**
視界がオレンジ色で満たされた、夜のトンネル。
私はこの世界が昔から好きだった。父親の車の後部座席で眠気と闘いながら、窓の外を眺めていたのを覚えている。
夜の高速道路はトラックも多くてひやりとすることもあるが、それでもはやり、トンネルに入るたびに不思議と満たされるのだ。
時間を確認する。もうすぐで深夜零時を回る。
浜松へ向かっている時は、現地でホテルを探す予定だった。しかし隆介と日曜に会う予定が入った瞬間、帰らないといけなくなった。
日曜の夕方、私が担当している小説の挿絵作家とアポを取っていたからだ。
日程変更が可能か否かを連絡すると、『もしかして、またあの人ですか』と呆れたように笑った声が返ってきた。
挿絵作家──ユキナにはすべて知られている。元々の彼女の担当が隆介であり、私が彼に恋心を抱いたその瞬間からどうやらバレバレだったようだ。
まぁいいですけど、と続けたユキナは『でもそうすると私、明日の十時からしか空いてませんよ』と言う。
明日は金曜日。今の状態では夜はろくに眠れないだろう。
朝早く起きて、高速を運転する自信はない。帰るしかなかった。
「……大翔くんは、もう追わなくていいかなぁ……」
自然と口からこぼれ落ちる。
彼をこれ以上追う意味はないだろう。いつの間にか戻ってくるブックマークは確かに不気味だが、彼は遠ざけている。
家の外であれを感じることはなくなっていると言っていた。
きっとそのうち消え失せてしまう。紗和のように。
あれだけの恐怖にさらされていた紗和は、今は「何もないんです」と話をしめた。どうしてなくなったんだと思いますかと聞くと、「さあ」と首を傾げていた。
──首を、傾げていた?
ハンドルを握る手に力が入る。そうだ。確かに彼女は首を傾けた。心底わからないという風に。
あの日の紗和に何か、どこかに違和感を覚える。頭の中であの日を巻き戻す。
パソコンに設定した覚えのない壁紙が現れ、怖くて叫びだしそうになったと言っていたところから、最初まで巻き戻す。違う、と声に出していた。
わからないはずがない。だって、最初に言っていたではないか。
紗和自身が、「ほんの出来心だったんです」と。
あれの存在を感じたのはいつですか、という質問に、そう切り出した。
つまり、紗和なりに推理をしていたはずなのだ。あれはきっと、『悪意の塊』のようなものなのではないかと。『言霊』といってもいい。それが自分に還ってきているのではないかと。
大翔もそうだ。彼は、闇の掲示板と名付けた場所に書き込んだことを『恥でしかない』と断言していた。
大翔は具体的な危機が迫ってようやく、繋がりを疑ったのだろう。
自分が人様に見られては恥ずかしい黒い感情を書き込んだから、変なものに追われるようになったのではないかと。
そう思った自分をバカバカしいと考えたかもしれない。非現実的すぎると。
しかし、そもそも紗和も大翔も非現実的な現象に怯えていたのだ。そう考えても不思議じゃない。
そして実際、大翔はブックマークを消し続けている。
あれはきっと、もう二度と、それにつかまらないためだ。
紗和はどうだろう。
あれだけ溌溂と仕事をこなし、成績上位となるほどの営業のエースならば、気づかないはずがない。
浮気をした元恋人を恨み、異常なほどの束縛をしてくる母親を憎み、感情のコントロールがきかなくなった挙句、自分の顧客に対しても死ねと暴言を吐いていた。
ほんの出来心から始めた書き込みが、すべての原因だと言っていたのだから。
それならどうして、「さあ」になるのだろう。
実際、どちらのアカウントもすでに動いていない。やめたからなくなったのではと考えておかしくない。それが、「さあ」と首を傾げた。
──つまり、本当は、紗和は逃れていない?
煽ってきた後続車両に気付き、車線を変更しながらいいやと首を振る。
だって、紗和は私に言った。「あなたには時間がないのでしょう」と。
自分に余裕がなければあんな言葉は出てこないはずだ。あれに付きまとわれている最中だとしたら、あんな風に言えない。私なら、絶対に言えない。
「……どういうこと?」
ブラックガムを口に放り込み、眠気を飛ばす。
東京まであと少し。自宅に着くまで考えをまとめておきたかった。
*
泥のように重い身体を玄関から室内へ滑りこませる。
誰も出迎えるはずのない部屋は、当然真っ暗だ。電気を点ける前にあれがいないか息を顰めるのは、もはやクセになっている。
しかし、疲弊のため感覚が鈍い。怖いという感情さえも鈍い気がする。
ヒールを脱ぎながらものろりと手を伸ばすと、スイッチに当たった。指先が冷たい。意識して力を入れ、カチリという音がして室内が一瞬にして白くなる。
外の暗闇に慣れた瞳は、光に慣れるまで少しかかった。ドライアイのため尚更だ。その間にヒールを揃え、廊下とも呼べない廊下もどきを進む。じんわりと視界がはっきりとしていく中、とある異変に気付き、私の心臓が跳ね上がった。
──ノートパソコンが、開いている。
視界がオレンジ色で満たされた、夜のトンネル。
私はこの世界が昔から好きだった。父親の車の後部座席で眠気と闘いながら、窓の外を眺めていたのを覚えている。
夜の高速道路はトラックも多くてひやりとすることもあるが、それでもはやり、トンネルに入るたびに不思議と満たされるのだ。
時間を確認する。もうすぐで深夜零時を回る。
浜松へ向かっている時は、現地でホテルを探す予定だった。しかし隆介と日曜に会う予定が入った瞬間、帰らないといけなくなった。
日曜の夕方、私が担当している小説の挿絵作家とアポを取っていたからだ。
日程変更が可能か否かを連絡すると、『もしかして、またあの人ですか』と呆れたように笑った声が返ってきた。
挿絵作家──ユキナにはすべて知られている。元々の彼女の担当が隆介であり、私が彼に恋心を抱いたその瞬間からどうやらバレバレだったようだ。
まぁいいですけど、と続けたユキナは『でもそうすると私、明日の十時からしか空いてませんよ』と言う。
明日は金曜日。今の状態では夜はろくに眠れないだろう。
朝早く起きて、高速を運転する自信はない。帰るしかなかった。
「……大翔くんは、もう追わなくていいかなぁ……」
自然と口からこぼれ落ちる。
彼をこれ以上追う意味はないだろう。いつの間にか戻ってくるブックマークは確かに不気味だが、彼は遠ざけている。
家の外であれを感じることはなくなっていると言っていた。
きっとそのうち消え失せてしまう。紗和のように。
あれだけの恐怖にさらされていた紗和は、今は「何もないんです」と話をしめた。どうしてなくなったんだと思いますかと聞くと、「さあ」と首を傾げていた。
──首を、傾げていた?
ハンドルを握る手に力が入る。そうだ。確かに彼女は首を傾けた。心底わからないという風に。
あの日の紗和に何か、どこかに違和感を覚える。頭の中であの日を巻き戻す。
パソコンに設定した覚えのない壁紙が現れ、怖くて叫びだしそうになったと言っていたところから、最初まで巻き戻す。違う、と声に出していた。
わからないはずがない。だって、最初に言っていたではないか。
紗和自身が、「ほんの出来心だったんです」と。
あれの存在を感じたのはいつですか、という質問に、そう切り出した。
つまり、紗和なりに推理をしていたはずなのだ。あれはきっと、『悪意の塊』のようなものなのではないかと。『言霊』といってもいい。それが自分に還ってきているのではないかと。
大翔もそうだ。彼は、闇の掲示板と名付けた場所に書き込んだことを『恥でしかない』と断言していた。
大翔は具体的な危機が迫ってようやく、繋がりを疑ったのだろう。
自分が人様に見られては恥ずかしい黒い感情を書き込んだから、変なものに追われるようになったのではないかと。
そう思った自分をバカバカしいと考えたかもしれない。非現実的すぎると。
しかし、そもそも紗和も大翔も非現実的な現象に怯えていたのだ。そう考えても不思議じゃない。
そして実際、大翔はブックマークを消し続けている。
あれはきっと、もう二度と、それにつかまらないためだ。
紗和はどうだろう。
あれだけ溌溂と仕事をこなし、成績上位となるほどの営業のエースならば、気づかないはずがない。
浮気をした元恋人を恨み、異常なほどの束縛をしてくる母親を憎み、感情のコントロールがきかなくなった挙句、自分の顧客に対しても死ねと暴言を吐いていた。
ほんの出来心から始めた書き込みが、すべての原因だと言っていたのだから。
それならどうして、「さあ」になるのだろう。
実際、どちらのアカウントもすでに動いていない。やめたからなくなったのではと考えておかしくない。それが、「さあ」と首を傾げた。
──つまり、本当は、紗和は逃れていない?
煽ってきた後続車両に気付き、車線を変更しながらいいやと首を振る。
だって、紗和は私に言った。「あなたには時間がないのでしょう」と。
自分に余裕がなければあんな言葉は出てこないはずだ。あれに付きまとわれている最中だとしたら、あんな風に言えない。私なら、絶対に言えない。
「……どういうこと?」
ブラックガムを口に放り込み、眠気を飛ばす。
東京まであと少し。自宅に着くまで考えをまとめておきたかった。
*
泥のように重い身体を玄関から室内へ滑りこませる。
誰も出迎えるはずのない部屋は、当然真っ暗だ。電気を点ける前にあれがいないか息を顰めるのは、もはやクセになっている。
しかし、疲弊のため感覚が鈍い。怖いという感情さえも鈍い気がする。
ヒールを脱ぎながらものろりと手を伸ばすと、スイッチに当たった。指先が冷たい。意識して力を入れ、カチリという音がして室内が一瞬にして白くなる。
外の暗闇に慣れた瞳は、光に慣れるまで少しかかった。ドライアイのため尚更だ。その間にヒールを揃え、廊下とも呼べない廊下もどきを進む。じんわりと視界がはっきりとしていく中、とある異変に気付き、私の心臓が跳ね上がった。
──ノートパソコンが、開いている。