「この団地に、良い思い出がないんです。母はずっと厳格な父の言うことばかり聞いて……、父が死んだあともこの団地に住み続けるって、私の通っていた中学も高校もとても遠かったんです。毎日五時には家を出なきゃいけなくて。何でそんなにこの団地や死んだ父に縛られているんだろうって、母のことを恨んでいました。大学に受かって、私はすぐにこの団地を出て……。母とは疎遠になったまま美久の父親と出会って、入籍だけはしたんですけど、それすらも母には事後報告で。美久が生まれた時と、美久の父親と離婚した三年前、幼稚園の入園式。顔を合わせたのはそれくらいでした」

 そう一気に言うと、残りのコーヒーを飲み干す。美久ちゃんのお母さんも辛い思いを抱えてきたのは分かった。だけど。
「でも、松木さん物忘れの症状があることには気づいたんでしょう? もしサービスや施設が嫌だったら、ここに引っ越して近くで様子を見るとか出来るんじゃないですか?」
 他人にどう思われるか気にしない俺の性格は、須崎さんと会ってだいぶ丸くはなったが、別になくなったわけでもない。松木さんと仲が良くはなかったとしても実の親子なんだから、一緒に住めば解決する話なんじゃないのか。
「大川君」
 カウンターの中から、須崎さんが少し強めの口調で俺の名前を呼んだ。それ以上はやめておきましょう、という意味だということは分かっている。俺もそれ以上言葉にすることはせずに黙った。

「……そうですよね。今回のことも含めて皆さんには本当に助けていただきありがとうございました。母の様子も心配なので、一旦家へ戻ります。あ、コーヒーとジュースのお代」
「お代は要りません。今は休憩時間なので」
「でも」
「ああ、そうしたらひとつお使いを頼んで良いですか?」
 須崎さんはそう言うと、時折福留さんへのお土産に使う350ミリリットルの耐熱ボトルを棚から取り出して、サーバーに残っていたコーヒーを注いだ。
「あ、もしかして松木さんもモカなんですか?」
「そうなんです」
「私もモカ派」
 前島さんが口を挟み、須崎さん、俺、前島さんの考えが通じ合った。
このサ店の常連は、須崎さんが淹れてくれる自分のコーヒーから何かしらの力をもらっている。俺はマンデリン、福留さんはバラコ、森本さんはエメラルドマウンテン、前島さんもきっとモカで元気をもらっているのだろう。そして松木さんと娘さんもきっと。

 二人は松木さんの家へと戻って行った。サ店には須崎さん、俺、前島さんの三人が残る。