学校の正門に続く道から一本ずれると、そこには大きな川が流れている。ちょっと立派な橋がかかっていて、車や人の往来も多い。
東野くんがブレイクダンスをしていることを知ったのはついこの間のこと。同じクラスの玲美ちゃんが東野くんと同じ中学の出身だった。
「休みの日はいつも学校の近くの河川敷で練習してるみたいよ。橋の下は静かで落ち着くんだって」
そんな耳より情報を聞いての訪問だ。にしてもあの大人しそうな東野くんがブレイクダンス。まぁ、ビッグシルエットに斜めのキャップ、似合わないわけではなさそう。まぁでも、練習の時は単に動きやすい格好でいるのかな? そういえばコンペイさまの話をした時も、この町の体育館を大会で使ったことあるって言ってたっけ。音楽関係。ダンスも音楽関係だ。
そんなことを考えながら橋の下に行くと、いた。
橋の影で丸まった背中。もしかして本、読んでる……?
そうしてすぐに、頭に浮かんだのが。
「カズオ・イシグロ、『わたしを離さないで』」
私がそう声に出すと、丸まっていた背中がびくんと跳ねた。彼がびっくりして振り返る。
「に、西尾さん?」
私はニコッと微笑んだ。そりゃもう、東野くんが練習しているかもしれない場所に行くんだ。おしゃれだってバッチリだ。
「読んでくれてたんだ」
頬が緩むのを堪えきれずにいると、東野くんはついと目線を伏せて「気になってたから」とつぶやいた。だから私も返した。
「私も気になってたよ」
「えっ」
「その本読んでくれるかなーって」
あ、そっちか……という顔をする東野くん。ふふ。
思えば奇妙なものだ。大勢の前だとあんなに緊張する私が、好きな彼の前ではこんなに大胆に振る舞えるなんて。そして同時に、大勢の前ではあんなに丁寧な発表ができる東野くんが、こんなにどぎまぎしているのを見て、私はもしや……と思った。いや、あくまで可能性の話で、確証なんてないに等しいけれど、でも……。
でも、どうせ、今までもバレないように言ってきたわけだし。
今この場でも、バレないように言えばいいか。
そう思った私はすっと動いて彼の隣に座ると、彼の顔を覗き込んで、こう告げた。
「アイスが早く溶けちゃいそう」
すると、少しの間、東野くんがポカンとした。私は彼の目を見た。
一秒、真剣に、見つめ合う。
どうなのかな。東野くんも私のこと想ってくれてるのかな。この息はいつまで止めてたらいいのかな。何だかちょっと、苦しいな。
やがて我慢ができなくなって、私はそっと訊ねる。
「この意味、分かる?」
静かに問うと、東野くんが首を傾げた。
「あなたといると体温が高くなるの」
なるべく、迂遠に。
でも今までよりは近く。
想いを伝える。
すると私の意図が通じたのか、東野くんは頬を赤らめた。
――ぼ、僕も……。
そんな言葉が返ってくるだろう。
そう期待していた。
我ながら卑怯な女だ。こちらから好きとは言わないで、でも相手の「好き」は引き出して。だけどその罪が心地いい。そんな気持ちに浸っていたのに。
しかし東野くんは、私の想像とは違う答えを返してくる。
「そのシュシュ、いい色だね」
……シュシュ?
そんなもんしてないんだが?
んんー? と思っていると、東野くんが追撃してきた。懸命な顔で。真っ直ぐな顔で。
「髪切った?」
「髪ぃ?」
かなり前の話だし、何ならそのかなり前の段階であなた気づいてましたよね?
おかしい。何かミスマッチがある。
そう思っていた時だった。
「気づいて」
東野くんがそう、つぶやいた。そこでようやく、私も気づいた。
思えば、これまで東野くんは事あるごとに褒めてくれた。シュシュだって、髪だって。今だって褒めてる。ここに何か、意図があるのかな。
もしかして?
もしかして、私と同じことを、していたとしたら。
それってとっても……。
だから、口を開いた。
「『わたしを離さないで』」
それは、本のタイトル。
今彼が持っている、本のタイトル。
「……アイスが早く溶けちゃいそう」
私が最初の言葉を繰り返すと、すぐに東野くんが応じてくれた。
「そのシュシュ、いい色だね」
「ふふ」
私は思わず笑ってしまう。やっぱりそうだ。そういうことだったんだ。
それから私たちはゆっくり、答え合わせをする。
まず口を開いたのは東野くんだった。
「『シュシュの色がいい』っていうのは、『そのシュシュを選んだ西尾さんのセンスが好き』っていう意味だったんだ。だから、その……」
うん。私は頷く。
「多分、同じ理由でアイスが溶けちゃうんだと思う」
「『髪を切ったか?』なんて訊いたのは、そんな細かいところに気づくくらい西尾さんのことを……」
「うん。だから」
私は東野くんの顔をさらに覗き込んだ。
「私も、『わたしを離さないで』って……」
ふふ。
私が笑うと、東野くんも照れくさそうに笑った。
そうだ、そうだったんだね。私たちはずっと、言い合ってたんだ。お互いにバレなさそうな範囲で、でもハッキリと……
――ずっと好きだった。
――ずっと好きだったんだよ。
そんな気持ちを、遠回しな言葉に乗せて。
了
東野くんがブレイクダンスをしていることを知ったのはついこの間のこと。同じクラスの玲美ちゃんが東野くんと同じ中学の出身だった。
「休みの日はいつも学校の近くの河川敷で練習してるみたいよ。橋の下は静かで落ち着くんだって」
そんな耳より情報を聞いての訪問だ。にしてもあの大人しそうな東野くんがブレイクダンス。まぁ、ビッグシルエットに斜めのキャップ、似合わないわけではなさそう。まぁでも、練習の時は単に動きやすい格好でいるのかな? そういえばコンペイさまの話をした時も、この町の体育館を大会で使ったことあるって言ってたっけ。音楽関係。ダンスも音楽関係だ。
そんなことを考えながら橋の下に行くと、いた。
橋の影で丸まった背中。もしかして本、読んでる……?
そうしてすぐに、頭に浮かんだのが。
「カズオ・イシグロ、『わたしを離さないで』」
私がそう声に出すと、丸まっていた背中がびくんと跳ねた。彼がびっくりして振り返る。
「に、西尾さん?」
私はニコッと微笑んだ。そりゃもう、東野くんが練習しているかもしれない場所に行くんだ。おしゃれだってバッチリだ。
「読んでくれてたんだ」
頬が緩むのを堪えきれずにいると、東野くんはついと目線を伏せて「気になってたから」とつぶやいた。だから私も返した。
「私も気になってたよ」
「えっ」
「その本読んでくれるかなーって」
あ、そっちか……という顔をする東野くん。ふふ。
思えば奇妙なものだ。大勢の前だとあんなに緊張する私が、好きな彼の前ではこんなに大胆に振る舞えるなんて。そして同時に、大勢の前ではあんなに丁寧な発表ができる東野くんが、こんなにどぎまぎしているのを見て、私はもしや……と思った。いや、あくまで可能性の話で、確証なんてないに等しいけれど、でも……。
でも、どうせ、今までもバレないように言ってきたわけだし。
今この場でも、バレないように言えばいいか。
そう思った私はすっと動いて彼の隣に座ると、彼の顔を覗き込んで、こう告げた。
「アイスが早く溶けちゃいそう」
すると、少しの間、東野くんがポカンとした。私は彼の目を見た。
一秒、真剣に、見つめ合う。
どうなのかな。東野くんも私のこと想ってくれてるのかな。この息はいつまで止めてたらいいのかな。何だかちょっと、苦しいな。
やがて我慢ができなくなって、私はそっと訊ねる。
「この意味、分かる?」
静かに問うと、東野くんが首を傾げた。
「あなたといると体温が高くなるの」
なるべく、迂遠に。
でも今までよりは近く。
想いを伝える。
すると私の意図が通じたのか、東野くんは頬を赤らめた。
――ぼ、僕も……。
そんな言葉が返ってくるだろう。
そう期待していた。
我ながら卑怯な女だ。こちらから好きとは言わないで、でも相手の「好き」は引き出して。だけどその罪が心地いい。そんな気持ちに浸っていたのに。
しかし東野くんは、私の想像とは違う答えを返してくる。
「そのシュシュ、いい色だね」
……シュシュ?
そんなもんしてないんだが?
んんー? と思っていると、東野くんが追撃してきた。懸命な顔で。真っ直ぐな顔で。
「髪切った?」
「髪ぃ?」
かなり前の話だし、何ならそのかなり前の段階であなた気づいてましたよね?
おかしい。何かミスマッチがある。
そう思っていた時だった。
「気づいて」
東野くんがそう、つぶやいた。そこでようやく、私も気づいた。
思えば、これまで東野くんは事あるごとに褒めてくれた。シュシュだって、髪だって。今だって褒めてる。ここに何か、意図があるのかな。
もしかして?
もしかして、私と同じことを、していたとしたら。
それってとっても……。
だから、口を開いた。
「『わたしを離さないで』」
それは、本のタイトル。
今彼が持っている、本のタイトル。
「……アイスが早く溶けちゃいそう」
私が最初の言葉を繰り返すと、すぐに東野くんが応じてくれた。
「そのシュシュ、いい色だね」
「ふふ」
私は思わず笑ってしまう。やっぱりそうだ。そういうことだったんだ。
それから私たちはゆっくり、答え合わせをする。
まず口を開いたのは東野くんだった。
「『シュシュの色がいい』っていうのは、『そのシュシュを選んだ西尾さんのセンスが好き』っていう意味だったんだ。だから、その……」
うん。私は頷く。
「多分、同じ理由でアイスが溶けちゃうんだと思う」
「『髪を切ったか?』なんて訊いたのは、そんな細かいところに気づくくらい西尾さんのことを……」
「うん。だから」
私は東野くんの顔をさらに覗き込んだ。
「私も、『わたしを離さないで』って……」
ふふ。
私が笑うと、東野くんも照れくさそうに笑った。
そうだ、そうだったんだね。私たちはずっと、言い合ってたんだ。お互いにバレなさそうな範囲で、でもハッキリと……
――ずっと好きだった。
――ずっと好きだったんだよ。
そんな気持ちを、遠回しな言葉に乗せて。
了