ほんの出来心だったんだよ。
 きっかけは本当に小さいことだった。
 隆介。隆介だよ。隆介のことだから最初からわかってたと思うけど、私は初めて会ったときから隆介が好きだった。でも私なんか眼中にないこともわかってた。だから意地になったのかもしれない。そこが始まり。
 ハッキリおまえには興味ない、付き合うつもりはないって言ってくれたらよかったのに、拒否もしてくれないから諦められなくてまぁ色々したよね。隆介だって薄々気づいてたんでしょ? あれは本当の私じゃないって。本当は男がいないと生きていけないみたいなタイプの女、大嫌いだよ。学生時代はシカトする相手だったし、今だってそんくらい自分でやれよって思ってる。
 でも他に方法がなかった。思いつかなかった。紗和さんが自立したイイ女だって、隆介と渡り合えるような女だって、そうでないと付き合い続いてないでしょって感じだったから真逆な女を演じた。もしかしたらっていうちっちゃい希望に縋りつくようなバカみたいなことをしてた。でも知ってる、隆介はまだ紗和さんのこと忘れられないどころか好きだもんね。だから写真飾ったんでしょ? 
 あれ、隆介も紗和さんも若いし距離感あるし、出会った頃とか? そんな可愛いことするんだね。あの頃からやり直したいの? でもありえなくない? 私がここに来ること知ってて元カノとの写真飾るとか頭おかしいんじゃないの。まぁ来るって知らなかったのかもしれないけど。私からのメッセージあんまりまともに見てないもんね。適当なんでしょ。知ってる知ってる。あはは、全部知ってるよ。でもわかんないことばっかり。隆介のことやっと捕まえたと思ったのに全然わかんない。知ってるのとわかんないのって違うんだね。
 ねえ、紗和さんともそうだったの? 
 メッセージは返さない、会うのはヤるときだけ。そんなわけないでしょ。もっと大事にしてたんでしょ。忘れてないよ。打ち合わせの喫茶店の外に紗和さんが来た時のこと。一生忘れない。隆介のあんな顔見たことなかった。今だって見たことない。ただの後輩のまま。むしろただの後輩だった頃より微妙な顔されることもあるよね。気ィ使ってるっていうか扱いに困ってるっていうかさ。
 おかしくない? こんなの恋人って言える? 
 言えないよね。知ってるよ、私がこう言い出すの待ってたんでしょ。じゃあ別れようって言えるもんね。そもそも付き合ってって私のお願いにうんって言ってないもんね。じゃあ仕方ないか。隆介にとって私ってなに? 一回ヤッたから責任感じて紗和さんにはバカみたいに正直に言って別れるし、私にも冷たくなりきれなくて。それが優しさとでも思ってる? 自分が悪者になりたくないだけじゃん。最低だよ。 
 ……って言われるところまで考えてそうとも思うけど。隆介そういうとこあるもんね。
 ユキナさんも言ってた、櫻木さんは頭の回る人だって。他の作家さんも時々隆介に笑いながら怖いですよって言う。私も思うよ。隆介は怖いしちっとも優しくない。優しくしたいならちゃんとしてよ。


 呂律が回らなくなってきている。
 興奮のあまり涙がボロボロとあふれて、隆介はただそれを受け止めている。
 隆介の顔はよく見えない。涙で視界が歪んでいるのと、興奮から頭がガンガンして痛くてそれどころじゃない。
 言ってしまえ。
 紗和さんが隆介とのセックスをネタに面白おかしく呟いていたことも言ってしまえ。
 そうすれば隆介は紗和さんのこと忘れられる。はずだ。
 でも、言えなかった。
 同時に私が何ひとつ隆介の癖を知らなかったことを認めたことになる。そんなの耐えられない。
 無理だ。こんな扱いを受けていたって嫌いになれない。
 まだこんなにも好きだ。好きだから憎い。好きだから許せない。好きだから──

 好きだから、何をしてもいいって?

 理性を保つ私がどこからか私を見ている。
 冷めた目をして、涙をこぼしながら隆介に訴える私をバカみたいだと鼻で笑っている。
 その心は乾いているのに、涙は止まらない。
 あたりに湿っぽい空気が帯びていく。ぬらりと嫌な気配がする。首筋に冷や汗が落ちていく。

 ──ハァ。

 大きなため息。
 これまで聞いたどれよりも大きな。耳朶が舐められるような近さに誰かの唇を感じる。
 それほどに近い。大きい。気色が悪い。

「……椎菜?」

 隆介の表情に陰りが見えた。
 急に動きを止めた私に手を伸ばそうとしている。
 やめて。さわらないで。言いたいのに言えない。でも、隆介の手も止まった。動けないようだ。
 やっと気づいたの、部屋中のおかしな空気に。そう思ったのに、違う。隆介が何か言っている。
 動けないのは私で、隆介の声が届いていないのは私の耳だ。おかしい。何。どうして。やめて。息が浅くなる。自分の動悸と正体のわからないあれのため息しか聞こえない。涙は止まらない。隆介が私に手を伸ばす。スローモーションのようにそれを見ながら、私はその手を掴みかえせない。後ろから何かが近づいている。目の前にいる隆介が気づかないはずがないのに、彼が逃げる様子はない。どうして。今こうしている間にも後ろから飲みこまれそうな気配を感じるのに。どうして隆介はそんなに普通の顔をしているの。私のあれだけの叫びを聞いて、何とも思わないの。おかしい。どうして。なんで。あれが来る。食われる。どうして私だけ。
 隆介。逃げて。だめ。違う。一緒に来て。一緒に。