あの日、あの場所で僕たちが出会ったのは……たぶん、ただの偶然。
けれど、きっと運命でもあった――。
* * *
初夏とは思えないほどの暑さに、うんざりする。
六月下旬の今、まだ夏は序盤だというのに、これからさらに気温が上がっていくのだと知っているだけで気が滅入る。
制服の白いシャツは汗で軽く張りつき、とにかくうっとうしい。
クーラーが効いているはずなのにじめじめとした教室から一刻も早く飛び出し、心安らぐ自室に帰りたくてたまらなかった。
ただ、今日はそうもいかない。
放課後、河原に繰り出す予定なのだ。
事の発端は、三日前。
読書が好きで、密かに小説家を目指している僕――宇多川広夢は、ここ数年挑戦し続けている小説投稿サイトのコンテストの募集要項を見て、ため息をついた。
テーマが『切ない恋』だったからだ。
赤ちゃんの頃から読み聞かせをされていたらしく、そんな母の努力の甲斐あってか活字と出会うのはたぶん周囲よりも早かった。
小学生になると外で遊んだりゲームをしたりするよりも、小説を片手に生活するのが日常だった。
そして、中学二年生のとき。
小説を投稿できるサイトがあることを知り、その日のうちに登録した。
毎日少しずつアプリで書き溜め、ほんの数ページずつ公開していく日々が始まり、寝ても覚めても書いてばかり。
記念すべき処女作は、今思えば読み返すのも恥ずかしいくらい拙い。
それでも、完結ボタンを押した日の感動と興奮は、よく覚えている。
もちろん、当然ながらアクセス数は伸びず、ランキングにもかすりもしない。
意を決してエントリーしたコンテストでは、一次審査すら通らなかった。
けれど、自分の頭の中にある物語を紡ぐ楽しさ、ほんの少しずつ伸びていくアクセス数と初めて感想をもらえたことへの喜びが、僕に次の作品を書く気力をくれた。
以来、それは趣味となって、毎年夏から募集が始まるコンテストにエントリーし続けている。
中三だった二度目も一次審査すら通らなかったけれど、高一のときには一次審査を、昨年は二次審査まで残れた。
だからこそ、今年こそは……! と意気込んでいたのに、三日前に目にしたコンテストのテーマに愕然としてしまったのだ。
だって、僕は切ない恋どころか、誰かに恋愛感情を抱いたことすらないのだから。
これまでのテーマは、『青春』や『恋愛』、『キャラ文芸』といった、比較的漠然としたものだった。
それなのに、なぜか今年は『切ない恋』という、これまでで一番絞られたもの。
読書が趣味である僕は、これまで〝読めば書きたくなり、書けば読みたくなる〟ループにいたのに、急に心にぽっかりと穴が空いたようになにも浮かばなくなった。
この三日間で、四冊の本を読んだのに……。
それも、あらすじや帯に『切ない恋』と書かれたものばかりを選んだのに……。
書きたくなるどころか、一文も思い浮かばないのだ。
藁にも縋る思いでSNSに『読んでもなにも浮かばない』『ネタが浮かんでこない』と愚痴ったのが、昨夜のこと。
僕と同じく小説家を目指している相互フォロワーさんから、『いつもと違う場所に行くとか、普段と違う環境で読んでみたら?』とアドバイスをもらった。
彼は、煮詰まったときに外で読書をするとネタが浮かぶことが多いのだとか。
それが普段は自室でしか本を読まない僕に合うかはわからなかったけれど、コンテストにエントリーできるのはあと二か月。
すぐにネタが浮かんだとしても、そこからプロットを起こし、十万字以上を書かなくてはいけない。
しかも、受験生である僕に与えられた時間は、そう多くない。
という事情から、善は急げとばかりに彼のアドバイスを決行することにした。
放課後、僕は帰路にある河原に繰り出した。
本当は、落ち着いた喫茶店や静かなカフェ、せめてファーストフード店に行きたかったけれど、今月は本を買いすぎたせいで金欠なのだ。
(まあ、仮に一万円を持ってたとしても、コーヒーやジュースを飲むよりも本に使いたいんだけどさ)
この暑さの中、外で読書なんてできるのか……と半信半疑だった。
けれど、川に架かる橋の下に行ってみると、意外にも涼しくて驚いた。
大きな橋の面積の分だけ、影ができている。
コンクリートで造られた階段が川に繋がっていて、座るにはちょうどよさそうだ。
腰を下ろしてみると、風がよく通るのがわかる。
影のせいで太陽の光が当たらない目の前は少し暗いけれど、陽光が当たる川面は光がキラキラと反射して綺麗だった。
ここの川の水質は、比較的いいのだと思う。
泳ぎたくはないけれど、浅瀬は川底まで見えるくらい透き通っている。
まあ泳げないこともないだろう……という感じだ。
周囲に生えた雑草は青々としていて、夏の匂いがする。
川のせせらぎと草の揺れる音、そして頬を撫でる風が、とても心地よかった。
(意外だな。もっと居心地が悪いかと思ってた)
適温の自室の椅子やベッドで読書をするのが日課である僕にとって、お店どころか河原なんて落ち着かないかと考えていた。
ところが、予想外なことに妙に居心地がいい。
デメリットは日陰のせいで少し暗いことくらいだろうか。
ただ、幸いにして目がいい僕には問題なかった。
本の虫なのに、僕の視力はどちらも1.5以上あるのだ。
(物は試しだ。今日だけでも読めるところまで読んでみよう)
リュックから文庫本を取り出す。
ついさっき、駅前の書店で買ってきたものだ。
ブルーライト文芸と呼ばれるジャンルのこの本は、僕がエントリーしたいコンテストが開催されているサイトを運営している出版社が刊行している。
サイトで大人気の作家が書いたもので、発売から何度も重版がかかり、今はもう十二刷になっていた。
物語は、僕と同い年の少年と少女を軸にして進んでいくらしい。
あらすじを読むと苦手な余命ものだとわかったけれど、この作家の作品は何冊か読んだことがあって、今までにハズレだと感じたことはない。
作風が好きだし、表現力や構成力も抜群だからだ。
ただ、この作品だけは苦手な余命ものだったせいで食指が動かなくて、今日までずっと手を出せずにいた。
(でも、作家になりたいんだから、先入観だけで避けるのはよくないよな)
いつものようなワクワク感はないけれど、読後にどんな感想を抱くのかは一冊読み切るまでわからないものだ。
それを身を持って知っている僕は、いつもよりも少しだけ重く感じた指で表紙をめくった。
中表紙にしっかりと目を通し、次のページに進む。
プロローグから始まり、一字一句漏らさないように読み、一ページ、また一ページとめくっていった。
序盤は、ゆっくり読んでいたつもりだった。
けれど、少しずつページをめくる手が早くなっていき、気づけば物語は中盤。
ヒロインの過去が明かされていき、前半の伏線が回収され始める。
周囲の音も、頬を撫でる風も、ちっとも気にならなくなっていたとき。
「あれ? 宇多川くん?」
少し高い凛とした声に呼ばれ、途端に現実に引き戻されてしまった。
臨場感のある描写に引き込まれていた僕は、自分が今どこにいるのかも忘れていたようだ。
顔を上げた直後に飛び込んできた風景に、一瞬きょとんとしそうになった。
すぐに状況を思い出し、左側を見る。
そこには、クラスメイトの伊藤新菜が立っていた。
「やっぱり宇多川くんだ!」
長いまつげに縁取られた大きな二重瞼の目が弧を描き、赤みを帯びた頬が綻ぶ。
同時に風が通り抜け、艶やかな髪がスッと通った鼻梁を隠すように靡いた。
「どうしてこんなところで読書してるの? 暑くない?」
当然のように僕の隣に腰掛けた彼女に、まごついてしまう。
クラス一どころか、学年一の人気者。
明るくて、可愛くて、友人が多く、勉強もできる。
にこにこと笑う姿からは、伊藤さんの愛想のよさが出ていた。
「今日はなんとなく……その、たまたまここで読んでみただけで……」
どう答えようか悩んだのは、僕が小説を書いていることも小説家になりたいことも誰にも打ち明けたことがなかったから。
もちろん正直に話す気はないけれど、突然のことにわずかに動揺してしまった。
「そうなの? でも、ここ暑くない?」
「いや、そうでもないかな。風がよく通るから、むしろ涼しいよ」
愛想よく答えながら、内心では早くどこかに行ってくれと思う。
今読んでいたのは、きっとこの物語の重要な部分。
伏線が回収され始めておもしろくなっていたところだったため、水を差された気分だった。
あけすけに言えば、不快だ。
けれど、彼女は立ち去るどころか、居座るつもりらしい。
「本当だ。ここ、風が気持ちいいね」
なんて言い、僕に朗らかな笑みを向けてきた。
初夏の香りを運ぶような風が通り、伊藤さんの鎖骨まで伸びた髪がサラサラと音を立てるように揺れる。
色素が薄いのか茶色がかっているそれが靡く様は、絵になった。
一瞬見入ってしまいそうになって、ハッとする。
当初の目的とは逸れてしまうけれど、仕方がない。
彼女がここにいるのなら自分が立ち去ろうと考え、本をリュックに戻そうとしたとき、パッと明るい笑顔を向けられた。
「あっ、その本知ってる! つい最近読んだんだけど、すっごくよかったよ! ヒロインが、実は――」
「ちょっ……! 待って!」
嬉しそうな伊藤さんに慌てて制し、眉を寄せる。
「やめてよ。僕はまだ読んでる途中なんだから、ネタバレしないで」
余命ものと言えば、だいたいの結末は想像がつく。
だからといって、自分が読んでいる途中の作品のオチをばらされるのは嫌だ。
僕はどんな本でも最後まで読むと決めていて、読み終わるまではネットでもできる限りネタバレや感想を見ないようにしている。
もちろん、ショッピングサイトや電子書店のレビューも。
そうすることによって、合わなかった本や苦手な内容だったこともあるし、失敗だった……と後悔したことも数え切れないくらいある。
それでも、誰かのネタバレで結末を知るよりも、自分の目で最後まで読みたい。
これが、読書が好きな僕なりのこだわりなのだ。
「そ、そうだよね……。ごめんね」
しゅんとした彼女を前に、罪悪感が芽生えてくる。
自分がそこまで悪いことを下とは思えなかったものの、振り返れば口調が強かったかもしれない。
そう気づき、小さな咳払いをした。
「いや、僕の方こそ大声を出したりしてごめん」
「ううん。びっくりしたけど、大丈夫だよ。それに、宇多川くんってそんなに大きな声を出すんだなって、意外な発見だった」
ふふっと笑った伊藤さんは、半袖の白いシャツから覗く腕を抱えるようにして軽く前のめりになり、僕の顔を覗き込んだ。
「宇多川くんって、学校じゃあんまり話さないでしょ? 友達といても静かな雰囲気だし、ひとりで本を読んでることも多いし」
「そんなことないけど……」
「そうかなぁ」
クスッと笑った彼女は、どうやら帰る気はないらしい。
立ち上がりそこねた僕も、どうしたものかと思案した。
「ねぇ、その本を読み終わったら感想を言い合わない? あんなにバズってる本なのに、周りで読んでる人がいないんだよね」
伊藤さんの提案に、なんで……と言いそうになった。
確かに、いわゆる陽キャグループにいる彼女の周囲には、こういったジャンルの本を読む人はいないのかもしれない。
手に取るなら漫画か、せいぜい明るいライトノベル系だろうか。
帯もあらすじも明らかに涙を誘いそうな文言が並ぶ作品は、きっとメイクやスイーツの話題ばかり口にしている女子たちの興味をそそりづらいに違いない。
とはいえ、特に親しいわけでもない僕と感想を言い合ったところで、いったいなにがおもしろいのだろう。
僕自身、投稿サイトやSNSで知り合った人たちとはおすすめし合ったり感想を言い合ったりするけれど、伊藤さんとそれをしたところで共感し合えるとは思えない。
「私はね、すっごく感動したんだぁ。前半から何度もウルウルしちゃったし、読み終わったあとはしばらく涙が止まらなかったくらい」
現に、すでに今の言葉に微塵も共感できないのだから。
「やめておいた方がいいと思う」
「どうして?」
きょとんとした彼女に、どう言おうか悩む。
ただ、下手に繕ってがっかりさせても申し訳ないという気持ちから、正直に話すことにした。
「たぶん、伊藤さんと僕は本の趣味が合わないから。今も、僕は前半からウルウルした気持ちがまったくわからない。構成力は素晴らしいし、表現力にも引き込まれるけど、内容としては好きな部類じゃないんだ」
「……そうなの?」
「うん。僕はこういう……言い方は悪いけど、余命もののお涙ちょうだい系はあんまり好きじゃない」
「じゃあ、どうして読んでるの?」
伊藤さんの目は、『だってどんな内容かは想像つくよね』と言いたげだった。
まったくその通りで、帯とあらすじでおおよその雰囲気は想像できている。
ただ、今の僕にとって重要なのはそこじゃない。
コンテストのために、好みじゃないとわかっていて読んでいるのだから。
「まあ勉強にはなるし」
「勉強?」
「文章力とか表現力はもちろん、こういう内容が好きじゃない僕みたいな人間にも先を読みたいと思わせる構成力があるんだ。それってすごいことなんだよ」
力説しそうになった自身を諫め、できるだけ平静を装う。
「ふーん……って、なんだか評論家みたい。っていうか、小説の勉強をしてるみたいだよね」
ところが、それが仇になってしまったらしい。
ギリギリ図星を突かれた僕は、動揺を顔に出してしまったのがわかった。
「もしかして、宇多川くんって小説家になりたいの?」
しまった、と感じたときにはもう遅かった。
家族にも友人にも言ったことがない、密かな目標。
僕の夢を知っているのは、投稿サイトやSNSの同志たちだけだ。
「そうなんだね」
咄嗟に否定もできなかったせいで、彼女は自己完結してしまった。
「誰にも言わないでほしい」
「どうして?」
「誰にも話したことがないからだよ。だいたい、小説家になりたいなんてバカみたいだって思われるのがオチだ。世の中、作家志望はごまんといるけど、なれるのはほんの一握りだけなんだから」
正式に言うと、いわゆる専業作家を目指しているわけじゃない。
小説家を目指し始めた当初は、小説で生きていけたら……と夢見たこともあった。
けれど、周囲の作家さんや同志たちと話しているうちに、それがいかに夢物が至りであるかと知った。
中には、専業で食べていける人もいる。
ただ、それは作家になれる一握りの中の、さらに砂粒ほどの人だけだ。
有名な作家や、シリーズ物をコンスタントに刊行している作家の中にも、別に本業がある人は意外と多い。
専業主婦もいるとは聞いたけれど、それはまた別の話だ。
「そうかな? 私は別にバカにしたりしないけど。作家になりたいなんてかっこいいし、クラスメイトが有名な作家になったら本を買うと思うけどなぁ」
「そういう人もいるかもしれないけど、そうじゃない人も多いんだ」
「宇多川くんって、意外と後ろ向きなんだね」
余計なお世話だ、と言いたくなったけれど、グッと飲み込む。
「とにかく誰にも言わないでほしい」
ここは、下手に出ておく方がいいだろう。
そう思って、しおらしく頼んでみる。
伊藤さんは、僕を真っ直ぐ見ながらしばらく黙っていたけれど。
「どうしようかな~」
にっこりと笑い、わざとらしいほど軽快な口調でそう言った。
僕の弱みを見つけたとでも思ったのか、それともただからかっているだけなのか。
どちらにしても、読書を中断させられたこともあいまって、ムカッとしてしまった。
(そっちがその気なら……)
「だったら、僕も言うよ」
「……なにを?」
目をぱちくりとさせた彼女が、小首を傾げる。
「伊藤さんの好きな人がうちのクラスの担任だ、ってこと」
「なっ……! なんで知ってるの!」
僕がさらりと言ってのけたことは、伊藤さんにとって機密事項だったようだ。
彼女は顔を真っ赤にして慌てふためき、まるで強がるように僕を睨んできた。
「見てればわかるよ。伊藤さんって誰とでも仲良くできるタイプだし、先生たちとも仲いいけど、うちの担任と話すときは特によく笑ってるし」
「っ……!」
小説を書いているからか、いつしか人間観察をするようになった。
学校にいる人間はもちろん、街中や公園で見かける人たちはどんな生活をしていて、どんな背景があるのか。
その辺にいるカップルはいつどうして恋に堕ちて付き合うようになったのかを考え、通学時に同じ電車に乗っているサラリーマンの家族構成も勝手にイメージする。
すべてただの想像に過ぎなくても、創作には役立つ。
そして、クラスメイトのことも観察しているうちに、彼らの具体的な相関図や人間関係のちょっとしたいざこざ、誰が誰を好きか……なんてことにも気づいたのだ。
とはいえ、必ずしも僕の想像が正解とは限らない。
もっとも、伊藤さんの好きな人は担任の窪内先生で間違いないのだろうけれど。
「誰にも言わないで……」
「僕もさっき同じことを言ったよ」
「ごめんなさい! 私が読み終わったばかりの本を読んでたり宇多川くんが小説家を目指してるって知ったりして、ちょっとテンションが上がっちゃって……」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿は、僕が見てきた彼女らしくない。
いちクラスメイトがなにを知っているのだ、と言われればそうなのだけれど……。僕の中にある伊藤さんのイメージは、明るいけれど大人びている人という感じだからだ。
だから、さっき彼女が僕をからかうような姿勢を見せたことも意外だった。
「もういいよ。僕のことを内緒にしててくれるなら、別に伊藤さんの好きな人が誰かなんて言い触らす気はないし」
「うん……。ありがとう、ごめんね」
素直に頭を下げられると、僕の方が悪いことをした気がしてくる。
明らかに落ち込んで肩を落とす彼女を前に、僕は参ってしまった。
「……私、そんなにわかりやすかったかな?」
「えっ?」
「上手く隠せてるつもりだったんだけど……」
眉を下げる伊藤さんは、自分の気持ちが他の人間にもバレていないか心配なんだろう。
人間観察が趣味……とまでは言わないけれど、癖になっている。
なんて言えば、引かれてしまうかもしれない。
けれど、不安いっぱいの顔でいる彼女の目を見ていると、フォローしなければいけないと思った。
「他の人にはバレてないんじゃない? そういう風に言うってことは、今まで誰にも打ち明けたことがないのかもしれないけど、もし周囲の人間が知ってたら騒ぐやつもいると思う。でも、伊藤さんの周りを見てる限りはそうは思えない」
「う、うん……。えっと……でも、宇多川くんってよく周囲を見てるんだね?」
「引かれるかもしれないけど、僕は人間観察をするのが癖なんだ。だからって、別に誰かの弱みを握ろうってことじゃなくて、あくまで執筆のためだよ」
保身のために語気を強めた僕に、伊藤さんがコクコクと頷く。
「まあ……とにかく、執筆のために人間観察をしてたらたまたま気づいただけだし、伊藤さんは心配しなくていいと思うよ。傍から見れば、担任を慕ってる生徒って感じじゃない」
「そっか……。よかった。洋くん……先生に迷惑かけたら嫌だもん」
ホッとしたように微笑んだ彼女は、慣れ親しんだように名前を呼んだあとで息を吐いた。
「迷惑?」
「だって、迷惑でしょ? 生徒から好意を寄せられてるなんて、担任としては対処に困るだろうし……。それに、先生はもうすぐ結婚するしね」
前半の言い分には共感しつつ、後半の言葉に少しだけ驚いた。
「先生、結婚するんだ。っていうか、伊藤さんはどうしてどんなこと知ってるの?」
「私と先生、幼なじみなの。っていっても、七歳も離れてるから、私が中学生になる頃にはもうあまり関わってなかったんだけど……」
確か、窪内先生は僕たちの高校が母校だと言っていた。
そして、この街が地元だ、とも。
僕は三駅先から通っているけれど、伊藤さんは徒歩で通学しているはず。
「なるほど……だから詳しいんだね」
「あっ、思わず話しちゃったけど、誰にも言わないでね」
「言わないよ」
「ありがとう。生徒には二学期になったら報告するみたいだし、私も母伝に聞いただけで先生から聞かされたわけじゃないんだ。先生は私が知ってることも知らないかもしれない」
安堵を浮かべた彼女が、訊いてもいないことを口にする。
窪内先生のことは嫌いじゃないけれど、プライベートに興味があるほど好きでもなくて「ふーん」と相槌を打つことしかできなかった。
「だから、学校で先生が結婚報告をしたら、ちゃんと驚いてね」
「いや、それは無理だよ」
「えぇっ……」
「だって、僕は先生の結婚には興味がないし……。まあ、お祝いくらいは言うけど」
恐らく、クラス委員が寄せ書きでも提案するだろう。
そうなれば無難なメッセージくらいは書くけれど、先生が結婚するからといって僕が驚く理由はない。
現に、今だって特に驚いたり興奮したりしていないのだから。
「普通はもっと反応しない?」
「そういう人もいれば、僕みたいに無関心な人もいるだろうね」
人間観察という意味では、もちろん興味はある。
結婚後、物静かな国語教諭がどんな風に変わるのかは興味深いし、場合によっては創作に活かせそうだろうから。
ただ、生徒としては『そうなんだ』くらいの感覚だった。
「そっかぁ。でも、私の気持ちがバレてるのが宇多川くんでよかったかも」
「どうして?」
「だって、宇多川くんって人間観察してるっていうわりには、他人に興味ないでしょ?」
「えっ……?」
「だからきっと、私が頼まなくても言い触らしたりはしないだろうし、宇多川くんなら安心だなって」
にこにこと笑う伊藤さんに反し、僕は言葉を失っていた。
確かに、他人のことに興味を持っている方じゃないとは思う。
あくまで創作のネタという観点では観察したくても、友人の恋愛事情を聞いたところで盛り上がったり興奮したりはしない。
いわゆる、恋バナでテンションが上がるということはなかった。
上手く言えないけれど、取材しているような、あくまで第三者として状況を観察しているような感覚だ。
ただ、それが『他人に興味がない』と思われてしまうことであるならば……。もしかして、作家を目指す人間としては致命的なんじゃないだろうか。
そんな風に思い至って、呆然としてしまった。
「宇多川くん……? ごめんね……私、気に触るようなこと言っちゃったかな?」
「あ、いや……そうじゃないんだけど……」
小さなショックと大きな不安を隠すのに精一杯で、否定しながらもどう言えばいいのかわからなかった。
「僕、そろそろ行くよ。このあと用事があるんだ」
結局、思い浮かんだ嘘を盾にして立ち上がると、彼女に「待って!」と呼び止められた。
「あのね、その本、今日中に読み終わる?」
「えっ? あ、うん……たぶん」
右手に持ったままの本の存在を、すっかり忘れていた。
「じゃあ、明日の放課後もここで待ち合わせしない?」
「……待ち合わせ? 伊藤さんと僕が?」
「そうに決まってるでしょ」
伊藤さんはおかしそうに笑うと、軽快に立ち上がった。
「宇多川くんの感想を聞かせて。それで、もしよかったら、宇多川くんのおすすめの本を貸してほしい。私もなにか持ってくるから」
突然の提案は、予期しない内容だった。
確認するまでもなく、彼女と僕にはこれまでクラスメイトという接点しかなかった。
それもまだこの春からの話で、昨年まではただの同級生だっただけ。
とてもじゃないけれど、本の感想を言い合ったり貸し借りをしたりするような関係性じゃない。
「えっと……」
「ダメかな? できれば、宇多川くんともっと話してみたいと思ったんだけど」
戸惑う僕を余所に、伊藤さんは控えめながらも屈託のない笑みを浮かべる。
僕は断る理由が思い浮かばなくて、「わかった」と小さく頷いた。
こうして、僕たちはささやかな約束を交わしたのだった。
けれど、きっと運命でもあった――。
* * *
初夏とは思えないほどの暑さに、うんざりする。
六月下旬の今、まだ夏は序盤だというのに、これからさらに気温が上がっていくのだと知っているだけで気が滅入る。
制服の白いシャツは汗で軽く張りつき、とにかくうっとうしい。
クーラーが効いているはずなのにじめじめとした教室から一刻も早く飛び出し、心安らぐ自室に帰りたくてたまらなかった。
ただ、今日はそうもいかない。
放課後、河原に繰り出す予定なのだ。
事の発端は、三日前。
読書が好きで、密かに小説家を目指している僕――宇多川広夢は、ここ数年挑戦し続けている小説投稿サイトのコンテストの募集要項を見て、ため息をついた。
テーマが『切ない恋』だったからだ。
赤ちゃんの頃から読み聞かせをされていたらしく、そんな母の努力の甲斐あってか活字と出会うのはたぶん周囲よりも早かった。
小学生になると外で遊んだりゲームをしたりするよりも、小説を片手に生活するのが日常だった。
そして、中学二年生のとき。
小説を投稿できるサイトがあることを知り、その日のうちに登録した。
毎日少しずつアプリで書き溜め、ほんの数ページずつ公開していく日々が始まり、寝ても覚めても書いてばかり。
記念すべき処女作は、今思えば読み返すのも恥ずかしいくらい拙い。
それでも、完結ボタンを押した日の感動と興奮は、よく覚えている。
もちろん、当然ながらアクセス数は伸びず、ランキングにもかすりもしない。
意を決してエントリーしたコンテストでは、一次審査すら通らなかった。
けれど、自分の頭の中にある物語を紡ぐ楽しさ、ほんの少しずつ伸びていくアクセス数と初めて感想をもらえたことへの喜びが、僕に次の作品を書く気力をくれた。
以来、それは趣味となって、毎年夏から募集が始まるコンテストにエントリーし続けている。
中三だった二度目も一次審査すら通らなかったけれど、高一のときには一次審査を、昨年は二次審査まで残れた。
だからこそ、今年こそは……! と意気込んでいたのに、三日前に目にしたコンテストのテーマに愕然としてしまったのだ。
だって、僕は切ない恋どころか、誰かに恋愛感情を抱いたことすらないのだから。
これまでのテーマは、『青春』や『恋愛』、『キャラ文芸』といった、比較的漠然としたものだった。
それなのに、なぜか今年は『切ない恋』という、これまでで一番絞られたもの。
読書が趣味である僕は、これまで〝読めば書きたくなり、書けば読みたくなる〟ループにいたのに、急に心にぽっかりと穴が空いたようになにも浮かばなくなった。
この三日間で、四冊の本を読んだのに……。
それも、あらすじや帯に『切ない恋』と書かれたものばかりを選んだのに……。
書きたくなるどころか、一文も思い浮かばないのだ。
藁にも縋る思いでSNSに『読んでもなにも浮かばない』『ネタが浮かんでこない』と愚痴ったのが、昨夜のこと。
僕と同じく小説家を目指している相互フォロワーさんから、『いつもと違う場所に行くとか、普段と違う環境で読んでみたら?』とアドバイスをもらった。
彼は、煮詰まったときに外で読書をするとネタが浮かぶことが多いのだとか。
それが普段は自室でしか本を読まない僕に合うかはわからなかったけれど、コンテストにエントリーできるのはあと二か月。
すぐにネタが浮かんだとしても、そこからプロットを起こし、十万字以上を書かなくてはいけない。
しかも、受験生である僕に与えられた時間は、そう多くない。
という事情から、善は急げとばかりに彼のアドバイスを決行することにした。
放課後、僕は帰路にある河原に繰り出した。
本当は、落ち着いた喫茶店や静かなカフェ、せめてファーストフード店に行きたかったけれど、今月は本を買いすぎたせいで金欠なのだ。
(まあ、仮に一万円を持ってたとしても、コーヒーやジュースを飲むよりも本に使いたいんだけどさ)
この暑さの中、外で読書なんてできるのか……と半信半疑だった。
けれど、川に架かる橋の下に行ってみると、意外にも涼しくて驚いた。
大きな橋の面積の分だけ、影ができている。
コンクリートで造られた階段が川に繋がっていて、座るにはちょうどよさそうだ。
腰を下ろしてみると、風がよく通るのがわかる。
影のせいで太陽の光が当たらない目の前は少し暗いけれど、陽光が当たる川面は光がキラキラと反射して綺麗だった。
ここの川の水質は、比較的いいのだと思う。
泳ぎたくはないけれど、浅瀬は川底まで見えるくらい透き通っている。
まあ泳げないこともないだろう……という感じだ。
周囲に生えた雑草は青々としていて、夏の匂いがする。
川のせせらぎと草の揺れる音、そして頬を撫でる風が、とても心地よかった。
(意外だな。もっと居心地が悪いかと思ってた)
適温の自室の椅子やベッドで読書をするのが日課である僕にとって、お店どころか河原なんて落ち着かないかと考えていた。
ところが、予想外なことに妙に居心地がいい。
デメリットは日陰のせいで少し暗いことくらいだろうか。
ただ、幸いにして目がいい僕には問題なかった。
本の虫なのに、僕の視力はどちらも1.5以上あるのだ。
(物は試しだ。今日だけでも読めるところまで読んでみよう)
リュックから文庫本を取り出す。
ついさっき、駅前の書店で買ってきたものだ。
ブルーライト文芸と呼ばれるジャンルのこの本は、僕がエントリーしたいコンテストが開催されているサイトを運営している出版社が刊行している。
サイトで大人気の作家が書いたもので、発売から何度も重版がかかり、今はもう十二刷になっていた。
物語は、僕と同い年の少年と少女を軸にして進んでいくらしい。
あらすじを読むと苦手な余命ものだとわかったけれど、この作家の作品は何冊か読んだことがあって、今までにハズレだと感じたことはない。
作風が好きだし、表現力や構成力も抜群だからだ。
ただ、この作品だけは苦手な余命ものだったせいで食指が動かなくて、今日までずっと手を出せずにいた。
(でも、作家になりたいんだから、先入観だけで避けるのはよくないよな)
いつものようなワクワク感はないけれど、読後にどんな感想を抱くのかは一冊読み切るまでわからないものだ。
それを身を持って知っている僕は、いつもよりも少しだけ重く感じた指で表紙をめくった。
中表紙にしっかりと目を通し、次のページに進む。
プロローグから始まり、一字一句漏らさないように読み、一ページ、また一ページとめくっていった。
序盤は、ゆっくり読んでいたつもりだった。
けれど、少しずつページをめくる手が早くなっていき、気づけば物語は中盤。
ヒロインの過去が明かされていき、前半の伏線が回収され始める。
周囲の音も、頬を撫でる風も、ちっとも気にならなくなっていたとき。
「あれ? 宇多川くん?」
少し高い凛とした声に呼ばれ、途端に現実に引き戻されてしまった。
臨場感のある描写に引き込まれていた僕は、自分が今どこにいるのかも忘れていたようだ。
顔を上げた直後に飛び込んできた風景に、一瞬きょとんとしそうになった。
すぐに状況を思い出し、左側を見る。
そこには、クラスメイトの伊藤新菜が立っていた。
「やっぱり宇多川くんだ!」
長いまつげに縁取られた大きな二重瞼の目が弧を描き、赤みを帯びた頬が綻ぶ。
同時に風が通り抜け、艶やかな髪がスッと通った鼻梁を隠すように靡いた。
「どうしてこんなところで読書してるの? 暑くない?」
当然のように僕の隣に腰掛けた彼女に、まごついてしまう。
クラス一どころか、学年一の人気者。
明るくて、可愛くて、友人が多く、勉強もできる。
にこにこと笑う姿からは、伊藤さんの愛想のよさが出ていた。
「今日はなんとなく……その、たまたまここで読んでみただけで……」
どう答えようか悩んだのは、僕が小説を書いていることも小説家になりたいことも誰にも打ち明けたことがなかったから。
もちろん正直に話す気はないけれど、突然のことにわずかに動揺してしまった。
「そうなの? でも、ここ暑くない?」
「いや、そうでもないかな。風がよく通るから、むしろ涼しいよ」
愛想よく答えながら、内心では早くどこかに行ってくれと思う。
今読んでいたのは、きっとこの物語の重要な部分。
伏線が回収され始めておもしろくなっていたところだったため、水を差された気分だった。
あけすけに言えば、不快だ。
けれど、彼女は立ち去るどころか、居座るつもりらしい。
「本当だ。ここ、風が気持ちいいね」
なんて言い、僕に朗らかな笑みを向けてきた。
初夏の香りを運ぶような風が通り、伊藤さんの鎖骨まで伸びた髪がサラサラと音を立てるように揺れる。
色素が薄いのか茶色がかっているそれが靡く様は、絵になった。
一瞬見入ってしまいそうになって、ハッとする。
当初の目的とは逸れてしまうけれど、仕方がない。
彼女がここにいるのなら自分が立ち去ろうと考え、本をリュックに戻そうとしたとき、パッと明るい笑顔を向けられた。
「あっ、その本知ってる! つい最近読んだんだけど、すっごくよかったよ! ヒロインが、実は――」
「ちょっ……! 待って!」
嬉しそうな伊藤さんに慌てて制し、眉を寄せる。
「やめてよ。僕はまだ読んでる途中なんだから、ネタバレしないで」
余命ものと言えば、だいたいの結末は想像がつく。
だからといって、自分が読んでいる途中の作品のオチをばらされるのは嫌だ。
僕はどんな本でも最後まで読むと決めていて、読み終わるまではネットでもできる限りネタバレや感想を見ないようにしている。
もちろん、ショッピングサイトや電子書店のレビューも。
そうすることによって、合わなかった本や苦手な内容だったこともあるし、失敗だった……と後悔したことも数え切れないくらいある。
それでも、誰かのネタバレで結末を知るよりも、自分の目で最後まで読みたい。
これが、読書が好きな僕なりのこだわりなのだ。
「そ、そうだよね……。ごめんね」
しゅんとした彼女を前に、罪悪感が芽生えてくる。
自分がそこまで悪いことを下とは思えなかったものの、振り返れば口調が強かったかもしれない。
そう気づき、小さな咳払いをした。
「いや、僕の方こそ大声を出したりしてごめん」
「ううん。びっくりしたけど、大丈夫だよ。それに、宇多川くんってそんなに大きな声を出すんだなって、意外な発見だった」
ふふっと笑った伊藤さんは、半袖の白いシャツから覗く腕を抱えるようにして軽く前のめりになり、僕の顔を覗き込んだ。
「宇多川くんって、学校じゃあんまり話さないでしょ? 友達といても静かな雰囲気だし、ひとりで本を読んでることも多いし」
「そんなことないけど……」
「そうかなぁ」
クスッと笑った彼女は、どうやら帰る気はないらしい。
立ち上がりそこねた僕も、どうしたものかと思案した。
「ねぇ、その本を読み終わったら感想を言い合わない? あんなにバズってる本なのに、周りで読んでる人がいないんだよね」
伊藤さんの提案に、なんで……と言いそうになった。
確かに、いわゆる陽キャグループにいる彼女の周囲には、こういったジャンルの本を読む人はいないのかもしれない。
手に取るなら漫画か、せいぜい明るいライトノベル系だろうか。
帯もあらすじも明らかに涙を誘いそうな文言が並ぶ作品は、きっとメイクやスイーツの話題ばかり口にしている女子たちの興味をそそりづらいに違いない。
とはいえ、特に親しいわけでもない僕と感想を言い合ったところで、いったいなにがおもしろいのだろう。
僕自身、投稿サイトやSNSで知り合った人たちとはおすすめし合ったり感想を言い合ったりするけれど、伊藤さんとそれをしたところで共感し合えるとは思えない。
「私はね、すっごく感動したんだぁ。前半から何度もウルウルしちゃったし、読み終わったあとはしばらく涙が止まらなかったくらい」
現に、すでに今の言葉に微塵も共感できないのだから。
「やめておいた方がいいと思う」
「どうして?」
きょとんとした彼女に、どう言おうか悩む。
ただ、下手に繕ってがっかりさせても申し訳ないという気持ちから、正直に話すことにした。
「たぶん、伊藤さんと僕は本の趣味が合わないから。今も、僕は前半からウルウルした気持ちがまったくわからない。構成力は素晴らしいし、表現力にも引き込まれるけど、内容としては好きな部類じゃないんだ」
「……そうなの?」
「うん。僕はこういう……言い方は悪いけど、余命もののお涙ちょうだい系はあんまり好きじゃない」
「じゃあ、どうして読んでるの?」
伊藤さんの目は、『だってどんな内容かは想像つくよね』と言いたげだった。
まったくその通りで、帯とあらすじでおおよその雰囲気は想像できている。
ただ、今の僕にとって重要なのはそこじゃない。
コンテストのために、好みじゃないとわかっていて読んでいるのだから。
「まあ勉強にはなるし」
「勉強?」
「文章力とか表現力はもちろん、こういう内容が好きじゃない僕みたいな人間にも先を読みたいと思わせる構成力があるんだ。それってすごいことなんだよ」
力説しそうになった自身を諫め、できるだけ平静を装う。
「ふーん……って、なんだか評論家みたい。っていうか、小説の勉強をしてるみたいだよね」
ところが、それが仇になってしまったらしい。
ギリギリ図星を突かれた僕は、動揺を顔に出してしまったのがわかった。
「もしかして、宇多川くんって小説家になりたいの?」
しまった、と感じたときにはもう遅かった。
家族にも友人にも言ったことがない、密かな目標。
僕の夢を知っているのは、投稿サイトやSNSの同志たちだけだ。
「そうなんだね」
咄嗟に否定もできなかったせいで、彼女は自己完結してしまった。
「誰にも言わないでほしい」
「どうして?」
「誰にも話したことがないからだよ。だいたい、小説家になりたいなんてバカみたいだって思われるのがオチだ。世の中、作家志望はごまんといるけど、なれるのはほんの一握りだけなんだから」
正式に言うと、いわゆる専業作家を目指しているわけじゃない。
小説家を目指し始めた当初は、小説で生きていけたら……と夢見たこともあった。
けれど、周囲の作家さんや同志たちと話しているうちに、それがいかに夢物が至りであるかと知った。
中には、専業で食べていける人もいる。
ただ、それは作家になれる一握りの中の、さらに砂粒ほどの人だけだ。
有名な作家や、シリーズ物をコンスタントに刊行している作家の中にも、別に本業がある人は意外と多い。
専業主婦もいるとは聞いたけれど、それはまた別の話だ。
「そうかな? 私は別にバカにしたりしないけど。作家になりたいなんてかっこいいし、クラスメイトが有名な作家になったら本を買うと思うけどなぁ」
「そういう人もいるかもしれないけど、そうじゃない人も多いんだ」
「宇多川くんって、意外と後ろ向きなんだね」
余計なお世話だ、と言いたくなったけれど、グッと飲み込む。
「とにかく誰にも言わないでほしい」
ここは、下手に出ておく方がいいだろう。
そう思って、しおらしく頼んでみる。
伊藤さんは、僕を真っ直ぐ見ながらしばらく黙っていたけれど。
「どうしようかな~」
にっこりと笑い、わざとらしいほど軽快な口調でそう言った。
僕の弱みを見つけたとでも思ったのか、それともただからかっているだけなのか。
どちらにしても、読書を中断させられたこともあいまって、ムカッとしてしまった。
(そっちがその気なら……)
「だったら、僕も言うよ」
「……なにを?」
目をぱちくりとさせた彼女が、小首を傾げる。
「伊藤さんの好きな人がうちのクラスの担任だ、ってこと」
「なっ……! なんで知ってるの!」
僕がさらりと言ってのけたことは、伊藤さんにとって機密事項だったようだ。
彼女は顔を真っ赤にして慌てふためき、まるで強がるように僕を睨んできた。
「見てればわかるよ。伊藤さんって誰とでも仲良くできるタイプだし、先生たちとも仲いいけど、うちの担任と話すときは特によく笑ってるし」
「っ……!」
小説を書いているからか、いつしか人間観察をするようになった。
学校にいる人間はもちろん、街中や公園で見かける人たちはどんな生活をしていて、どんな背景があるのか。
その辺にいるカップルはいつどうして恋に堕ちて付き合うようになったのかを考え、通学時に同じ電車に乗っているサラリーマンの家族構成も勝手にイメージする。
すべてただの想像に過ぎなくても、創作には役立つ。
そして、クラスメイトのことも観察しているうちに、彼らの具体的な相関図や人間関係のちょっとしたいざこざ、誰が誰を好きか……なんてことにも気づいたのだ。
とはいえ、必ずしも僕の想像が正解とは限らない。
もっとも、伊藤さんの好きな人は担任の窪内先生で間違いないのだろうけれど。
「誰にも言わないで……」
「僕もさっき同じことを言ったよ」
「ごめんなさい! 私が読み終わったばかりの本を読んでたり宇多川くんが小説家を目指してるって知ったりして、ちょっとテンションが上がっちゃって……」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿は、僕が見てきた彼女らしくない。
いちクラスメイトがなにを知っているのだ、と言われればそうなのだけれど……。僕の中にある伊藤さんのイメージは、明るいけれど大人びている人という感じだからだ。
だから、さっき彼女が僕をからかうような姿勢を見せたことも意外だった。
「もういいよ。僕のことを内緒にしててくれるなら、別に伊藤さんの好きな人が誰かなんて言い触らす気はないし」
「うん……。ありがとう、ごめんね」
素直に頭を下げられると、僕の方が悪いことをした気がしてくる。
明らかに落ち込んで肩を落とす彼女を前に、僕は参ってしまった。
「……私、そんなにわかりやすかったかな?」
「えっ?」
「上手く隠せてるつもりだったんだけど……」
眉を下げる伊藤さんは、自分の気持ちが他の人間にもバレていないか心配なんだろう。
人間観察が趣味……とまでは言わないけれど、癖になっている。
なんて言えば、引かれてしまうかもしれない。
けれど、不安いっぱいの顔でいる彼女の目を見ていると、フォローしなければいけないと思った。
「他の人にはバレてないんじゃない? そういう風に言うってことは、今まで誰にも打ち明けたことがないのかもしれないけど、もし周囲の人間が知ってたら騒ぐやつもいると思う。でも、伊藤さんの周りを見てる限りはそうは思えない」
「う、うん……。えっと……でも、宇多川くんってよく周囲を見てるんだね?」
「引かれるかもしれないけど、僕は人間観察をするのが癖なんだ。だからって、別に誰かの弱みを握ろうってことじゃなくて、あくまで執筆のためだよ」
保身のために語気を強めた僕に、伊藤さんがコクコクと頷く。
「まあ……とにかく、執筆のために人間観察をしてたらたまたま気づいただけだし、伊藤さんは心配しなくていいと思うよ。傍から見れば、担任を慕ってる生徒って感じじゃない」
「そっか……。よかった。洋くん……先生に迷惑かけたら嫌だもん」
ホッとしたように微笑んだ彼女は、慣れ親しんだように名前を呼んだあとで息を吐いた。
「迷惑?」
「だって、迷惑でしょ? 生徒から好意を寄せられてるなんて、担任としては対処に困るだろうし……。それに、先生はもうすぐ結婚するしね」
前半の言い分には共感しつつ、後半の言葉に少しだけ驚いた。
「先生、結婚するんだ。っていうか、伊藤さんはどうしてどんなこと知ってるの?」
「私と先生、幼なじみなの。っていっても、七歳も離れてるから、私が中学生になる頃にはもうあまり関わってなかったんだけど……」
確か、窪内先生は僕たちの高校が母校だと言っていた。
そして、この街が地元だ、とも。
僕は三駅先から通っているけれど、伊藤さんは徒歩で通学しているはず。
「なるほど……だから詳しいんだね」
「あっ、思わず話しちゃったけど、誰にも言わないでね」
「言わないよ」
「ありがとう。生徒には二学期になったら報告するみたいだし、私も母伝に聞いただけで先生から聞かされたわけじゃないんだ。先生は私が知ってることも知らないかもしれない」
安堵を浮かべた彼女が、訊いてもいないことを口にする。
窪内先生のことは嫌いじゃないけれど、プライベートに興味があるほど好きでもなくて「ふーん」と相槌を打つことしかできなかった。
「だから、学校で先生が結婚報告をしたら、ちゃんと驚いてね」
「いや、それは無理だよ」
「えぇっ……」
「だって、僕は先生の結婚には興味がないし……。まあ、お祝いくらいは言うけど」
恐らく、クラス委員が寄せ書きでも提案するだろう。
そうなれば無難なメッセージくらいは書くけれど、先生が結婚するからといって僕が驚く理由はない。
現に、今だって特に驚いたり興奮したりしていないのだから。
「普通はもっと反応しない?」
「そういう人もいれば、僕みたいに無関心な人もいるだろうね」
人間観察という意味では、もちろん興味はある。
結婚後、物静かな国語教諭がどんな風に変わるのかは興味深いし、場合によっては創作に活かせそうだろうから。
ただ、生徒としては『そうなんだ』くらいの感覚だった。
「そっかぁ。でも、私の気持ちがバレてるのが宇多川くんでよかったかも」
「どうして?」
「だって、宇多川くんって人間観察してるっていうわりには、他人に興味ないでしょ?」
「えっ……?」
「だからきっと、私が頼まなくても言い触らしたりはしないだろうし、宇多川くんなら安心だなって」
にこにこと笑う伊藤さんに反し、僕は言葉を失っていた。
確かに、他人のことに興味を持っている方じゃないとは思う。
あくまで創作のネタという観点では観察したくても、友人の恋愛事情を聞いたところで盛り上がったり興奮したりはしない。
いわゆる、恋バナでテンションが上がるということはなかった。
上手く言えないけれど、取材しているような、あくまで第三者として状況を観察しているような感覚だ。
ただ、それが『他人に興味がない』と思われてしまうことであるならば……。もしかして、作家を目指す人間としては致命的なんじゃないだろうか。
そんな風に思い至って、呆然としてしまった。
「宇多川くん……? ごめんね……私、気に触るようなこと言っちゃったかな?」
「あ、いや……そうじゃないんだけど……」
小さなショックと大きな不安を隠すのに精一杯で、否定しながらもどう言えばいいのかわからなかった。
「僕、そろそろ行くよ。このあと用事があるんだ」
結局、思い浮かんだ嘘を盾にして立ち上がると、彼女に「待って!」と呼び止められた。
「あのね、その本、今日中に読み終わる?」
「えっ? あ、うん……たぶん」
右手に持ったままの本の存在を、すっかり忘れていた。
「じゃあ、明日の放課後もここで待ち合わせしない?」
「……待ち合わせ? 伊藤さんと僕が?」
「そうに決まってるでしょ」
伊藤さんはおかしそうに笑うと、軽快に立ち上がった。
「宇多川くんの感想を聞かせて。それで、もしよかったら、宇多川くんのおすすめの本を貸してほしい。私もなにか持ってくるから」
突然の提案は、予期しない内容だった。
確認するまでもなく、彼女と僕にはこれまでクラスメイトという接点しかなかった。
それもまだこの春からの話で、昨年まではただの同級生だっただけ。
とてもじゃないけれど、本の感想を言い合ったり貸し借りをしたりするような関係性じゃない。
「えっと……」
「ダメかな? できれば、宇多川くんともっと話してみたいと思ったんだけど」
戸惑う僕を余所に、伊藤さんは控えめながらも屈託のない笑みを浮かべる。
僕は断る理由が思い浮かばなくて、「わかった」と小さく頷いた。
こうして、僕たちはささやかな約束を交わしたのだった。