5月下旬、全国の中学生は運動部ならば中総体というものが待ち構えているだろう。それに当てはまる僕も、数日後に迫る中総体に向けて所属しているバスケ部で練習に励んでいた。
試合形式で練習を行っていると、なにやらうちの顧問が生徒会長と話をしている。熱血教師と真面目生徒会長の、普段なら絶対に対峙しないであろう光景に気を取られ、シュートを外してしまった。飛んで行ったボールはゴールより下を抜け、ゴール下にいる女子生徒にぶつかりそうになる。
しかし、その子はそれをいとも簡単にボールをキャッチして見せた。
「危な。顔面潰れるかと思った」
ボールをキャッチした女子は独特なワードセンスですぐに月夜だと分かった。これがもし後輩とかだったら、間違いなく謝り倒していた気がする。だからといって月夜に謝らない訳ではないが。
「ごめん、よそ見してた。ぶつかってない?」
「大丈夫。反射神経はいい方だよ」
顔面にはぶつかっていないことにとりあえず安堵する。余談だが、月夜は同級生や後輩からも「かわいい」とか「美人」などと言われる程、学校内では評判がいい。月夜と仲の良い友人が言うには、口を開くと見た目と中身が合致しない「残念な美人」らしい。加えて頼りがいがあり、先生からも期待されている。そんな彼女の顔面を傷つけるのは気が引けた。
「ん?ていうかなんで体育館にいるの?」
吹奏楽部である月夜がこの時間に体育館にいることは本来ないはずだ。コンクールのリハーサルにしては時期が早すぎるし、そもそも楽器を持っていない。
「生徒会の仕事だよ。明日、生徒総会あるでしょ?」
「え?」
「知らなかったな?」
月夜がすごく睨んでくる。あれ明日だったんだ。全然知らなかった。
僕は話題を変えるために必死に頭を回転させた。
「…あ、でも僕ら部活やってるけど、邪魔にならない?」
「いやいやいや、逆にこっちがお邪魔してる立場だよ。リハーサルって言ってもほとんどステージの設営なんだけどね」
「演台とか出すの?手伝うよ」
「海が先生に怒られるじゃん!執行部ある程度人数いるから大丈夫だよ」
「いやほぼ女子じゃん…」
僕らがやいのやいのと言い合っていると執行部担当の先生から体育館部活は執行部を手伝って欲しいと伝達があった。それを聞いた月夜があんぐりと口を開けた。僕はその姿に思わず笑ってしまう。
「ほら、先生もこう言ってるし。手伝うよ」
「中総体近いのに⋯ごめんね」
申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる月夜に頷き、ステージに登る。
「おっとと」
「え?うわっ」
階段を踏み外したのか、またはよそ見していたのか、ステージまで後一歩という所で月夜の体が傾いた。僕は咄嗟に腕を掴む。
「ごめんありがと。この高さから落ちても死なないとはいえ怖いね」
「打ちどころ悪かったら終わりかも。何、筋肉凄いやつでもいた?」
「いつも見てると思わないでくれる?」
月夜は少し顔を赤くしながら、階段を登り切りステージ袖にある演台のそばに行く。手招きされ、僕も反対側を持ちステージ上に出した。
「さっき階段踏み外したわけでも、筋肉見てた訳でもなくて、目眩しただけなの」
「え」
おもむろに口を開いたかと思うと、さらっと心配になることを言われた気がする。僕は思わず声を漏らしてしまった。
「目眩って、え、危なくない?」
僕はこれまで特別大きな病気も怪我も、インフルエンザすらもなったことがない。それも相まって、「目眩」という聞きなれない単語に戸惑ってしまった。
そんな僕の心配をよそに月夜はけらけらと笑う。
「んー、中2の時も症状あったんだよね。夏休みに。最近落ち着いてたから治ったものかと思ってたんだけどな」
「病院は行ったの?」
「行ってないよ。何回か親にも話したんだけど、気のせいだの一点張りでさ。最近忙しいし、多分疲れてるだけだと思うよ。大丈夫」
月夜の言葉に僕は更に戸惑う。だって、普通親っていうのは子供に今までに無い症状が出たら普通心配するものではないのか。病院に行ってみようだとか、少し休ませるだとか、子供思いやるものではないのか。
「親って普通、そういうの心配するもんじゃないの」
しまったと思った時には遅かった。いつもなら他人の親の話を聞いても何も思わないのだが、この短時間に月夜に関しての、色々なことをぐるぐると考えているうちに、知らぬ間に僕の口から言葉が出ていたらしい。
月夜は目を丸くしてから、ほのかに口角を上げた。
「⋯ありがとう」
(ありがとう⋯?)
月夜の返答に僕は思わずぽかりと口を開けてしまった。その姿を見て月夜は驚き、すぐにいたずらっ子のようにくすくすと笑う。
どう考えても辻褄が合わない返答に、僕は少し損をした気分になった。
相変わらず笑い続ける月夜に流石に何か反論しようとすると、顧問が体育館に入ってきた。どうやら夜からの大雨で今日の部活を取りやめるらしい。
「あー笑った。うちらも今日の活動終わりだって。今霧雨なのにね。総会の準備、全然進んでないから本当は残ってたいんだけど…」
「僕も中総体が近いからもう少しやりたいんだけどね。でも帰れなくなるのが一番最悪。」
「だね。私も明日の朝準備するのもいいけど、朝練あるからなー」
話しながらせかせかと荷物をまとめる月夜に釣られるように自分もボールを片付けゴールを元に戻す。生徒会室まで一緒に荷物を運ぼうとしたが、月夜に「海の帰りが遅くなるでしょ」とキッパリ断られた。僕としてはここ最近ずっと忙しそうな月夜に何か手助けをしてあげたいのだけれど。
「あんま無理するなよ」
「え?あ、うん。ありがとう」
体育館からだいぶ離れた生徒会室に向かう月夜に声を掛けると、突拍子のないことを言われたような、まるで自分は全然無理していないと言わんばかりの表情だった。
「じゃまた明日ねー」
笑顔でそう言い踵を返す月夜を見送った後、僕も部室に戻り帰宅の準備をする。そういえば、ありがとうの意味を聞くのを忘れていた。まぁ月夜の事だし、大方話を聞いていなかったとかだろう。僕が体育館から出る頃には、太陽は少しずつ灰色の雲に覆われ始め、先程より雨は強まっていた。