母から「清澄(きよすみ)くんの爪の垢でも煎じて飲ませたい」と言われたことは一度や二度じゃないし、「清澄くんって彼女いるのかしら」と探られたことも一度や二度じゃない。でも清澄本人に聞いたら「はァ?」と言われて最後、あの垂れ目の、つめたいまなざしでじいっと見下ろされるだけなので、僕は特に学校で清澄に触れることはしない。
 彼に限っては「鉢谷」じゃなくて「()谷」の間違いだと思う。

 僕らの通う学校には「カースト」がある。一軍・二軍・三軍、その他、以上。
 で、鉢谷清澄はその一軍のリーダーみたいなものだ。顔面偏差値の高い女子を何人も侍らせて、読者モデルもやってるようなイケメンとつるみ、高校の休み時間になれば後ろの黒板周辺を占拠して落書きなんかしてる。SEX&LOVE&PEACE!
「ああいう手合いはやり放題なんだろうな」と隣の山田がつぶやく。僕は静かに彼の言葉に耳を傾ける。
「やり放題とは?」
「男と女がベッドの上でキャッキャうふふするようなこと」
 盛大にぶちまけたんだか曖昧に濁したんだかよく分からない説明だ。山田は頬杖をついた両腕で頬をぎゅっと押しつぶした。
「畜生うらやましい……」
「いや、それは山田の妄想だよ。言うて一軍の連中、成績落としたことないじゃん。真面目に家に帰って勉強してるんじゃないの」
 それにここは特進クラス、大学進学を目標に据えているクラスだ。ちょっとでも予習や復習を怠ると振り落とされる魔のクラスでもある。
「……そうだけどさあ、天に二物も三物も四物も与えられたやつなんかいくらでもいるじゃん、――絶対彼女いるって鉢谷」
「そう?」
「だって、そういう感じするもん。こう、みんな王様とか神様とか持ち上げてるけど、清いだけじゃないっていうかさー」
 鉢谷清澄のプライベートに関しては、なぜかみんな関心が高い。あの一軍の女子連中や、モデルくんや、カーストにすら入れない山田ですらそんなことを言う。ねえ清澄、彼女いないの? って。
「おまえと鉢谷、家が隣なんだろ? なんかないの、そういう情報」
「そういう情報って?」
「あっはーんみたいな情報」
「ない」
 断言。その直後、背中にちくりと刺さる視線。
 振り返ると清澄が、机の上にどっかりと座ったこのクラスの王様が、こちらを冷たい目で見つめていた。この瞬間だけは、彼にまとわりつく一軍の女子も、受けを狙って大ぶりなジェスチャーをする男子も見ていない。彼は、清澄は僕だけを見つめていた。
「……あんまり、そういうこと聞いて回るなよ、山田」
 僕は参考書を広げて、ピンク色の付箋のところを注意深く読む振りをした。そうすると、蜂の視線はふいと遠のき、僕と清澄の間の緊張感はふっと緩む。
「鉢谷だって人間なんだよ」

 って、言ったはいいんだけど。

「ねえあいつと何話してたん」
「何って何でもないよ」

 家に帰ると、こうなる。

「あいつと何話してたん、言え、郁」
「何も話してないってば! 世間話だって」
「その世間話の内容を知りたいんだって」

 僕の話し相手が誰かって? そりゃあ、特進クラスの一軍の鉢谷清澄さまだ。様々だ。

 僕らは放課後になると帰って一緒に勉強をすることになっている。ことになっている、と言うけれど、いつの頃からか気づいたら清澄が僕の部屋に押しかけていて、気づいたら同じ勉強してる、みたいな状況が続いたから、それが習慣化したまでの話だ。

「清澄も人間なんだよって話」
「……なにそれ、おもんな」
 清澄はさらっとした前髪をかきあげて存分にその顔面の良さを僕に見せつけた後、じとりと目を細めた。
 すねている。
「言っただろ、特に中身のある話はしてないよ」
「彼女とかなんとか聞こえたけど」
 こうなると清澄はめんどくさい。僕は清澄の手元からピンクの付箋を取り上げると、小テストの範囲にあたる箇所に挟み込んだ。
「清澄に彼女がいるとかいないとか、そういう話を聞かれただけ」
「彼女なんかいない(・・・)って」
 語調を強めて清澄が言った。そして僕から付箋の束を奪い取り、同じように同じ箇所に付箋を貼り付ける。
「知ってる。僕と勉強してるからそんな暇ないんだろ」
「そうだよ。俺は郁がいるから」
 僕は視線を上げて清澄を見た。
「誤解すんぞ、そういう言い方やめろよ」
「やだ」
 清澄は、共用しているピンク色の付箋の端をつまんで、ひらひらとハリセンのように振ってみせる。清澄は、クラスの黒板に「LOVE&PEACE」とか書いてた男と同一人物とは到底思えない。こいつはきっと、いくつかの仮面(ペルソナ)を使い分けていて、そのうちの一つがあの完璧な一軍のキングで、もう一つがこの――。

「郁がいるから恋愛する暇ないなぁ」

 ふにゃんと伏せて、にやりと口元をほころばせる。僕は解きかけの方程式を放り出さざるを得なくなる。
「僕のせいにすんな」
「いーや、郁のせいだね」
 腕が伸びてくる。いつも清澄の指は冷たい。小指にはめた指輪はもっとつめたい。小指で掻き上げられる髪の毛と、頬や耳に触れてくる銀色のリング。耳を食むようにもまれて、僕はすこし身をよじった。
「く、すぐったいなぁ、もう!」
「あはは」
「あははじゃない、真面目に勉強しないとキングから落ちるぞ、清澄!」
「落ちてもいいよ」
 清澄は僕の手の甲に指でくるくると円を描いた。
「一軍とか、キングとか、ぜんぜん興味ないし。周りが祭り上げてくるだけだから、乗っかってるだけ」
「あのなあ」
「あと、深角郁に手を出したらころすって言うのに便利だから座ってるだけ」
 思いがけない言葉に、一瞬あっけにとられた。なんだって?
「ね、誰にも絡まれなくて楽でしょ?」
「……あのなあ!」
 僕はペンを置いて清澄の手首をつかんだ。「ころすとかいうなよな!」
「そっちかあ~」
 清澄はけらけら笑いながらあーれーと横へ転がっていく。ついでに僕も転がる。清澄に抱き留められるようにして重なった身体が、どきんと脈打ったのは――気のせいだと思う。

「恋愛なんかしなくていいよ、郁」

 と清澄が言う。なんとなくだけれど、「恋愛をする暇がない」と言った清澄の気持ちが、今この状況――抱き合ってるようなそうでないような微妙な体勢――では、よく分かるような気がした。
「おまえみたいなのがいたら、彼女作る暇ないもんな」
「そうそう」
 ふにゅ、と耳元に何か触れた気がしたけれど、腕と足がもつれあった、何が何だか分からない体勢では、それに言及することも、確かめることもままならなかった。


 やはり学校では落ち着いてクールで動じず誰に対しても分け隔てない一軍のキング、鉢谷清澄は、今日も黒板に好き勝手書いている。
「清澄くん、相合い傘?」
「相合い傘の隣に誰の名前書くの?」
 女子たちはもしや自分の名前が書かれるのではないかとそわそわし、男子はあのキングが誰を選ぶか、といったふうに黒板を凝視している。しかし清澄は、その相合い傘をさっと黒板消しで消した。
「……やっぱなし」

 そして、最後に僕を見る。いつもより優しい目で僕を見る。