夏の終わり、とはいつを指すのか。
 そんなことを考えながら、俺は正面玄関でアイスを食っている。
 吹奏楽部の最後の演奏が聞こえなくなって、すでに20分。夏休み最終日の今日は自主練禁止らしいから、そろそろあいつもやってくるはずだ。
 果たして、ガチャン、パタンと下駄箱を開閉する音が聞こえて、すぐにふたつ隣の扉が開いた。

「あー、いた。今日も来てくれたんだ?」
「約束だからな」
「ん、ありがと」

 さすが、僕の恋人。満足そうに笑って、(すぐる)は左手を差し出してきた。

「帰ろう、まーくん」

 ああ、そうだな。
 もしかしたら、今日が俺たちにとって最後のデートかもしれないから。



「ねえ、まーくんの恋人になってあげてもいいよ?」

 英から、そんなクソみたいな申し出があったのは終業式の帰り道──ファストフードで、エビバーガーを頬張っていたときだ。

「なんだよ、その上から目線」
「だって、実際僕のほうが上だもの」

 この3年間、英には何人もの恋人がいた。それに比べて、俺は誰とも付き合ったことがない。よって、自分のほうが「立場が上」──というのが、このバカの言い分らしい。

「だから、僕がまーくんと付き合ってあげるよ。高校最後の夏の思い出に」
「くだらねぇ」
「そんなことないって。絶対楽しいよ、恋人がいる生活」

 それに寂しいじゃない? 夏なのに、恋をしないだなんて。
 そう呟いたあいつの目が、わずかに揺れた。たぶん、3日前に別れた女のことを思い出したんだろう。

(今度は長続きしそうだったのにな)

 夏休み直前でフラれるとは、何をやらかしたんだか。
 まあ──俺としては万々歳だったけど。何食わぬ顔で口にしていたストローは、噛みすぎてべこんべこんにつぶれていた。

「いいぜ、付き合っても」
「え……」
「夏の間だけだろ」

 寂しがりやのお前の相手をしてやるよ。どうせ、お前との付き合いもあと8ヶ月だし。

「いいの? まーくん、ほんとに僕と付き合うの?」
「しつこい。言いだしたのはお前だろうが」

 そうだ、こいつが言いだした。俺の気持ちなんて、知りもしないで。

(なんだよ、『夏の思い出』って)

 その言葉で俺が傷つくなんて、これっぽっちも思っていないんだろう?



 まあ、そんなわけで俺の「思い出作り」がはじまった。
 期限は、夏が終わるまで。とはいえ、あいつは吹奏楽部に所属していて、お盆以外はびっしり練習だ。
 意味なくね? こんな状況で「付き合う」とか。
 だが、そう思っていたのは俺だけだったらしく、ヤツは「なに言ってるの」と日焼けとは縁のなさそうな白い頬を、あざとくぷっとふくらませた。

「部活終わりなら時間あいてるよ。ていうか、恋人なら迎えに来るものでしょ」
「どこに」
「学校に」
「誰を」
「僕を」

 アホか。こっちはとっくに部活を引退した身だ。夏休みに、学校に通う理由なんかねぇわ。
 なのに、結局ほぼ毎日あいつのためだけに学校に来ちまった。
 クソすぎる。忠犬ハチ公か、俺は。
 けど、あいつと毎日会えたのは──まあ、悪くはなかった。
 音楽室から流れてくるホルストの「木星」とかいう曲を聞きながら、コンビニで買ってきたアイスのパッケージを何度も破いた日々。
 だいたいは「ガジガジくん」のソーダ味で、たまにジャイアンツコーン。
 で、演奏にあわせて歌っちまうのは、間違いなく英の影響。
 だって、あいつ、帰り道によくメロディーを口ずさむんだ。若干調子っぱずれだった気もするけど、俺も音楽は詳しくねぇから、あれはあれで正解だったのかもしれない。
 そういえば、いつだったか。たしか西日が強かった、8月のはじめ頃。

「今日ねぇ、すっごく気持ちよく吹けたんだよ。最高だったよ」

 そう笑ったあいつの背後で、沈みかけの夕日がとろけるように輝いていた。
 ああ、なるほど、これが夏の思い出ってやつか。
 オレンジに染まるあいつを眺めながら、ガラにもなくそんなことを考えた。
 もっとも、お前は俺が見惚れていたことに気づいていないだろうし、秋の風が吹くころには俺らが付き合っていたことすら忘れているんだろうけれど。

「まーくん、今日は遠まわりして帰ろうよ。いつもより時間も早いし」

 そう言って、英はふらりとひとつめの交差点を右に曲がった。
 その先にあるのは防波堤──さらにその奥には、どぶみたいな色をした海がちかちかと白い光を弾いている。

「怠ぃ……」
「いいじゃん。せっかく晴れてるんだし」

 最終日だよ、今日。
 そう付け加えられた言葉を、俺は問い質すことができなかった。
 その「最終日」とは、単に「夏休み最終日」なのか。それとも「夏の終わり」をも含んでいるのか。
 考えただけで足が重くなる俺の前で、英は軽やかに坂道を下ってゆく。
 おそらく、このあと防波堤によじのぼるつもりだ。そして俺は、そんなこいつをただ見あげることしかできないのだ。

(それも思い出か)

 俺の思い出。俺だけの思い出。

(こいつにとっては、ただの気まぐれ)

 ああ、くそ。どうせ「思い出」っていうなら、うなじに噛み痕くらいつけさせてくれよ。



 こいつを「そういう目」で見ていると気づいたのも、1年前の、やっぱり夏だった。
 気のあう男女数人で行った夏祭り。英や他の連中が女子のゆかた姿にソワソワしているなか、俺はこいつの首筋の白さにずっと目を奪われていた。
 そうなる少し前から、自分が英におかしな想いを抱いていることには気づいてはいた。
 たとえば、英が他のヤツと仲良さそうにしているとムカついたり、女子に告白されているのを見てモヤッとしたり。
 けど、最初はただの嫉妬だと受けとめていた。女子にモテるこいつを、自分はただうらやんでいるだけなのだと。
 その「うらやみ」の矢印が、どうやら英ではなく女子に向けられていると気づくのに2ヶ月。それでも「これは親しい友に対する独占欲のはずだ」と目を逸らし続けた期間が、これまたきっちり2ヶ月。
 そして訪れた、蒸し暑さと熱気がないまぜの祭りの日。

(やべぇ、痕つけてぇ)

 あの白いうなじに噛みついたら、こいつはどんな声をあげるんだろう。あのうっすらとにじんだ汗は、どんな味がするんだろう。
 そう思った俺は、いつのまにかふらふらと英に近づいていたらしい。

「えっ、なに、まーくん」

 驚いたような声で、我に返った。首筋をおさえて振り返った英は、ほんのりと赤い顔をしていて

(やっちまった)

 そう思う一方で、ついに気づいちまったのだ。

(ああ、好きだ)

 こいつのことが、好きだ。ぐちゃぐちゃにしたい感じで、好きだ。
 それ以来、幾度となく英をよこしまな目で見てきた。
 棒つきアイスを食ってるときの口元に。ふざけて抱きついてきたときの、ふとももの柔っこさに。
 それでも己の欲を押し殺せたのは、この状況が長くは続かないとわかっていたからだ。
 どうせ、高校を卒業すれば離ればなれになる。だったら、それまで耐えればいいだけのこと──

(なのに、こいつが壊した)

 夏のはじめ、もう残り一年をきっていたというのに、期間限定とはいえ俺に「恋人」なんて肩書きを与えやがって。

「まーくんもおいでよ! 防波堤の上、気持ちいいよ」

 顔をくしゃくしゃにして手招きする英を、俺は「ガキくせえ」と鼻先で笑ってやった。
 けど、本当はそんなこと思っていなかった。逆光で笑っているあいつのことが、ただただまぶしくて仕方がなかった。

(ああ、くそ)

 どうして、俺は素直になれないんだろう。防波堤で軽やかに跳ねているあいつと、ポケットに手をつっこみ、意地でも歩道を歩く俺。
 このままだと絶対にまじわらない。せっかく、今ならいろいろなことが許されるというのに。

(そうだ、今なら……)

 追いかけて、ふざけたふりをして後ろから抱きつくのも。そのうなじに顔をうずめて、強く唇で吸いあげるのも。

(夏の間なら)

 恋人である今なら、それも──

「終わっちゃうねぇ、夏」

 しみじみと響いた英の声で、俺は我に返った。

「今日で終わりだねぇ」

 ──ああ、そうか。ここに来る前にこいつが口にした「最終日」は、やっぱり「恋人としての終わり」も意味していたのだ。

「そうだな。お前ともおしまいだな」

 大丈夫だろうか。俺の声は今、震えていないだろうか。

「まーくん、いい恋人だったよ」
「部活終わりに、毎日迎えに来てやったからな」
「皆勤賞だったもんね」
「迎えに行かねぇと、お前がうるさいからだろ」

 嘘だ。毎日会いたいから、正面玄関で待っていた。アイスを食いながら、荘厳かつどこか物悲しい演奏曲を聞きながら、俺の頭のなかにあったのはいつだってお前のことばかりだった。

(それが、思い出)

 俺の、俺だけの「ひと夏の思い出」だ。

「そういえばしなかったね」
「何をだよ」
「キス」

 逆光のなかで、英がうっすらと笑った。

「せっかくだから、しちゃう? まーくん、したことないでしょ。キス」

 いつもの、こいつらしい軽口。
 なのに、俺は「アホか」とも「うるせぇ」とも言い返せない。喉が干あがったように、ひりついて言葉が出てこない。
 とん、と小さな音がした。防波堤から下りた英が、にやけ顔のまま俺に近づいてきた。

「目、閉じて。まーくん」

 ダメだ、勘弁してくれ。もう十分なんだ。忘れられない思い出を、どうかこれ以上、俺に残さないでくれ。

「閉じてよ。早く」

 嫌だ。

「閉じて。おねがいだから」

 英の手が、俺の両肩に食い込んだ。そこで初めて、俺はこいつが震えていることに気がついた。

「おねがい、まーくん……最後だから……」
「……」
「最後に、キス……させてよ……」

 そしたら、あきらめるから。
 小さな呟きとともに、パタパタと雫が地面に落ちた。それが、こいつの涙だと気づくのに、俺は10秒ほど時間を要した。

(は……?)

 なんだ、それ。なんで泣いてんの、こいつ。

(ていうか)

 なんつった、今? あきらめる? 誰が? 誰を?

(まさか)

 いや、でも……

「お前、もしかして……」

 細っこい手首を掴んだ。驚くほど冷たかった。なのに、素直じゃない俺ときたら……

「そんな欲求不満だったのか?」
「……は!?」
「いや、だって、そこまでキスをねだるとか」

 英の目が、大きく見開かれた。そのせいで、今度はぼろりと涙がこぼれた。
 すごい大粒の、めちゃくちゃわかりやすいやつ。

「信じられない……デリカシーなさすぎ」

 いや──まあ、そうだよな。
 けど悪い、こっちも混乱しているんだ。
 だって、まさか、いや、ほら……

「あのさ、僕はね? その気になれば、キスさせてくれる女の子なんていくらでも見つかるんだよ? そのへん、まーくんとはぜんぜん違うんだよ?」
「お、おう」
「でも、でもさ……夏だし最後だし、す……」
「……『す』?」
「す……きな人との最後の思い出くらい、欲しかったし」

 だから、だから……そう繰り返すこいつの唇を、俺は今ふさいでもいいのだろうか。

(いいんだよな?)

 だって、同じってことだろ? お前も、この夏をちゃんと残してくれるんだろ?

(だったら言わせてくれ)

 最後の、最後じゃないキスのあと。
 お前のことが好きだって、この夏が終わっちまう前に。