叩きつけるような雨音と雷鳴が鳴り響いた。

夕立だ。

傘を持っていない僕は、当然のごとくずぶ濡れになった。
教科書の入ったリュックを傘代わりに使うが、なんの役にも立たない。

携帯いじる暇があったら天気予報見ときゃ良かった……

そんな反省をしながら避難場所を探す。
街路の先に程よい軒先が見えた。
僕は全速力で駆け込み難を逃れた。

「ひゃ〜」

思わず声が出る。
ハンカチも無いので、犬みたいにぶるんと体を振るしかなかった。

「ぷっ……犬みたい」

いきなり背後で声がし、飛び上がった。
振り返ると、戸口から少女が顔を覗かせている。
口元がわなわなと震え、必死で笑いをこらえているのが分かった。

「そんなとこじゃ、風邪……ひきますよ」

そう言って、少女はドアを開け身を引いた。
どうやら中に入れという意味らしい。

「あ、いや……そんな……」

僕は言葉に詰まった。

ずぶ濡れとはいえ、見ず知らずの人の家に入るのは……

僕が渋っているのを見て、少女はコレコレと上を指差した。
目を向けると、小さな札に『珈琲』と書かれている。
文字から察するに、どうやら喫茶店のようだった。

看板、ちいさっ!

なおキョトンとする僕に痺れを切らしたか、少女はいきなり腕を掴んで引きずり込んだ。 

「あっ!?」

……と言う間に席に座らされ、気付けば水とおしぼりが並んでいた。

「いらっしゃいませー!」
「いらっしゃいませー!」

少女の声にもう一つ声が重なる。
見ると、カウンターの向こうに年配の女性が立っていた。
ロングヘアをアップに束ねた綺麗な人だ。
どうやら、ここのマスターらしい。
僕は小さくため息をついた。
これじゃ、どう見ても親切心というより客引きだ。

そして、これが……

僕と彼女の最初の出逢いだった。


ほどなく奥から戻ってきた少女の手には、分厚いタオルが乗っていた。

「どうぞ」

有無を言わさず手渡される。

この時、ようやく僕は少女を眺める事ができた。
歳の頃は同じか、もしくは……下?
という事は、この子も高校生か?
小柄で色白──
黒髪のショートヘアがよく似合う。
顔の大半を独占する大きな瞳に、チャーミングな笑顔が印象的だった。

「まだ濡れてますよ」

そう言ってタオルを掴むと、また有無を言わさず僕の後頭部を拭き始めた。

「あ……ちょ!?……そんな……」

しどろもどろの抗議もむなしく、少女のタオルは顔面にも襲いかかる。
僕は、フガフガ言うしか無かった。

なんだ、情け無い!

アカの他人に、されるがままでいいのか!

……などと怒られそうだが、残念ながら僕は一言も口を出せなかった。

はっきり言って、女性は苦手だ……

彼女いない歴十六年。

小さい頃から、黒メガネにボサボサ頭のうだつの上がらない容姿。
口下手でネガティヴ志向とくれば、【嫌いな男子ランキング】の上位に食い込むのは間違いない。
最後にお付き合いしたのは小学五年の時で、それも一緒に下校するだけの仲だった。
僕はデートのつもりだったが、それにしては毎回喋る話がその日に出た宿題の事ばかりだった。
僕が自慢そうに解く宿題の答えを、相手の子は必死にノートに書いていた。
今にして思えば、僕は便利な『歩く解答書』だったのだ。
それが証拠に別れ際の挨拶が、毎回「明日もよろしくね」だったから。

中学、高校と個性の確立する年代になると、当然のように僕は【冴えない人種】の仲間入りをした。
多くの友人を持つでもなく、部活で活躍するでもなく、ただのんべんだらりと【ボッチ生活】を謳歌したのだった。

長くなったが、要はそんな僕が、女性──しかもこんな可愛い子──に、文句など言えるはずは無いのである。

出されたコーヒーは美味しかった。
雨のせいか、店の客は僕一人しかいない。

「ひょっとしてS高の方ですか?」
「はい……まあ……」
「やっぱり!この辺、S高の通学路なんですよ」

そう言って、少女はしたり顔で僕の前に座り込んだ。

いや、一応僕、お客なんだけど……

「私、アユミって言います。M高の二年です。お客さん名前は?」

おっと、名前まで聞いてきたぞ!?

なんだ、この人懐っこい子は……

キラキラ輝く目におされ、僕は仕方なく名乗った。

それから彼女──アユミは、一人で喋り続けた。
一回(すす)っただけのコーヒーは、完全に冷めてしまった。
不思議な子だったが、何故か憎めない。
いやそれどころか、機関銃のようなお喋りが心地良いとさえ思えてきた。
こんなうだつの上がらない僕に、この少女は惜しみない笑顔を向けてくる。
それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
いつの間にか、僕の顔にも笑みがこぼれていた。

「また来てね」

帰ろうと席を立つ僕に、アユミはすかさず声をかけた。

「約束だからね。絶対ね」

タメ口で念押しされると嫌とは言えない。

いや……正直に言おう。

むしろ小躍りするほど嬉しかった。

だから、絶対にまた来ようと決心した。


*********


その日から、僕はこの喫茶店に通うようになった。

アユミは、学校が終わってから店を手伝う。
なので、僕も学校帰りに寄るようにした。
アユミは僕が来ると、いつも満面の笑顔で迎えてくれた。
他にお客のいない時などは、決まって僕の向かいに座り、弾丸トークを繰り広げる。
そして僕も、ただただ振り子のように頷くのだった。

高校の事、趣味の事、今日あった出来事、等々……

あの綺麗なマスターは親御さんらしく、親一人子一人で店を切り盛りしているらしい。
だが何故か、父親の話になると口をつぐんでしまう。
あまり話したくないようなので、僕も深くは聞かなかった。


そんなこんなで、一か月ほどが過ぎた。

その頃になると、僕にも心境の変化が現れ始める。

アユミに対する気持ちだ。

もはやこの子とのお喋りは、僕の心の()り所にすらなっていた。
楽しく、嬉しく、そしていつも癒されるのだ。

だから、一大決心をした。

交際の申し込みである。

か、彼女として、お、お付き合いしてもらうのだ。

今日こそ、アユミに告白するぞ!

そう自分に言い聞かせ、僕は店に入った。

これまでの感触から、僕が『歩く解答書』と思われてない事は確かだ。
だが、それが好意を持っている事とイコールとは限らない。
当然、断られる可能性だってある。
今までの僕なら、間違ってもそんなリスクは負わなかったろう。

だが、しかし、今日は違う。

この子と、ずっと一緒にいたい!

ずっと声を聞き、ずっと顔をみていたい!

その気持ちは、羞恥心や劣等感といった僕の暗黒面をはるかに超越していた。

思いを伝えること──

ただその一心で、僕は言葉を選び、台詞を考えた。
毎日鏡の前で、ひたすらイメージトレーニングを積んだのだった。

そして迎えた、今日という日。

店内のいつもの時間、いつもの席――

僕の前には、いつものようにアユミが座っている。
だが、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、黙ったままだ。

「も、もしよければ……」

口中をカラカラにしながら、僕は切り出した。

「ぼ、僕と……その……ボクと……」

鳴り響く鼓動で、自分の声がうまく聞こえない。
パンク寸前の気力は、とうに限界を超えていた。

「お、お、お付き合いしてもらえませんか!!」

い、言えた……

言えたぞぉぉっ!!

この一週間、ひたすら練習を重ねた成果だった。

しょぼい勇気しか持たない僕の、なけなしの一発だ!

僕は、ドラゴンを倒した騎士の心境でアユミの顔を見た。

だが、彼女はといえば……

なぜか、悲しそうに下を向いている。

し、しまった!

やはりキモ過ぎたか!?

セリフか!?

声か!?

顔か!?

いや、そもそも僕という存在自体がキモかったか!?

お得意のネガティヴ志向で、僕はあれこれ理由を探した。
あげくには、どうして良いか分からず黙り込む始末だ。

気まずい沈黙の時が流れる……

やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。

その表情は、痛々しいほど強張(こわば)っていた。

アユミは、こじ開けるように口を開いた。

「私……あなたに……隠している事があるの……」

苦しそうな声で話すアユミ。

「実は私……私……【男の娘】なんです!」

……え?

僕は最初、彼女が何を言ってるのか理解できなかった。

男の娘?

それって……男?

この子が……?

いやいや、何言いだすかと思えば……

「驚いたでしょ……そりゃそうですよね」

何かの冗談か……

それとも、こういう断り方が今のトレンドなのか……

いや、確かにインパクトはあるけどさ……

「騙すつもりは無かったんです……ホントです!」

いやに真に迫ってるな……

目がマジだ……

おい、ちょっと待て……マジか!?

マジなのかっ!?

「あなたに……嫌われたくなくて……」

アユミは胸元で手を組むと、ポロポロと涙をこぼした。
その姿を見て、僕は思わずマスターの方を(かえり)みた。

「ダメよアユミちゃん、また冗談言っちゃ」

……と言うセリフを期待したのだが、待てど暮らせど返ってこない。
カウンターの向こうで、神妙な顔をしているだけだ。

「え、いや……あの……えーっ!!!」

ようやく状況を理解した僕は、素っ頓狂な声を上げた。

何度も言うが、彼女いない歴十六年の自分が、やっと見つけた運命の相手が……オトコ!?

こんなに可愛いのに……オトコ!?

体型だって声だって女性なのに……オトコ!?

ああ、コーヒーぬるいな……オトコ!?

なんなんだ……このオチは、一体!?

僕は動揺のあまり、手元にあった角砂糖を全部食ってしまった。

「嫌な思いしましたよね。とんでもない奴だって思いましたよね。ホントに……ホントに、ごめんなさい!」

アユミは謝罪の言葉を並べると、深々と頭を下げた。
小さな肩が震えている。
僕は不覚にも、そんな少女(?)の肩を抱きしめたい衝動に駆られた。

小さく、か細い……オトコの肩を……

オトコ……

…………

だから、どうだと言うんだ――

その時、僕の中で誰かが(ささや)いた。

お前は、アユミが女の子だから好きになったのか――

声は、次第に大きくなってくる。

答えろ――

彼女が女性だから恋したのか――

女なら誰でも良かったのか――

違う!

僕はムキになって否定した。

違う、違う、違う

僕は……

僕は、彼女だから……いや、彼か……

と、とにかく

アユミだから好きになったんだ!

アユミの笑顔が

アユミの明るさが

アユミの優しさが

(たま)らなく愛おしくて、好きだから……

彼女とか、彼とかそんなこと関係ない

僕は、アユミが好きなんだ

大好きなんだよォォォっ!!!

気付くと目の前で、アユミが顔を真っ赤にして(うつむ)いている。
どうやら、後半のセリフは無意識に声に出ていたらしい。
身の置き場の無い僕の顔も真っ赤になる。

「……ありがとう」

やがて、顔を上げたアユミが小さく微笑んだ。

「私のこと……気を使ってくれて」

「気を使ってなんかない!」

アユミの上げ足を取るように、僕は語気を荒げた。

「ホントに……嘘じゃなく……」

アユミの目が、次第に見開かれていく。

「君が……君のことが好きだから……」

僕のセリフが終わらぬ間に、彼女の目にはまた大粒の涙が溢れ出した。

「だから……もう一度言うよ」

そう言って、僕はアユミの前にそっと手を差し出した。

「僕と付き合って下さい!」

手を出したまま、深々と頭を下げる。

溢れ出るアユミの涙は、とめどなく頬をつたい落ちた。

そして、その顔には……

満面の笑みが浮かんでいた。

「ハイっ♡」

僕の手が、アユミの温もりで満たされる。

「や……やた……やった……」

極度の緊張感から解放され、僕はへなへなと椅子に崩れ落ちた。
手元にあったコーヒーフレッシュを一気に飲み干し、ヨレヨレになったお手拭きで額の汗を拭きまくる。
僕の顔にも、無意識に笑みが浮かんでいた。


それからアユミは、色々と打ち明けてくれた。

女の子の衣装や持ち物に興味を持ち出したのは、小学生の頃らしい。
高校に入るとお化粧にも目覚め、学校以外では公共のトイレなどで女装する日々を送っていた。
小柄で整った容姿に加え、変声期が無かったため、どう見ても女性にしか見られなかった。
見知らぬ男性から声をかけられた事も、一度や二度では無かったようだ。
勿論、相手の男に対し僕が殺意を抱いた事は言うまでも無い。
今はこの店の看板娘(?)として、日々を送っている。

「ひとつ聞いていい?」

「え、何?」

遠慮がちに尋ねる僕の顔を、アユミはあどけない瞳で見返した。

「君の……その……恋愛対象って、やっぱり男なの?」

その質問に、アユミは可愛く首を傾げた。

「うーん……実は自分でもよく分からないの。女装してるから特に男の人が好きとも限らないし、かと言って女の子を好きになった事も無いし……」

そこまで言って、アユミは僕の方に顔を近づけてきた。

「でもたまに夢を見ることがあるの。真っ白いウェディングドレスを着た自分の夢を……そして私の横には、()()()()()()()()()()()()()()()が立ってるの」

そう言って、僕の目を覗き込むアユミ。

僕の頭から、水蒸気が音を立てて噴出した。


閉店の時間になり、僕とアユミは遅い夕食を食べに行く事になった。
いそいそと片付ける後ろ姿を見ながら、僕は物思いに耽った。

夕立の雨宿りから始まった出逢い──

それからの一か月間は、夢のように過ぎていった。

そして、ラストの【オトコの娘】発言……

ホント、インパクトあったなあ。

そういや……

僕は、椅子に座り直すと首を傾げた。

聞いてなかった事が、一つあったな。

幼少から女物に興味があったって言ってたけど、キッカケは何だったんだろう?

たとえば、誰かの影響を受けたとか?

こういうのは家庭環境が影響するって、何かで読んだ事あるけど……

お父さんは……いないんだよな。

じゃあやっぱり、お母さんの影響だろうか?

その時ふいに、誰かの視線を感じた。

マスターだ。

カウンターの向こうから、じっと見つめている。

何か言いたそうな、訴えかけているような目だ。

「……あっ!?」

その瞬間、僕の脳裏に【ある考え】が浮かんだ。
あまりに突拍子もないものだったので、思わず声に出して叫んでしまった。

そんな……まさかな……

僕は必死で否定しようとした。

いなくなったのが…… ()()()()()()()()()なんて事は……

あり得ないと思いながらも、その思いつきは頭から離れなかった。
身近な人が女装する姿を見て、自分も女装したくなる。
アユミが女装に目覚めた理由としては、しごく妥当に思えた。

そして……

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……

もしかして……

もしかして、マスターって……

僕はもう一度、恐る恐るマスターの顔を見た。
アユミに告白した時とは違った緊張が走る。
鼓動が、ドキドキと早鐘のように胸を打った。

僕とマスターの視線が重なる。

そこにあったのは──

まるで、()()()()()()優しい眼差しだった。

僕の疑惑を肯定するかのように、静かに輝いている。

「あらまた夕立かしら?アユミ、傘持って行きなさい」

やがて視線を()らしたマスターが、何事も無かったかのように声をかける。

「はーい」

片付けが終わり、手を洗っていたアユミが小走りで戻って来た。
その言葉にハッとした僕も、慌てて窓外に目を向ける。
確かに雨が降り始めていた。

「ありがと。じゃ行ってくるね」

アユミは傘を手に取ると、一本を僕に手渡しながら嬉しそうに笑った。

「お待たせ。行こっか」

幸せが、こぼれ落ちそうな笑顔だ。

その顔を見た瞬間、僕はもう余計な詮索をするのはやめにした。

何があろうと、アユミはアユミ――

ついさっき自分で言ったばかりじゃないか。

周りがどうであろうと、この子を好きな気持ちに変わりはない。

店から出る際に振り向くと、マスターが片目を(つむ)って小さく頷くのが見えた。

外は、ちょうどあの日と同じような夕立だ。

降り(しき)る雨が、俺とアユミの傘を心地よく揺らした。