「今日はダメかしらねぇ。また出直しかな。大川君ありがとう。また次もお願いしますぅ」
「分かりました。お疲れ様です」

 林さんとはそこで別れた。俺は団地の管理組合と打ち合わせをしてから職場に戻る……前にサ店で一杯やっていくか。

カランカランカラン。
平日はなるほどこんな感じか。夕飯の買い物ついでだろうか、老齢の女性が二人、買い物袋を足元のかごに入れて一休みといった感じだ。団地の住民は基本的に遅くまで出歩きはしないだろうから、サ店の閉店時間もそろそろといったところだろう。
 俺も職場に戻ってやり残した仕事を片付けないといけないから、そんなにゆっくりも出来ないな。なんて思いながらメニューの書いてある黒板を探す。あ、今日の日替わりコーヒーはグアテマラか。

「いらっしゃいませ、マンデリンもご用意出来ますよ」
 え、なんで分かったの? 探偵ですか?

「よく分かりましたね」
「余計なお世話だったらすみません。先日とても美味しそうに飲まれていらしたので、気に入って下さったのかなと」
「さすがです。あの、聞きました。以前ビストロのシェフをされていたとか」
「……あ、あぁ。ええ、まぁ」

 あれ、歯切れが悪いな。須崎さんの表情に影が落ちたのに気がついた。触れられたくない話題なのか。まあ有名(らしい)シェフの座をなぜだか捨てて、こんな過疎団地の店舗に応募したんだ。わけありに決まっている。これ以上話をする雰囲気でもない、俺はそれ以上会話を続けるのは止めた。

 買い物帰りの女性客二人が店を出て行くと、途端に店内は静かになった。BGMもFMも流れていない。コーヒーのための音だけが辺りを浮遊し、壁に吸い込まれていく。
 コーヒーに音があるなんて、俺もずいぶん詩的なことを考えるじゃないか。この店の空気がそうさせるのか。いや、この空気の元はきっとマスターである須崎さんだ。愛想やうわべで取り繕わず、その人が美味しいと心から言えるコーヒーのことだけを考えているんだろうな、と思わせる。

 俺は、そうやってひとつのことにじっくり向き合ったことがない。進学も、就職も、人付き合いも、目の前にあるものをひょいと手に取ってきただけだ。それで困ったことは今まで一度もなかったし、たぶんこれからも困らずに生きていける。面倒くさいことは嫌いだし、深く考えることもない。それで良いと思ってきた。

 現に、今の役目だって代えてもらえるならばすぐにでも代えてもらいたい。会いたくないと拒否しているおじいさんに会えだなんて、面倒くさいことこの上ない。