「じゃあ問3の訳を――佐々木」

「あ、はい。えっとこれは、えー、If I were a bird……」

 英語の先生に当てられた僕は緊張しながら立ち上がると、昨日の夜に英訳した宿題の文章を言葉を詰まらせながらたどたどしく読み上げた。

「うん、上手に訳したな。でももう少しハキハキと読むともっと良かったぞ。英語は強いブレスで発音する言語だからな」

「が、がんばります」

 やや微妙な褒められ方をして、僕――佐々木直人はホッと一安心して席に着いた。


 僕は佐々木直人という名前も平凡なら、頭も平凡。
 身長は165センチと平均よりやや低く、運動能力は並以下。
 特技と呼べるものはなく中学からずっと帰宅部に所属している。

 つまりこの春1年生になったばかりの、どこにでもいる普通の男子高校生だった。

 人付き合いや人前で話すことがあまり得意ではなく、入学から半月以上が経過した今でもまだ、遊びに行くような仲のいい友達はできていない。

 かろうじて隣の席の柴田君とは学校で会話をする程度で、そろそろ出来上がりつつあるいわゆる「学校カースト」の下層に位置する冴えないモブ系の男子だった。

 授業で当てられてスマートに答えられないのもいつものことだ。

 だから彼女なんてもってのほか、それどころか仲のいい女友達すらいはしなかった。

 今日も僕は一日の授業を終えるとすぐに文芸部に執筆に向かおうとするライトノベル作家志望の柴田君に、

「柴田君、バイバイ」
「バイバイ、また明日な」

 挨拶をすると一人で教室を出る。

 教室を出る時に入り口近くで控えめにおしゃべりしている女の子グループの脇を通り抜けた。

「あ、そうなんだ~。ちょっと意外かも」
「でしょ、アヤナもそう思うよね! それでね――」

 入学早々クラスのアイドル――どころか学園のアイドルとして話題をさらった美少女、西沢彩菜さんを中心とする女の子だけのグループだ。

 もちろん僕が彼女たちにあいさつをすることはない。
 そもそも僕はこのクラスの女子とは、まだ誰とも話したことがないからね。

 きっとこの先も話すことはほとんどないだろう。
 せいぜい、
「佐々木くん、先生が呼んでたよ」
 といった伝達をされるくらいで。

 それがカースト下位にいる冴えない男子の日常だった。
 中学時代もずっとそんな感じだったから、今さら何をどうこう思うこともない。

 だから僕は、友達と楽しそうに笑い合う西沢さんの柔らかい笑顔をちらっと見て小さな幸せをお裾分けしてもらいながら、特に何事もなくその横を通り過ぎた。

 ちなみに西沢さんの女の子グループは、クラス内カーストの1軍ではなかったりする。

 カースト1軍はサッカー部の入部テストで先輩チーム相手にいきなり5人抜きしてハットトリックを決め、即レギュラーになったイケメン君を中心とした陽キャの男女グループだ。

 なんと彼らカースト1軍メンバーは、入学式の帰りにみんなでカラオケに行ったらしい。
 なにそれすごすぎでしょ!?

 初めて会ったその日にほとんど知らない相手とみんなで連れだってカラオケに行くとか、そんなの僕にはとても真似できないもん。

 それでどうして学園のアイドルと呼ばれる西沢さんがカースト1軍じゃないかというと。
 西沢さんは男子が苦手で、だから男子のいるグループとは少し距離をとっているのだそうだ。

 陽キャ1軍グループは入学式の日に当然のように西沢さんをメンバーに誘ったんだけど、

「ごめんなさい、男子と話すのはあまり得意じゃないんです」

 そう申し訳なさそうに断っていたのをクラスの皆が耳にしていた。

 ふんわりと内カールした肩口で切りそろえた柔らかそうな髪。
 アイドル顔負けに可愛い容姿。
 さらにはそういう控えめな性格もあって、だから西沢さんは男子だけでなく女子からの人気も極めて高かった。

 優しくて、可愛くて、明るい、まるで理想の女の子を体現したような西沢さん。

 もちろん僕もそんな西沢さんに好意を持っていた。
 告白したりは絶対にしないけどね。

 なにせサッカー部のイケメンレギュラー君ですら丁重にお断りされてしまうのだ。
 そんな西沢さんに向かっていくほど僕は無謀な勇気を持ち合わせてはいなかったし、自己評価も高くはなかった。

 同じクラスという以外に接点は皆無だし、時々チラ見するくらいが関の山だ。

 そんな彼女は女の子グループ内では名前そのままに「アヤナ」と呼ばれている。

 とまぁ西沢さんがいかに高嶺の花かと言う話はさておき。
 高校から3駅離れた地元の駅でJRを降りた僕は、今日はいつもと違うルートで家に向かっていた。

 というのも昨日の回覧板で、通学路の途中の道で水道工事をするから一部通行止めになると書いてあったからだ。

 そんないきさつがあって、普段は通らない迂回路をてくてく歩いていると、

 バタン!

「あ……」

 大きな音がして、僕のちょっと前でおばあちゃんが派手に転倒したのが目に入った。

 さらにはエコバッグから、キュウリやらトマトやら食パンやら薄切りベーコンんやらがズザーッと散乱する。

 周りには何人か僕と同じ電車で駅を降りた人たちが歩いていたけれど、みんな我関せずで目をそらして知らんぷりをして離れていく。

(酷いなぁ……)

 おばあさんは転倒した時に腰でも打ったのか、顔をしかめて背中のあたりを手で抑えていた。

「ど、どうしよう……?」

 僕はすぐに周りを確認した。

(うん、知り合いは誰もいないよね)

 なんなら人はもう僕とおばあさん以外に一人もいなかった。
 みんな足早に逃げ去るように離れていったからだ。

 うん、だったら大丈夫。
 僕は一度大きく深呼吸をすると、おばあさんに近づいていって勇気を出して声をかけた。

「あ、あの、大丈夫ですか? 立てますか?」

 最初がちょっと裏声になっちゃったのはご愛敬だ。

 自慢じゃないけど、僕はさらっと人助けするような素敵な王子様キャラじゃない。
 こういうことをすると当然、恥ずかしいし緊張しちゃうのだから。

 しかも実のところ、特に助けたいという強い動機があるわけではなかったりする。

 助けたい気持ちがないわけじゃない。
 だけど主たる理由としては、このまま見過ごすのはちょっと気分が悪いよね、というどうしようもなく後ろ向きなものだった。

 何度も言うけど、僕は決して人助けを率先してやる聖人君子じゃない。
 どこにでもいる「人助けをするとか恥ずかしいし、人目があるとぶっちゃけ躊躇する」と思うような、ごくごく平凡な高校1年生なのだから。