そろそろアイドルタイムが終わる頃だ。須崎さんは夕方の軽食の仕込みを始めた。前島さんは「これを飲んだら、今度こそ家へ帰らなきゃね」と呟いている。

 俺は、松木さん母子に思いを馳せた。この団地に良い思い出がないというのは、淋しい話だ。俺は団地の以前の姿を知ってるわけじゃないけど、子ども時代を過ごしたこの団地がそういう風に思われているのだとしたら、何のためのだれのための再生なんだろう。
 一度出て行ってしまった美久ちゃんのお母さんのような若いファミリー層に戻ってきてもらいたいというのも、この再生プロジェクトに含まれている。
 いくら魅力的に作り変えても、この場所自体に良い思い出がなければどうしようもないんじゃないだろうか。

「マスター。再生くんが何か悩んでいるみたいよ」
「そうみたいですね」
 そう言うと、前島さんは何やら分かったような顔でコーヒーを飲んだ。どうやら俺の考えていることは、前島さんにも須崎さんにもお見通しのようだ。

「ちぇ、俺ばっかりいつも何も分からないんじゃないですか」
「そんなことないですよ。大川君は大川君のアプローチで、この団地を良くしていけば良いと思うんです」
「そうよ。再生くんたちにしか出来ないことがあるわ。環境が人間関係を良くすることだってあるのよ」
「前島さん?」
 めずらしく前島さんがコーヒーカップを伏し目がちに見つめながら言った。いつもは前を向いてしゃっきりしている前島さんなのに。そういえば、ここのところ前島さんの様子が少し変だったことを思い出す。

「不謹慎なことを言っちゃうとね、今の松木さんがちょっと羨ましいって思っちゃったのよ。今っていろいろ選ばないとやってけないでしょ。人生も住むところも使うものも。だから、何も選ばずに目の前にある新しいスポンジに毎日感動している松木さんを見てたらね。羨ましいなって」

 ぽつりぽつりと前島さんが語るのを、俺はコーヒーを飲みながら聞いていた。須崎さんは仕込み作業をしているけど、耳はこっちに傾けているのは分かる。
 前島さんの独白は続く。
「これからたしかにホームとか介護とか、人の力を借りなきゃいけなくなるかもしれないけど、もしこの団地が松木さんにも、松木さんのお嬢さんたちにも住み良い環境に変われば、松木さん母子は上手くいくんじゃないかなって思うのよ。幼稚園や学校が増えて、大きなスーパーが出来て、交通の便が良くなって、高齢者もファミリー層も笑い合える環境に変われれば、きっとね」

 再生くんたちの計画が軌道に乗るのを応援してるわよ。前島さんはそう笑ったあと、そのままの笑顔で言った。