「松木……? 松木さんてもしかして」
「もしかして、母をご存じですか?」 
 俺と須崎さんは顔を見合わせた。この団地で知っている松木さんと言えば、一人しかいない。

 美久ちゃんのお母さん……松木さんの娘さんは、少し言い淀んでから重たそうに口を開いた。
「私は離婚して美久を一人で育てているので、松木姓に戻っているんですけれど……お恥ずかしい話なんですが母とあまり仲が良くなくて、たまに孫の美久を会わせに来るくらいしか縁がないんです。だから、母が……母の物忘れがここまで酷くなっているなんて知らなくて……」

 話を要約すると、久しぶりに孫の美久ちゃんの顔を見せに松木さんの家へやって来たら、あまりに部屋の中が片付けられていなかったので、掃除をしている間美久ちゃんを公園へ連れて行ってくれと松木さんに頼んだところ、一時間ほどして松木さんが一人で戻って来たらしい。
「お母さん、美久は?」
「美久ちゃん? 美久ちゃんも今日来てくれているの?」
「え、お母さんに美久を公園に連れて行ってくれるように頼んだじゃない。美久はどうしたの?」
 噛み合わない会話に驚いた美久ちゃんのお母さんは、慌てて美久ちゃんを探しに出てきたのだそうだ。

「母の様子もそうなんですけど、美久が団地の外に出てしまったらと思うと気が気じゃなくて……」
 柘植の木団地はいくつかの棟で出来ている。それ自体が壁のように団地の敷地を囲んでいて、併設の小さなスーパーの先は大きな道路になっている。道路を渡った先をしばらく歩くと、ようやく最寄り駅の地下鉄の入り口が見えてくる。本当ならもっと団地の近くまで伸びるはずだった地下鉄だ。
 つまり、小さい子どもが一人になると、かなり危険な状況が増えるということだ。
 
「団地から外に出たら危ない。警察を待っているより、とにかく手分けして探しましょう」
 いつになく早口な須崎さんの言葉に、俺は頷いた。と、そこへ、
「どうしたの、みんな揃って。あら、松木さんとこのお嬢さんじゃない。来てたのね、こんにちは。美久ちゃんは?」
 と、よく耳にする声が聞こえた。前島さんだ。
「あれ、前島さんどうしたんですか?」
「卵買い忘れちゃってね、卵だけ買いに来たのよ。ところでどうしたのよ、顔が怖いわよみんな」

 俺は前島さんに、経緯を簡単に説明した。美久ちゃんのお母さんと須崎さんは他のところを探し始めている。
「大変、私も手伝うわ。卵はサ店に置かせてちょうだい」
「店先にベンチがあるんで、そこに置いておきましょう。でも、前島さん大丈夫ですか? ご主人、家で待ってるんじゃ?」