これは、僕たちの秘密が、秘密じゃなくなった日の記録。



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 俗に言う『多様性』にアイドルは含まれない。なぜならアイドルは職業であって、個人の人格ではないからだ。だから今日も、僕はアイドルというお仕事で飯を食っている。
 レモンの天然水、美容スペシャルドリンク、これで水分もビタミンCも気分よく摂取して、僕の寿命は三年延びた。
 
 
 
「ねぇ、ハルト君は台本覚えた?」
 百瀬さんの声は、純度の高いガラスのように透き通っている。
「まぁ、なんとなく」
 僕は、そう答えて、川の向こう岸に遠く見える家々を眺めた。
 本当は演者全員のセリフと動きを完璧に頭に叩き込んでいる。だけど、年下の女子に、初めてのドラマ出演で緊張してるなんて思われたくない。僕は、毎晩夢に出るくらい、黄色の台本を持ち歩いていた。
「これさ、何があったんだろうね、こんなに変更して」
 百瀬さんが、鞄から青色の本を取り出して言う。
「変更?」
 横を向いたら百瀬さんと目が合ったから、急いで視線をそらす。
 百瀬ナナミ18歳、元天才子役。デビュー作の『終わらない夏』で、史上最年少の主演女優賞をとっている。美少女というよりも、クラスに一人はいるような親しみやすいタイプのルックスだ。僕が来年初参加する大河ドラマにだって、彼女はとっくにデビュー済みだ。
 
「あ、まだ聞いてなかった? これが変更後の新しい台本。さっきマネージャーにもらったんだ」
 百瀬さんが差し出した台本は、水面に集まった光を反射して煌めいている。
「へぇ、ちょっと見せて」
 平静を装いながら、僕の声はちょっと震えて裏返った。
 爽やかな青色の表紙には、見慣れた文字のタイトルがならんでいる。
『シークレット・ラブ 
 ーー誰にも言えない恋をしました。ーー』
 
 ページをめくる手が止まる。
 ーー何かがおかしい。
 僕は、家族が一人いなくなったことに気づいた。
 え。お父さん役の星崎さんとのシーン、ガッツリなくなってんじゃん。で、僕の役、シングルマザーの息子になってんの? 
 
「僕のお父さんは?」
「え、見てないの? ネットニュース」
「そういうの、幻滅するから興味ない」
「あ、そっか。アイドルって幻滅される側だもんね」
「ひどいな。スキャンダルの塊みたいにいうなよ。百瀬さんはビタミンCとったほうがいいよ」
「え、カルシウムじゃなくて?」
「カルシウムなんだ」
「どうでもいいけど、喉渇いたから、それ一口ちょうだい」
 そう言いながら、百瀬さんが手を伸ばそうとしたから、僕は慌てて、ビタミンCの天然水をバッグの中にしまった。
「ダメに決まってんだろ!」
 なんなんだ、百瀬さんは。僕がアイドルだってこと、わかっててやってるのか。この人は。
 きっと、いろんな現場を経験しすぎて、芸能界に染まりすぎているんだ。
 百瀬さんの感覚は。
 僕がそんなことを思っている間にも、百瀬さんは楽しそうにケラケラと笑い続けた。
 そして、ひとしきり笑い終わると、百瀬さんは満足げな表情を浮かべながら、再び、僕の目をみつめた。
 
「ねえ、どうして?」
「アイドルは間接キスなんてしないんだよ」
「アイドルでもいいじゃん。どうして?」
「週刊誌に撮られたらどうするんだ」
「週刊誌に取られたら、どうなるの?」
「そいつはもうアイドルじゃなくなる。アイドルは恋愛なんてしちゃいけないんだよ」
「どうして? アイドルも人間なのに?」
「みんなのアイドルが、自分だけの恋をするなんて許されない」
「どうして、許さないと思うの?」
「アイドルは職業で、アイドルはみんなの夢だからだよ」
「女優だって、みんなの夢だよ。ケーキ屋さんだって、お医者さんだって、みんなの夢だよ。ハルト君、変なの」
「本気かよ。それ」
 僕は自分でも、情けなく思えるくらい、弱々しく、そう言ったあと息を吐いた。 
 初共演だから、練習しようよって、誘われて、のこのこついてきた僕がそもそもダメだったのかもしれない。
 だって、そもそも、二人きりなんて聞いてなかったし、本当は河川敷でも油断できないと思う。
 だけど、個室に入っていくところを見られるともっとやばいから、僕が河川敷を提案したんだ。
 それに乗ったのは、百瀬さんの方だから、僕は悪くない。
 いや、悪くないって、撮られたら終わりなんだけど。いや、アイドルだから、僕は悪くない、悪くない。とりあえず、百瀬さんは危険人物に脳内カテゴライズしておこう。
 それで、百瀬さんと二人で会うのは、今日が最初で最後にしよう。
 僕は気を取り直して、台本を開いた。
 すると、不意に百瀬さんが僕の顔を覗き込んできた。
「今度はなに?」
 百瀬さんがイタズラっぽく微笑む。
「今回の台本、私とハルト君のキスシーンあるよ」
「きっ!」
 キスシーン……!
 僕は、自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。そんな僕のことを、百瀬さんはじっと見つめてきた。
「もしかして、ハルト君、ファーストキス?」
「それっぽいことは、したことある」
「それっぽいことって……」
 百瀬さんは言葉を詰まらせて、僕に背をむけた。照れているのかと思ったけど違った。
 彼女は声を殺して爆笑している。
 やっぱり百瀬ナナミは要注意危険人物だ。
 百瀬さんと二人で会うのは、今日が最初で最後。
 僕は、改めて胸に誓った。
 
  
  
 本日3カット目のシーンが終わって、僕は冷えたパイプ椅子に腰を下ろした。しばらく僕の出番はないが、勉強のために主役たちの演技を見ておくことにする。
 
 数台のカメラに囲まれながら、月9ヒロインの百瀬ナナミは、何度も何度も涙を流していた。カットがかかってメイクを直し、監督のスリーカウントの後、また一筋の涙を流す。
 
  
「星崎さん、飲酒運転だって。昨日連絡あってめっちゃ謝られた」
 バイプレイヤーの白馬一郎が隣のパイプ椅子に座ってきた。僕は、ゆるんでいた背筋をピンと伸ばして営業スマイルをつくる。
「ケガ人が出なくてよかったです」
 白馬一郎は、困ったような表情をした。白馬一郎といえば、迫力のあるコワモテと気さくな言動のギャップが「コワカワ」とか言われて、最近若い子たちからも人気がある。だけど、僕からしたら普通にコワイ存在だ。ミスったことを言ったら躊躇なく右ストレートが飛んできそうだ。
「お前って、なんていうか危機感うすいよね。星崎さんのせいで出番減らされたようなもんなのに、恨んだりしないわけ?」
「僕、アイドルですから」
 白馬一郎が撮影現場に視線をむけたから、僕も正面をむいた。カメラに囲まれている百瀬ナナミをぼんやり見つめると、そこにいたのはいつもの「百瀬さん」じゃなく、困難に立ち向かう生真面目な高校教師の姿だった。
 
 隣から、白馬一郎の低いため息が聞こえる。
「お前さぁ、アイドルの前に、ひとりの人間だろ。カメラの外では息抜きしないとパンクしちゃうぞ」
「僕、こう見えて、こっそりお菓子も食べますし、スイカゲームもちょこちょこやってます」
「いいね、いいね。それで?」
「もしかしたら……バレなければ恋愛したっていいのかもしれない、とか思うときもあります」
「いや、恋愛は駄目だろ」
 強い口調に驚いた僕は、白馬一郎を見た。
 白馬一郎は、真顔で正面を見据えたまま続ける。
「お前みたいな脇役がつまらんスクープで主役より目立ったらどうするんだ。百瀬ナナミを見ろ、月9のプレッシャーに耐えて立派に座長をやってる。だから少なくとも、ドラマが終わるまで恋愛は絶対駄目だからな」
 そう言ったあと、白馬一郎は横目でじろりと僕を見た。
「わかったな、俺とお前の約束だ」
「は、はい。すみません」
「あ? なに? もうやっちゃってんの? 謝ることしちゃったの?」
「僕、恋愛したことないっす、すみません」
「じゃあ謝んなよ」
「すみません……」
 
 
 
「でもさぁ、百瀬ナナミが性格暗いの意外だったわ。やっぱイメージと実物って違うもんだね、まぁ俺が言うのもなんだけど」
 白馬一郎がおちゃめに笑ったつもりの顔は、大きく口を開けたワニみたいで、やっぱりこわかった。
 でも、愛想笑いを浮かべながら、僕はふと思った。
 
 世間のイメージの百瀬ナナミは、飲料水やら英会話のCMで大量に拡散されている。
 清楚で明るく笑顔が絶えない、そんな小動物的に可愛いイメージだろうか。
 でも僕と話している時の彼女は違う。パワフルなゴールデンレトリバーみたいに、いつも弾けるように全力で笑っている。
 
「彼女、暗いですか?」
 そう呟いたとき、大変です! 大変です! という声がスタジオに響いた。僕が後ろを振り向くと、太った黒Tのスタッフが週刊誌を頭上に掲げて叫んでいた。
「大変です! 大変です! スクープが出ました!」
 スタジオ中の空気が、凍りついた。
 
 
 
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 5年後。
 あれから5年の月日が経って、僕はもうアイドルを卒業したけど、今日も百瀬ナナミは僕のそばにいる。僕の人生で一番話題になったのは、結局、アイドル業の方より百瀬ナナミとの熱愛スクープだった。
『地味アイドル、百瀬ナナミを180円で釣り上げる』
 二人のアルバムの、記念すべき最初の一枚目の写真だ。
 その写真はあのときの河川敷で、そのなかで、二人は頬を赤らめ、笑い合っていた。
 僕はアルバムから写真を取り出すと、ナナミが選んだオシャレな照明にかざした。
 ナナミは目を細めて写真を見つめながら微笑んだ。
「この時のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ、まだ恋なんてしてなかった」
「あなた、すごくケチなヤツみたいに書かれちゃっててさ。あの後、私、笑いが止まらなくなってNG連発したの」
「そうだったらしいね、僕は白馬さんに説教されたよ」
 ナナミは、あわてたように口元を手で覆った。
 どうせ、さっき飲んだレモン水を吹き出さないように笑うのを我慢しているだけだ、彼女はいつだってそうなんだ。
 僕はナナミの笑いが落ち着くまで、黙って写真を見つめた。
 
「記事にはレモン天然水180円って書いてあるけど」
「本当は100円だった」
「それに……本当は私、一口だってもらえなかった」
 
「そうだね、だから僕は180円で女優を口説こうとする男よりケチってことになるね」
「そうじゃない。私が本当に心を開いていたのは、あなただけだったんだよ」
「ありがとう」
「こっちがありがとうだよ。今、最高に幸せ」
 そう言われて、僕は思わず、彼女を見た。すると、彼女は、本当に幸せそうな表情で、左手の薬指についているリングを眺めていた。