「とにかく可愛い西沢さん!」 勇気を出してお婆さんを助けたら、学園のアイドルが陰キャなボクの彼女になりました。 ~ドラマみたいなカッコいい恋じゃない。だけど僕は目の前の君に必死に手を伸ばす~

「まさかのスタンディング・スタイル!?」
「これは立って歌わないといけない歌なんだって」

「そ、そうなんだ……!?」
「じゃあ行くね!」

 そうして西沢さんが気合を込めた表情で歌い始めたのは――――僕が全く知らない曲だった。

 心の小宇宙を抱きしめると燃え上がって奇跡が起こってどうのって感じの歌詞で。
 まるでペガサスが飛んでいるかのように幻想的で、それでいて血潮が熱く燃えたぎってくるような心が震える名曲だった。

 あと本気モードの西沢さんがめちゃくちゃ上手でした。

「ねぇねぇ、どうだった? 実はおばあちゃんに指導してもらったんだよね。採点でも95点以上を安定して出せるようになってるんだけど」

 自分でも上手く歌えてる自信があるんだろう。
 歌い終わると同時にドヤ顔で聞いてくる西沢さんが可愛すぎて困ってしまう。

 いやまぁ困りはしないんだけど──いや、やっぱり困ってしまうかな。
 主に僕の胸がドキドキしてしまうという点において。

「すごく上手だったよ。プロかと思ったくらい」
「やったぁ♪」

「でもごめん。聞いたことがなかったんだよね……これって何のアニメの歌?」

「え? あー、えっと、歌詞にもあったはずだけど、聖闘〇星矢ってアニメのオープニング……だった、かな? おばあちゃんがお勧めしてくれたんだけど、わたしはあんまりアニメに詳しくなくて」

「あ、それなんかタイトルの名前だけは聞いたことがあるような。10年前くらいにリメイクされた……んだっけ?」

 なんとなくそんな話が記憶にあるような、ないような……。
 でも元々は僕が生まれるだいぶ前のアニメだよね?

「ええっ、そんなぁ、佐々木くん知らなかったのかぁ……」
「うん、ごめんね……」

 アニメ好きと言いながら、西沢さんのせっかくの好意を無下にしてしまった僕は、あまりの申し訳なさに肩を縮こまらせてしまう。

「えっと、それは全然いいの。世の中にはすごい数の歌があるんだから、そりゃあ知らない歌の方が圧倒的に多いわけだし」

「でも有名な曲だったんでしょ?」

「っておばあちゃんは言ってた。あ、わたしのおばあちゃんはカラオケが得意で、『昼カラの佐藤』って呼ばれてるんだけど」
「うん、よく行ってるみたいだね」

 っていうか何その二つ名!?

「何かいいアニメの曲がないかなって相談したら、これは絶対に男の子にウケる定番のアニメの歌だって言われたの」

「ああうん、すごく盛り上がりそうな曲ではあったよね。思わず足でリズムをとりたくなっちゃったし」

「でしょ!?」

「でもその話を聞いてやっぱり思ったんだけど。多分ちょっとだけおばあちゃんの情報が古いんじゃないかなって思うんだ」

 西沢さんのおばあちゃんが、毎年100本以上放映される現行の最新アニメに精通しているとはさすがに思えないから。

 それもう『昼カラの佐藤』じゃなくて『アニオタの佐藤』になっちゃうよね。

「もう、おばあちゃんってば……いっぱい練習したのになぁ……」
 せっかく練習してきたアニソンを僕が知らなかったせいで、西沢さんががっくりと肩を落としてしまう。

「あ、でもでもすごくいい曲だったから、次に来るまでに僕も歌えるようにしてくるね。今度は一緒に歌おうよ。絶対盛り上がると思うんだ」

「あ、うん……!」
 僕の言葉で再び笑顔になる西沢さん。

 ころころと表情が変わるのも可愛いんだけど、やっぱり僕は笑顔の西沢さんが一番好きだな。

 その後も僕と西沢さんはカラオケを楽しんだ。
 今度はちょっと勇気を出してアニメアニメした曲も歌ってみたら、

「うんうん、これこれ! こういうのを期待してたの! ねぇねぇ、なんていうアニメの歌なの? 今度見て見るから教えて♪」

 西沢さんがやけに喜んでくれて、僕はスマホでアニメのタイトルを見せながらつられて笑ってしまったのだった。

 誰かと行く――西沢さんと行くカラオケって楽しいなぁ。

 好きな歌手とか歌を聞いたり、歌って欲しい歌をお互いにリクエストとかもしながら。
 僕はしみじみとそう思っていた。
 それは朝、学校に着いてすぐのことだった。

 最近は朝に西沢さんと話すために早い時間の電車で来ているんだけど。
 今日は西沢さんが少し遅れるとのラインがさっき入っていた。
 なんでも目覚ましが止まっていて少し寝坊したらしい。

「? 机の中に何か入ってる……?」

 取り出してみるとそれは一通の封筒。
 飾りっ気のない事務用の茶色い封筒だ。
 百均で20枚セットとかでまとめ売りしている縦長のあれね。

 まさかラブレター!?
 ――なわけはないよね。

 僕が学園のアイドル西沢さんと付き合っていることは、もう学年を越えて学校中に知れ渡っている。
 西沢さんの彼氏を横取りしてみせようなんて考える女の子は、そうはいないだろう。

 そもそも僕みたいな平凡な陰キャ男子がラブレターを貰うなんてことは、一生に一度あるかないかのことなのだ。
 そしてその「一生に一度」は既に西沢さんからラブレターをもらったことで消費済みなわけで。

 付け加えるなら、こんなペラペラな事務封筒でラブレターを送る女の子はいないと思うんだ。
 もしいたとしたらドレスコードっていうか、もうちょっと空気を読んだ方がいいんじゃないかな?
 これじゃあ成功するものも成功しないよ?

 とまぁ以上の理由から、これがラブレターでないことは確定的に明らかだった。 
 そういうわけだったので。
 僕は特に周囲を気にすることもなく、まだ人気の少ない教室で中の手紙を読み始めたんだけど――。

「――っ!」

 そこに書かれていた短い文面を見た瞬間、僕は手紙を思いっきり机の奥へと突っ込んでしまった。
 そして書かれていた内容を思い出し、なんとも嫌な気分にさせられてしまう。

 手紙にはこう書かれていた。

『西沢彩菜と佐々木直人は釣りあってない。早く別れろ。何も知らないくせに。』

 もちろん、周りからそんな風に見られているのは自分でもよくわかっていたんだ。
 でも改めて現実を突きつけられるとやっぱり心が辛くなる。

 そこへ西沢さんが息を切らせて駆け込んできた。
 走って来たみたい。

「ごめんね佐々木くん、ちょっと寝坊しちゃって……って、どうしたの佐々木くん? ちょっと怖い顔してるよ?」

 会って早々、西沢さんが心配そうに声をかけてくる。

「ううん、なんでもないよ? 気のせいじゃない?」
「そう?」

「ほんとほんと」
 僕は西沢さんに笑顔で答える。

 この手紙を西沢さんに見せても、西沢さんまで嫌な気持ちになるだけだよね。
 だったら見せない方がいい。
 こんな気持ちになるのは僕だけで十分だから。

 それに西沢さんが僕を好きだって言ってくれるなら、僕は周りの誹謗中傷なんて我慢できるから。
 西沢さんさえ僕を好きでいてくれるのなら、僕はなんだって耐えられるんだ。

 だけど、最後の一文はなんだったんだろうか。

 『何も知らないくせに』

 たしかに僕は西沢さんのことをまだあまり多くは知らない。
 でもこの一文はそういうんことじゃなくて、何か重大なことを僕に突き付けている気がしたんだ。

 でもそれについて西沢さんに尋ねると、必然的にこの手紙のことも話さないといけなくなってしまう。

 それはしたくない。
 だから僕はこのことを、僕の心の奥だけにとどめておこうと思ったんだ。

 僕はヨシッ!と気持ちを入れて、いつも西沢さんといる時に感じる楽しい気持ちを思い出す。
 そしてその楽しい気持ちで手紙のことをエイヤ!と上書きする。

(こんなささくれ立った気持ちで西沢さんと話すなんて嫌だもんね)

 僕はいつもと同じように、西沢さんとの朝の楽しいおしゃべりを始めた。
 西沢さんのご両親と晩ご飯を食べたり、2人でカラオケをした数日後の放課後。

『ごめんね佐々木くん、今日は急に友達にお手伝いを頼まれてて一緒に帰れないの』

 西沢さんに申し訳なさそうに言われた僕が、久しぶりに一人で帰るべく廊下を歩いていると、

「ちょっと佐々木、顔貸しなさいよ」
 突然僕は、行く手を遮るように真っ正面に立った女の子に呼び止められた。

「えっと、いいけど、なに?」
 相手はクラスメイトの東浜(ひがしはま)奈緒さん。

 初めて会ったその日にみんなでカラオケに行ける系の、コミュ力が高いカースト1軍の女子だ。
 もちろん話したことは――どころか挨拶をしたことすらない。

 西沢さんと付き合うようになってから時々視線が合うことがあるくらいで。

 だから今こうやって声をかけられたことに、なんとなく不穏なものを感じざるを得ない僕だった。

「ここじゃちょっと。ついてきてよ」
「う、うん」

 その上から見下ろすような威圧的な態度にとても嫌とは言えず、僕はやや気後れしながら頷く。

(なんだろ? 東浜さんとは一度も話したことなかったはずだけど何の用なのかな?)

 僕はそのまま東浜さんに連れられて校舎の屋上へと向かった。

 屋上は西沢さんに告白された思い出の場所だ。
 入学して2カ月も経ってないのに屋上で2回も女の子とこっそり話すなんて、ここって僕となにか縁でもあるんだろうか。

 先輩たちに呼び出されたのも屋上だったし。

 僕が無防備にもそんなことを考えていると、東浜さんは屋上に着くなりこう言った。

「単刀直入に言うけど、あんたなんかが西沢彩菜と付き合うなんて分不相応なのよ。あの子のことをほんとに大事に思ってるなら身を引きなさい」

(これはまたもろに言って来たな……)

「西沢さんとのことは東浜さんには関係ないと思うんだけど」

 だけどあまりにストレートに言われてしまい、上位カーストたちには笑顔で譲ることには慣れている僕も、さすがについムッとなって言い返してしまう。

 そもそも東浜さんと西沢さんは特に仲がいいわけじゃないはずだ。
 所属グループは違うし、同じクラスなのに2人が話しているのを見たこともない。

 なのになんで東浜さんが、僕と西沢さんの仲にわざわざ口出ししてくるんだろうか?

「あるわよ」
「あるってなにがさ」

「目障りなのよね」
「目障りって……それはさすがにひど過ぎない?」

 あまりに自分勝手で自己中な意見だと思うんだけど。

 だけど東浜さんは僕の反論を全く意に介することなく言葉を続ける。

「あのさ、佐々木。あんたじゃあの子にまったく釣り合ってないって、それくらいはわかるでしょ?」

「それは……」
 わからない――とは言えなかった。

「あんたみたいな取り柄のない陰キャが、学園のアイドル西沢彩菜と付き合うなんて100年早いのよ」

 それでも特に親しいわけでもない相手にここまで言われてしまったら、僕だってカチンとくるわけで。

「東浜さんに西沢さんの何がわかるって言うのさ?」

「あんたこそあの子の何がわかるって言うの? 昔のあの子のことも知らないくせに」

「え――?」

「はん! やっぱり聞いてないんだ! 結局あんたらってその程度の仲なんだよね」

「き、聞いてないって何をさ? 悪いんだけど、東浜さんがなんの話をしてるのか僕にはさっぱりなんだ」

「ふっ……私ってさ、小学校の頃は神戸にいたの」
 東浜さんは一瞬、小馬鹿にしたように鼻で笑うと唐突に昔話を語り始めた。

「はぁ……」
 東浜さんの意図がよくわからなかった僕は、それに曖昧に相づちを打つ。

(神戸って兵庫県の県庁所在地だよね? 小学校の地理で覚えた気がする)

「その時に同じ学年にすごく可愛い子がいたの。私は同じクラスになったことがなかったから話したことはなかったけど。それでもどんな子か知っているくらいに可愛いくて有名な子だった」

「それが……なにさ?」

 急に東浜さんが小学校時代に神戸にいた話をされても、僕としては反応に困るんだけど。
「でもその子はね、ある日を境にイジメられるようになったんだ」

「えっ……」

「6年生になってちょっとしたくらいだったかな。女子のリーダーだった子から睨まれちゃったの」

「その可愛い子がなにかやらかしたってこと?」

 無視して帰るのもどうかと思うので、東浜さんの昔話に僕はとりあえず付き合うことにする。

「いいえまさか。その子は可愛いだけじゃなくて性格も良かったから。いつも楽しそうに笑ってて、明るくて、優しくて。およそ人が嫌がるようなことはしない子だったと思うわ」

「じゃあなんでその子はイジメられるようになったのさ?」

「他のクラスのことだったから私もあまり詳しくはなかったんだけど。女子の学年リーダーの子が好きだった男子と、ちょっと仲良くしたのが気に障ったみたいね。だからその可愛い子は、6年生の間は誰とも口を聞いてもらえずに完全にハブられちゃってたの」

「なにそれ……酷いな……」
 その子は何もしてないのに、完全な逆恨みじゃん。

「リーダーの女の子はかなり性格がキツかったから、下手に歯向かって自分が巻き添え喰らってタゲられないように、6年全体がその子をハブったの――私もそうだった」

「それで、その女の子はどうなったの?」

「学校も休みがちになって、修学旅行も欠席。中学にあがる時に親の仕事で東京に引っ越していってそれっきりね」

「そうなんだ……じゃあその子にとっては良かったのかな。人間関係をリセットできたんだし」

「きっとそうだったんでしょうね」

「とりあえず東浜さんの同級生に可哀想な女の子がいたのはわかったけど……でもそれが僕にいったい何の関係が──」

「ここまで言ってまだわかんないの? あんたってホントバカなのね。それとも自分可愛さにわからない振りをしてるの? そのイジメられてた可愛い女の子っていうのが西沢彩菜よ」

「え――? 西沢さんが昔イジメられてたって!?」

 誰からも好かれて学園のアイドルとまで言われる西沢さんが、小学校の頃にイジメられてた?

 でも東浜さん言われて、僕はちょっと前にした西沢さんとの会話を思い出していた。
 西沢さんのご両親と一緒にご飯を食べた時の帰り道のことだ。
 僕が修学旅行の話を振った時、西沢さんは強引に話を変えてきたのだ。

 なんでだろうって思ったけど、そういうことだったんだ――。

「そっ。だから高校に入って同じクラスになった時はビックリしたわ。まぁ向こうはクラスも違うその他大勢の私のことなんか覚えてないみたいだったし。私は私で当時自己保身で見捨てたことがバツが悪くて、昔の同級生だなんて言いはしなかったんだけど」

「それはまぁ、その方がお互いにいいのかもしれないかな?」
 西沢さんも辛い記憶をわざわざ蒸し返されたくはないだろう。

「昔の私って今と違って超がつく地味子だったのよね。神戸と東京は何百キロも離れてるから、向こうもまさかここに同級生がいるなんて思ってもないでしょうし、全然気づかれなかったわ」

「まぁ東浜さんと西沢さんの関係についてはわかったよ。でもやっばりそれが僕に何の関係が──」

「つまりこういうことよ。西沢彩菜があんたと付き合ってるのは、あんたとなら付き合っても絶対に誰もイジメてこない、そんな取るに足らない男だからってこと!」

「ぁ──」

 投げかけられたその言葉は、氷を削るアイスピックのように僕の心をザクリとえぐっていた。

「みんなでカラオケに行こうって誘った時に、男子は苦手だから遠慮するってあの子が言ったのを聞いて『あっ!』って思ったわ。まだ当時の心の傷は癒えてないんだってね」

「それって入学式の日の――」

 クラス分け直後の緊張感漂う教室で、いきなり男女数人で集まって旧知の仲みたいにワイワイ話し始めた東浜さんたちリア充クラスカースト1軍のメンバーたち。

 彼らは当然のようにアイドル顔負けに可愛い西沢さんも誘ったんだけど、男子は苦手だからと言われてお断りされた話は、クラスの誰もが――友達がほとんどいない僕でさえも知っていた。
「あの子はあんたが異性として魅力的だからじゃなくて、そのまったく逆で取り立てて何の魅力もない男だから付き合ってるのよ。だってあんたとなら付き合っても、誰かに疎まれてハブられたりイジめられることは絶対ないもんね」

 東浜さんの放つ真実という名の言葉のナイフが、僕の心を何度もえぐりとっていく。

「で、でも、西沢さんとはちゃんと付き合うようになったきっかけがあったんだ」

(そうだ、西沢さんのおばあちゃんを助けたことがきっかけで、それが縁で西沢さんが僕を知ってくれて好きになってくれたんだ――!)

「そりゃきっかけくらいはあったんでしょうよ? でもね、その後に付き合う判断に至ったのは、あんたが誰にも誇れるところがないカースト下位の冴えない男だったからよ」

「そんなこと……だって西沢さんはそんなことは一言も――」

「そりゃ言うわけないでしょ? あなたとなら仲良くしても誰にもイジメられないから付き合って下さい――なんて、そんなこと誰が好き好んで言うわけ?」

「それは……そうかもだけど!」

 東浜さんの言葉が僕の心を何度も何度もえぐっていく。

 そしてそんな風に感じるということはつまり。
 僕自身がその言葉に正当性があると感じてしまっているからに他ならなかった。

「で、ここまでを踏まえた上で聞くけど。そんな風に選ばれてあんた本当に嬉しいの?」

「僕は……」

 僕の頭の中で東浜さんの言った言葉が何度もリフレインしていた。

 僕の中にずっとあった小さな不安が――学園のアイドルなんて呼ばれる西沢さんが冴えない僕なんかを選んだことへの不安だ――いつの間にか僕の中で大きく膨れ上がっていることに、僕は気が付いてしまっていた。

 そして一度大きくなったその不安は、ずっと見ないようにしてきた『カースト格差』という名の猛獣となって、牙をむき出しにして僕の心を食い破ろうとしてくるのだ。

 東浜さんは、言葉に詰まった僕の制服の胸元を掴むと強引に自分の方へと引き寄せる。

 目と鼻の先、鼻と鼻が触れあうような超至近距離に、鋭い目をした東浜さんの顔があった。

「核心を突かれたからって言い返しもしないのね。いつもヘラヘラしてるし、ほんとダメな奴よね、あんた」

 僕をにらんだまま吐き捨てるように言う東浜さん。
 だけど僕は黙ってその視線を受け止めるしかできないでいた。

 わかってる。
 そんなの僕が誰より一番わかってるんだ。

 自分が冴えないダメ男子なのは僕が一番わかってる。
 西沢さんに釣り合ってないってことも、僕が一番わかってる。

 他人の顔色を窺ってヘラヘラしてばかりの、誰も気にも留めない平凡な陰キャ男子と。
 心からの笑みを浮かべて誰もが憧れる学園のアイドル。

 わかっていて見ないようにしていたのに。
 必死に頑張って背伸びをして、どうしようもないその差を埋めようと足掻いていたのに。

 でもこうやってズバリ指摘されてしまったら。
 いくら背伸びしたって無駄だってことを突きつけられてしまったら。

 なにより僕みたいなダメ男子を選んだ理由がこれ以上なくわかってしまう、西沢さんの辛い過去を聞かされてしまったら――。

 そんなの言い返せるわけがないじゃないか。

(ああ、そうか。僕は今、心底納得してしまったんだ。自分が西沢さんに釣り合わない男だって心の底から納得してしまったんだ──)

 僕は肩の荷がふっと下りたような気がしていた。

 西沢さんがどうして僕を好きなのかずっとわからないでいた。
 誰かを助けられる優しい人だからって言われても、どこか信じられない自分がいた。

 いつか西沢さんのきまぐれが終わったら破局するって恐怖が、心のどこかにあったんだ。

 でも今やっとわかった。
 東浜さんに教えてもらってやっと理解できた。

 なぜ付き合う相手なら誰でも選べるはずの西沢さんが僕を――カースト底辺男子の僕を選んでくれたのかってことを、僕は心底理解できてしまったんだ。

 東浜さんは僕と付き合っても誰にも文句を言われないからって言ってたけど、多分それは100点の回答じゃない。

 それもあるんだろうけど、でもそれだけじゃなくて。
 西沢さんはきっと、過去にいじめられた時に誰も助けてくれなかったことがまだ、心の傷として残っているんだ。

 だから見ず知らずのおばあちゃんを助けた僕を、当時の自分の状況に無意識に重ね合わせてしまって、必要以上にすごい男子だと思ってしまったんだ。

(これがきっと、西沢さんが僕を好きになった理由だ)

 純粋な好意というよりもむしろ、過去の心の傷を癒してくれる相手だったから。

『佐々木くんは優しいよね』
『わたしは優しい佐々木くんが好き』

 優しさとはつまり、そういうことだったのだ。

 そしてそれを理解したことで、僕はずっと抱えていた不安から解放されたと。
 そんな風に感じてしまったんだ――
「ここにはもういじめっ子はいないわ。仮にいても、少なくとも今の私はあの子をイジメるような奴を許さない。私はもう他人の顔色をうかがうだけの昔の私じゃないから。見て見ぬふりなんて絶対にしない。だからあの子も、あんたなんかで妥協しないで好きなだけいい男と付き合えばいいのよ」

 東浜さんからはカースト1軍の圧倒的な自負のようなものが感じられた。
 教室でニコニコしながら周りの顔色をうかがってばかりだった僕とは違う、それは強者の意思と言葉だった。

「僕は……」

 そして色んなことをわからされてしまった僕は、もう完全にそれに飲みこまれてしまっていた。

「ねえ佐々木、あの子にはもっと相応しい相手がいると思わない? あの子のためを本当に思うのなら、あの子のことが本当に好きなら、ここで身を引くのが真実の愛ってやつじゃないかしら?」

 さっきまでの鋭く非難する声から一転、東浜さんが慈愛の女神のような優しい声で囁いてくる。
 でもその眼光は鋭いままで、目も顔もまったく笑ってはいなかった。

(きっと東浜さんは過去の自分を恥じているんだ。そして今の西沢さんを心の底から心配している。その気持ちがこれでもかと伝わってくる……)

「…………」

 ついに僕は視線を逸らしてしまった。
 東浜さんの放つ視線の圧力に耐えきれなくなったから。

 西沢さんの彼氏なら。
 西沢さんを好きだというのなら。

 たとえ何をどう理解したとしても、絶対に逸らしちゃいけなかったのに。

 西沢さんには不釣り合いな冴えない男子だって現実にも、付き合うことになった理由にも。
 そのどちらにも完全に納得してしまった僕は、つい目を逸らしてしまったのだ。

 そして目を逸らした先には――なぜか西沢さんがいた。

 屋上の入り口のドアを半分開けて、目を大きく見開いて驚いた顔で僕たちを見ている。

「今、キス……してたの?」

 その呟くような西沢さんの小声は、だけど屋上を吹き抜けていく初夏のやや強い風に乗って、僕の耳にしっかりと届けられた。

「えっと、ちが――」

 違うって言おうとしたのに、さっきの東浜さんの言葉が僕の心と身体を雁字搦めにしていまい――僕の口は上手く言葉を紡ぐことができないでいた。

「そ、そっか、2人ってそういう関係だったんだね……わ、わたし全然気づいてなくて……」

「……」

「ごめんね、わたし迷惑だったよね……2人が好き合ってたのに、佐々木くんを無理にわたしにつき合わせちゃってごめんなさい!」

 違うんだ──最後まで僕はそう言うことができなかった。

 さっき目を逸らしてしまった僕に。
 西沢さんの辛い過去を知ってしまった僕に。
 それで納得してしまって東浜さんに何も言い返せなかった僕に――。

 そんな都合のいいことを言う資格があるのかって思いが、僕の口を貝のように閉じたままにさせて言葉を紡ぐことを許さなかったのだ。

 何も言わないでいる僕を見て、西沢さんの頬を一筋の涙が流れ落ちた。

 そして西沢さんはそのまま身を翻すと、逃げるように屋上から走り去っていった。

 普段の西沢さんとは似ても似つかない、バタバタと荒っぽく階段を駆け下りる大きな音が聞こえてきて──。

 泣きながら去っていく西沢さんを、僕は最後まで止めることができなかった。

「ま、ちょうど良かったじゃないの? これで後腐れなく関係解消でしょ? あの子のことを思うのならこれで良かったのよ。少なくともこれであの子はまた男子と仲良くなることができる。あんたはあの子を過去の呪縛から解き放ってあげたのよ」

「そう……なのかもね」

 これで僕と西沢さんはなし崩し的に自然消滅するんだろう。

 今回のことで西沢さんは一時的には悲しむかもしれないけど、すぐに僕よりもいい人が見つかってもっと幸せな人生を歩むはずだ。

 それは西沢さんにとってとてもいいことなのだから。
 過去の呪縛から解き放たれた西沢さんには、もっと相応しい相手が見つかるはずだから。

(だから追いかけちゃいけないんだ……僕みたいなカースト底辺男子が西沢さんの輝かしい人生の足を引っ張っちゃいけないんだ……)

 だからこれでいいんだ。
 これで……いいんだ……。

 いつの間にか屋上から東浜さんが去り一人になった初夏の夕空の下で。
 僕は暮れなずむ空を見上げた。
 涙がこぼれないようにじっと空を見続ける。

 だけどそうしていても涙はどうしようもなく溢れてきて、僕の頬を伝い落ちていった。

 夕焼け直前の、雲が紫色のグラデーションに彩られはじめた初夏の空は、とてもとても綺麗で。
 涙の向こうに見えるそのどうしようもなく美しい空模様が、分不相応だった恋の終わりを告げているように僕には思えたのだった。
 しばらく屋上で泣いて、もう涙が出なくなるまで泣きつくしてから、僕は学校を出て帰路についた。

 通学路を歩きながら西沢さんとの間にあった色んなことを思い出す。

 きっかけは西沢さんのおばあちゃんを助けたことだった。
 本当にただの偶然で、その時は西沢さんのおばあちゃんだなんて思ってもみなかった。

 それからしばらくの間、学校にいる時に西沢さんに見られているような気がして。

 そして屋上で突然の告白をされて付き合うことになって、次の日いきなりデートをした。
 初めてのデートはとても楽しくて、失敗もしちやって、でも勇気を出して頑張ったりもした。

 休み時間や夜にラインでやり取りもしたし、テストに向けて勉強会もやった。
 西沢さんにレモンの描き方を教えてもらって、ご両親やちび太と晩ご飯も食べた。

 そのどれもこれもが僕にとって初めての経験で、なにより人生最高の時間だった。

 電車に乗っている間も僕はずっと、西沢さんと過ごした楽しい日々のことを思い返していた。
 今まで生きてきた中で一番楽しかった日々のことを、僕は何度も何度も思い返していた。

(でも西沢さんには僕よりももっと相応しい男の人がいるはずだから……)

「西沢さん……」

 小さな声で呟いた僕の声は、けれど誰に聞かれるでもなく電車の走行音にかき消されて消えていく。

 地元駅で降りた僕はまっすぐに家に帰ろうとして、

「そう言えば今日も工事があるって回覧板が来てたっけ……」

 昨日の夜の至急回覧に、前回の工事で施工ミスがあったとかで緊急の工事をやるとかそんなことが書いてあったのを思い出していた。

 仕方なく僕は回り道をする。
 するとその途中で、西沢さんのおばあちゃんに偶然出会ってしまったのだ。

 おばあちゃんは今日も大きなスイカを一玉持っていた。
 というか前よりでかいかなり大玉のスイカだ。

 それを両手で抱えながら、よろよろとおぼつかない足取りで帰る姿を見るに見かねた僕は。
 涙の痕をしっかりこすって証拠隠滅してから、なんでもない風を装って声をかけた。

「こんばんは。スイカ重そうなので持ちますよ」

「おや、佐々木くんじゃないかい」

「お久しぶりです。お手伝いしますよ」

「……ふむ、そうじゃの。せっかくじゃから佐々木くんに持ってもらおうかの」

 僕はスイカを受け取るとおばあちゃんと並んで歩きはじめた。

 スイカはずっしりと重いけど、前と比べたら大したことはない。
 西沢さんと付き合うようになってから毎日筋トレを欠かさなかった効果がはっきりとわかる。

(まぁ今さらなんだけど……)

 僕は当然、西沢さんとの話をされるものだと思って身構えていたんだけど。

 おばあちゃんは近所のポメラニアン(という種類の小型犬がいるらしい)が可愛いとか、メジャーリーグで活躍する大谷くんの二刀流の話といったとりとめもない話をするだけだったので、僕は少しだけ楽な気分でいることができた。

 そのまま僕はもう3度目の訪問となる「佐藤」と書かれた表札のある門を抜けると、玄関を入ってすぐのところにスイカを置いた。

「じゃあ僕は帰りますんで」

「まぁそう言わんとスイカ喰ってけ。今日は暑かったじゃろ。熱中症になったら大変じゃからの」

「えっと、その、お気持ちだけで十分です。もうだいぶいい時間ですし」

 僕は、西沢さんとのことを聞かれないうちに帰ろうとしたんだけど。

「いいから喰ってけ、スイカ喰うくらいすぐじゃすぐ」
「えっと……」

「食うか食うまいか迷ったら食え、と昔から言うじゃろうて?」
「すみません、そんなの初めて聞きました」

「戦後すぐは言っておったんじゃよ。なにせ食べ物がなかったからの。食べれる時に食べんといかんかったんじや」

「それはその……大変な時代だったんですね」

 第二次世界大戦で敗戦した後の日本がとても貧しくて大変だったことは、歴史の授業でも習ったので知っている。

 でも実際に当時を知る人に言われると、なんとも重みが違っていた。
 そのせいでかなり断りづらい。

「そういうことじゃから、切ってくるでの。入ってすぐ左が居間じゃから、ちと待っててくれの」

「ま、まぁ……そこまで言うならお言葉に甘えます……」

 やや強引に既成事実化されてしまった僕は、ちょっと気持ちが弱っていたこともあって言われるがままに居間へと上がった。

 すぐにおばあちゃんが切ったスイカを持ってやってくる。

「ほれ、食べなされ。熊本のスイカじゃ、美味しいぞ?」
「いただきます……あ、すごくジューシーで甘いです」

 水分たっぷりの強い甘味が、僕の弱った心に染み込んでくる。

「一番大きくて一番甘いのを買ってきたからの。最近は糖度表示が正確じゃから、昔みたいに目利きせんでもよくなって便利になったわい」

「あ、それ前にテレビで見たんですけど、今は機械で測ってるんですよね。非破壊タイプのができて便利になったって言ってました」

「ほんと便利な世の中になったのぅ。なにせ個人が電話を持ち歩く時代じゃからの。まさか外でいつでも電話をかけられる時代が来るなんぞ、若いころには考えられんかったからのぅ」

「あはは……僕らはスマホがが当たり前の時代に生まれたんで、ついこの前までそんな時代だったって言われる方が、逆に不思議な感じがするんですけどね」

 そんな話をしている内に、すぐに僕は出されたスイカを食べ終えた。
 そしてそれを見計らったようにおばあちゃんが言った。

「彩菜を振ったんじゃっての」
「……耳が早いんですね」

「今は誰でも外で電話ができる時代になったからのぅ」
「……ですね」

 西沢さんがあの後、電話をしたってことなんだろう。

「まったくそんな顔をするでない。別に責めとるわけじゃないんじゃ。時代が移り変わるように、人の気持ちも移り行くもんじゃからの。特に若い時はそうじゃ。佐々木くんは他に好きな女の子でもできたのかい?」

 どこか西沢さんをほうふつとさせる優しい声と表情で言われた僕は――否応なく西沢さんの笑顔を思い出してしまって――ついつられるように正直に答えてしまう。

「……違います」

「じゃああの子に飽きたのかい?」
「そんなことあるわけありません」

「なら理由はなんなのじゃ?」
「だって……だって僕は西沢さんに不釣り合いだから」

「不釣り合い、とはなんじゃ?」

「僕は何の取り柄もないんです。学校でもその他大勢の1人で、運動はできないし背も低いし。一緒にテスト勉強をしたのに西沢さんより全然点数が取れないし」

「だからなんだと言うんじゃ?」

「そんな冴えない僕とですよ? 学校で一番って言われるくらい人気者の西沢さんが付き合っちゃ、不釣り合いじゃないですか……」

「それが理由なのかえ?」
「……まぁ、そうですね」

「まったく、情けないのぅ」

「はい、まったくです……僕はどうしようもなく情けないんです……」

 おばあちゃんの言葉を、僕は蚊の鳴くような小さな声で肯定した。

「そんな泣きそうな顔をするでない。なぁ佐々木くんや、ここには二人きりじゃ。良かったらもう少しだけその辺の話を聞かせてくれんかの? こんな老い先短い老いぼれでも、若者の話を聞くくらいはできるからの」

「いえ、大丈夫ですから……」

「何が大丈夫なもんか、そんな顔をして帰ったらご家族の方も心配するじゃろうて」

「……今の僕って、そんな酷い顔をしてますか?」

「明日地球が滅亡しそうなくらいには酷い顔をしておるの」

「……そんなにですか?」

 自分ではいつも通りに振る舞っていたつもりだったんだけど。
 残念ながらまったくもっていつも通りには振る舞えてなかったようだ。

「どんな辛いことであっても、誰かに吐き出したら少しは心も軽くなるもんじゃ。自分だけで抱え込んでおらんで、騙されたと思って話してみぃ。それにどうせ聞いておるのは婆さん一人だけじゃしの」

「……」

「のぅ?」

「……くだって……あったら」

「うん」

「僕だってもっと自分に自信があったら……西沢さんと別れたりなんかしませんよ……こんなに好きなのに、きっと一生で一番の出会いなのに……それを手放そうなんて思うわけないじゃないですか……」

「うん、うん」

「僕がもっとカッコよくて頭が良くて、スポーツもなんでもできて、背も高くてみんなの人気者だったら……ひっく、僕だって、別れたりなんかしませんよ……」

 最初こそ促されて話し出した形だったけど。
 一度口に出してしまうともう、僕の口は止まろうとはしなかった。

「こんなに好きなのに……でも僕には何もないから……僕じゃ西沢さんには何をどうしたって釣り合わないから……僕といるより、もっといい人が西沢さんにはいるはずだから……」

(ああそうか、僕は本当は誰かに心の内を聞いて欲しかったんだ――)

「だからあの子と別れたのかい?」

「今日クラスメイトの子に改めて言われて……その子に言われて、やっとわかったんです。その子は西沢さんのことを本気で心配してて、西沢さんの昔のことも知っていて」

「昔というと、あの子の小学校の頃かの?」

「はい、その子は昔神戸に住んでいて、西沢さんと小学校が同じで。その子が、西沢さんが6年の頃にイジメられてたって言ってたんです」

「彩菜が神戸にいた頃の同級生が東京の学校にいるとは、それはまた奇妙な巡り合わせがあったものよのう」

「それでその子は言ったんです。それが原因で、西沢さんは付き合っても誰にも何も言われない人畜無害な僕を選んだんだって。そんな風に言われて僕は何も言い返せませんでした」

「なぜじゃ? まさか言い返す勇気がなかったのかい?」

「違います……西沢さんが僕を選んだ理由が、僕がおばあちゃんを助けたからだってわかったからです。それを昔の自分に重ねてるんだって気づいちゃったから……」

「……そうか」

「なにか一つでも他人に誇れるものがあれば言い返せたのに……でも僕にはなにもないから……だから僕はその時に納得しちゃったんです。僕じゃ西沢さんに不釣り合いなんだって納得しちゃったんです。そう思ったらもう言い返せなくなってました……」

 そんな風に、僕はとても真剣に今の自分の気持ちを伝えたんだけど――、

「でも佐々木くんは今日スイカを持って運んでくれたのぅ」

 なぜかおばあちゃんはそんな言葉を返してをきたのだ。