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タンブラーをカップホルダーに入れ、エンジンをかけた。
今月の納品物はすべて早倒しで終わっている。フリーランスであることを今ほど良かったと思ったことはない。
勤め人だったら、こんなにも個人的なことで飛び回ることは出来なかっただろう。
行き先は静岡県浜松市。静岡は東京からそう遠くないイメージだったが、ナビを起動したら浜松まで想像以上まで距離があった。それなりに長い旅になりそうだ。
流れ出した音楽はほとんど耳に入ってこない。昨日の紗和の話を思い出していた。
一回気になるとダメでした。
最初は部屋でだけだったんです。気配を感じたのは。パソコンを落とす時だけ。それなのに、だんだんいつもそばにいるような気がして……一番ひどかったのは洗面所です。手を洗っていても歯磨きをしても顔を洗っている時も、見られているんですよ。ドアの近くとかじゃない。隣です。すぐそば。ハァ。って、それだけ。
そしたらだんだん家の外でも感じるようになりました。仕事をしていて誰かに呼ばれるとしますよね。返事をしようと振り返るとき、視界の隅に影が見えるんです。黒くてよくわからないような、それでも目だけがわかるような、何とも言えないものが。
一番キツかったのは電車ですね。並んでいる時に背後から感じるので、いつか突き飛ばされるんじゃないかって思いました。だから怖くて先頭には並べなくなって……
ツイッターですか? やってましたよ。
櫻木の方はフォロワーの質問に答えてみたり、楽しく下品にやってました。
ええ、下品です。リアルなら絶対言わない日本語ばっか使ってましたよ。でも一回凍結っていうんですか。食らったんで、うまくすり抜けてました。
愚痴垢の方は相変わらずです。母の事と仕事の事。どっちもしんどくて、死ねじゃなくて死にたいばっかり言うようになりましたね。やだな、本気で死にたいわけじゃないじゃないですか。そのくらいイヤっていう例えですよ。母に対しては死んでもいいとか死んでくれないかなくらいは思ってましたけど。
でも、あれについては呟きませんでした。
言葉にするのも怖いのに、文章にして打ち込んじゃったら実体化しそうって思いませんか?
ん、と喉の奥から変な音が出た。赤信号でブレーキを踏む。
ツイッター上の紗和を見つけたのは偶然だ。ツイッターでバズっていたツイートがタイムラインに回ってきた。ただそれだけのこと。だから、紗和がそれに追われていたことは知らなかった。
なのに彼女に辿り着いたのは、怖いくらいの偶然が重なっての事だった。
カップホルダーからタンブラーを取り出し、紅茶を流し込む。その香りが昨日の紗和を思い出させた。
どこも見ていないような瞳をして、話を続ける彼女の姿を。
それからね、変なダイレクトメールが届くようになったんです。知ってますか?
ツイッターのダイレクトメール。あ、わからない?
えーっとですね、誰からも受け取るようにするかどうかって決められるんですけど、私は自分がフォローしたアカウントからしか受信できないように設定してたんですよ。で、私誰もフォローしてないんです。
つまり誰からも受け取れないはずなんですよ。なのに、来るんです。ダイレクトメールが。
もちろん問い合わせましたよ。でもそんなことあるはずがないみたいな回答しかこなくて。だからスクショしたんです。証拠を添付すればわかってくれると思って。でもそしたら、画面真っ黒なんですよ。何枚撮っても真っ黒。ついでに、アカウント名をタップすると『存在しません』ってエラーになるんです。いつも同じアカウントから来るのに、存在しないって。意味が分からなすぎて、さすがに不気味に思えてきました。いつも感じる小さなため息と、意味不明の出来事がすべて並列なんじゃないかって思うようになって……
そしてあの夜が来たんです。
仕事が終わって家について、窓側から部屋の電気がついてないことを確認して。あ、母がいるかどうかの確認ですよ。その頃にはそういうクセがついてたんで。で、部屋に入って、電気を点けようとして──その瞬間、リビングにあるデスクトップが立ちあがったんです。
パァ、と大きなクラクションに驚いて身体が揺れた。
隣をトラックが通り過ぎていく。心臓はうるさいほど鳴っているのに、指先が妙に冷えていた。
頭の奥で紗和の話が続いている。
触るとか触ってないとかの話じゃないですよ。だって私、まだ靴も脱いでなくて、電気も点けてなかったんですよ。
点ける前に、ブウンって独特な音がして、画面が白く光りました。パニックですよね。何が起きたのかわからなくて、とにかく電気を点けなきゃ、部屋を明るくしなきゃって焦って、スイッチをバチバチ叩きました。
でも点かないんです。全然。あの部屋に住んでそれなりに経ってたし、たまたまこのタイミングでダメになったのかもしれないとも今なら思えますけど、あの時はとにかくパニックでした。とにかく怖い、ここから出ようって思ったのに、今度は足が動かない。
膝が笑うとかって日本語ありますよね? 本当にそんな感じで。ガクガク震えて力が入らないんです。足の裏がべったり床に張り付いたみたいに動けない。でも目だけはデスクトップの画面から離れてくれない。見なきゃいいのに、視線すら自分の意志で動けなくなりました。
真っ白だった画面がすうっと消えたら、設定した覚えのない壁紙が現れたんです。私に届いてたダイレクトメールの差出人のアイコン。真っ黒なまんまるに、目玉がふたつ。最初は猫の目かと思ったけど、絶対違う。あれは人間の目です。イラストじゃない。本物の眼球に見えました。叫びだしそうになったのに声も出ない。喉の奥がカラカラにはりついてるんです。それで、怖くて怖くてどうしようもなくなった時に──
ハァ。
小さなため息が、私の耳に届いた。
タンブラーをカップホルダーに入れ、エンジンをかけた。
今月の納品物はすべて早倒しで終わっている。フリーランスであることを今ほど良かったと思ったことはない。
勤め人だったら、こんなにも個人的なことで飛び回ることは出来なかっただろう。
行き先は静岡県浜松市。静岡は東京からそう遠くないイメージだったが、ナビを起動したら浜松まで想像以上まで距離があった。それなりに長い旅になりそうだ。
流れ出した音楽はほとんど耳に入ってこない。昨日の紗和の話を思い出していた。
一回気になるとダメでした。
最初は部屋でだけだったんです。気配を感じたのは。パソコンを落とす時だけ。それなのに、だんだんいつもそばにいるような気がして……一番ひどかったのは洗面所です。手を洗っていても歯磨きをしても顔を洗っている時も、見られているんですよ。ドアの近くとかじゃない。隣です。すぐそば。ハァ。って、それだけ。
そしたらだんだん家の外でも感じるようになりました。仕事をしていて誰かに呼ばれるとしますよね。返事をしようと振り返るとき、視界の隅に影が見えるんです。黒くてよくわからないような、それでも目だけがわかるような、何とも言えないものが。
一番キツかったのは電車ですね。並んでいる時に背後から感じるので、いつか突き飛ばされるんじゃないかって思いました。だから怖くて先頭には並べなくなって……
ツイッターですか? やってましたよ。
櫻木の方はフォロワーの質問に答えてみたり、楽しく下品にやってました。
ええ、下品です。リアルなら絶対言わない日本語ばっか使ってましたよ。でも一回凍結っていうんですか。食らったんで、うまくすり抜けてました。
愚痴垢の方は相変わらずです。母の事と仕事の事。どっちもしんどくて、死ねじゃなくて死にたいばっかり言うようになりましたね。やだな、本気で死にたいわけじゃないじゃないですか。そのくらいイヤっていう例えですよ。母に対しては死んでもいいとか死んでくれないかなくらいは思ってましたけど。
でも、あれについては呟きませんでした。
言葉にするのも怖いのに、文章にして打ち込んじゃったら実体化しそうって思いませんか?
ん、と喉の奥から変な音が出た。赤信号でブレーキを踏む。
ツイッター上の紗和を見つけたのは偶然だ。ツイッターでバズっていたツイートがタイムラインに回ってきた。ただそれだけのこと。だから、紗和がそれに追われていたことは知らなかった。
なのに彼女に辿り着いたのは、怖いくらいの偶然が重なっての事だった。
カップホルダーからタンブラーを取り出し、紅茶を流し込む。その香りが昨日の紗和を思い出させた。
どこも見ていないような瞳をして、話を続ける彼女の姿を。
それからね、変なダイレクトメールが届くようになったんです。知ってますか?
ツイッターのダイレクトメール。あ、わからない?
えーっとですね、誰からも受け取るようにするかどうかって決められるんですけど、私は自分がフォローしたアカウントからしか受信できないように設定してたんですよ。で、私誰もフォローしてないんです。
つまり誰からも受け取れないはずなんですよ。なのに、来るんです。ダイレクトメールが。
もちろん問い合わせましたよ。でもそんなことあるはずがないみたいな回答しかこなくて。だからスクショしたんです。証拠を添付すればわかってくれると思って。でもそしたら、画面真っ黒なんですよ。何枚撮っても真っ黒。ついでに、アカウント名をタップすると『存在しません』ってエラーになるんです。いつも同じアカウントから来るのに、存在しないって。意味が分からなすぎて、さすがに不気味に思えてきました。いつも感じる小さなため息と、意味不明の出来事がすべて並列なんじゃないかって思うようになって……
そしてあの夜が来たんです。
仕事が終わって家について、窓側から部屋の電気がついてないことを確認して。あ、母がいるかどうかの確認ですよ。その頃にはそういうクセがついてたんで。で、部屋に入って、電気を点けようとして──その瞬間、リビングにあるデスクトップが立ちあがったんです。
パァ、と大きなクラクションに驚いて身体が揺れた。
隣をトラックが通り過ぎていく。心臓はうるさいほど鳴っているのに、指先が妙に冷えていた。
頭の奥で紗和の話が続いている。
触るとか触ってないとかの話じゃないですよ。だって私、まだ靴も脱いでなくて、電気も点けてなかったんですよ。
点ける前に、ブウンって独特な音がして、画面が白く光りました。パニックですよね。何が起きたのかわからなくて、とにかく電気を点けなきゃ、部屋を明るくしなきゃって焦って、スイッチをバチバチ叩きました。
でも点かないんです。全然。あの部屋に住んでそれなりに経ってたし、たまたまこのタイミングでダメになったのかもしれないとも今なら思えますけど、あの時はとにかくパニックでした。とにかく怖い、ここから出ようって思ったのに、今度は足が動かない。
膝が笑うとかって日本語ありますよね? 本当にそんな感じで。ガクガク震えて力が入らないんです。足の裏がべったり床に張り付いたみたいに動けない。でも目だけはデスクトップの画面から離れてくれない。見なきゃいいのに、視線すら自分の意志で動けなくなりました。
真っ白だった画面がすうっと消えたら、設定した覚えのない壁紙が現れたんです。私に届いてたダイレクトメールの差出人のアイコン。真っ黒なまんまるに、目玉がふたつ。最初は猫の目かと思ったけど、絶対違う。あれは人間の目です。イラストじゃない。本物の眼球に見えました。叫びだしそうになったのに声も出ない。喉の奥がカラカラにはりついてるんです。それで、怖くて怖くてどうしようもなくなった時に──
ハァ。
小さなため息が、私の耳に届いた。