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 四畳ほど──デスクトップの置かれた机の面積を考えたら、実際の感覚としては二畳ほどだろうか。
 ほどよく狭いネカフェの個人スペースは、とても落ち着く。
 パソコンを立ちあがる前には、多少警戒をした。またあれが現れるのではないかと、目を瞑っていた。
 しかしどうだろう。昨夜の出来事なんて嘘のように、まったく気配を感じない。怯えているのが馬鹿みたいに何も起こらない。
 ここに来てまず行った、トイレの鏡さえもまともに見れなかった。なのに、何もない。
 視界の隅に蠢くものも、いつもの息も、なくなっていた。
 ほんの少しだが怖れが薄れてきた。ふとした瞬間に昨夜を思い出すことはあっても、程よいざわめきのあるネカフェなら幾分気が紛れる。
 目を逸らしていれば、考えずにいれば、きっといつの間にかいないものになる。
 何より今の私には、やらなくてはならないことがあるのだ。ユキナのスケジュールを変更させた分きっちり仕事して、隆介のせいでアイツは駄目になったなんて思われたらいけない。それは同時に、隆介の評価も落ちてしまう。
 担当の新人作家と出版社に、ユキナとの打ち合わせ内容のメールを送る。
 彼女の仕事は早いので、むしろ作家への確認を迅速にするべきだ。
 大学生の彼は常にスマホを携帯しているタイプだから、メール返信も早い。
 何においてもマメなタイプだろうと勝手に推測する。……恋人にもきっと、マメだろうと。
 いけない、またそんな思考回路になると頭を振る。
 ユキナに言われたからではないけど、確かに今の私は──隆介と出会ってからの私は、何に対しても余裕がない。だからこその苦言だ。自分が一番わかっていた。
 他の担当作家への連絡と確認をまとめて打ち込み、ついでに必要な資料をネットショッピングから注文する。
 各出版社のスケジュールの確認もかねてしまおうと、パソコンの前で手帳を広げて書き込んだ。
 落ちてきた横髪を耳にかけ、自分の指の冷たさにハッと意識が戻ってくる。
 椅子の背にもたれると、長く息を吐いた。集中すれば何てことはない。
 恋愛も、あれも、意識から追い出すことが出来るはずだ。私ならできる。言い聞かせる。顔を天井へ向け、凝った首からパキッと乾いた音がした。その時。

 ──ヴン。

 鈍い電子音に身体が跳ねる。何、今の。
 顔を上げる。目の前の液晶画面にはいくつもの窓が開いている。位置も何ひとつ変わってない。でも、まるで突然視力が落ちたかのようにすべての文字が、写真がぼやけていく。目が疲れたのかと何度か瞬きをくり返す。
 変わらない。私の視力は悪くない。とても良いというわけではないが、車の運転は裸眼で出来るほどにはある。それなのに、文字がまったく読めない。カメラのピントがズレていくかのように、すべての輪郭をなくしていく。
 何が起きているのかわからず、それでも視線は動けない。
 ネカフェ内の心地よい雑音は変わらず耳に届いている。誰かがフリードリンクへ向かう足音が聞こえてくる。店内に異変はない。大丈夫だ。きっとパソコンの調子が悪くなっただけ。
 あれじゃない。そんなわけがない。だって、あの息はしない。
 ここは家じゃない。
 ──異変は家だけじゃないって知ってるくせに。相反する声が自分の内側から聞こえてくるのを、意識的に無視する。

「違う絶対違う」

 かたかた震える唇から否定の言葉を吐く。
 すべての窓を閉じて、画面を閉じてしまえばいい。
 笑えるくらい自由に動かない指から、反対の手を使って無理やりペンをはぎ取る。マウスを握らせてクリックを──しようとしなくても、震えで勝手にカチカチ音がした。閉じる。閉じる。見慣れた初期設定の壁紙になる。大丈夫。絶対違う。

 ヴンヴンンンンンンン

 鈍く、聞いたことのない電子音が響く。周囲のざわめきに変化はない。誰にも聞こえていない。私にだけ。私にだけ聞こえている。違う。早く閉じてしまえばいい。これはただの故障だから受付に行って報告すればいい。額から汗が伝う。違う。

 ヴンヴンンン、ン、ンンン

 閉じない。シャットダウンを何度もクリックしているのに、狂った電子音をくり返すだけで何の反応もしない。壊れてる。そうだ。絶対壊れてる。違う。私のせいじゃない。閉じれないならそう言いに受付に行けばいいんだ。そう考えているのに顔を上げることが出来ず、ひたすらにクリックを続けている。私は何をしてるんだろう。今すぐ立ちあがって受付に行けばいいのに。壊れただけなんだから。だから──
 パッと、視界上方が明るくなる。反応した。反射的に顔を上げる。きっとすぐ閉じる。やっぱり壊れてたんだ。息を吐こうとした次の瞬間、



ああああああgpをえrmvpぼあけrjぶw、えrjふぁいいうぇllrじゃbwぺrfpうぃづgじゃjkログvパrwkふぉ憎bあjウェp;mfwあjgヴぉあうぃgじゃをいあjりじゃ嫌ふぃjjぢjfjふぇじあおうぇgかrdgぁldg;pわいjgびjうぃあおえjfpjbrbじゃいwjgpじゃrdぽfけおf;wぶrkrrktぽおびrrkbpbけkrhjjhjrぽおgヵぺふぉっじゃhぁlっこりk



 画面いっぱいに文字が現れた。文章じゃない。ただの文字。意味をなしていない。
 何これ。何のいたずら。意味がわからない。ガタリと音がする。ようやく動いた身体が、反射的に椅子から立ちあがらせていた。荷物も持たずに個室を飛び出すと、受付に走り出した。
 勢いよく飛び込んできた上にろくな説明も出来ない客を訝しみながらも、受付の男性は一緒に戻ってくれた。先に入ってもらう。お願いだからただの故障ですと言って。心底願いながら廊下で待っていると、すぐに出てきた。面倒くさそうにため息をつく。

「メール画面が開いてるだけじゃないっすか。変なところなんか何もないっすよ」

 さすがに自分が開くわけにもいかないんで。じゃあ。
 店員はそう続けると、戻っていってしまった。