叩きつけるような雨音と雷鳴が鳴り響いた。
夕立だ。
傘を持っていない僕は、当然のごとくずぶ濡れになった。
教科書の入ったリュックを傘代わりに使うが、なんの役にも立たない。
携帯いじる暇があったら天気予報見ときゃ良かった……
そんな反省をしながら避難場所を探す。
街路の先に程よい軒先が見えた。
僕は全速力で駆け込み難を逃れた。
「ひゃ〜」
思わず声が出る。
ハンカチも無いので、犬みたいにぶるんと体を振るしかなかった。
「ぷっ……犬みたい」
いきなり背後で声がし、飛び上がった。
振り返ると、戸口から少女が顔を覗かせている。
口元がわなわなと震え、必死で笑いをこらえているのが分かった。
「そんなとこじゃ、風邪……ひきますよ」
そう言って、少女はドアを開け身を引いた。
どうやら中に入れという意味らしい。
「あ、いや……そんな……」
僕は言葉に詰まった。
ずぶ濡れとはいえ、見ず知らずの人の家に入るのは……
僕が渋っているのを見て、少女はコレコレと上を指差した。
目を向けると、小さな札に『珈琲』と書かれている。
文字から察するに、どうやら喫茶店のようだった。
看板、ちいさっ!
なおキョトンとする僕に痺れを切らしたか、少女はいきなり腕を掴んで引きずり込んだ。
「あっ!?」
……と言う間に席に座らされ、気付けば水とおしぼりが並んでいた。
「いらっしゃいませー!」
「いらっしゃいませー!」
少女の声にもう一つ声が重なる。
見ると、カウンターの向こうに年配の女性が立っていた。
ロングヘアをアップに束ねた綺麗な人だ。
どうやら、ここのマスターらしい。
僕は小さくため息をついた。
これじゃ、どう見ても親切心というより客引きだ。
そして、これが……
僕と彼女の最初の出逢いだった。
ほどなく奥から戻ってきた少女の手には、分厚いタオルが乗っていた。
「どうぞ」
有無を言わさず手渡される。
この時、ようやく僕は少女を眺める事ができた。
歳の頃は同じか、もしくは……下?
という事は、この子も高校生か?
小柄で色白──
黒髪のショートヘアがよく似合う。
顔の大半を独占する大きな瞳に、チャーミングな笑顔が印象的だった。
「まだ濡れてますよ」
そう言ってタオルを掴むと、また有無を言わさず僕の後頭部を拭き始めた。
「あ……ちょ!?……そんな……」
しどろもどろの抗議もむなしく、少女のタオルは顔面にも襲いかかる。
僕は、フガフガ言うしか無かった。
なんだ、情け無い!
アカの他人に、されるがままでいいのか!
……などと怒られそうだが、残念ながら僕は一言も口を出せなかった。
はっきり言って、女性は苦手だ……
彼女いない歴十六年。
小さい頃から、黒メガネにボサボサ頭のうだつの上がらない容姿。
口下手でネガティヴ志向とくれば、【嫌いな男子ランキング】の上位に食い込むのは間違いない。
最後にお付き合いしたのは小学五年の時で、それも一緒に下校するだけの仲だった。
僕はデートのつもりだったが、それにしては毎回喋る話がその日に出た宿題の事ばかりだった。
僕が自慢そうに解く宿題の答えを、相手の子は必死にノートに書いていた。
今にして思えば、僕は便利な『歩く解答書』だったのだ。
それが証拠に別れ際の挨拶が、毎回「明日もよろしくね」だったから。
中学、高校と個性の確立する年代になると、当然のように僕は【冴えない人種】の仲間入りをした。
多くの友人を持つでもなく、部活で活躍するでもなく、ただのんべんだらりと【ボッチ生活】を謳歌したのだった。
長くなったが、要はそんな僕が、女性──しかもこんな可愛い子──に、文句など言えるはずは無いのである。
出されたコーヒーは美味しかった。
雨のせいか、店の客は僕一人しかいない。
「ひょっとしてS高の方ですか?」
「はい……まあ……」
「やっぱり!この辺、S高の通学路なんですよ」
そう言って、少女はしたり顔で僕の前に座り込んだ。
いや、一応僕、お客なんだけど……
「私、アユミって言います。M高の二年です。お客さん名前は?」
おっと、名前まで聞いてきたぞ!?
なんだ、この人懐っこい子は……
キラキラ輝く目におされ、僕は仕方なく名乗った。
それから彼女──アユミは、一人で喋り続けた。
一回啜っただけのコーヒーは、完全に冷めてしまった。
不思議な子だったが、何故か憎めない。
いやそれどころか、機関銃のようなお喋りが心地良いとさえ思えてきた。
こんなうだつの上がらない僕に、この少女は惜しみない笑顔を向けてくる。
それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
いつの間にか、僕の顔にも笑みがこぼれていた。
「また来てね」
帰ろうと席を立つ僕に、アユミはすかさず声をかけた。
「約束だからね。絶対ね」
タメ口で念押しされると嫌とは言えない。
いや……正直に言おう。
むしろ小躍りするほど嬉しかった。
だから、絶対にまた来ようと決心した。
*********
その日から、僕はこの喫茶店に通うようになった。
アユミは、学校が終わってから店を手伝う。
なので、僕も学校帰りに寄るようにした。
アユミは僕が来ると、いつも満面の笑顔で迎えてくれた。
他にお客のいない時などは、決まって僕の向かいに座り、弾丸トークを繰り広げる。
そして僕も、ただただ振り子のように頷くのだった。
高校の事、趣味の事、今日あった出来事、等々……
あの綺麗なマスターは親御さんらしく、親一人子一人で店を切り盛りしているらしい。
だが何故か、父親の話になると口をつぐんでしまう。
あまり話したくないようなので、僕も深くは聞かなかった。
そんなこんなで、一か月ほどが過ぎた。
その頃になると、僕にも心境の変化が現れ始める。
アユミに対する気持ちだ。
もはやこの子とのお喋りは、僕の心の拠り所にすらなっていた。
楽しく、嬉しく、そしていつも癒されるのだ。
だから、一大決心をした。
交際の申し込みである。
か、彼女として、お、お付き合いしてもらうのだ。
今日こそ、アユミに告白するぞ!
そう自分に言い聞かせ、僕は店に入った。
これまでの感触から、僕が『歩く解答書』と思われてない事は確かだ。
だが、それが好意を持っている事とイコールとは限らない。
当然、断られる可能性だってある。
今までの僕なら、間違ってもそんなリスクは負わなかったろう。
だが、しかし、今日は違う。
この子と、ずっと一緒にいたい!
ずっと声を聞き、ずっと顔をみていたい!
その気持ちは、羞恥心や劣等感といった僕の暗黒面をはるかに超越していた。
思いを伝えること──
ただその一心で、僕は言葉を選び、台詞を考えた。
毎日鏡の前で、ひたすらイメージトレーニングを積んだのだった。
そして迎えた、今日という日。
店内のいつもの時間、いつもの席――
僕の前には、いつものようにアユミが座っている。
だが、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、黙ったままだ。
「も、もしよければ……」
口中をカラカラにしながら、僕は切り出した。
「ぼ、僕と……その……ボクと……」
鳴り響く鼓動で、自分の声がうまく聞こえない。
パンク寸前の気力は、とうに限界を超えていた。
「お、お、お付き合いしてもらえませんか!!」
い、言えた……
言えたぞぉぉっ!!
この一週間、ひたすら練習を重ねた成果だった。
しょぼい勇気しか持たない僕の、なけなしの一発だ!
僕は、ドラゴンを倒した騎士の心境でアユミの顔を見た。
だが、彼女はといえば……
なぜか、悲しそうに下を向いている。
し、しまった!
やはりキモ過ぎたか!?
セリフか!?
声か!?
顔か!?
いや、そもそも僕という存在自体がキモかったか!?
お得意のネガティヴ志向で、僕はあれこれ理由を探した。
あげくには、どうして良いか分からず黙り込む始末だ。
気まずい沈黙の時が流れる……
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、痛々しいほど強張っていた。
アユミは、こじ開けるように口を開いた。
「私……あなたに……隠している事があるの……」
苦しそうな声で話すアユミ。
「実は私……私……【男の娘】なんです!」
……え?
僕は最初、彼女が何を言ってるのか理解できなかった。
男の娘?
それって……男?
この子が……?
いやいや、何言いだすかと思えば……
「驚いたでしょ……そりゃそうですよね」
何かの冗談か……
それとも、こういう断り方が今のトレンドなのか……
いや、確かにインパクトはあるけどさ……
「騙すつもりは無かったんです……ホントです!」
いやに真に迫ってるな……
目がマジだ……
おい、ちょっと待て……マジか!?
マジなのかっ!?
「あなたに……嫌われたくなくて……」
アユミは胸元で手を組むと、ポロポロと涙をこぼした。
その姿を見て、僕は思わずマスターの方を顧みた。
「ダメよアユミちゃん、また冗談言っちゃ」
……と言うセリフを期待したのだが、待てど暮らせど返ってこない。
カウンターの向こうで、神妙な顔をしているだけだ。
「え、いや……あの……えーっ!!!」
ようやく状況を理解した僕は、素っ頓狂な声を上げた。
何度も言うが、彼女いない歴十六年の自分が、やっと見つけた運命の相手が……オトコ!?
こんなに可愛いのに……オトコ!?
体型だって声だって女性なのに……オトコ!?
ああ、コーヒーぬるいな……オトコ!?
なんなんだ……このオチは、一体!?
僕は動揺のあまり、手元にあった角砂糖を全部食ってしまった。
「嫌な思いしましたよね。とんでもない奴だって思いましたよね。ホントに……ホントに、ごめんなさい!」
アユミは謝罪の言葉を並べると、深々と頭を下げた。
小さな肩が震えている。
僕は不覚にも、そんな少女(?)の肩を抱きしめたい衝動に駆られた。
小さく、か細い……オトコの肩を……
オトコ……
…………
だから、どうだと言うんだ――
その時、僕の中で誰かが囁いた。
お前は、アユミが女の子だから好きになったのか――
声は、次第に大きくなってくる。
答えろ――
彼女が女性だから恋したのか――
女なら誰でも良かったのか――
違う!
僕はムキになって否定した。
違う、違う、違う
僕は……
僕は、彼女だから……いや、彼か……
と、とにかく
アユミだから好きになったんだ!
アユミの笑顔が
アユミの明るさが
アユミの優しさが
堪らなく愛おしくて、好きだから……
彼女とか、彼とかそんなこと関係ない
僕は、アユミが好きなんだ
大好きなんだよォォォっ!!!
気付くと目の前で、アユミが顔を真っ赤にして俯いている。
どうやら、後半のセリフは無意識に声に出ていたらしい。
身の置き場の無い僕の顔も真っ赤になる。
「……ありがとう」
やがて、顔を上げたアユミが小さく微笑んだ。
「私のこと……気を使ってくれて」
「気を使ってなんかない!」
アユミの上げ足を取るように、僕は語気を荒げた。
「ホントに……嘘じゃなく……」
アユミの目が、次第に見開かれていく。
「君が……君のことが好きだから……」
僕のセリフが終わらぬ間に、彼女の目にはまた大粒の涙が溢れ出した。
「だから……もう一度言うよ」
そう言って、僕はアユミの前にそっと手を差し出した。
「僕と付き合って下さい!」
手を出したまま、深々と頭を下げる。
溢れ出るアユミの涙は、とめどなく頬をつたい落ちた。
そして、その顔には……
満面の笑みが浮かんでいた。
「ハイっ♡」
僕の手が、アユミの温もりで満たされる。
「や……やた……やった……」
極度の緊張感から解放され、僕はへなへなと椅子に崩れ落ちた。
手元にあったコーヒーフレッシュを一気に飲み干し、ヨレヨレになったお手拭きで額の汗を拭きまくる。
僕の顔にも、無意識に笑みが浮かんでいた。
それからアユミは、色々と打ち明けてくれた。
女の子の衣装や持ち物に興味を持ち出したのは、小学生の頃らしい。
高校に入るとお化粧にも目覚め、学校以外では公共のトイレなどで女装する日々を送っていた。
小柄で整った容姿に加え、変声期が無かったため、どう見ても女性にしか見られなかった。
見知らぬ男性から声をかけられた事も、一度や二度では無かったようだ。
勿論、相手の男に対し僕が殺意を抱いた事は言うまでも無い。
今はこの店の看板娘(?)として、日々を送っている。
「ひとつ聞いていい?」
「え、何?」
遠慮がちに尋ねる僕の顔を、アユミはあどけない瞳で見返した。
「君の……その……恋愛対象って、やっぱり男なの?」
その質問に、アユミは可愛く首を傾げた。
「うーん……実は自分でもよく分からないの。女装してるから特に男の人が好きとも限らないし、かと言って女の子を好きになった事も無いし……」
そこまで言って、アユミは僕の方に顔を近づけてきた。
「でもたまに夢を見ることがあるの。真っ白いウェディングドレスを着た自分の夢を……そして私の横には、黒メガネにボサボサ頭の旦那さんが立ってるの」
そう言って、僕の目を覗き込むアユミ。
僕の頭から、水蒸気が音を立てて噴出した。
閉店の時間になり、僕とアユミは遅い夕食を食べに行く事になった。
いそいそと片付ける後ろ姿を見ながら、僕は物思いに耽った。
夕立の雨宿りから始まった出逢い──
それからの一か月間は、夢のように過ぎていった。
そして、ラストの【オトコの娘】発言……
ホント、インパクトあったなあ。
そういや……
僕は、椅子に座り直すと首を傾げた。
聞いてなかった事が、一つあったな。
幼少から女物に興味があったって言ってたけど、キッカケは何だったんだろう?
たとえば、誰かの影響を受けたとか?
こういうのは家庭環境が影響するって、何かで読んだ事あるけど……
お父さんは……いないんだよな。
じゃあやっぱり、お母さんの影響だろうか?
その時ふいに、誰かの視線を感じた。
マスターだ。
カウンターの向こうから、じっと見つめている。
何か言いたそうな、訴えかけているような目だ。
「……あっ!?」
その瞬間、僕の脳裏に【ある考え】が浮かんだ。
あまりに突拍子もないものだったので、思わず声に出して叫んでしまった。
そんな……まさかな……
僕は必死で否定しようとした。
いなくなったのが…… 実はお母さんだったなんて事は……
あり得ないと思いながらも、その思いつきは頭から離れなかった。
身近な人が女装する姿を見て、自分も女装したくなる。
アユミが女装に目覚めた理由としては、しごく妥当に思えた。
そして……
アユミが父親の事を語りたがらなかった理由……
もしかして……
もしかして、マスターって……
僕はもう一度、恐る恐るマスターの顔を見た。
アユミに告白した時とは違った緊張が走る。
鼓動が、ドキドキと早鐘のように胸を打った。
僕とマスターの視線が重なる。
そこにあったのは──
まるで、母親のような優しい眼差しだった。
僕の疑惑を肯定するかのように、静かに輝いている。
「あらまた夕立かしら?アユミ、傘持って行きなさい」
やがて視線を逸らしたマスターが、何事も無かったかのように声をかける。
「はーい」
片付けが終わり、手を洗っていたアユミが小走りで戻って来た。
その言葉にハッとした僕も、慌てて窓外に目を向ける。
確かに雨が降り始めていた。
「ありがと。じゃ行ってくるね」
アユミは傘を手に取ると、一本を僕に手渡しながら嬉しそうに笑った。
「お待たせ。行こっか」
幸せが、こぼれ落ちそうな笑顔だ。
その顔を見た瞬間、僕はもう余計な詮索をするのはやめにした。
何があろうと、アユミはアユミ――
ついさっき自分で言ったばかりじゃないか。
周りがどうであろうと、この子を好きな気持ちに変わりはない。
店から出る際に振り向くと、マスターが片目を瞑って小さく頷くのが見えた。
外は、ちょうどあの日と同じような夕立だ。
降り頻る雨が、俺とアユミの傘を心地よく揺らした。
夕立だ。
傘を持っていない僕は、当然のごとくずぶ濡れになった。
教科書の入ったリュックを傘代わりに使うが、なんの役にも立たない。
携帯いじる暇があったら天気予報見ときゃ良かった……
そんな反省をしながら避難場所を探す。
街路の先に程よい軒先が見えた。
僕は全速力で駆け込み難を逃れた。
「ひゃ〜」
思わず声が出る。
ハンカチも無いので、犬みたいにぶるんと体を振るしかなかった。
「ぷっ……犬みたい」
いきなり背後で声がし、飛び上がった。
振り返ると、戸口から少女が顔を覗かせている。
口元がわなわなと震え、必死で笑いをこらえているのが分かった。
「そんなとこじゃ、風邪……ひきますよ」
そう言って、少女はドアを開け身を引いた。
どうやら中に入れという意味らしい。
「あ、いや……そんな……」
僕は言葉に詰まった。
ずぶ濡れとはいえ、見ず知らずの人の家に入るのは……
僕が渋っているのを見て、少女はコレコレと上を指差した。
目を向けると、小さな札に『珈琲』と書かれている。
文字から察するに、どうやら喫茶店のようだった。
看板、ちいさっ!
なおキョトンとする僕に痺れを切らしたか、少女はいきなり腕を掴んで引きずり込んだ。
「あっ!?」
……と言う間に席に座らされ、気付けば水とおしぼりが並んでいた。
「いらっしゃいませー!」
「いらっしゃいませー!」
少女の声にもう一つ声が重なる。
見ると、カウンターの向こうに年配の女性が立っていた。
ロングヘアをアップに束ねた綺麗な人だ。
どうやら、ここのマスターらしい。
僕は小さくため息をついた。
これじゃ、どう見ても親切心というより客引きだ。
そして、これが……
僕と彼女の最初の出逢いだった。
ほどなく奥から戻ってきた少女の手には、分厚いタオルが乗っていた。
「どうぞ」
有無を言わさず手渡される。
この時、ようやく僕は少女を眺める事ができた。
歳の頃は同じか、もしくは……下?
という事は、この子も高校生か?
小柄で色白──
黒髪のショートヘアがよく似合う。
顔の大半を独占する大きな瞳に、チャーミングな笑顔が印象的だった。
「まだ濡れてますよ」
そう言ってタオルを掴むと、また有無を言わさず僕の後頭部を拭き始めた。
「あ……ちょ!?……そんな……」
しどろもどろの抗議もむなしく、少女のタオルは顔面にも襲いかかる。
僕は、フガフガ言うしか無かった。
なんだ、情け無い!
アカの他人に、されるがままでいいのか!
……などと怒られそうだが、残念ながら僕は一言も口を出せなかった。
はっきり言って、女性は苦手だ……
彼女いない歴十六年。
小さい頃から、黒メガネにボサボサ頭のうだつの上がらない容姿。
口下手でネガティヴ志向とくれば、【嫌いな男子ランキング】の上位に食い込むのは間違いない。
最後にお付き合いしたのは小学五年の時で、それも一緒に下校するだけの仲だった。
僕はデートのつもりだったが、それにしては毎回喋る話がその日に出た宿題の事ばかりだった。
僕が自慢そうに解く宿題の答えを、相手の子は必死にノートに書いていた。
今にして思えば、僕は便利な『歩く解答書』だったのだ。
それが証拠に別れ際の挨拶が、毎回「明日もよろしくね」だったから。
中学、高校と個性の確立する年代になると、当然のように僕は【冴えない人種】の仲間入りをした。
多くの友人を持つでもなく、部活で活躍するでもなく、ただのんべんだらりと【ボッチ生活】を謳歌したのだった。
長くなったが、要はそんな僕が、女性──しかもこんな可愛い子──に、文句など言えるはずは無いのである。
出されたコーヒーは美味しかった。
雨のせいか、店の客は僕一人しかいない。
「ひょっとしてS高の方ですか?」
「はい……まあ……」
「やっぱり!この辺、S高の通学路なんですよ」
そう言って、少女はしたり顔で僕の前に座り込んだ。
いや、一応僕、お客なんだけど……
「私、アユミって言います。M高の二年です。お客さん名前は?」
おっと、名前まで聞いてきたぞ!?
なんだ、この人懐っこい子は……
キラキラ輝く目におされ、僕は仕方なく名乗った。
それから彼女──アユミは、一人で喋り続けた。
一回啜っただけのコーヒーは、完全に冷めてしまった。
不思議な子だったが、何故か憎めない。
いやそれどころか、機関銃のようなお喋りが心地良いとさえ思えてきた。
こんなうだつの上がらない僕に、この少女は惜しみない笑顔を向けてくる。
それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
いつの間にか、僕の顔にも笑みがこぼれていた。
「また来てね」
帰ろうと席を立つ僕に、アユミはすかさず声をかけた。
「約束だからね。絶対ね」
タメ口で念押しされると嫌とは言えない。
いや……正直に言おう。
むしろ小躍りするほど嬉しかった。
だから、絶対にまた来ようと決心した。
*********
その日から、僕はこの喫茶店に通うようになった。
アユミは、学校が終わってから店を手伝う。
なので、僕も学校帰りに寄るようにした。
アユミは僕が来ると、いつも満面の笑顔で迎えてくれた。
他にお客のいない時などは、決まって僕の向かいに座り、弾丸トークを繰り広げる。
そして僕も、ただただ振り子のように頷くのだった。
高校の事、趣味の事、今日あった出来事、等々……
あの綺麗なマスターは親御さんらしく、親一人子一人で店を切り盛りしているらしい。
だが何故か、父親の話になると口をつぐんでしまう。
あまり話したくないようなので、僕も深くは聞かなかった。
そんなこんなで、一か月ほどが過ぎた。
その頃になると、僕にも心境の変化が現れ始める。
アユミに対する気持ちだ。
もはやこの子とのお喋りは、僕の心の拠り所にすらなっていた。
楽しく、嬉しく、そしていつも癒されるのだ。
だから、一大決心をした。
交際の申し込みである。
か、彼女として、お、お付き合いしてもらうのだ。
今日こそ、アユミに告白するぞ!
そう自分に言い聞かせ、僕は店に入った。
これまでの感触から、僕が『歩く解答書』と思われてない事は確かだ。
だが、それが好意を持っている事とイコールとは限らない。
当然、断られる可能性だってある。
今までの僕なら、間違ってもそんなリスクは負わなかったろう。
だが、しかし、今日は違う。
この子と、ずっと一緒にいたい!
ずっと声を聞き、ずっと顔をみていたい!
その気持ちは、羞恥心や劣等感といった僕の暗黒面をはるかに超越していた。
思いを伝えること──
ただその一心で、僕は言葉を選び、台詞を考えた。
毎日鏡の前で、ひたすらイメージトレーニングを積んだのだった。
そして迎えた、今日という日。
店内のいつもの時間、いつもの席――
僕の前には、いつものようにアユミが座っている。
だが、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、黙ったままだ。
「も、もしよければ……」
口中をカラカラにしながら、僕は切り出した。
「ぼ、僕と……その……ボクと……」
鳴り響く鼓動で、自分の声がうまく聞こえない。
パンク寸前の気力は、とうに限界を超えていた。
「お、お、お付き合いしてもらえませんか!!」
い、言えた……
言えたぞぉぉっ!!
この一週間、ひたすら練習を重ねた成果だった。
しょぼい勇気しか持たない僕の、なけなしの一発だ!
僕は、ドラゴンを倒した騎士の心境でアユミの顔を見た。
だが、彼女はといえば……
なぜか、悲しそうに下を向いている。
し、しまった!
やはりキモ過ぎたか!?
セリフか!?
声か!?
顔か!?
いや、そもそも僕という存在自体がキモかったか!?
お得意のネガティヴ志向で、僕はあれこれ理由を探した。
あげくには、どうして良いか分からず黙り込む始末だ。
気まずい沈黙の時が流れる……
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、痛々しいほど強張っていた。
アユミは、こじ開けるように口を開いた。
「私……あなたに……隠している事があるの……」
苦しそうな声で話すアユミ。
「実は私……私……【男の娘】なんです!」
……え?
僕は最初、彼女が何を言ってるのか理解できなかった。
男の娘?
それって……男?
この子が……?
いやいや、何言いだすかと思えば……
「驚いたでしょ……そりゃそうですよね」
何かの冗談か……
それとも、こういう断り方が今のトレンドなのか……
いや、確かにインパクトはあるけどさ……
「騙すつもりは無かったんです……ホントです!」
いやに真に迫ってるな……
目がマジだ……
おい、ちょっと待て……マジか!?
マジなのかっ!?
「あなたに……嫌われたくなくて……」
アユミは胸元で手を組むと、ポロポロと涙をこぼした。
その姿を見て、僕は思わずマスターの方を顧みた。
「ダメよアユミちゃん、また冗談言っちゃ」
……と言うセリフを期待したのだが、待てど暮らせど返ってこない。
カウンターの向こうで、神妙な顔をしているだけだ。
「え、いや……あの……えーっ!!!」
ようやく状況を理解した僕は、素っ頓狂な声を上げた。
何度も言うが、彼女いない歴十六年の自分が、やっと見つけた運命の相手が……オトコ!?
こんなに可愛いのに……オトコ!?
体型だって声だって女性なのに……オトコ!?
ああ、コーヒーぬるいな……オトコ!?
なんなんだ……このオチは、一体!?
僕は動揺のあまり、手元にあった角砂糖を全部食ってしまった。
「嫌な思いしましたよね。とんでもない奴だって思いましたよね。ホントに……ホントに、ごめんなさい!」
アユミは謝罪の言葉を並べると、深々と頭を下げた。
小さな肩が震えている。
僕は不覚にも、そんな少女(?)の肩を抱きしめたい衝動に駆られた。
小さく、か細い……オトコの肩を……
オトコ……
…………
だから、どうだと言うんだ――
その時、僕の中で誰かが囁いた。
お前は、アユミが女の子だから好きになったのか――
声は、次第に大きくなってくる。
答えろ――
彼女が女性だから恋したのか――
女なら誰でも良かったのか――
違う!
僕はムキになって否定した。
違う、違う、違う
僕は……
僕は、彼女だから……いや、彼か……
と、とにかく
アユミだから好きになったんだ!
アユミの笑顔が
アユミの明るさが
アユミの優しさが
堪らなく愛おしくて、好きだから……
彼女とか、彼とかそんなこと関係ない
僕は、アユミが好きなんだ
大好きなんだよォォォっ!!!
気付くと目の前で、アユミが顔を真っ赤にして俯いている。
どうやら、後半のセリフは無意識に声に出ていたらしい。
身の置き場の無い僕の顔も真っ赤になる。
「……ありがとう」
やがて、顔を上げたアユミが小さく微笑んだ。
「私のこと……気を使ってくれて」
「気を使ってなんかない!」
アユミの上げ足を取るように、僕は語気を荒げた。
「ホントに……嘘じゃなく……」
アユミの目が、次第に見開かれていく。
「君が……君のことが好きだから……」
僕のセリフが終わらぬ間に、彼女の目にはまた大粒の涙が溢れ出した。
「だから……もう一度言うよ」
そう言って、僕はアユミの前にそっと手を差し出した。
「僕と付き合って下さい!」
手を出したまま、深々と頭を下げる。
溢れ出るアユミの涙は、とめどなく頬をつたい落ちた。
そして、その顔には……
満面の笑みが浮かんでいた。
「ハイっ♡」
僕の手が、アユミの温もりで満たされる。
「や……やた……やった……」
極度の緊張感から解放され、僕はへなへなと椅子に崩れ落ちた。
手元にあったコーヒーフレッシュを一気に飲み干し、ヨレヨレになったお手拭きで額の汗を拭きまくる。
僕の顔にも、無意識に笑みが浮かんでいた。
それからアユミは、色々と打ち明けてくれた。
女の子の衣装や持ち物に興味を持ち出したのは、小学生の頃らしい。
高校に入るとお化粧にも目覚め、学校以外では公共のトイレなどで女装する日々を送っていた。
小柄で整った容姿に加え、変声期が無かったため、どう見ても女性にしか見られなかった。
見知らぬ男性から声をかけられた事も、一度や二度では無かったようだ。
勿論、相手の男に対し僕が殺意を抱いた事は言うまでも無い。
今はこの店の看板娘(?)として、日々を送っている。
「ひとつ聞いていい?」
「え、何?」
遠慮がちに尋ねる僕の顔を、アユミはあどけない瞳で見返した。
「君の……その……恋愛対象って、やっぱり男なの?」
その質問に、アユミは可愛く首を傾げた。
「うーん……実は自分でもよく分からないの。女装してるから特に男の人が好きとも限らないし、かと言って女の子を好きになった事も無いし……」
そこまで言って、アユミは僕の方に顔を近づけてきた。
「でもたまに夢を見ることがあるの。真っ白いウェディングドレスを着た自分の夢を……そして私の横には、黒メガネにボサボサ頭の旦那さんが立ってるの」
そう言って、僕の目を覗き込むアユミ。
僕の頭から、水蒸気が音を立てて噴出した。
閉店の時間になり、僕とアユミは遅い夕食を食べに行く事になった。
いそいそと片付ける後ろ姿を見ながら、僕は物思いに耽った。
夕立の雨宿りから始まった出逢い──
それからの一か月間は、夢のように過ぎていった。
そして、ラストの【オトコの娘】発言……
ホント、インパクトあったなあ。
そういや……
僕は、椅子に座り直すと首を傾げた。
聞いてなかった事が、一つあったな。
幼少から女物に興味があったって言ってたけど、キッカケは何だったんだろう?
たとえば、誰かの影響を受けたとか?
こういうのは家庭環境が影響するって、何かで読んだ事あるけど……
お父さんは……いないんだよな。
じゃあやっぱり、お母さんの影響だろうか?
その時ふいに、誰かの視線を感じた。
マスターだ。
カウンターの向こうから、じっと見つめている。
何か言いたそうな、訴えかけているような目だ。
「……あっ!?」
その瞬間、僕の脳裏に【ある考え】が浮かんだ。
あまりに突拍子もないものだったので、思わず声に出して叫んでしまった。
そんな……まさかな……
僕は必死で否定しようとした。
いなくなったのが…… 実はお母さんだったなんて事は……
あり得ないと思いながらも、その思いつきは頭から離れなかった。
身近な人が女装する姿を見て、自分も女装したくなる。
アユミが女装に目覚めた理由としては、しごく妥当に思えた。
そして……
アユミが父親の事を語りたがらなかった理由……
もしかして……
もしかして、マスターって……
僕はもう一度、恐る恐るマスターの顔を見た。
アユミに告白した時とは違った緊張が走る。
鼓動が、ドキドキと早鐘のように胸を打った。
僕とマスターの視線が重なる。
そこにあったのは──
まるで、母親のような優しい眼差しだった。
僕の疑惑を肯定するかのように、静かに輝いている。
「あらまた夕立かしら?アユミ、傘持って行きなさい」
やがて視線を逸らしたマスターが、何事も無かったかのように声をかける。
「はーい」
片付けが終わり、手を洗っていたアユミが小走りで戻って来た。
その言葉にハッとした僕も、慌てて窓外に目を向ける。
確かに雨が降り始めていた。
「ありがと。じゃ行ってくるね」
アユミは傘を手に取ると、一本を僕に手渡しながら嬉しそうに笑った。
「お待たせ。行こっか」
幸せが、こぼれ落ちそうな笑顔だ。
その顔を見た瞬間、僕はもう余計な詮索をするのはやめにした。
何があろうと、アユミはアユミ――
ついさっき自分で言ったばかりじゃないか。
周りがどうであろうと、この子を好きな気持ちに変わりはない。
店から出る際に振り向くと、マスターが片目を瞑って小さく頷くのが見えた。
外は、ちょうどあの日と同じような夕立だ。
降り頻る雨が、俺とアユミの傘を心地よく揺らした。