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「……早く帰ってこないかな」
視線の先、リビングの隅に置かれたチェストを見ながら私は呟く。
隆介は写真を飾るのが好きだ。意外なほどに大切にしている。
これまで一人で旅した国々の景色が多い。大学時代は頻繁に海外に赴いていたらしい。現地の人とこちらに向かってピースをする隆介は日に焼けていて、今よりずっと若い。
学生時代の部活の仲間との写真は、同窓会のたびに変わるという。担当した作家が受賞した時の記念写真は、少し豪華な写真立てに収められている。隆介にとって大事な想い出が並んでいるのだ。
「…………?」
……その中に、見覚えのない写真があった。身体を起こして立ちあがる。
チェストに近づいていくと、写っている人物がはっきりとわかった。
今よりもほんの少しだけ若い──私が入社する前だろうか。見たことのない隆介と、女性が一緒に写っていた。
二人の間には遠慮がちに距離があるが、二人の表情から互いの好意が伝わってくるようだった。
「……何これ」
チェストの上の写真たちはどんな存在なのか、私が誰よりも知っている。だから信じられなかった。
どうしてこれをここに飾るの? 私に見られると思わなかったの。それとも、見られることをわかっていて飾ったの。ここに私との写真は一度だって置いたことがないのに、どうして。
息がしにくい。胸が苦しい。左胸を掴んで、息を大きく吸おうとした。酸素が足りない。頭が痛くなってきたのはきっとそのせいだ。息がしにくいせいで、あれだけ心地よかった隆介のにおいがわからなくなってくる。安心できる場所だったはずなのに、あんな写真一枚でこんなにも不安定になる。
膝をついて這うような姿勢になった私の視界の隅が、動いた。
黒い影。俯いた視界の端に、黒い影が過ぎった。
何。反射的にあたりを見渡す。この部屋はこんなに暗かった? 隆介の趣味で、照明はもっと明るいはずだ。それなのに、何トーンか落ちたかのような状態になっている。どうして? 混乱する意識とは逆に、視線だけは冷静にそれらを捉える。観葉植物のうしろ。コンセントの横。カウンターに据えてあるチェアの下。何かが蠢いている。いつから? わからない。もしかしたら最初からいたのかもしれない。私の意識が向いていなかっただけで、最初から。
──ヴヴ
小さく音がした。リビングにパソコンはない。隆介のデスクトップは仕事部屋にしか置いてない。
でも、あの音を知っている。ネットカフェで聞いたのと同じ電子音。
未だ喘ぐように息をする私のそばから、音は続いている。どこから聞こえてくるのかがわからない。
部屋のあちこちに蠢くあれらからなのかもしれない。一体何なのかわからない。胸が苦しくて、考えがまとまらない。目元に熱いものがあふれてくるのがわかった。
助けて。助けてよ隆介。
自分の都合のいいときだけ呼び出して、私が欲している時には振り向いてくれない。純粋な上司だった頃はあんなに優しい人だったのに、いつからこうなってしまったのか。
先に惚れた方が負けというのは本当だ。そもそもの愛情のバランスが違う。私が与えてばかりで、重くて、感情のシーソーが釣り合っていない。
頭に、紗和の声が過ぎる。
『彼──櫻木にとっては、私は最後まで我儘な女だったんでしょうね。我儘を一切言わないという我儘な女』
彼女のように自立した女性を、私は同じ女として尊敬する。
紗和は本当の意味で、恋人を必要とする場面が少なかった。
連絡がこなくても気にならない。紗和自身も忙しいからだ。
弱みも寂しいとも言わない。同じ忙しい社会人として、自分が言われたら困ると思ったからだ。
相手を慮ることのできるいい女だと思う。なのに結局、紗和は浮気される結果となった。
なら、私は?
紗和のように本当の意味で自立しているわけでもないのに、すべてを我慢して隆介に嫌われないように努めているだけ。
素直に寂しいと言えないくせに、頭の中は隆介への不満でいっぱいで仕事に集中することも出来ない。中途半端な人間だ。
夜な夜な黒い感情を吐きだすことで精神を落ち着かせようとしている、どうしようもない人間。
『お風呂が沸きました』
聞き慣れた音が──機械的な音声が流れてくる。
ヴンヴンンン、ン、ンン
電子音は続いている。近くから聞こえる気もするし、遠くからな気もする。
スマートフォンの通知音とは全然違う。
隆介はこの部屋に固定電話をひいていない。だからそれも違う。何が何だかわからない。落ち着こう、落ち着かないと。左胸を掴む手をどうにかして引き剥がし、どうにか立ちあがろうとするが、四つんばいの状態から動けない。腰が抜けてしまったようだ。
隆介。隆介、助けて。
瞬間、パッと照明が落ちた。
停電? 違う。わずかに見える風呂のスイッチは入ったままだ。カーテン越しに入る街灯の光が如実に物語っている。ここだけ。ここだけが今、真っ暗な世界になった。だめだ。早く息をして。深く息を吸って、隆介のにおいに包まれたら──
──ハァ。
耳元に生ぬるいものが当たった。
あれだ。あれが、来た。