森本悠(もりもとゆう)が初めてその階段の踊り場を見つけたのは、高校に入学してまだ間もない春のことだった。

 校舎の端にあるその階段は、プールに続く細い通路にひっそりと佇んでおり、誰も気に留めることのない場所だった。校舎の中でも日当たりが悪く、古びた壁と磨り減った階段が、今にも崩れ落ちそうな印象を与えていた。その静寂と薄暗さが、悠にとっては心地よかった。

 悠は、小さい頃から絵を描くのが好きだった。特に漫画を描くことに夢中で、空想の世界に没頭している時間が何よりの幸せだった。けれど中学の頃は、そのせいでクラスメイトからは「オタク」と呼ばれ、遠巻きに冷やかな視線を向けられていた。

 そのため高校入学後は、漫画を描いていることを誰にも話さなかった。昼休みにひとり静かに過ごせる場所を求め、偶然見つけたこの階段は、まさに彼の隠れ家となった。

 学校生活にも慣れてきた5月下旬。悠はいつものように昼休みに階段の踊り場に腰を下ろし、鞄から漫画の下書き用紙と鉛筆を取り出した。
 周囲はひっそりとしており、他の生徒たちが昼休みを楽しむ声が遠くに聞こえる。その静寂の中で、悠は無心で鉛筆を走らせ、物語の続きを描いていた。
 彼が今描いているのは、勇者と魔王が戦うファンタジー作品で、次の展開に心を躍らせながら描き進めていた。

 そんな時だった。ふと、鉛筆を走らせていた用紙に影が差した。悠は驚いて顔を上げた。そこには、三年生の先輩が立っていた。

 彼が三年生だとわかったのは、彼の姿を見かけるたびにクラスの女子達が騒いでいたからだ。
 名前は川島颯斗(かわしまはやと)。女子達の話では、読者モデルとやらをしているらしい。学校中の人気者で、その整った顔立ちとクールな雰囲気で、学年を問わず多くの生徒から憧れの的とされていた。

「何を書いているの?」

 先輩は穏やかな声で尋ねた。

 悠は一瞬言葉を失い、胸の中で心臓が大きく跳ねるのを感じた。

「えっ、あの……ただの漫画です。」

 悠は何とか答えたが、声は震えていた。

 見られたら、中学のクラスメイトみたいに馬鹿にされてしまう。
 急いで立ち去ろうとしたが、焦ったせいでスケッチブックが手から滑り落ち、描きかけの用紙が一斉に散らばってしまった。

「わっ!」

 悠は慌てて拾おうとしたが、すでに紙は階段全体に散乱していた。顔が真っ赤になり、涙が出そうなほど恥ずかしかった。何とか拾い集めようと手を伸ばすが、震える手が思うように動かず、逆に紙を踏んでしまいそうになる。

「ごめん、俺が驚かせちゃったね」

 颯斗はそう言うと、優しく微笑んで一緒に紙を拾い始めた。彼の手が素早く紙を集め、悠に手渡してくれた。悠はその手に触れ、心臓がさらに早くなるのを感じた。

「えっと……ありがとうございます」

 悠はやっとのことで言葉を絞り出し、顔を伏せたまま、紙をぎゅっと握りしめた。颯斗はそんな悠の様子を全く気にせず、手に持った原稿用紙をじっと見つめる。

「これ、君が描いたの?」

「はい……。下手の横好きってやつで……」

 悠は小さな声で答えた。誰にも見せるつもりはなかった、自分だけの秘密の作品だった。それが、学校一の人気者である颯斗に見られることになるなんて、思いもしなかった。心の中では、どうしてこんなことになったのかと混乱していたが、颯斗の言葉が彼の思考を止めた。

「へぇ、面白いじゃん。これ、続きはあるの?」

「えっ?」

 悠は思わず顔を上げ、颯斗の顔を見つめた。彼の表情は真剣そのもので、悠の描いた世界に興味を持っているようだった。それが信じられず、悠は再び戸惑いを隠せなかった。

「続きを描いてよ、見たいから」

 その言葉に、悠の胸が一気に温かくなった。自分の描いたものが認められたような、そんな気持ちが湧き上がってきた。ずっと隠していた夢が、初めて光を浴びたような感覚だった。

「本当に……いいんですか?」

「もちろん。俺、こういう話好きなんだ」

 颯斗のその一言で、悠の心は完全に打ち解けた。これまで誰にも見せることのなかった漫画を、彼に読んでもらえることが嬉しくて仕方なかった。悠は少し恥ずかしそうにしながらも、次の原稿を見せることを約束した。

 その日から、漫画を描くこと以上に、それを颯斗に見てもらうことが悠の楽しみになった。颯斗もまた、昼休みになると必ずそこに現れ、悠の漫画を楽しそうに読んでくれた。時には悠の隣に座り、静かに昼寝をすることもあった。

 悠にとって、その時間は何よりも大切なものとなっていった。颯斗と過ごすひとときが、彼の日常に彩りを与え、学校生活の孤独感を癒してくれた。しかし、そんな平穏な日々は、ひと月ほどで終わりを告げることとなる。

 ある日を境に、颯斗はパタリと姿を見せなくなった。まるで夢から覚めたかのように、悠は再び孤独に戻った。

 漫画が面白くなかったのかもしれない。何か気に障ることをしたのだろうか。そんな不安が悠の胸に重くのしかかり、大好きな漫画も描けなくなった。

 先輩が姿を見せなくなって2週間が経った頃。夕食中に母が改まった様子で話を切り出した。

「悠。お母さんね、再婚を考えている人がいるんだけど。会ってもらえないかしら……」