くなったらダメよ」

「はーい、気を付けます!」

 二人が玄関の方向に歩き出すと、母親も後ろからついてくる。狭い戸口に二人も入りきらなかったので、先に雪輝がスニーカーを履いてドアを開けた。真夏の空気が入ってきて、夏の肌に生ぬるい感触を与えてくる。

「事故にあったり、クラゲに刺されたり、溺れないようにね」

「母さん、泳がないから大丈夫だよ。見に行くだけ」

「そうなの?」

 うんと首を縦に頷かせると、母親はほっと息を吐いて胸を撫で下ろした。

「そうだよ」

 夏はスニーカーの紐を結い直して、踵を調整するために床をトントンと蹴る。

「それじゃ、行ってきます」

 ここまででいいよ、と暗に伝えると母親は「気を付けてね」と手を振った。首を一度縦に振って、二人は家の外に出る。

「うわ……暑」

 出た途端、太陽がジリジリと肌を焦がしてくるような錯覚に陥った。この直射日光と湿気が夏にとっての最大の敵だ。

「レンジに入れられたナゲットの気分」

「なんだそれ」

 太陽を親の仇のように睨み付ける夏に、雪輝はぷっとふき出して笑う。夏はそれを睨み付けて、「それで」と話しかけた。

「一体なにで行くんだ」

 ふふんと腰に手を当てて胸を張った雪輝は、よくぞ訊いてくれました! とばかりの自信さで、夏の家の左側に歩いていく。そこには自転車置き場がある。

「雪輝、俺の自転車はパンクしてるんだが」

「マジでー?」

 パンクのことを伝えてみても、残念そうな感情を表に出すことはなかった。じゃあなんだ? と夏は首を傾げながらついていく。

「じゃーん! 二人乗り自転車!」

 雪輝が得意げに鼻をツンと上げ、右手で指し示したのは、黒いサドルが二つ付いた明るい真っ黄色の自転車だった。まさか出てくると思ってもいなかった物体の登場に、夏はパチパチと瞬きをする。

「タンデム自転車なんてお前持ってたか?」

「こないだ買った!」

 腰に両手を当ててふんぞりかえる雪輝に、夏ははあ? という大声を出して詰め寄った。

「こ、小遣いでか? 高いだろ、これ」

「ちっげーよ、バイトしてたから、それで!」

 バイト、とますます自分の知らない雪輝のことが出てきて夏の頭は混乱する。いつ、どこで、誰と、なにをした。小学生の頃クラスの遊びの時間でやったゲームのお題のような単語が浮かんでは消えていく。

「新聞配りと運送業と工事現場のバイト! 特に新聞配りは走るから練習になったし、一石二鳥だったぜー」

 ラッキーだった! と笑いかけてくる雪輝に、そんな時間どこにあったんだとか、部活もやってそれもやってよく体力が持つなとか、だから今年は俺の部屋にあまり出入りしなかったのかという考えが浮かんでくる。その考えの幼稚さや、自分勝手さに夏は恥ずかしくなり、口を手で覆った。気持ちが口から出て行ってしまったらどうしよう、と思ったからだ。

「夏? どした?」

 だが、そんな夏の様子を雪輝は不審に思って腰を下げて夏の顔を覗きこもうとする。それに気づいた夏は、すぐさま顔を上げて、なんでもないと首を振るった。

「自転車を買うために自転車で走ってたのかと思うと笑いが込み上げてきただけだ」

「違う違う、自転車じゃなくてマジで走ってやってたんだって!」

「……それでよく配りきれたな」

「おーよ! さっすが俺だよな!」

 目を細めて楽しそうに笑う雪輝に、夏の胸中にできた黒い煙が大きくなっていく。それを振り払うために、夏は手で足を叩いた。
 雪輝はタンデム自転車に二人分の荷物を放り込んで、前のサドルに乗る。

「夏、後ろ乗れよ!」

「はいはい」

 親指で指し示された夏は、自転車に近寄ってサドルに跨った。雪輝が夏のために調節してくれていたのか、サドルの高さはピッタリ合っている。よく分かったな、と夏は雪輝の見立てに感心した。

(あ…動かないのか)

 ハンドルを握ってそれが動かないことを知ると、夏は厄介だなと眉をしかめる。だが、すぐに前には雪輝が乗っているんだということを思い出して、その想いを払拭させる。

「最初に回すのは左! で、地面に着くのは右でいい?」

「いいよ」

 後ろから話しているため、普段よりも少し大きめの声で返答する。

「ちょっと練習してみるぞー」

「わかった」

 漕ぎ出す前に雪輝は夏を振り返り、にっこりと穏やかな笑みを浮かべた。

「大丈夫! 俺はちょっと乗って慣れたから、安心しろよ」

「……しばらくは前も向けないだろうから、安全運転で頼むぞ」

「オッケーオッケー! 任せろ!」

 雪輝が片腕を挙げたためにぐらついた車体に、夏が「おい!」と叫ぶ。それに雪輝は頭の天辺辺りを掻いて、舌を出した。

「んじゃ、行くぞー!」

 ペダルの位置を合わせてから、二人はゆっくりペダルを踏み出す。動かないハンドルにはまだ慣れないが、すぐに慣れるんだろうなと夏は思った。
 肌と汗ばんだシャツに風が触れてくる。ふわりと髪が後ろに流されるが、夏は前を見ることができない。見れば車体を揺らしてしまいそうだった。それに、一人で乗るよりも大分スピードが出るのだ。

「こわ……下しか見れない」

「大丈夫大丈夫! すーぐ慣れるって!」

 元々あまり力強く踏み込むタイプではない夏は、後ろ側には適している。前は見られないが雪輝が逐次停止や発進のタイミングや曲がる方向などを教えてくれるので、次第に慣れてきた。

「どう? いけそう?」

「今どこにいんのか全然分からないけどな、いけそうだ」

 スタートしてからずっとハンドルを睨んでいると伝えると、雪輝は大口を開けて笑う。

「俺が場所分かるし、何度か自転車で行ったことあっから迷わねーし、大丈夫だって!」

 と、なんとも頼もしいことを言ってくれる。三十分程走っていると、ようやく余裕が出てきて、夏はほっと息を短くもらした。

「大丈夫だからいっぺん周り見てみろよ」

 それを感じ取ったのか、雪輝がそう言ったので夏は勇気を振り絞って顔を上げてみる。緊張で汗だくだったため、風が直接当たってきて気持ちが良い。耳や頬をくすぐる風に夏は強張っていた顔の筋肉を綻ばせて微笑んだ。

「気持ちいー」

「だろ!?」

 上体が倒れると車体が揺れるため、雪輝越しに前の景色を見たりすることはできなさそうだが、横くらいは見ることはできるようになるだろう。そう夏は考えた。

「二人乗りだったらこーやってさあ、夏と一緒に走れるだろ?」

「ん? ああ、そうだな」

「だから、買ったんだよ」

 雪輝の向こうに、白い雲をまとわせた青い空が見える。その色はまるでサファイヤのように青々としていた。

 輝とは、光が四方に広がるということ。自分ばかり目立とうとはせず、周りにもその光を広げてほしい。純粋な子どもに育ってほしいからそう名付けたのだと雪輝の両親から聞いたことがある。その時は子どもながらに大げさだなと夏は思ったのだが、今となるとその名前に負けていないと幼馴染を誇れるようになった。

 雪輝の強すぎない柔らかい光は、皆を包む。小学生の頃に雪輝は窓を割ってもいない生徒にかかった疑惑を晴らしたことがあった。それは今も同じなのだろう。裏表がなく、誰かの汚名を雪ぐことができる彼が愛おしい。

「たまには外もいいものだな」

「だろ!? 夏!」

 夏が小さく零した言葉も聞き取った雪輝は勢いよく振り返った。そのせいで車体が揺れ、右に傾く。

「うわっ、倒れる倒れる!」

 二人は叫びながらも足を地に付けて車体を真っ直ぐに立て直した。はーはーと息を乱し、胸に手を当てる。

「べー! ワリー、夏!」

「謝るくらいなら気を付けろ、馬鹿!」

 手を振り上げて怒鳴ると、彼はごめんごめんと言いながらまた走り出す。その背中を見つめた夏は、目を和ませて微笑した。彼と一緒ならば、どこだって行けると思うのだ。

(お前はズルいよ、雪輝……)

***

「そーだ! 夏、俺さあ途中で寄りたいトコがあんだけど、いいかー!?」

「……別にっ、いいが! どこに行きたいんだ!」

 お互いあまり余所見をしたり、ましてや振り返ることなど危険でできないため、大声で会話をする。近所迷惑なのではとも思ったが、今は市街からは遠く離れた小高い山の道を走っている途中だ。整備された道路には、人も車も今日はあまり走っていない。

「海の近くに神社があんだよ! そこ!」

「じ、神社ぁ!?」

「そー!」

 誰もいない山道と田舎道を走り続けて三時間。二人はようやく海のある五つ隣の市に辿り着いた。

「そろそろ飯も食いたいしさ!」

「分かった! 近いのかー?」

「もうちょっとで着くー」

 汗だくになりつつもぐっぐと足に力を入れてペダルを漕ぐ。途中でボディバッグから取り出したタオルを首に巻き、視界がふさがることがあればそれで拭うようにしていた。

「だから、頑張れ!」

「……ああ!」

 自分一人や、一人一台で来ていたら気持ちが萎えてしまっていたかもしれない。だが、雪輝と二人で同じ自転車に乗っているということが夏の心を励ました。