「マスターのおかげと言っても過言ではありません」
「え、マスターが?」
「マスターは覚えていらっしゃらないかもしれません。レストランでシェフをされていた頃の話ですので」
 と、森本さんは植え込みのイヌツゲに目を遣った。少し懐かしげな目つきだ。
「マスターの淹れてくれたエメラルドマウンテンは、フルーツのような甘みと深いコクが特徴で、チョコレートを使ったケーキと相性がとても良かった。あの時の感動は今でも忘れられません」
「そんなことがあったんですね」
 なるほど。そんな思い出があるのなら、須崎さんの名前を見て森本さんが興奮したのも頷ける。
「ですが、ある時を境に、マスターの姿が世間から消えてしまったのです」
 森本さんの口調が少し重たくなった。ある時というのは、須崎さんがお店のスタッフからやっかまれて辞めざるを得なくなった時のことだろうか。
「常に一人で活動してきた私にとって、マスターのいたビストロ・ヴァバールは、非常に居心地の良い場所でした」
 銀縁眼鏡の奥が少しだけ翳ったように、俺には見えた。

 店の外は、静かないつもの団地。店内からは、前島さんを中心とした婦人勢の笑い声が聞こえてくる。昼食作りや家事の合間のひとときを、サ店で過ごすのがいい息抜きになるんだそうだ。
 そんなコントラストを何となく感じながら、俺は森本さんとベンチに座ってコーヒーを飲んでいる。

 サ店が団地の住民にとって憩いの場となっているように、森本さんにも、須崎さんの店に思い入れがあるようだ。
 何というか、須崎さんは居心地の良い場所を作り出すスペシャリストなんだろうな。そんなことを本人に言ったら、またしどろもどろになりそうだけど。

「その通りです。マスターがこの柘植の木団地で喫茶店を開いてくれたら、絶対に成功すると思ったので、猛プッシュしたのです」
「さすが、森本さんの企みが当たったわけですね」
「企み?」
「ああいえいえ、策略……いやいやアイディア、そうアイディアです」
 またもや口が滑った。森本さんにひと睨みされて冷や汗が出る。

「まあ大川君の言う通り、狙ってはいましたが」
 森本さんも本気には取らないでくれたようで、ポーカーフェイスに戻るとコーヒーをひと口すすった。

「さっきも言った通りマスターは恩人ですから、再生プロジェクトを別にしても、こうしてまたマスターのコーヒーが飲めることは嬉しいです」
「マスターのレストランで、そのコーヒーと出会ったって言ってましたね」