「まずは会心の出来っていう玉子焼きから……ってごめん、お箸持ってきてないんだけど、僕のぶんのお箸ってあるのかな?」

 僕はお昼は学食に行くつもりだったので、マイ箸を持ってきていない。
 だからお箸があるかを西沢さんに確認したんだけど――、

「はい、あーん♪」

 なぜか西沢さんは玉子焼きをピンク色のマイお箸でつかむと、左手を添えながら僕の口元に差し出してきたのだ――!

「えっ!? あーん!?」

 だから僕の心が驚天動地の事態に陥ってしまったのも、これまた無理はないことだった。

 どうしたものかと混乱しきりな僕の視線は、差し出された玉子焼きと西沢さんの顔の間を何度も行ったり来たり繰り返す。

「え、あれ、なにか変だった? 彼女はお弁当を作ったら彼氏にあーんするものなんだよって教えてもらったんだけど……」

「僕は世間の恋愛事情には極めて疎いんで変かどうかはまったく判断がつかないんだけど。なにさいきなりだったから、とにかくびっくりしたかなって……」

「うっ、ごめんなさい……もしかしてこういうのって嫌だったかな?」

 目を伏せて悲しそうに言う西沢さん。

「まさか、そんなことないよ! ほんといきなりだったから、単に心の準備ができてなくてちょっとビックリしただけなんだ」

「気使ってない……?」

「全然ぜんぜん! ちょっと恥ずかしいけど、だけど西沢さんにあーんしてもらえてすごく嬉しいから!」

 偽らざる本心だった。
 西沢さんみたいな可愛い女の子にお弁当を作ってもらえただけでなく、あーんまでしてもらえるだなんて。
 僕の人生は間違いなく今が絶頂期だ。
 そんなの嬉しくないはずがなかった。

「ならよかった」

「ちなみになんだけど、誰から教えてもらったの? いつも仲良く話してるグループの女の子から?」

「ううん、おばあちゃんから聞いたんだ。そういうのがナウでヤングなハイカラアベックのトレンドなんだって」

「ハイカラ? アベック? なにそれ英語?」

 突然出てきた見知らぬ横文字に、僕は少しだけ戸惑ってしまう。

「カップルのことをアベックって言うのがハイカラ、えっとおしゃれなんだって。ほら野球でもアベックホームランとか言うでしょ?」

「ごめん、野球――というかスポーツはあまり詳しくないんだ。西沢さんは野球見るの? なら僕も今度見てみようかな? お勧めのチームとかあったら教えてくれないかな?」

「わたしも見ないんだけど、昔おじいちゃんが生きてた頃は、おばあちゃんの家に行くとよくおじいちゃんがメジャーリーグを見てたんだよね。だからわたしもイチローとか松井とか城島とか、あとは藤川とか藪とか井川とかいろいろ知ってるよー」

「あ、その人知ってるかも。イチローはドラマにも本人役で出るくらい有名だったんだよね」

 いくらスポーツには縁のないボクでも一世を風靡したメジャーリーガーの名前くらいはさすがに知っている。
 他の選手の人は知らなかったけど、その人たちもきっとメジャーリーガーな人たちなんだろう。
 あとでスマホで調べてみよう。

 ――というやり取りを経たのち、ついに僕はあーんしてもらうために大きく口を開けた。

 僕の口の中に綺麗なキツネ色をした玉子焼きを、西沢さんがそっと差し入れてくれてくれて――、

(もぐもぐ……)

「………………うううぅんんっっ????」
 しかし僕は、食べてすぐに僕は何度も目をぱちくりとさせてしまっていた。

 何度も何度も口の中で玉子焼きを味わって、自分の味覚が変になっていないことを確かめる。

 でもちゃんと卵の味は感じている。
 僕の味覚は極めて正常だった。
 
 でも、な、な、な……なんだこれ!?
 いやほんとなんだこれ!?

(全然ちっとも甘くないんだけど!? わずかにしょっぱいだけで甘味はゼロなんだけど!?)

「どうかな佐々木くん? 口に合うといいんだけど……」
「えっ!? あ、うん、えっと……」

「うんうん」
 西沢さんは神妙な面持ちで僕の反応をうかがっていた。

 でも明らかにそわそわワクワクしている。
 明日の遠足を楽しみにしている小学生って感じを隠しきれていなかった。

 西沢さんがそんな様子だったから、僕は言葉をとてもとても、とてつもなく慎重に選んでから言った。