「あの」
そっとかけられた、けれどはっきりした女性の声に僕は飛び上がるほど驚いた。
真夏の河川敷。誰もいないのをいいことに、僕は道路から川にのびた階段に腰かけ、自転車を止めペットボトルを自分の隣にセットしてカバンを投げ出して、古文の参考書に集中していたのだ。
「ペットボトル、ぬるくなっちゃいますよ」
女性は僕が左手に置いていた、強炭酸のペットボトルを指さして言った。
「あっ……、ほんとだ」
もう炭酸は抜けきっているだろう。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。しかしこの女性がそれだけを言いに僕に声をかけに来たとは思えない。ここは彼女の特等席だったりするのだろうか。今日初めてここに来た僕にはわからない。話が長引くのもめんどうなので、僕は帰ろうとカバンに手を伸ばした。
「あっ、いいですそのままで。私、通りすがりなので」
女性は大きく手を左右に振って否定した。
「通りすがり……?」
思わず訊き返す。
「はい、バス待ちで。この階段の上にあるバス停の。暑いのにニ十分も来ないっていうから、川辺なら涼しいかなって、ここに。だから、それ以上長居するつもりはないんです」
笑った顔は大人びていながらも大差ない年齢のように思えた。白い肘までのシャツにイエローのタイトな膝丈のスカート。暗めの茶髪は肩の下までの長さで、吹いた風にさらさらと揺れた。清潔感のある、闊達そうな女性だった。
「……というか、ここに居てもいいですか?」
「あ、はい、もちろん。僕も今日初めて来た所なんで」
そうなんだ、と彼女は笑った。丁寧語が外れたのが新鮮に思えた。
「あ、ごめんなさい、敬語とかって慣れなくて。バイト先も学生ばっかりだし……」
「学生なんですか?」
慌てる彼女に助け船をと思ったのだが、詮索するようになってしまった。
だが好奇心がなかったといえば嘘になる。高校三年生の僕と、洗練された様子の彼女とには、同じ学生とは思えない雲泥の差の空気があったのだ。それに、この暑いのに涼しそうだ。やはりここまでチャリで来たのが祟ったか。
「そう、大学生です。××大学の一年生、今春ここに越してきたばかりなの。それで、あのう」
「はい」
僕は首を傾げた。
「ごめん、あの、敬語外しちゃっていいかな。正直ものすごく喋りづらいの。たぶんだけど、あなたも学生だよね? 高校生?」
「あ、はい。敬語はいりません。僕高校三年生なんで、年下だと思いますし」
よかった、と彼女は笑った。眩しい笑顔だ。思わず赤面してしまう。
「じゃあ、受験生? 古文の文法書だよね、それ」
「あ、はい。古文、苦手で」
「そうなんだ。暑いのに、外で勉強する派?」
外で勉強する派って。僕は思わずちょっと笑ってしまった。
「え、ごめんなさい、失礼なこと言ったかな」
「いや、違うんです」
こほんと咳払いをして真面目な顔を取り直す。そういえば外で勉強する世界も、大学生にならあるのかもしれないと思った。
「大学ってやっぱり、外で勉強するのに良い環境とかあるんですか?」
彼女はとくに気を害した様子もなかった。
「うん、テラスとか。いまはガラガラだけど、春には先輩がたくさんいて」
「勉強して……?」
あはは、と彼女は笑った。
「ううん、それはテスト前だけ。本気で卒論とか書く人もいるみたいだけど、だいたいがおしゃべりしてる感じかな」
「ああ……」
「がっかりしちゃった?」
ごめんねと困ったように笑う。
「やっぱ受験が終わると空気が変わっちゃって。でもそれって努力の先にある世界だから、見逃してほしいな」
「いや、大丈夫です。なんていうか、勉強になります。ていうか僕、外で勉強するって発想がなかったから、さっきは失礼しました」
「なるほど、いえいえ。そうだよね、高校生って図書館とか自習室とか、リッチな子だとノベマカフェとかだもんね、勉強するの。外はないか」
ノベマカフェとはここ日本でも有数のカフェチェーン店だ。
「それと、よければお名前教えてくれると助かるな。呼び方難しいから……あ、偽名でも大丈夫。私は千都留(ちづる)。偽名じゃありません」
ちょっとおどけて言った後彼女は、隣座っていい?と僕の右側、陰が広がっている場所を指さした。もちろんと頷く。
「僕は大樹(だいき)っていいます。本名です。本当は家で勉強してたんですけど、弟たちがありえないくらいうるさくって、気分転換に最近護岸工事完了した河川敷でも行ってみるかって」
「で、ちょっと思ってたのと……?」
「違いましたね。正直勉強どころじゃないです。けど、出てきたからには古文の助動詞の一つでも覚えて帰りたいなって……」
「えー、えらい」
千都留さんは結構な大声を出した。そしてぱっと口元を両手で覆う。
「あ、ごめんなさい大声出して。……お詫びに、わからないところがあったら訊いてみて。案外答えられるかも」
「え、いいんですか」
「古文は得意だったの。ていうか、古文で勉強したい作品扱ってるのが××大だけだったからこっちに進学してきたんだ、私。だから、わからないと逆にちょっとまずい」
苦笑いに照れがにじんでいる。あけすけで気持ちの良い人だ。思わず遠慮を忘れてしまう。
「じゃこの、【にけり】って……」
「あ、これ頻出。まず【に】と【けり】で品詞分解。それぞれの助動詞の意味は覚えてる?」
「え、え……っ? 【けり】は和歌に付くって……」
「それは詠嘆の意味のほうね。ここの【けり】は過去の意味で……」
僕は【にけり】についてだけは完璧にマスターした。
「千都留さん、教え方すっごい上手いですね。教師とかにはならないんですか?」
本心から感嘆して言うが、千都留さんは手をぶんぶんと振って笑った。
「やだな、お世辞が上手。私は古文の勉強していたいし、就職のことは……どうだろう、まだわからないかな」
「そうなんですか」
「それに、教え方をほめてもらえるならそれは弟のおかげかも」
千都留さんは笑った。
「高校一年の弟がいるの。私が大学受験のときに、弟も高校受験。阿鼻叫喚のなかで数学とか訊いてくるんだよあいつ。信じられないよ、私も私で解けないし」
「……ふふ」
「ほんっとに解けないの! ××大は数学受けなきゃいけなかったから、死に物狂い」
「ですよね。××大だと数学は得点源なんですけど、僕は国語がほんとにやばくて……」
「あれっ、大樹くんって××大狙い?」
「あ、はい。一応は」
「理系?」
「はい。千都留さんは文系ですか?」
「うん、そう」
そっか、そうなんだあ、と千都留さんは感慨深げに僕を見た。
「……受かってね」
そのまなざしに、僕は”先輩”を感じた。大学受験を乗り越えたという意味での”先輩”だ。
「はい」
まっすぐに答える。しばらく沈黙が流れた。
「って、ごめんね、なんか妙な空気にしちゃったかな。どうしよう、まだバスまで十分もある」
「千都留さんさえよければ、ちょっと大学生活のこととか聞きたいです。どうですか? あの、図々しいですけど」
本当に図々しいとは思ったが、僕は提案してみた。
「大学のことをイメージって言われても、まず古文の過去問のことが頭に浮かんだりして、全然楽しい大学生活とか想像できないんです、僕。××大学は地元で、外側だけなら見慣れてるし。そのわりに、カフェがあるとかは知らないし……」
「あーわかる、うちの地元にも私立大学があったけど、建物が立派すぎて見るだけで気後れしちゃう感じだった。一応受けたけど、内部も綺麗でびびっちゃったな」
「僕は私大受けるつもりなくて、だからがんばらないといけないんですけど……そもそも弟たちがいるから受けないって話になってるのに、その弟たちがうるさくて勉強できないのどうかしてますよ」
「うーん、よくわかる。まだ小さいんだ? 弟さんたち」
「中二です。へんに中二病までこじらせてて性質悪くって」
「楽しそう」
千都留さんが笑う。
「楽しくないですよ……」
「ごめんごめん、じゃあ私の楽しくない話。……大学生って、アルバイトしてるイメージってない?」
「あ、ありますあります」
「私もなんだけどね、ここって……大樹くん地元なら知ってると思うけど、バイトするところないよね!?」
ああ……と僕は初めて外部からの視点でこの街を見た。
「ないですね……駅前のノベマカフェと、カラオケスターツくらいですかね。あとはデパートひとつだから学生バイトって雇われなさそうです」
「その通りなのよ! 幸い、いまはノベマカフェで働かせてもらってるんだけど、メニュー全然覚えられなくて。呪文みたいに思えちゃう」
「僕なんて行ったことないです……」
「男子高校生だもんね。たしかに客層にはいないよ」
千都留さんはふうとため息をついた。
「一人暮らしって、結構寂しいんだよね……。バイトは楽しいけど、時間がきたら帰らないといけないし。バイト先でも学校でも友達はできたけど、……そうそう、お泊り会するんだった! 私のパジャマ、高校のときのジャージなんだけどどうしよう? まともなの買ったほうがいいかな?」
突然女子っぽい会話を振られて、僕は赤面する。
「え、えっと……」
「でもブランドものって高いでしょ? 憧れのブランドもあるにはあるけど、教授に突然本を買わせる人がいるからそうそうお金使えないんだよね」
「突然本を買わせる教授!?」
迷惑だよね、と千都留さんはまたため息をついた。
「あの、その友達の人たちって、どうするんですか?」
少し方向性を変えて尋ねてみる。
「それがわからなくて。でもみんな、都会から来た子ばっかりなんだよね。だから買わなくても絶対かわいいの持ってるに決まってるよ。フード付きのやつとか……!」
「フードつき、寝づらくないんでしょうか?」
「あ、じゃあ私、部屋着と混同してるかも」
「いや、わからないですけど。……ジャージもいいと思いますよ」
「………………そうかな?」
間をたっぷりとって、千都留さんが疑いのまなざしを僕に向ける。
「高校時代の話とかできそうじゃないですか?」
「うーん、それはあるかも……。もうちょっとお財布と、あとシフト増やせないか店長に聞いてみる」
「はい、それがいいと思います」
たぶん、と小声で付け足す。
「ありがとう、相談乗ってくれて」
「いや、全然力になれてないと思いますけど……古文のお礼には程遠くて」
「古文はいいよ」
千都留さんは笑ってまた時計を見た。
「次のバスでね、バイトに行くんだ。これを逃すと五十分後だから、ちらちら時計見ちゃってごめん。大樹くんと話すの楽しいんだけど、乗り遅れたらシャレにならないから。店長は優しいけど、私はまだパジャマ代も諦めてなくて……ていうか割り勘の夕食だって……あ」
千都留さんは両手でぽんと自分の膝を叩いた。
「ねえ、私たち、お泊り会の夕食で何を食べるでしょうか!」
「え」
女子大生が寄り集まって食べるもの? なんだか顔が赤くなる。
「え、えっと。なんかおしゃれなものかなって」
「おしゃれなもの、かあ……」
千都留さんはくすくすと笑う。
「待ってください…………いまチーズ流行ってるから……チーズ……チーズフォンデュ!」
「あー、惜しい!かな? 惜しいかも!」
「わかった、チーズ鍋!」
「えー惜しい!」
千都留さんは、ここまで僕が連続正解してきたかのような残念そうな顔で言った。
「正解はキムチ鍋でした!」
「……それって惜しいですかね……?」
僕としては全然惜しくないと思うが、彼女たちの間でチーズ鍋とキムチ鍋は接戦だったらしい。
「それと、ホールケーキを食べるの。四等分だから、一人分がすっごく大きくなるよね。あー、楽しみ!」
「ケーキが楽しみなんですか?」
僕もだいぶ軽口を叩くようになりしまったと思うが、千都留さんは気にした様子もない。
「そう、ケーキ。キムチ鍋もいいけどね。私甘いもののほうが好きだから。いちごのホールケーキ! 真っ白なホイップクリームが胸やけしそうなくらい乗ってて、チョコプレートには……。そうだ、チョコプレートにはなんて書くでしょう? ちなみに誰かの誕生日とかじゃないよ」
「うーん……。【BFF】……とか……」
何を言っているんだ僕は。声が消え入る。
「【ベストフレンドフォーエバー】? 大樹くんセンスいいっ。提案しちゃおうかな、まだ文字入れは先なわけだし」
「や、やめてください!!」
焦って叫ぶと千都留さんは柔らかく笑った。
「……【合格おめでとう】だよ」
「え」
「私たち、合格したから巡り逢えたんだし、お互いでお互いをねぎらおうってことになって」
「……素敵ですね」
千都留さんはちらと時計を見た。バス到着の定刻前三分ほどだ。
「来年、大樹くんのこともまぜたいな。絶対合格して、私の後輩になってね。キャンパスは文理で分かれてるけど、駅前のカフェ、潰れない限り私あそこでバイトしてると思うから」
「はい」
「もうすぐバス来そうだよね。……あ、音が近づいてきた」
千都留さんは立ち上がってスカートのうしろをはたくと、にっこりと笑った。
「私、応援してるね。カフェに来てくれたら、古典のアドバイスくらいならできると思う。理系科目はからきしだけど……。だから、来てくれたら嬉しいな。それじゃ、『また』ね」
階段の上でバスが止まる。プシューと音がして扉が開く。千都留さんはタラップを軽快に上ってゆく。
「あ、はい。『また』」
千都留さんは川に面した窓際の席に座り、僕に向かって手を振った。そしてバスが動き出すと、正面を向いて深く座席に腰かけたようだった。
──『また』。
がんばらないと。思いがけずもらったやる気に、僕は翌日から弟たちが自然と静かになるほど勉強に打ち込んだ。
ノベマカフェには行かなかった。『また』千都留さんに会うのは、合格通知を手に入れて、晴れて後輩になってからだ。僕は、今度は後輩として千都留さんに挨拶をするんだ──。
──そして、春。
呪文のようなドリンクの名前をメニュー表から選んでいると、スタッフルームから制服に着替えたばかりであろう女性が出てきた。もう一人のスタッフは、別の客の応対をしている。
「お待ちのお客様、お待たせ致しました。ご注文おうかがいします」
僕ははっと顔を上げた。聞き覚えのある声──その女性と目が合った。
「……千都留さん」
「大樹くん……!」
千都留さんが驚くのももっともだ。僕はカフェを訪れることはなかったし、あれから河川敷にも行かなかった。千都留さんに会ったのはこれが二度目だ。むしろ覚えられていて驚くほどだ。でも、嬉しかった。今日は、千都留さんに会うためにここへ来たのだから。
「この、期間限定の……」
呪文が読めず、メニュー表を指さす。桜色の、いかにも春を──僕にとっては合格を思わせるドリンクだった。
「これの、いちばん大きいやつをください」
「はい、かしこまりました」
千都留さんは呪文を唱え、「こちらでお間違えないでしょうか?」と言ったあと目配せした。あの日覚えられないと言っていた呪文メニューを、千都留さんは完璧に諳んじていた。
「それでは、こちらの番号札の番号でお呼び致しますので、少々お待ちください」
目の前でドリンクを作ってくれるのかと思いきや、千都留さんは手の空いた隣のスタッフに何事か耳打ちして、スタッフルームに消えてしまった。しかしドリンクを手に僕の席にやってきたのは千都留さんで、狐につままれたような気分になる。
「それでは、どうぞごゆっくり」
ドリンクにはメモがついていた。リングノートの一枚を切り取っただけのメモ。
【お勘定はしておいたから、そのままお店を出てね。あと、できれば久々に話がしたいな。これ、私の連絡先。千都留】
見るとメモの一番下にはインスタントメッセンジャーの番号が書いてある。一番有名で、僕も使っているカフェメッセというメッセンジャーで使える番号だった。
──それじゃ、『また』ね。
そっか、と僕は思う。僕が合格したことを、まだ千都留さんは知らないのだ。会っただけでまだ伝えていなかった、気を遣わせているに違いない。僕は急いでカフェメッセに番号を登録した。そして引き続き急いで文字を打ち込む。
【合格しました! 晴れて千都留先輩の後輩です! いつでもヒマしてます。】
実家から××大学に通う僕には引っ越しもないし、本当にずっと暇なのだ。
ピロンとカフェメッセが鳴った。早い返事だ。見るとレジカウンターにまだ千都留さんの姿はなかった。もしかしたら僕の返信を待っていてくれたのかもしれない。
【おめでとう! よかった、あれからずっと気にしてたんだよ。本当におめでとう!! 今度、よければ向かいのカラオケでパーティーしない? たくさんお話聞きたい!! 私も、お泊り会のこと話すから笑】
千都留さんらしい、飾らない、本心からのようなメッセージだ。休憩時間なのかもしれないが、職場でこれを打たせていることに若干の罪悪感を覚えつつ、それでも僕は舞い上がるような気持ちだった。
【はい、ぜひ。僕もたくさん話したいですし、キムチ鍋とかジャージのことも気になってたんです。】
レジカウンターにひとり立っていた女性がスタッフルームに引っ込んだ。数人しかいない客はみな静かにドリンクを飲んでいて、スタッフがいなくても差し支えのない瞬間だ。
ドアが開くと、今度は千都留さんが出てきた。
千都留さんはレジに立ったので、個人的な話はカフェメッセでもできなさそうだ。
僕はドリンクを飲み干し、レジすれすれ──つまり千都留さんのぎりぎりまで近くを通った。すみません、ご馳走になって、と小声で言う。
気にしないでと千都留さんも小声で笑った。それから引き続き小声で、微笑んで続けた。
──真っ白なホイップクリームが胸やけしそうなくらい乗ってて、これでもかっていちごが散りばめられてる、合格おめでとうケーキを添えたお祝いパーティーをするから、それまでその言葉はまだ取っておいてほしいな。
そっとかけられた、けれどはっきりした女性の声に僕は飛び上がるほど驚いた。
真夏の河川敷。誰もいないのをいいことに、僕は道路から川にのびた階段に腰かけ、自転車を止めペットボトルを自分の隣にセットしてカバンを投げ出して、古文の参考書に集中していたのだ。
「ペットボトル、ぬるくなっちゃいますよ」
女性は僕が左手に置いていた、強炭酸のペットボトルを指さして言った。
「あっ……、ほんとだ」
もう炭酸は抜けきっているだろう。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。しかしこの女性がそれだけを言いに僕に声をかけに来たとは思えない。ここは彼女の特等席だったりするのだろうか。今日初めてここに来た僕にはわからない。話が長引くのもめんどうなので、僕は帰ろうとカバンに手を伸ばした。
「あっ、いいですそのままで。私、通りすがりなので」
女性は大きく手を左右に振って否定した。
「通りすがり……?」
思わず訊き返す。
「はい、バス待ちで。この階段の上にあるバス停の。暑いのにニ十分も来ないっていうから、川辺なら涼しいかなって、ここに。だから、それ以上長居するつもりはないんです」
笑った顔は大人びていながらも大差ない年齢のように思えた。白い肘までのシャツにイエローのタイトな膝丈のスカート。暗めの茶髪は肩の下までの長さで、吹いた風にさらさらと揺れた。清潔感のある、闊達そうな女性だった。
「……というか、ここに居てもいいですか?」
「あ、はい、もちろん。僕も今日初めて来た所なんで」
そうなんだ、と彼女は笑った。丁寧語が外れたのが新鮮に思えた。
「あ、ごめんなさい、敬語とかって慣れなくて。バイト先も学生ばっかりだし……」
「学生なんですか?」
慌てる彼女に助け船をと思ったのだが、詮索するようになってしまった。
だが好奇心がなかったといえば嘘になる。高校三年生の僕と、洗練された様子の彼女とには、同じ学生とは思えない雲泥の差の空気があったのだ。それに、この暑いのに涼しそうだ。やはりここまでチャリで来たのが祟ったか。
「そう、大学生です。××大学の一年生、今春ここに越してきたばかりなの。それで、あのう」
「はい」
僕は首を傾げた。
「ごめん、あの、敬語外しちゃっていいかな。正直ものすごく喋りづらいの。たぶんだけど、あなたも学生だよね? 高校生?」
「あ、はい。敬語はいりません。僕高校三年生なんで、年下だと思いますし」
よかった、と彼女は笑った。眩しい笑顔だ。思わず赤面してしまう。
「じゃあ、受験生? 古文の文法書だよね、それ」
「あ、はい。古文、苦手で」
「そうなんだ。暑いのに、外で勉強する派?」
外で勉強する派って。僕は思わずちょっと笑ってしまった。
「え、ごめんなさい、失礼なこと言ったかな」
「いや、違うんです」
こほんと咳払いをして真面目な顔を取り直す。そういえば外で勉強する世界も、大学生にならあるのかもしれないと思った。
「大学ってやっぱり、外で勉強するのに良い環境とかあるんですか?」
彼女はとくに気を害した様子もなかった。
「うん、テラスとか。いまはガラガラだけど、春には先輩がたくさんいて」
「勉強して……?」
あはは、と彼女は笑った。
「ううん、それはテスト前だけ。本気で卒論とか書く人もいるみたいだけど、だいたいがおしゃべりしてる感じかな」
「ああ……」
「がっかりしちゃった?」
ごめんねと困ったように笑う。
「やっぱ受験が終わると空気が変わっちゃって。でもそれって努力の先にある世界だから、見逃してほしいな」
「いや、大丈夫です。なんていうか、勉強になります。ていうか僕、外で勉強するって発想がなかったから、さっきは失礼しました」
「なるほど、いえいえ。そうだよね、高校生って図書館とか自習室とか、リッチな子だとノベマカフェとかだもんね、勉強するの。外はないか」
ノベマカフェとはここ日本でも有数のカフェチェーン店だ。
「それと、よければお名前教えてくれると助かるな。呼び方難しいから……あ、偽名でも大丈夫。私は千都留(ちづる)。偽名じゃありません」
ちょっとおどけて言った後彼女は、隣座っていい?と僕の右側、陰が広がっている場所を指さした。もちろんと頷く。
「僕は大樹(だいき)っていいます。本名です。本当は家で勉強してたんですけど、弟たちがありえないくらいうるさくって、気分転換に最近護岸工事完了した河川敷でも行ってみるかって」
「で、ちょっと思ってたのと……?」
「違いましたね。正直勉強どころじゃないです。けど、出てきたからには古文の助動詞の一つでも覚えて帰りたいなって……」
「えー、えらい」
千都留さんは結構な大声を出した。そしてぱっと口元を両手で覆う。
「あ、ごめんなさい大声出して。……お詫びに、わからないところがあったら訊いてみて。案外答えられるかも」
「え、いいんですか」
「古文は得意だったの。ていうか、古文で勉強したい作品扱ってるのが××大だけだったからこっちに進学してきたんだ、私。だから、わからないと逆にちょっとまずい」
苦笑いに照れがにじんでいる。あけすけで気持ちの良い人だ。思わず遠慮を忘れてしまう。
「じゃこの、【にけり】って……」
「あ、これ頻出。まず【に】と【けり】で品詞分解。それぞれの助動詞の意味は覚えてる?」
「え、え……っ? 【けり】は和歌に付くって……」
「それは詠嘆の意味のほうね。ここの【けり】は過去の意味で……」
僕は【にけり】についてだけは完璧にマスターした。
「千都留さん、教え方すっごい上手いですね。教師とかにはならないんですか?」
本心から感嘆して言うが、千都留さんは手をぶんぶんと振って笑った。
「やだな、お世辞が上手。私は古文の勉強していたいし、就職のことは……どうだろう、まだわからないかな」
「そうなんですか」
「それに、教え方をほめてもらえるならそれは弟のおかげかも」
千都留さんは笑った。
「高校一年の弟がいるの。私が大学受験のときに、弟も高校受験。阿鼻叫喚のなかで数学とか訊いてくるんだよあいつ。信じられないよ、私も私で解けないし」
「……ふふ」
「ほんっとに解けないの! ××大は数学受けなきゃいけなかったから、死に物狂い」
「ですよね。××大だと数学は得点源なんですけど、僕は国語がほんとにやばくて……」
「あれっ、大樹くんって××大狙い?」
「あ、はい。一応は」
「理系?」
「はい。千都留さんは文系ですか?」
「うん、そう」
そっか、そうなんだあ、と千都留さんは感慨深げに僕を見た。
「……受かってね」
そのまなざしに、僕は”先輩”を感じた。大学受験を乗り越えたという意味での”先輩”だ。
「はい」
まっすぐに答える。しばらく沈黙が流れた。
「って、ごめんね、なんか妙な空気にしちゃったかな。どうしよう、まだバスまで十分もある」
「千都留さんさえよければ、ちょっと大学生活のこととか聞きたいです。どうですか? あの、図々しいですけど」
本当に図々しいとは思ったが、僕は提案してみた。
「大学のことをイメージって言われても、まず古文の過去問のことが頭に浮かんだりして、全然楽しい大学生活とか想像できないんです、僕。××大学は地元で、外側だけなら見慣れてるし。そのわりに、カフェがあるとかは知らないし……」
「あーわかる、うちの地元にも私立大学があったけど、建物が立派すぎて見るだけで気後れしちゃう感じだった。一応受けたけど、内部も綺麗でびびっちゃったな」
「僕は私大受けるつもりなくて、だからがんばらないといけないんですけど……そもそも弟たちがいるから受けないって話になってるのに、その弟たちがうるさくて勉強できないのどうかしてますよ」
「うーん、よくわかる。まだ小さいんだ? 弟さんたち」
「中二です。へんに中二病までこじらせてて性質悪くって」
「楽しそう」
千都留さんが笑う。
「楽しくないですよ……」
「ごめんごめん、じゃあ私の楽しくない話。……大学生って、アルバイトしてるイメージってない?」
「あ、ありますあります」
「私もなんだけどね、ここって……大樹くん地元なら知ってると思うけど、バイトするところないよね!?」
ああ……と僕は初めて外部からの視点でこの街を見た。
「ないですね……駅前のノベマカフェと、カラオケスターツくらいですかね。あとはデパートひとつだから学生バイトって雇われなさそうです」
「その通りなのよ! 幸い、いまはノベマカフェで働かせてもらってるんだけど、メニュー全然覚えられなくて。呪文みたいに思えちゃう」
「僕なんて行ったことないです……」
「男子高校生だもんね。たしかに客層にはいないよ」
千都留さんはふうとため息をついた。
「一人暮らしって、結構寂しいんだよね……。バイトは楽しいけど、時間がきたら帰らないといけないし。バイト先でも学校でも友達はできたけど、……そうそう、お泊り会するんだった! 私のパジャマ、高校のときのジャージなんだけどどうしよう? まともなの買ったほうがいいかな?」
突然女子っぽい会話を振られて、僕は赤面する。
「え、えっと……」
「でもブランドものって高いでしょ? 憧れのブランドもあるにはあるけど、教授に突然本を買わせる人がいるからそうそうお金使えないんだよね」
「突然本を買わせる教授!?」
迷惑だよね、と千都留さんはまたため息をついた。
「あの、その友達の人たちって、どうするんですか?」
少し方向性を変えて尋ねてみる。
「それがわからなくて。でもみんな、都会から来た子ばっかりなんだよね。だから買わなくても絶対かわいいの持ってるに決まってるよ。フード付きのやつとか……!」
「フードつき、寝づらくないんでしょうか?」
「あ、じゃあ私、部屋着と混同してるかも」
「いや、わからないですけど。……ジャージもいいと思いますよ」
「………………そうかな?」
間をたっぷりとって、千都留さんが疑いのまなざしを僕に向ける。
「高校時代の話とかできそうじゃないですか?」
「うーん、それはあるかも……。もうちょっとお財布と、あとシフト増やせないか店長に聞いてみる」
「はい、それがいいと思います」
たぶん、と小声で付け足す。
「ありがとう、相談乗ってくれて」
「いや、全然力になれてないと思いますけど……古文のお礼には程遠くて」
「古文はいいよ」
千都留さんは笑ってまた時計を見た。
「次のバスでね、バイトに行くんだ。これを逃すと五十分後だから、ちらちら時計見ちゃってごめん。大樹くんと話すの楽しいんだけど、乗り遅れたらシャレにならないから。店長は優しいけど、私はまだパジャマ代も諦めてなくて……ていうか割り勘の夕食だって……あ」
千都留さんは両手でぽんと自分の膝を叩いた。
「ねえ、私たち、お泊り会の夕食で何を食べるでしょうか!」
「え」
女子大生が寄り集まって食べるもの? なんだか顔が赤くなる。
「え、えっと。なんかおしゃれなものかなって」
「おしゃれなもの、かあ……」
千都留さんはくすくすと笑う。
「待ってください…………いまチーズ流行ってるから……チーズ……チーズフォンデュ!」
「あー、惜しい!かな? 惜しいかも!」
「わかった、チーズ鍋!」
「えー惜しい!」
千都留さんは、ここまで僕が連続正解してきたかのような残念そうな顔で言った。
「正解はキムチ鍋でした!」
「……それって惜しいですかね……?」
僕としては全然惜しくないと思うが、彼女たちの間でチーズ鍋とキムチ鍋は接戦だったらしい。
「それと、ホールケーキを食べるの。四等分だから、一人分がすっごく大きくなるよね。あー、楽しみ!」
「ケーキが楽しみなんですか?」
僕もだいぶ軽口を叩くようになりしまったと思うが、千都留さんは気にした様子もない。
「そう、ケーキ。キムチ鍋もいいけどね。私甘いもののほうが好きだから。いちごのホールケーキ! 真っ白なホイップクリームが胸やけしそうなくらい乗ってて、チョコプレートには……。そうだ、チョコプレートにはなんて書くでしょう? ちなみに誰かの誕生日とかじゃないよ」
「うーん……。【BFF】……とか……」
何を言っているんだ僕は。声が消え入る。
「【ベストフレンドフォーエバー】? 大樹くんセンスいいっ。提案しちゃおうかな、まだ文字入れは先なわけだし」
「や、やめてください!!」
焦って叫ぶと千都留さんは柔らかく笑った。
「……【合格おめでとう】だよ」
「え」
「私たち、合格したから巡り逢えたんだし、お互いでお互いをねぎらおうってことになって」
「……素敵ですね」
千都留さんはちらと時計を見た。バス到着の定刻前三分ほどだ。
「来年、大樹くんのこともまぜたいな。絶対合格して、私の後輩になってね。キャンパスは文理で分かれてるけど、駅前のカフェ、潰れない限り私あそこでバイトしてると思うから」
「はい」
「もうすぐバス来そうだよね。……あ、音が近づいてきた」
千都留さんは立ち上がってスカートのうしろをはたくと、にっこりと笑った。
「私、応援してるね。カフェに来てくれたら、古典のアドバイスくらいならできると思う。理系科目はからきしだけど……。だから、来てくれたら嬉しいな。それじゃ、『また』ね」
階段の上でバスが止まる。プシューと音がして扉が開く。千都留さんはタラップを軽快に上ってゆく。
「あ、はい。『また』」
千都留さんは川に面した窓際の席に座り、僕に向かって手を振った。そしてバスが動き出すと、正面を向いて深く座席に腰かけたようだった。
──『また』。
がんばらないと。思いがけずもらったやる気に、僕は翌日から弟たちが自然と静かになるほど勉強に打ち込んだ。
ノベマカフェには行かなかった。『また』千都留さんに会うのは、合格通知を手に入れて、晴れて後輩になってからだ。僕は、今度は後輩として千都留さんに挨拶をするんだ──。
──そして、春。
呪文のようなドリンクの名前をメニュー表から選んでいると、スタッフルームから制服に着替えたばかりであろう女性が出てきた。もう一人のスタッフは、別の客の応対をしている。
「お待ちのお客様、お待たせ致しました。ご注文おうかがいします」
僕ははっと顔を上げた。聞き覚えのある声──その女性と目が合った。
「……千都留さん」
「大樹くん……!」
千都留さんが驚くのももっともだ。僕はカフェを訪れることはなかったし、あれから河川敷にも行かなかった。千都留さんに会ったのはこれが二度目だ。むしろ覚えられていて驚くほどだ。でも、嬉しかった。今日は、千都留さんに会うためにここへ来たのだから。
「この、期間限定の……」
呪文が読めず、メニュー表を指さす。桜色の、いかにも春を──僕にとっては合格を思わせるドリンクだった。
「これの、いちばん大きいやつをください」
「はい、かしこまりました」
千都留さんは呪文を唱え、「こちらでお間違えないでしょうか?」と言ったあと目配せした。あの日覚えられないと言っていた呪文メニューを、千都留さんは完璧に諳んじていた。
「それでは、こちらの番号札の番号でお呼び致しますので、少々お待ちください」
目の前でドリンクを作ってくれるのかと思いきや、千都留さんは手の空いた隣のスタッフに何事か耳打ちして、スタッフルームに消えてしまった。しかしドリンクを手に僕の席にやってきたのは千都留さんで、狐につままれたような気分になる。
「それでは、どうぞごゆっくり」
ドリンクにはメモがついていた。リングノートの一枚を切り取っただけのメモ。
【お勘定はしておいたから、そのままお店を出てね。あと、できれば久々に話がしたいな。これ、私の連絡先。千都留】
見るとメモの一番下にはインスタントメッセンジャーの番号が書いてある。一番有名で、僕も使っているカフェメッセというメッセンジャーで使える番号だった。
──それじゃ、『また』ね。
そっか、と僕は思う。僕が合格したことを、まだ千都留さんは知らないのだ。会っただけでまだ伝えていなかった、気を遣わせているに違いない。僕は急いでカフェメッセに番号を登録した。そして引き続き急いで文字を打ち込む。
【合格しました! 晴れて千都留先輩の後輩です! いつでもヒマしてます。】
実家から××大学に通う僕には引っ越しもないし、本当にずっと暇なのだ。
ピロンとカフェメッセが鳴った。早い返事だ。見るとレジカウンターにまだ千都留さんの姿はなかった。もしかしたら僕の返信を待っていてくれたのかもしれない。
【おめでとう! よかった、あれからずっと気にしてたんだよ。本当におめでとう!! 今度、よければ向かいのカラオケでパーティーしない? たくさんお話聞きたい!! 私も、お泊り会のこと話すから笑】
千都留さんらしい、飾らない、本心からのようなメッセージだ。休憩時間なのかもしれないが、職場でこれを打たせていることに若干の罪悪感を覚えつつ、それでも僕は舞い上がるような気持ちだった。
【はい、ぜひ。僕もたくさん話したいですし、キムチ鍋とかジャージのことも気になってたんです。】
レジカウンターにひとり立っていた女性がスタッフルームに引っ込んだ。数人しかいない客はみな静かにドリンクを飲んでいて、スタッフがいなくても差し支えのない瞬間だ。
ドアが開くと、今度は千都留さんが出てきた。
千都留さんはレジに立ったので、個人的な話はカフェメッセでもできなさそうだ。
僕はドリンクを飲み干し、レジすれすれ──つまり千都留さんのぎりぎりまで近くを通った。すみません、ご馳走になって、と小声で言う。
気にしないでと千都留さんも小声で笑った。それから引き続き小声で、微笑んで続けた。
──真っ白なホイップクリームが胸やけしそうなくらい乗ってて、これでもかっていちごが散りばめられてる、合格おめでとうケーキを添えたお祝いパーティーをするから、それまでその言葉はまだ取っておいてほしいな。