「それで、大迫さんが直接噂を流したのかは分からないんですけど、マスターがいづらくなる空気を作った中には大迫さんもいたみたいで。ここで再会した時にマスターは気づかないふりをして、それ以来お互いがお互いに気づかないふりをしているというか」
「なるほど面倒くさいですね」
 森本さんがズバッと切り込む。たしかにその通りだ。来たばかりの頃の俺もきっとそう思っていた。
「だけどまぁ何か、ふたりにしか分からないタイミングもあるのかなぁ……なんて」
「再生君も大人になりましたね」
「茶化さないで下さいよ」
「茶化してませんよ、褒めてるんです。それにしても、大迫さん大したことないといいんですが」
「ほんとっすね」

 幸いなことに須崎さんの不在時にお客さんが来ることはなかった。CLOSEにしたドアが開いて、額に汗びっしょりかいた須崎さんが帰ってきた。
「一旦帰ってきました」
「一旦って……とりあえず座って下さい。タオルタオル。汗拭いて。水飲んで下さい」
「大川君ありがとうございます」
「コーヒーじゃなくてすいません」
「今は水が助かります」
 須崎さんらしからぬ動作でグラスを掴み、中の水を一気に飲み干した。俺がピッチャーから水を注ぐと、それもまた一気に飲む。よほど喉が乾いていたらしい。
「ちょっと大変なことになりました」
「何があったんですか?」
 森本さんの冷静な言い方に、少し落ち着いた様子を見せた須崎さんは、折りたたまれた診断書を広げて、深呼吸をした。いつもと違う須崎さんの慌てぶりに、俺たちも姿勢を正す。
「大迫君は脳梗塞でした。クリニックでは治療が出来ないので、津下大学病院を紹介されました。大学病院は今からすぐ手術可能だそうです。ご家族は近くにいらっしゃるか分からないので、とりあえず僕が法定代理人になって手術の同意をしました。すぐに救急車を手配してくれるそうなので、今からそれに乗って付き添ってきます。ふたりには申し訳ないんですが、ここのガスの元栓など閉めてもらって、鍵の管理をしてもらえますか? 手術が終わったらまた連絡します」
「分かりました。こっちは私と大川に任せて、須崎さんはすぐに大迫さんの方へ行って下さい」
「ありがとうございます。じゃあ行ってきます」

 バタンとドアが閉まり、バタバタと須崎さんの急ぐ姿が窓から見えた。
「脳梗塞……ってヤバいんすか?」
「大川君、市役所職員で、しかもこの団地担当なら知っていて当たり前ですよ。日本人の死因の上位を占める三大疾病のひとつです」
 ギロリと銀縁の眼鏡が冷たく光って、俺の背筋に一滴の汗が流れた。