福留さんのぼやきには答えず、須崎さんは手を貸しながらゆっくり店へ歩き出した。俺は二人が入りやすいようドアを開けて待つ。須崎さんは俺に小さく頷くと、入り口に一番近い席へ福留さんを座らせた。

「お水にしますか?」
 マスターの顔に戻った須崎さんは、普段通りの口調で福留さんへ話し掛ける。俺は居心地の悪い思いで、少し離れた席に座った。

「いつもの入れてくれるかい」
「かしこまりました」

 須崎さんと福留さんと俺しかいない店内に、強めの香りが広がる。三人とも何を喋るでもなく、ただ静かにコーヒーの音を聴いていた。

 しばらくして、カチャカチャとコーヒーカップの立てる小さな音とともに、福留さんのテーブルに例のバラココーヒーがそっと置かれた。
「大川さんのコーヒーは今淹れますね」
 カウンターに戻りしな、須崎さんがさり気なく俺に声を掛けた。

 大川さんのコーヒー……俺のコーヒーか。

 何気ない一言が、サイフォンを上下する一滴のように俺の脳裏を巡った。
 他人にどう思われようが気にしたこともないし、他人を気に掛けるイズムも持ち合わせていない俺だが、須崎さんの何気ない一言は意外にも胸にストンと落ちていく。コーヒーの香りのことをアロマと言うらしいが(森本さんに教わった)、まぁ小洒落たことを言うなら言葉のアロマといった感じか。

 ガラにもないことを考えているうちに、俺の前にもコトリとコーヒーカップが置かれた。おかげで居心地の悪さも少し減る。コーヒーを口にしながら、二人の様子を伺うことにした。

 目を閉じてコーヒーを味わう福留さんは、もう落ち着いた様子だ。一呼吸置いて、須崎さんが福留さんの目の前の椅子にそっと腰掛けた。まるでそれが合図だったかのように、福留さんが口を開いた。
「マスターよ。こないだはあまり答えられなくてすまんかったな。ちょっと考えるところがあってよ」
「いいえ。ゆっくりお考え下されば良いと言ったのは僕ですから」
 
 数日の間に、須崎さんは福留さんに何かを聞いていてくれていたらしい。ちゃんと動いてくれていたことに俺は感謝しつつ、福留さんに分からないよう小さく頭を下げた。それを見た須崎さんが目配せを返してくれる。

「今日は、ちょっくら話してみる気になってな……バラコはさ、俺の思い出の味なんだ」
 独り言なのか、なんなのか。福留さんは須崎さんに話しかける風でもなく、目を閉じたままだ。須崎さんも無言でただそこに座っている。
 果たして須崎さんの言う「福留さんが行政に頼りたくない理由」が分かるんだろうか。

「若い頃の話さ」