「あっつー……」

 8月中旬。
 年々上がっていく気温は今年の夏、最高気温を更新した。
 今日も漏れなく忌々しいほどの暑さだ。
 それなのに今、家ではなく近所の河原に来たのには理由がある。

「何してるの?」
「っ!?」

 家から持ってきたペットボトルの水をガブガブ飲んでいたら、突如かけられた声。
 口の中の水を吹き出しそうになったのをなんとか堪える。
 みっともない姿を見せることにならず心底安堵した。
 だってこの声は――。

「君の自転車が見えたから」

 そうにっこり笑って僕の隣に座った彼女は、僕の2個上で、親友のお姉さんだ。
 いつも彼女の家でしか会ったことがない。
 しかもすれ違いざまに一言二言交わすだけだ。
 初めての2人きりに、初めての近距離。
 緊張しないわけがなかった。
 慌てて手に持っている水を飲もうとしたけど、生憎もう空だった。

「弟から聞いたよ。私と同じ大学受けるんだって?」
「……はい」

 あいつ、言っちゃったのか。
 落ちたら恥ずかしいから秘密にしようと思っていたのに。
 僕は心の中で親友を恨んだ。

「受験勉強は順調?」
「えっと……」

 直近の模擬テストではE判定だった。到底順調だとは言えない。
 そもそも偏差値が20以上開いていたのだ。志望校を決めた当時は根拠のない自信があったけれど、前回の模試で3回連続のE判定を受けその自信は打ちのめされた。

 それからというもの、家で勉強していても集中できない。
 今日は気分転換にと最近買ったばかりの小説を手に河原へ来たのだ。

「そっか。まあまだ半年あるし」

 僕の気まずそうな顔を見て何か察したのか、励ますように声をかけてくれる。
 半年か……。受験生にとっての半年なんてあっという間だということを彼女も知っているだろうに、フォローしてくれたみたいだ。

 しばし沈黙が流れた。
 会話が途切れてしまったため少しぎこちない。
 靡く風のせいで、彼女の髪からいい香りが漂ってきた。
 誤魔化すように読み途中の小説へと視線を落とす。
 内容は全く頭に入ってこない。

「何読んでるの?」
「……恋愛小説」
「へえ。君、そういうのも読むんだ」

 意外そうに目を丸くさせる彼女。
 僕はそれに対し曖昧に微笑むことしかできなかった。
 何故なら普段恋愛小説は愚か小説すら読まない。
 これはたまたま、主人公が自分と同じような状況だったから気になって買ったものだ。
 主人公は女の子だけど自分と同じ受験生。
 そして同級生の好きな男の子と同じ大学を目指している。
 男の子に近づくために勉強を教えてもらっている、積極的な女の子だ。
 最初はこの主人公に励まされるだろうと思ったけど、中盤まで読み進めた今ではあまりにも自分と違う主人公に悲しくなってきた。
 元気で明るくて積極的な彼女が想い人と結ばれる未来なんて、容易に想像がつく。

「どんな話なの?」

 そう言って彼女が小説を覗き込んできた。
 さっきは全く中身が入ってこないままペラペラとページを捲っていたから、いつの間にか告白のシーンになっていた。

『合格したら、私と付き合ってくれる?』

 わざと強調するかのように行間を空けて書かれていたセリフ。
 急に恥ずかしくなってさりげなく彼女から見えないよう本の角度を変える。
 読まれていないことを願うばかりだ。

 この続きは読まなくてもわかる。きっとイエスだ。
 僕がこのセリフを言ったとしても、かわされるだけだろう。

 それなのに、その時何を血迷ったか、自然と口を動かしていた。

「合格したら、僕と付き合ってくれますか?」

 ――終わった。
 そう絶望したけど全ては後の祭り。何故わかりきった質問をしてしまったのか。
 臆病な自分は、逃げ道が用意された状況でしか行動を起こせない。

 困っているに違いない隣の彼女に、待ってましたと言わんばかりに言い訳が脳内を駆け巡る。

「っていうセリフが小説内にあって……」
「いいよ」
「え?」

 問題のセリフを指差し彼女に見せようとした時だった。
 僕のボソボソとした声に被せられた3文字。
 反射的に振り向けば、今日初めて彼女と目が合った。
 普段は3秒以上彼女の顔を見つめることすらできないのに、今は時空が止まったかのように彼女しか見えない。

 きっと僕の顔は真っ赤だ。
 気のせいかもしれないけど、彼女の頬もピンク色を帯びていた。
 彼女の輝く瞳から目が離せない――。

「次のセリフ」
「……え?」

 永遠に感じた時間は、彼女の一言によって突如終わりを告げた。

「きっと告白は成功だね」

 そう言って視線を下げた彼女。
 釣られて僕も手元へと視線を下げる。
 そこには、衝撃で閉じかかった小説があった。
 元のページはどこかすぐ見つけられそうにない。
 何が何だかわからないままもう一度彼女を見つめた。
 緩やかな笑みを浮かべる彼女が何を考えているのか見当もつかない。

「そろそろ行こうかな」
「……っ」

 すくっと立ち上がった彼女。
 慌てて引き留めようと口を開いたけれど、結局音にならず掠れた息が出ただけだった。

「勉強、頑張ってね」




 気付いたら空がオレンジ色に染まっていた。
 思い出したようにあの告白シーンを探す。

『そういうのは合格してから言うんだな』

 小説では、告白は成功していなかった。