翌朝、オレはテレビからきこえてくるうるさい声で目を覚ました。
見ればベッドで千夏がリモコン片手に座っていた。
「ああ、コウ。おはよう。ずいぶんとぐっすりだったね」
敷いていた布団から起き上がってなお目の前にいる千夏を見て、オレは彼女が夢幻の類ではないことをあらためて実感する。
十五歳の姿をした幼なじみ。オリジナルが抱えていた心残りの結晶。願いを遂げると消えていなくなるドッペルゲンガー。
「どうしたの? ぼーっとして。もしかして、見惚れてる?」
「べつに」
「見惚れてたんでしょ? ずっと好きだった幼なじみの姿をしたわたしに」
「ああ、そうかもな」
「それくらいの軽口を本物の千夏にも飛ばせられたらいいのにね」
「うるさい」
白い歯を覗かせて笑いながら、千夏はベッドから立ち上がって言った。
「ほら、準備して。出かけるよ」
「出かける? どこに?」
「レンタルショップ」
露骨にいやな顔をするオレを見て千夏は眉を寄せる。
「言ったでしょ。これからのことはわたしに任せてほしいって」
「店まで出かけるのもオレを今よりマシな人間にするためなのか?」
「もちろん」
そう言われてしまっては断る理由が思いつかない。
ちょっと出かけたくらいでオレのなにかが変わるようには思えないけれど、他でもない千夏の分身であるところの彼女が言うのだから、きっとなにかしらの展望はあるのだろう。
「ちなみに、なに借りにいくんだ?」
「サメ映画」
「……」
きけば、五年前の千夏をトレースして生まれたドッペルゲンガーの彼女にはその後出ているサメ映画の知識がないらしく、それを鑑賞して造形を深めておきたいらしい。
あまりにも自分本位な理由で、オレの中にある彼女への信頼がさっそく揺らいだ瞬間だった。
「借りてどうするんだよ? この家にはパソコンなんてないぞ」
「プレ2があるじゃん」
そういって千夏はクローゼットを開けて奥から埃塗れのプレステを取り出してくる。
「おまえ、また勝手に……!」
「あったよね? DVD見る機能」
「……はあ」
オレはため息交じりに頷き、千夏に促されるまま手早く顔を洗って家を出た。
洗面台の鏡に映ったオレの顔つきは、心なしか昨日よりマシに見えた。
†
家から最寄りのレンタルショップまでは十キロ以上の距離があった。
千夏は駐輪場に留めてあった自転車の荷台に腰かける。
「……漕ぐつもりはないんだな」
「つもりはあるよ。ただ、漕ぎたいのかなって思って」
オレはスタンドを蹴り上げ、勢いのままサドルに跨り漕ぎだした。
「…………くそ、くそ……っ!」
走り始めて数分で足が重くなり、息があがった。
はじめての二人乗りは想像以上にきつくて、物語のように前を向いて風に吹かれながらススイとはいけそうになかった。おまけに昨日金魚の墓を作った分の疲労もしっかりと身体にダメージを残している。
「おまえ、ちょっと重すぎるんじゃないのか?」
「三十五キロ」
「……わからん」
「軽いほうだっての」
パン、と背中を叩かれたオレは腰を浮かし、立ちこぎで自転車を飛ばす。
店に着く頃には、オレの服はびっしょりと汗で濡れていた。
「ごくろうさま」
ぴょん、と荷台から降りた千夏はいそいそと店の中へと入っていく。
「……それだけかよ……」
膝に手をつき息を整えてからオレは千夏のあとを追った。
階段をあがり、CDコーナーを通り過ぎてDVD棚の間に千夏を探す。
「……ったく。どこいったんだあいつ」
呟いて、ふいに自嘲めいた笑みが込み上げてくる。
俯瞰してみればおかしな話だ。
オレは今、突然目の前に現れたドッペルゲンガーを探している。
それが妄執や幻ではないことは確認しているけれど、土台が不確かな存在だ。
目を離した瞬間ふっといなくなって、全部なかったことになってしまうことだってありえるかもしれない。
そうなったとき、オレはなにを思うのだろう?
なにかを、思えるのだろうか?
そもそもオレが探すべきなのはドッペルゲンガーではなく本物の千夏のほうなんじゃないか?
「……」
気がつくとオレの足は止まっていた。
「コウ」
背後でオレを呼ぶ声がきこえた。
ドキリとして振り向いたオレのまえには、十五歳の千夏が不思議そうな顔をして立っていた。
「なにしてるの? そんなとこで」
「……いや」
「そうだよね。コウは、入れるもんね」
「は?」
オレの背後ではピンク色ののれんがエアコンの風で揺れていた。
「バカ。そんなんじゃねえよ」
「またまた」
千夏は自然なしぐさでオレの腕をとって言う。
「ねえ。入ってみよっか?」
どうせまたからかっているのだろうと呆れるオレに、千夏は思いのほか真剣なまなざしを向けていた。
「興味はあったよ、昔から。引かれちゃうだろうからもちろん口には出さなかったけど」
「おまえはまだ入れないだろ」
「制服着てるわけじゃないし。赤の他人からしたら十五歳も二十歳も見分けなんてつかないよ」
「……本気なのか?」
「どう思う?」
千夏は曖昧に首を傾げる。
彼女の視線は落とされていなかった。
少なくともウソを吐いているというわけではないようだった。
ただ、ウソでなくとも冗談の可能性はあった。
だからオレにはなにも答えることができなかった。
「……なーんちゃって」
やがて千夏はくるりと踵を返してオレをどこかへ引っ張っていく。
「そういうとこだよ、コウ。自分で答えを出せないところ」
「アレとコレとは違うだろ」
「一緒だよ」
「今回のはおまえの気持ちの話だ」
「だけどあの日もわたしの気持ちがわからないからって、いらない逡巡してたんでしょ。そういうところがダメなの。千夏的には」
「……じゃあ、ちなみに正解はなんだったんだよ?」
「わたしを強引にのれんの向こうまで引っ張り入れる」
「千夏的に良くても人としてダメだろ」
「それくらいの強引さで気持ちを決定づけてほしいときだってあるの」
千夏はオレの腕から手を離し、棚の前に置いてあったカゴを持ち上げる。
「どれがいいと思う?」
カゴの中で山のように積まれたDVDのパッケージはどれもデカいサメか水着の女で統一されていた。
「こんなにいっぱい、どこにあったんだよ? アクションのとこにもコメディのとこにもいなかっただろ」
「サメ映画はホラーだよ」
「ホラー」
反芻して苦笑しながら裏のあらすじをざっと確認して目眩に襲われた。
二足歩行のサメが銃を乱射したり、人語を習得したサメが言葉巧みに人を騙して襲ったり。
なんというか、既に食らい尽くしたジャンルで溺れてもがいているような映画ばかりだった。
「どれがいいかな? 個人的にはこの『八百万テールシャーク』とかいいと思うんだけど」
「どれも結局サメが人を喰うんだろ?」
「その過程がちがっておもしろいんだよ」
「オレにきかれてもなんの造詣もないぞ」
「だって全部は借りられないし」
「……ああ、そう」
そういえば、金を払うのはオレだった。
一応、そのあたりを気にはしてくれているらしい。
「これも訓練だよ」
「訓練ってなんの?」
「意気地なしで優柔不断の真中コウから卒業するための」
オレはトートバッグから取り出した財布を覗く。
そしてため息をひとつこぼして、千夏からカゴを受け取った。
†
「だからコウはダメなんだよ」
自転車の荷台で千夏はふくれていた。
その手にはDVDを入れた袋がいくつも下げられている。
「どれかって言ったのに。まさか全部借りちゃうなんて」
「見たいのが見られるんだからいいだろ」
「これじゃコウの訓練にならないじゃん」
「あてずっぽうで選んだやつの出来に文句言われたってかなわない」
「だから、そういうとこ」
「訓練にならなくても、ちゃんと更生の一歩にはなってるよ」
重たい自転車のペダルを漕ぎながらオレは言う。
「こうして大学以外のところに向かって自転車を漕いだのはずいぶんと久しぶりだ」
一応実家から持ってきておいた自転車はすぐに乗ることがなくなって一年が経ち、錆びついていた。
だから余計に疲れるのかもしれないなどと思いながら、しかし、オレの心は明るかった。
引きこもってただ浪費するだけだった毎日に、すべきことができた。
それだけのことで不思議と希望的な気持ちが湧いてくる。
千夏に家から連れ出されるまではそれくらいのことでなにかが変わるようには思えなかったけれど、いざ出てみればそれくらいのことでオレの心はいくらか持ち直していた。
「わたしがくるまで、コウってそんなに悲惨な生活してたの?」
「自慢じゃないが、昨日と今日おまえと話した時間だけで高校に入って以降、オレが人と話した時間の総計分くらいに値する」
「うん。たしかに全然自慢じゃないね。中学生のときはそんなじゃなかったのに」
「フタが落ちてきたんだよ」
「フタ?」
信号が赤になり、オレは足をつけて自転車を止める。
「あの日、おまえに結局なにも言えなくて。そんな自分に絶望したら、ふいに未来が見えた」
「なにそれ。透視じゃん」
「花火があがったとき、おまえにだって見えてたんだろ? あのままずっとなにも言えないオレの姿が」
「まあね」
「一緒だよ。オレにも、オレの限界が見えた。自分にできることとできないことが、あの日ハッキリとわかっちまった。オレは生涯金魚を掬い続けて大事なことから目を逸らす。そうしてその大事なものが目の届かないところにいっちまってようやく後悔して、未練がましく思い出に縋って自分を慰め続ける。そんな自分が見えちまったら、期待なんてできないだろ?」
「それが、フタ?」
「ああ。未来の自分を決定づけるフタ。天井みたいなもんだ」
「だからコウはあの日からちっとも成長できてないんだ」
「まあ、そうかもな」
信号が青になり、再び自転車を漕ぎだそうとするオレの服を千夏が引っ張る。
「コウ。喉乾いた」
「我慢しろよ。家に帰れば麦茶が冷えてる」
「あそこ」
と、千夏が指さしたのは『コーヒー一杯五十円』ののぼりを掲げた喫茶店だった。
「……わかったよ」
オレは店の前に自転車を停め、テキトーな席に座ってメニュー表を広げる。
「なにがいい?」
「ブラック」
即答する千夏にオレは言った。
「べつに背伸びしなくていい。おまえがホントは甘党なことくらい知ってる」
「背伸びなんてしてない」
「千夏ならともかく、おまえはドッペルゲンガーなんだから」
「でも、本物の千夏らしく、でしょ?」
千夏は自分の意志を曲げる気はないようだった。
昔から強情というか、弱みを見せようとしないやつだった。
ムリしてブラックコーヒーを飲むという上辺の行為だけじゃなくて、そういう心の機微まで忠実に彼女は千夏をトレースしている。
「……ったく」
やってきた店員に千夏はブラックコーヒーを頼み、オレはカフェオレをオーダーする。そういえば昼食もまだだったと、ミックスサンドも一緒に。
「コウ」
汗で濡れた服をエアコンの風で乾かしていると、机に肘をついた千夏が言った。
「わたしはべつにあの日、コウの全部がきらいになったわけじゃないんだよ?」
「それはまあ、そうなんだろう。じゃなきゃ千夏が未だにオレのことを思ってくれてることの説明がつかなくなる」
「うん」
「でも、オレはあの日オレの全部がきらいになった。というより、あの日からのオレが、オレはずっときらいだ」
千夏に好きだと言えなくて。そのことをずっと後悔して引きずり続けている。
まさにあの日見えた未来そのもの。
オレの歩みはあの日からずっと止まっていて。“許せない自分”からちっとも脱せてはいない。
「今のオレからしたら、むしろ千夏はこんなオレのどこを好きでいてくれたのかわからないくらいだ」
「そういう卑屈なところは、はやく治さないとね。似合わないから」
千夏はクスリと笑みをこぼして言葉を落とす。
「コウが思ってるより、コウのいいところはたくさんあるよ」
「たとえば?」
「ムリしてカッコつけるところとか」
「ムリがバレてたらカッコよくないだろ」
「そうだね。カッコよくはないけど、愛おしいなって思うよ」
千夏の表情はほどよく弛緩していて、普段は上向きの目尻がとろんと垂れていた。
「……どうしたの? コウ」
オレは、服の端を抓んだまま固まってしまっていた。
あまりにもまっすぐに伝えられた好意は、オレの思考を鈍化させる。
思えば、だれかに肯定されたことなんて、あの日以来一度としてありはしなかった。
他でもない自分自身で、自分を否定し続けていた日々だったから。
「……おまえはそんなふうにオレのことを見てくれてたのか」
「わたしっていうか、千夏がね」
ドッペルゲンガーは言葉を繕う。
しかしそうして感情を言葉にする彼女は、まぎれもなく十五歳の千夏の姿をしていた。
「金魚埋めるときにひとりで土掘り起こしてくれたときもそう。自転車がんばって漕いでくれてるのもそう。コウの見た目や生活はたしかに昔よりひどくなってるけど、そういうところは変わってなくて、わたし、安心したんだよ?」
「誉められてるのか?」
「誉めてはないよ。ただわたしがうれしかったってだけ」
「なんだよ」
「わたしがうれしいってことは、千夏がうれしいってことなんだから。そこは変えなくていいんだよ」
「ならオレは、背伸びしてるのがバレてるってわかってておまえの前で背伸びし続けなくちゃいけないのか」
「そういうことだね。べつに苦じゃないでしょ? いつもやってることなんだから」
「まあ、そうかもな。スマートにカッコつけろって言われると、キツイかもしれないけど」
「そうそう。スマートな気遣いができるコウなんて逆に気持ち悪いよ」
ひどい物言いだと笑っていると、店員が小皿とグラスを二つ運んでくる。
いただきます、と手を合わせて千夏はたまごサンドを一口。
「うん。おいしい」
そう言いながらグラスを手にした千夏の口からポタポタと流れ落ちていくブラックコーヒー。
千夏はグラスを傾けたままプルプルと顔を震わせていた。
どうやら缶コーヒーとは一味違う店の苦みに舌をやられたらしい。
「心地いい苦みがクセになるよね」
余裕ぶったコメントをする千夏の目にはほんのり涙が滲んでいた。
あまりにもムリが透けてしまっていて。オレは思わず声を出して笑ってしまった。
「なにが可笑しいの?」
「わるいわるい」
あくまで平生を装うとする千夏に謝りながら、オレは気づく。
千夏がオレの背伸びを好意的に捉えてくれているように、オレもまた千夏の背伸びを可笑しく思っている。愛おしいと思っている。
これはこれで、いい関係なのかもしれないと思った。
けれどさすがにかわいそうなので、オレはツギハギの覗ける助け舟を出す。
「なあ、オレ、頼んでからやっぱりそっちが飲みたくなったんだけど、交換とかしてくれたりしないか?」
千夏はグラスを机に置いて目を細めた。
そして真っ黒のコーヒーとカフェオレを見比べて、言った。
「…………コウもようやく飲めるようになったの? ブラック」
「ああ。二十歳を目前に控えて、ようやくな」
「ふーん。じゃあまあ、いいよ。特別ね」
千夏は机のグラスを取り換える。
普段であれば余計な気遣いだと拒否しただろう。オレの提案を呑んだということは、つまりそれだけここのコーヒーが苦くて飲めたものではなかったということだ。
「うん。たまにはカフェオレも悪くないね。わたしにはちょっと甘すぎるけど」
そんなことを言いながら千夏はカフェオレを啜ってうれしそうに顔を綻ばせていた。
「そりゃよかった」
オレは会話の間に渡されたコーヒーを一口。
「……」
その苦さに、思わず口の端からそのままソレを垂らしてしまった。
「…………苦すぎる」
一応、ブラックを飲めるようになったのは本当だけど、元々好きな部類ではない。
そこに加えてこの店のはちょっと嫌がらせかと疑ってしまうくらいに苦くて、飲み干すにはしばらく時間がかかりそうだった。
「残す?」
「まさか」
オレは覚悟を決めてグラスに口をつける。
そのとき、千夏がボソリと呟いた。
「そういえば、間接キスってやつだね」
驚いて一口にコーヒーを流し込んでしまったオレは、口の中で充満した苦みをゴクンと飲み干して千夏を見る。
「全部飲めたじゃん」
そういって笑う千夏を見ていると、どうしようもない懐かしさに駆られた。
†
サンドイッチもたいらげたオレたちは上機嫌で店を出る。
「コーヒーはともかく、サンドイッチはとってもおいしかったね」
「ああ。コーヒーはともかく、サンドイッチはうまかった」
「どれがよかった?」
「ハムかな」
「わたしはたまご」
そう言って自転車の荷台へと跨る千夏に、オレは尋ねた。
「今日はもうこれで終わりか?」
「そうだね。サメ映画もたくさん借りたし、はやく履修しないと」
「やっぱりただおまえが映画見たかっただけなんじゃないのか?」
「だったら怒る?」
「べつに。いいけどさ」
冗談めかした笑みをこぼす千夏をすこしの間見つめて、オレはふと思いつく。
「服、買いにいくか」
「え?」
「ずっとオレの服ってのも、嫌だろ?」
「べつに。わたしはいいよ。動きやすいし」
それに、と千夏は言葉を続ける。
「コウもうれしいでしょ。わたしに服を着てもらえて」
「そうだな。替えの服はそれ一着しかないから、ずっと洗わずにいられるしな」
飄々としていた千夏の顔が次第に青ざめていく。
「……まさかとは思ってたけど……ホントにコウ、二着しか服持ってないの?」
「一人暮らしなんだからそんなに何着もいらないだろ。冬は上からダウンでも羽織れば越せるし」
「……それは、キツイな」
神妙な面持ちで千夏が呟く。
「でも、悪いよ。そんなにお金ないんでしょ?」
「DVDまとめ借りできるくらいには持ってるぞ」
「ウソ。ないのに見栄張ったんでしょ」
「……オレにもなんか、ウソ吐くときのクセとかあるのか?」
「なくてもわかるよ。幼なじみなんだから」
そういってから、彼女は「まあ、幼なじみのドッペルゲンガーだけど」と付け足した。
「心配しなくてもそんな高いのは買わないよ」
「そっちのほうが、コウもわたしのこと本物の千夏だって思いやすい?」
「……まあ、そうだな。千夏は活発だったけど、一応スカートとか履いてたからな」
「わかった」
コクンと頷く千夏を乗せて、オレは近くのアパレルショップへと向かった。
自転車を停め、店の中へと入るなりフライドチキンを頭に乗せているみたいな髪をした女が絞められている鳥みたいな声で話しかけてくる。
「ぴらっちゃいませぇー。ごカップルさんですかぁー?」
それをきいてどうするんだという疑問をぐっと飲み込んで、オレは千夏と顔を見合わせる。
やがて千夏はクスリと笑って「そうでーす」とテキトーな返事をした。
店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔で笑って勝手にオレたちをペアルックのコーナーに案内する。
店員を振り切ろうと二段階右折するオレの腕を引っ張って、千夏は壁に張られたチラシを指差した。
『大特価! カップル割り!』と書かれたチラシによると、カップル限定でペアの服が九割引きらしい。
「ふざけた企画だ」
「安くしてくれるんだからいいじゃん」
「そのために恋人らしくやれってか?」
「予行練習だと思って」
オレは長いため息を吐いてから、腹を括った。
「おっ」
千夏の手に腕を絡め、歩調を合わせて隣を歩く。
「五年前にもそれができたらよかったのにね」
「ホントにな」
白い歯をのぞかせて笑う千夏に店員がペラペラしゃべりながら様々な服を渡していく。
オレは千夏を試着室に見送ってその場で待機することにした。
千夏が気に入ったものにオレが合わせればいいと思ったからだ。
「ふう」
店員の女がくたびれたように息を吐く。
合わせてなにか白い煙のようなものが目の前を覆って、様子を窺ったオレは驚いた。
女はどこからか取り出したタバコを口に咥えて一服していた。
「なに? いいじゃないか。タバコの一本くらい」
目を点にしているオレに気づいたのか、女はどこかのだれかみたいな人を喰った物言いでつらつらと言葉を落としていった。
「面接のときは服売るだけでいいって話だったのに、いざ働き始めたら、売るために話し方、装いまでブランディングするのがあたりまえだときた。まったく、ニコチンでもとらないとやってられない」
「いいんですか? そんなことオレに話して?」
「話してるんじゃない。これはただのひとりごとだ」
「ひとりごとでもバッチリきこえてるんだけどな」
「ならこれは愚痴になるかな?」
「そうですね」
「だったら互いに相手の秘密を黙っておくことでウィンウィンの関係を築いておこう」
「互いって? オレのなにを知ってるっていうんですか?」
「恋人じゃないんだろ?」
ぷかーと吐かれた煙が天井の通気口に吸い込まれていく。
「歳の差五つってところか」
「五歳差なんてよくある範囲じゃないんですか?」
「そりゃそうだが、今年で成人しそうなキミが未成年に手を出したら犯罪だよ」
それに、と彼女は言葉を続ける。
「キミはべつに好きな人がいるって感じの顔をしてる」
「どんな顔ですか」
「こんな顔」
女はどこからか手鏡を取り出してオレに向けた。
なるほどたしかに、今のオレの顔には戸惑いが滲んでいた。
「いいさ。わたしもこの店のオーナーはキライだから、騙されてあげるよ。好きなだけ恋人の真似事をして、できるだけ原価割れに近づく買い物をしてってくれ」
くっくっくっと喉を鳴らして女が笑っていると、試着室のカーテンが開かれる。
奥には胸にワンポイントをあしらった丈の長いTシャツを着た千夏が立っていて、オレに向かって首を傾げながら感想を求めていた。
数ある中からそれを着ているということは、既に千夏の中ではアレに決まっているのだろうに。いかにも恋人の意見を窺うような素振りの千夏に、オレは苦笑しながら彼氏のフリで返す。
「似合ってる。それにしなよ」
「うん」
「うぉきゃくさまはぁーん。そちらもお似合いですがぁ、もっと元値がお高いやつのほうが店にダメージを……お得なお買い物になりますがはぁーん?」
「これが、いいです」
「……ああ、そう」
女は残念そうにため息を漏らしてから、シャツに似合いそうなスカート数点を千夏に渡す。
そして千夏がカーテンを閉めると同時にまた隠し持っていたタバコに口をつけた。
「どうしてあいつのまえではちゃんとやるんですか?」
「そりゃ一応、お客様だから」
「オレもなんですけどね」
「キミはウソ吐きなお客様だけど、彼女はちがうだろ」
「オレはあいつのウソに乗っかっただけですよ」
オレの言葉に、女はどこか呆れた様子で一笑した。
「シュレディンガーの夏」
「え?」
「彼女からしてみれば、カーテンを開けてみるまでそこにどんなわたしがいるかわからない。店員をやってるわたしかもしれないし、店員であることをキューケイしてるわたしかもしれない」
「まあ、そうですね」
「だけどキミは変わらずにいるだろう。よくもわるくも、そのままのキミが」
「すいません。たしか、物理学ですよね? オレ、詳しくなくて」
「ただの人生学さ」
女はタバコを店の床にポイ捨てすると、ヒールで潰して火を消した。
それをさっさと隅によけて、カーテンを開けた千夏をへつらった笑顔で迎えるのだった。
「まもなく青年になる少年。キミが可能性のカーテンを開けるときをたのしみにしてるよ」
オレは千夏とお揃いのシャツとズボンを買って店を出た。
なぜか上機嫌な千夏を乗せて帰りながら、胸の中では女の言葉がずっとひっかかっていた。
†
長い外出を終えて家にもどると、千夏はたのしみにしていたサメ映画の履修より先に「汗かいた」と風呂に向かった。
「もう覗かないでね」
「あれは事故だ」
「じゃあ、事故らないでね」
「はいはい」
テキトーな返事で千夏を見送ってひとりになったオレは、手にしたケータイに視線を落とす。
「……」
ケータイの画面には千夏の連絡先が表示されていた。
べつにドッペルゲンガーのあいつに言われたからじゃない。
これはオレがあの日からずっと続けてしまっている、悪い習慣だった。
あいつとのやりとりは『なるほど』という千夏のメッセージで終わっている。なにが『なるほど』なのかといえば、オレがまえのメッセージに気づくことができなかった理由についての『なるほど』で、それも正しくはオレがメッセージに気づけなかったのではなく、気づいていながらなんと返していいものかわからずはぐらかした理由についての『なるほど』だ。べつに深く考えなくたっていい、なんてことのないやりとりだったのに。
オレの中ではずっとあの日から千夏への後ろめたさが渦巻いていて。そんな状態で送っていたメッセージがやがて途絶えるのは、今にして思えば必然の結果だったのだろう。
『なるほど』と意味もなくメッセージを入力して、その意味のなさに嫌気が差して消去する。
オレの毎日は、言ってしまえばそういう日々だった。
あいつがオレのまえに現れるまでは。
「コウ」
きき馴染んだ声に顔を上げると、風呂から上がってさっそく買った服に着替えた千夏がオレの前に立っていた。
「どう?」
「どうって、店で答えただろ」
「あれはだって、ウソじゃん」
「べつにウソってわけじゃない」
店員の女にも同じようなことを言われたなと思いながら、オレは言った。
「ちゃんと似合ってるよ」
ワンポイントの白いTシャツに、赤いフレアスカート。
値段相応。ちっとも高級感はないけれど、素朴な感じが千夏にはよく似合っている。
「……えへへ」
千夏はなぜかうれしそうに口角を緩ませ、玄関のところにある姿見のところに立って何度も身体をくねらせていた。
「浴衣より、おまえはそっちのほうが自然だよな」
「なにそれ。浴衣は似合ってなかったって?」
「そうじゃないけど、やっぱり背伸びしてる感はあったよな」
「見惚れてたくせに」
「まあ、な」
あの日の千夏は普段とちがって見えて。その背伸びしている感じが、見ていて胸が高鳴った。
ムリしてブラックコーヒーを飲んでいるときと同じだ。
オレのまえで背伸びしてカッコつけてくれていることが、オレはうれしかったんだ。
「わたしもそうだったよ」
と、ドッペルゲンガーの千夏は言う。
「わたしも、そわそわしてるコウを見て、ちゃんとドキドキしてたよ」
ドッペルゲンガーの言葉にオレの胸は今さらの高揚を示す。
そして同時に虚しくなった。
「おまえのそういう話って、オレはどういうスタンスできけばいいんだ?」
「スタンスって?」
「おまえとあいつは一応べつの存在なのに、おまえは自分のことのようにあいつの気持ちを語るだろ?」
「まあ」
「千夏の気持ちって、つまりおまえの気持ちだって考えていいのか?」
「え?」
ドッペルゲンガーの千夏は驚いたように目を丸くした。
「……いや、わるい。そりゃそうだよな。おまえはオレのために千夏をやってくれてるんだから。すくなくとも、オレはそう考えるべきだ」
「ああ、うん」
「風呂、入ってくる」
「プレ2出しといてね」
「……」
クローゼットからプレステを取り出し、テレビに繋いでからオレは風呂に入った。
じゃぶんと頭から湯に浸かり、オレは髪に残った泡と一緒にどっちつかずの思考を捨てた。
「っぷはあっ!」
ドッペルゲンガーの千夏が千夏をやってくれている。
なら、オレは余計なことを考えず素直にそれを受け入れてみてもいいのかもしれない。
それでオレにとってもあいつにとってもいい結果になるのなら。
「……よしっ」
昨日大事にしようと思った線引きを湯に溶かし、オレはあいつのことを本物の千夏だと思うことにした。
その瞬間、三角座りで俯いていたみたいだった心臓が、生き方を思い出したように鼓動を早めた。
千夏が入った風呂の湯にも、千夏が使った石鹸の匂いにも、風呂を出た先で待っている千夏にも。すべてのものにドキドキした。まるで思春期にもどったようだった。
鏡を見ると鼻の下を伸ばしてニタニタと笑うオレがいて。さすがに気持ち悪さがすぎたのでキュッと顔をひきしめる。しかし三秒後には再びだるんと表情が緩んでいた。
「……シュレディンガーか」
脱衣所の戸を開けたとき、部屋にいるのはドッペルゲンガーの千夏か。それとも本物の千夏か。
たとえばオレが風呂に入っているうちにじつはタイムスリップしていて、オレのほうが時間を逆行したのだと仮定したら。どちらが本物で偽物かなんてことはどうでもよくなる。
要はオレがあいつのことを受け入れられるかどうかだ。
オレがあいつを受け入れることですべてがうまくいくのなら、それを拒む必要なんてない。受け入れられない理由もない。
だって、昨日と今日一緒に過ごしてみてわかったけれど、なにげないしぐさもクセも趣味趣向も、あいつは千夏そのものだから。
「ああ、コウ。早いね」
だからオレはあいつとおそろいの服に着替え、部屋でサメ映画を見ながら笑っている彼女に向かって言った。
「おまえが長いだけだろ、千夏」
千夏が手に持っていたリモコンを滑らせて固まる。
「どうした?」
「……え? いや、ううん」
「なんだよ、歯切れが悪いな」
「はじめて名前で呼ばれたなって」
「そうか? この数日だけでも何度も口にした覚えがあるけど」
「わたしのこと、千夏って言ってくれたのは、はじめて」
千夏はそういってうれしそうに顔をほころばせる。
「オレに名前で呼ばれると、千夏はうれしいのか?」
「……そうだね。だってわたし、コウのことが好きだから」
彼女はじつに自然に甘木千夏の心情を語る。
「なら、なるべく名前で呼ぶようにするよ。千夏」
「うん。そうして。はやく慣れるように」
オレは千夏の隣に腰を下ろす。
千夏は「よいしょ」と腰を浮かせてオレとの間をひとり分縮めた。
「コウも着てくれたんだね。その服」
「まあ、他にないからな」
「なにそれ」
「べつの理由がよかったか?」
「そうだね。もうちょっと甘いのがいいかも」
「コーヒーはブラックなのに?」
千夏がむっと表情を強張らせる。
「わるいわるい」
笑いながら謝って、オレは望まれている言葉を返した。
「千夏とお揃いの服だから、かな?」
「そう。それ」
頷いて、千夏はおかしそうに口元を緩ませる。
「今のコウ、ちょっといい感じだよ」
「なにが?」
「顔」
「顔」
「五年前と同じくらい、笑顔が自然に似合ってる」
「オレってそんなイメージだったのか?」
「ふいに見せる笑顔が割とキュンとくる感じかな」
「ならオレはもっと笑えばいいのか」
「そうかも。笑顔は万病にきくっていうし」
「オレの日常は病気かなにかか?」
「病的に病んでたじゃん。毎年金魚掬いにいっちゃうくらい」
「たしかに」
「でも、じゃあ、お笑いのDVDとかも借りてくるべきだったね」
「そんなのなくても、ここにコメディがあるじゃないか」
「サメ映画はホラーなんだけど?」
「おまえは怖がりながらコレ見てるのか?」
「それは……どうだろう」
オレは止められていたサメ映画を再生する。
十秒もしないうちに水着の浮かれ男女が喰われて、それを見ながら千夏はケラケラと笑っていた。
そしてそんな千夏を見ていると、オレもすこしだけクスリと笑えた。
どうやら笑いには事欠きそうになかった。サメ映画の内容についてはさっぱりだったけれど。
「ここからはだいたいセオリーどおりだから」
「とりあえず最後まで観ようぜ」
千夏は映画が後半に差し掛かったところで毎回鑑賞を終えようとした。
対して、サメ映画についてまったく造詣が深くないオレはせっかく借りたもったいなさからそれを拒んだ。
そうして互いにリモコンを奪い合っている間に、いつの間にかオレと千夏の手は繋がっていた。
「ねえ、コウ」
「なんだ?」
「コウは好き? サメ映画」
「ああ、好きだよ。サメ映画」
繋がった手は、部屋の明かりを消しても離れることがなかった。
「そう。よかった」
千夏が口にする言葉を寝耳にオレは眠りについた。
稼働するエアコンと、時折外を通過する車のエンジン音に紛れて、千夏のか細い息遣いがきこえていた。
それからも、オレと千夏はともに夏を過ごした。
千夏がどこかにでかけたいといえばオレは自転車のスタンドを蹴り上げ、千夏を乗せてどこまでも走った。何度かケーサツにサイレンを鳴らされたときは焦ったけれど、無事に逃げきったオレたちはハイタッチをして笑い合った。
家に帰ると借りてきたDVDを毎日三枚は見せられる。最初はただただくだらないだけだと思っていたサメ映画も、繰り返し二人で見ているとそのくだらなさが周回してたのしめた。
「どう?」
「ああ。うまい」
オレは千夏が作ってくれた料理をかき込みながら頷く。
コンビニ弁当とインスタントラーメンばかりでは味気ないと、いつからか千夏がキッチンに立ってくれるようになっていた。
オレの家にはエプロンもピーラーもなかったけれど、そうして料理を作る千夏はなかなか様になっていた。ただ、ときどきちょっと薄味のときがあって、指摘したら翌日とびきり塩辛いおむすびを握られた。
「あははっ!」
辛すぎて転げまわるオレをみて千夏は笑う。そうして自分だけ安全なものをパクパクやっていたので、こっそりすり替えたら千夏も同じようにのたうちまわって笑えた。
「コウ、ホンット子供なんだから!」
「おまえもだろ、千夏」
いつからか、オレはずいぶん素直に笑えるようになっていた。
千夏と一緒に過ごす日々は驚くほど色彩に満ちていて。そういえば昔はこんなふうに一瞬一瞬をたのしんだりしていたことを思い出す。
「なあ、千夏。今のオレはどうだよ?」
「どうって?」
「おまえと出会った頃よりはちょっとマシな顔になってるんじゃないか?」
千夏はすこしの間をおいて答えた。
「そうだね。じゃあ、そろそろ連絡とってみる?」
「連絡って?」
「本物の千夏に」
今度はオレのほうが沈黙を作ることになった。
――そういえばこいつはドッペルゲンガーだった、なんて。
千夏に言われるまで、オレは彼女の目的でありオレの目的でもあることを忘れていた。
「……そうだな」
オレはケータイに向かって伸ばした手をそっと下ろす。
「でも、まだいいかな」
「どうして?」
「だってオレ、まだ千夏に似合う男にはなってないんだろ?」
千夏はオレの顔をじっとみつめてから肩をすくめる。
「……そうだね。すくなくともまだ自分から踏み出せるようにはなってないみたい。それじゃ結局あのときの二の舞だから」
「ああ」
「……コウ、なんかうれしそうにしてない?」
「そんなわけないだろ」
口ではそう否定しておきながら、しかし実際オレは“まだ踏み出さずにいる現状”をすくなくとも残念がってはいなかった。
こうして千夏と過ごす何気ない日々はまるであの日選べなかった未来の再現みたいで。まるで幸せな夢を見ているような現状から、脱したくないと、心のどこかでは望んでいた。
思えば、彼女を千夏だと思うようにした日から一度もケータイを開いていなかった。
くるはずがないメッセージを待つより、たしかに存在している目の前の彼女と話していたほうがよっぽど有意義で、胸が高鳴ったから。
「なあ、千夏。おまえ、急にいなくなったりしないよな?」
「なに? 突然」
箸を口に運びながら疑問符を浮かべる千夏に、オレはずっと気にかかっていたことを尋ねる。
「オカルトとかにちょっとだけ詳しい大学の先輩に言われたんだ。ドッペルゲンガーとかそういうのは、大人になったら消えてなくなるって」
「なんか、ドッペルゲンガーに会ったことでもあるような物言いだね」
「ドッペルゲンガーはわからないけど、幽体離脱をしたり不思議な発光体を目撃したことはあるって」
「なにそれ。へんなの」
「ああ。へんな人なんだ」
千夏は小さな鼻からふうと息を漏らす。
そして視線を斜めに落としてから、オレの目をまっすぐに見つめて言った。
「急にはいなくならないよ」
その言葉はたしかな質量を込めて口にされていたけれど、オレにはそれがウソなのか本当なのか判別がつかなかった。
「言ったでしょ。わたしはオリジナルの千夏が抱いた心残り。だからわたしが消えるとしたらそれは本物の千夏がコウと縁りをもどしたとき」
「じゃあ……」
「じゃあ?」
オレは、オレがなにを言おうとしたのか、わからなかった。
「大丈夫だよ」
オレの内心をどこか見透かしたように千夏が言う。
「すくなくとも、コウの前から千夏がいなくなることはない。だからコウは安心してリア充の予行練習しようね」
頭をヨシヨシされてオレはその手を払いのける。
千夏はおかしそうに笑うばかりで。そこに悲哀の念はうかがうことができなかった。
「おまえは……」
「なに?」
「……いや」
千夏が深くはきいてこないので、オレもその先を口にすることができない。
オレはまだ、大事な言葉を言えない意気地なしのままだった。
「ねえねえ、コウ」
と、「ごちそうさま」をして^千夏が床に置いてあったチラシを見せてくる。
そこに書かれていたのは、あの日から毎年続いている夏祭りの案内だった。
「いくでしょ?」
わざとらしく千夏は首を傾げる。
オレは「ああ」と頷いた。
いい加減、大人にならないといけないと思った。
†
八月。迎え盆の日。
日差しが傾き空に茜が塗られても、夏の蒸し暑さは変わらず世界を満たしていた。
「もういいかい?」
オレは脱衣所の戸をノックする。
三回目の確認を経て、ようやく戸は開かれた。
この二週間余り。ずっとクローゼットで眠らせていた藍染めの浴衣に身を包んだ千夏がひらりと袖を翻す。
伸ばしたままにされていた髪は後ろでひとつに結ばれ、締めた帯からは巾着袋が垂れていた。
「もう。そんなに急かさなくたっていいじゃん」
そういって千夏は頬を膨らませ、ふうと息を吐いて照れくさそうに微笑む。
「どう?」
「ああ」
「ああ、じゃわかんないよ」
「キレイだし、かわいいんじゃないか」
「なんで他人事なのさ?」
「オレの感想なんて今更きくまでもないだろ」
「それでも言ってほしいの。せっかく時間かけて着たんだから」
「そのままでいいって言ったのに」
互いの間に沈黙が訪れた。
オレはため息交じりに答えを口にする。
「……キレイすぎて、思わず見惚れちまった。さすがオレが惚れた幼なじみだ」
「よろしい」
千夏は満足げに鼻を膨らませる。
千夏と一緒に過ごした時間のおかげか、これくらいのことであればオレはすんなりと口にできるようになっていた。千夏からすれば全然「すんなり」ではないらしいが、オレからしたらずいぶんな進歩だ。
ただそれはオレの好意が既にバレているからで。隠す意味がないからだ。
トートロジーのようだけど、まだ千夏に伝えていないことを、オレはまだ千夏に伝えられずにいる。
「コウも甚平とか着たらいいのに」
「べつにいいだろ、オレの格好なんて。服ひとつで見栄えの変わる顔でもない」
「たしかに」
「そこは一回くらい否定しとけよ」
「なんで?」
「……べつに」
「カッコよくなくてもいいじゃん。わたしは好きなんだから」
「…………おまえのそういうの、わざとやってるのか?」
「そういうのって?」
「なんでもない」
千夏はオレの気持ちを見透かしたようにニシシと笑った。
「じゃあ、いこっか」
「ああ」
他愛もないやりとりをしながら、オレは千夏が草履に履き替えるのを待つ。
その間になんとなく玄関の姿身を見て、思わず息を呑んだ。
「……オレって、こんな顔だったっけ?」
「なに? べつにそこまで悲嘆するほどじゃないから気にしなくていいって」
「そうじゃなくて」
いつか木崎さんに鏡を向けられたとき、オレは途方に暮れた顔をしていた。それはドッペルゲンガーなんて現実感のない事象に苛まれていたのもあるが、「これからどうしたらいいか」ということについてずっと答えを出せずに生きてきた結果の産物だと思う。
勤務中にタバコを吹かす店員の女に鏡を見せられたときはまだ戸惑いの中にあった。だからその表情も自然と曖昧で後ろ向きなものになっていた。
ところが、今はどうだ。
まだ一本まっすぐ芯が通っているとまでは言えないけれど、なんだかずいぶんと前を向けている気がする。まるで、自分の人生に行き場を見つけたみたいに。
「まあ、たしかにコウの顔つきはよくなってきてるよ」
千夏はオレの頬を手で引っ張る。
「ほら。笑顔もかなり自然な感じになってる」
「すくなくとも今のコレは自然じゃない」
「うん。ようやく十五歳のコウにもどれたって感じかな」
「なら、今はおまえと同い年だな」
「そうだね」
「…………なんかさ」
「あの頃にもどったみたい?」
オレは千夏の手をとって家を出た。
遠くから陽気な祭囃子がきこえていた。
†
祭り会場は人でにぎわっていた。
田舎の祭りであるため道が埋め尽くされるということはないものの、車道を貸し切って行われているだけあって、人の往来は多い。
うっかりしているとはぐれてしまいそうだった。
「ふらっといなくなったりするなよ?」
「だいじょうぶだよ」
繋がったままになっていた手を軽く掲げて千夏が微笑む。
たしかに、とオレは肩を竦める。
そしてあの頃のように、オレと千夏は縁日をまわった。
香ばしい匂いに誘われてみれば串にささった鳥がいい色で焼かれていて。腹の虫に促されるままオレたちはそれを買ってほとんど同時にかじりついていた。
「あっつ!」
「わ、わたしにはちょうどいいよ!」
またナゾの背伸びをしながら顔を震わせている千夏の手を引いて、オレは隣にあったかき氷屋に駆け込む。
「たしか、宇治抹茶でよかったよな?」
「うん。コウは?」
「ブルーハワイ」
「好きだよねえ」
オレたちは焼き鳥とかき氷を互いに持ち合い、そういえばと互いに顔を見合わせた。
「あのときも」
「うん。同じの食べてた」
熱いものを食べて、火傷した舌を冷ますために冷たいものを食べて。
「じゃあ、次は……」
「そうだね」
千夏がなにを考えているのかなんてきくまでもなくわかったし、オレがなにを考えているかも千夏には話すまでもなくわかっていた。
だからオレたちは頷いて、なんとなくあの日の再現をしてみることにした。
目についたクジ屋は一等にハワイ旅行を据えていた。
オレはシメシメと思いながらクジを引き、見事ハズして版元不明の宇宙人ストラップを手に入れた。
「よかったね。ハズレて」
「ああ。ハワイ旅行なんて当たっちまったらどうしようかと思った」
「ホントに」
呆れた顔をする屋台の店主に背を向けて、オレたちは次の店を探す。
いつの間にか手を繋いでいることに抵抗なんてなくなっていた。
「あったよ、輪投げ」
「一等は?」
「グアム旅行だって」
「よかった。まるで興味がない」
そんなことを言いながらオレは取った輪を投げて、これまた見事に的を外してみせる。
「相変わらずヘタっぴだなあ」
「ばか。わざと外してるんだよ」
「だったら試しに本気でやってみてよ」
うまくいくわけがないとでも言いたげな千夏の態度にムッとして、オレはとりあえず二つくらい勝ち星をあげておくことにした。
そんな心持ちで挑んで投げた輪はどこにもかかることなく床の上に虚しく転がった。
「あははっ! やっぱりコウ!」
「うるさい。ならおまえはどうなんだよ、千夏」
ふふんと鼻を鳴らした千夏はオレの手にあった残り二つの輪を受け取り、同時に投げてそれぞれ端にある棒にひっかけた。
「…………プロかよ」
「コウが不器用なだけ」
千夏は四等の景品である金魚をかたどった小さなイヤリングを手にし、片方の耳につけて首を傾げる。
「どう?」
「どうって?」
「どう?」
「……ああ、はいはい。似合ってるよ」
「まーたそんな投げやりに」
金魚はすぐに割れてしまいそうなガラス細工でできていて。安物なのが透けていたけれど、千夏がつけると本当に映えて見えた。きっと千夏には素朴なものでもそれを美しく見えさせるだけの魅力が備わっているのだと思う。
なんてことを、まだ素直には言えないけれど。
「なにニヤニヤしてるの? コウ」
「べつに」
「あー、わかった。またわたしに見惚れてたなー」
このまま顔を覗かれているといつまでもからかわれそうだったから、オレは「腹が減った」とテキトーな理由をつけて千夏の前を歩いた。
「もう」
すぐ後ろでは千夏が頬を膨らませながら笑っているのがわかった。
オレだって、千夏にバレないようにこっそりと笑っていた。
ようやく見つけた的屋でしょぼくれた結果を出している頃には口の中が添加物の濃い味ばかりでごった返していたけれど、オレたちの足取りはずっと軽かった。
こうして二人で過ごしていると、本当に。あの頃にもどったみたいで。それ以外のことなんてどうでもいいことのように思えてきて。
――ずっと、こんな時間が続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。
「…………」
わかっている。ときどき忘れてしまうけれど、心の片隅ではちゃんと覚えている。彼女の正体がドッペルゲンガーであることは。所詮彼女は甘木千夏の心残りでしかないことは。
それでも。この瞬間。
オレの心は、ドッペルゲンガーである彼女によって満たされていた。
「コウ?」
立ち止まってしまったオレを見て千夏が首を傾げていた。
「いこっ」
オレは千夏に言われて再び歩き出す。
連れ立ってまわる縁日の喧騒はすべて薄い膜を隔てた向こう側からきこえてくるみたいで。いちばん近くにいる千夏の声だけがハッキリと耳に染み込んでいた。
「千夏」
オレは千夏のことを呼び止める。
千夏は足を止め、数秒の間を置いて振り返った。
「なに?」
オレはずっと言おうとしていた言葉を口にしようとする。
胸の奥から想いをせり上げて、喉を通し、舌の上に乗せたところで、噛み潰す。
「………………」
名前を呼んだ、その先が、どうしても出てこなかった。
対面した彼女の儚さに竦め取られて。訪れた沈黙に耐えられなくて。オレは結局また千夏から目を逸らしてしまった。
そして視線の先に金魚すくいの屋台をみつけた。
そのとき頭に浮かんだのは、千夏を待たせて金魚を掬い続けた日のことではなく、千夏と一緒に金魚を埋めた日のことだった。
「アレも、やる?」
隣で千夏の声がする。
心なしか、その声は低く、重く、淡い暗闇を孕んできこえた。
「…………お祭りの金魚って、なにを思って泳いでるんだろうね? どうせすぐに死んじゃうのに」
あの日千夏は、ボウルの中で死んだ金魚の運命を「しょうがないこと」だと言って終わらせた。
その冷たさだけが、オレの中に残されている唯一の違和感だった。
オレの知っている千夏は、そんなふうに生き物の命を冷たく見たりはしない。
そしてあのときの千夏も、口では冷たい言葉を吐きながら、実際は死んだ金魚を丁寧に埋葬していた。
そこには慈悲のようなものがたしかにあった。
今にして思えば、あのときの千夏はまるで、無常な死生観を口にすることで翻してそれを自分自身に言い聞かせようとしているようだった。
本当は受け入れたくない金魚の一生を、ムリをして飲み込もうとしているようだった。甘いものを好む子どもが背伸びをしてコーヒーを飲み干そうとするように。いつかは受け入れなければいけないこととして。
「……ドッペルゲンガーも同じってか?」
「え?」
オレは千夏のことを見る。
千夏は目を丸くして驚いていた。
「そんなこと、考えたこともなかったな」
ウソだ、とオレにはわかった。
千夏の視線は斜めに落とされていた。
「おまえが死ぬかどうかはわからない」
「わたしの場合は、死ぬとかそういうのじゃないから。わたしの――千夏の心残りがなくなって消えるだけ。痛みとかもないだろうし、埋葬の必要もない」
「……」
「ごめん。変な気遣わせちゃった? 大丈夫。わたしのことはいいから、お祭りたのしもうよ」
気丈に笑って、千夏はオレの手を引こうとする。
繋がった手を握り返して、オレはその場で立ち止まった。
そして怪訝そうに眉を寄せる千夏に言った。
「アレ、やろうぜ」
金魚すくいの屋台は今、ちょうど客がはけてヒマをしているところだった。
「……ホントにやるの?」
「ああ。あの日もやってたしな」
「でもコウ、掬えないじゃん」
「そんなの、やってみなくちゃわからないだろ」
「やってみなくちゃって……ずっとやってたんでしょ?」
「まあ」
「……べつにいいけど」
「よし、決まり」
オレは店の前までいって百円玉とポイを交換する。
千夏はオレの隣で屈んで水面を泳ぐ金魚に視線を落としていた。
「ねえ、コウ。さっき、なにか言いかけてなかった?」
「ああ。でも、今は集中しなきゃだから。これ、掬うまで、待ってくれ」
「……ふーん」
赤。白。青色。
流れていく色彩に目を凝らして、あの日と同じだと苦笑する。
あの日のオレは結局金魚を掬えずに、千夏に言いたいことを伝えることができなかった。
そしてその後悔を引きずったまま日々を過ごし、堕落したオレのまえに再び十五歳の千夏が現れて。ようやくオレも昔と同じくらいには自然に笑えるようになってきた。
だから今日は本当にあの日の再現で。あの日の自分から前に進むとしたら――大人になるとしたら――そのきっかけは今だと思った。
オレはポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげる。
「あっ……」
――――チャポン。
破れたポイの向こうに金魚が落ちていく。
「ほらね」
千夏がため息とともに立ち上がろうとする。
オレは財布をひっくり返してありったけの百円玉をすべてポイと交換した。
「ムダ遣いだよ」
「ムダかどうかはやってみないとわからないじゃないか」
水面に映るオレの顔が波紋の中に溶けていく。
「……なあ、千夏。もしオレがこの金魚を掬えたら、ひとつ、きいてもいいか?」
「きくって、なにを?」
「それは……まだ言えない」
「どうして?」
「オレがまだ、意気地なしだから」
「……」
千夏はため息を吐いた。
そして立ち上がり、背後から覆いかぶさるようにしてオレの手に手を宛がった。
「コウはずっと鉄ベラみたいに使ってるからいけないの。お好み焼き作ってるんじゃないんだから。ポイはこう、端のほうをちょっとだけ浸けて、掬うの」
オレは水槽を泳ぐ金魚にポイを近づけていく。
密着した千夏の身体に、耳たぶにかかる温かい息に、心臓の動きを速くしながら。
「そう。その調子」
オレは金魚をそっと掬いあげる。
今まではすぐにポイを破って水槽の中へともどっていた金魚が、指の先でピチピチと跳ねていた。
「あっ」
――――チャポン。
あとすこしというところで、一際大きく跳ねた金魚がポイの向こうへと落ちていく。
「ああ、惜しい!」
千夏がオレの肩で項垂れる。
隣では新たにやってきた子供の客が慣れた手つきで金魚を掬って持ち帰っていた。
「わたしがやったげようか?」
「それじゃ意味ないんだ」
「ふーん」
足下に積まれたポイは三つ。つまり残されたチャンスはあと三回。
オレは千夏に教わったとおりにポイを動かしてなんとか金魚を掬おうとする。
二度目も、三度目も、金魚を掬いきることはできなかった。けれどたしかに上達の形跡はあった。ポイで運べる距離は少しずつ長くなり、水を張られた椀までの距離は少しずつ短くなっていた。
「あと一枚だよ」
「わかってる」
破れたポイの向こう側に、あの日の自分の面影が見えた。
「……」
掬って、逃げられて、破れたポイの向こうに最適の言葉を探していたあの日のオレは、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにだんだん不安に駆られて。はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうかとか考えてしまって、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて、結局なにも言うことができなかった。
そして、同じことを、今のオレも考えている。
あんなに伝えなかった場合の後悔を重ねてきたのに、未だに伝えた場合の後悔について考えてしまっている。
この気持ちを伝えてしまってもよいものかという悩みが、消えない。
あの日オレの人生に落ちてきた巨大なフタが“その先”へ踏み出すことを拒んでいる。
本当は、金魚なんて、簡単に掬えるはずなんだ。その気さえあれば、簡単に。
「がんばって、コウ」
耳元で千夏の声がする。
その言葉がオレの背中を押してくれた。
オレは覚悟を決めてポイを水に浸ける。
そのとき、オレたちの後ろで大きな花火が打ち上げられた。
「わっ!」
夜空で炸裂した爆音と共に、祭りに群がる人々の喝采がきこえてくる。
驚いて振り向いた千夏がオレの肩を揺らす。
「コウ! ほら、花火!」
そういって声を弾ませていた千夏が「あっ」と声を漏らした。
オレが手にした椀の中には一匹の赤い金魚が泳いでいた。
「ずっと、ききたかったことがあるんだ」
手を叩く千夏の顔をじっと見つめて、オレは口を開く。
「千夏は、オレのことがまだ好きなんだよな?」
「うん。そうだよ。それについては前に話したじゃん」
なら、と。オレは“その先”について尋ねた。
「おまえはどうなんだよ?」
「え?」
「千夏のドッペルゲンガーであるおまえは、オレのことをどう思ってるんだ?」
千夏はしばらくの沈黙を挟んでから答えた。
「好きだよ。だって」
「千夏のドッペルゲンガーだから、か?」
オレは手にした椀をひっくり返す。
あらかじめ入れられていた水と一緒に金魚が落ちて、水槽の中へともどっていく。
「じゃあ、ここしばらくオレと過ごしてみて、おまえはどう感じた?」
「……どうしたの? なにが言いたいのか、よくわからない」
「ウソだ。おまえはわかってるはずだ」
視線を斜めに逸らす千夏の頭上では色鮮やかな花火が打ち上がり、夜の気配を打ち消していた。
「オレは、たのしかったよ。実際。おまえとくだらない話をしながらこうして過ごすのは、オレにとって悪くない……いや。きっと、これ以上ない日々だ。だってオレは、おまえのことが好きだから」
周りの子供や屋台の店主がありきたりな告白と勘違いしてはやし立てる。
けれどオレたちの関係は彼らが思っているほど単純じゃない。
“今はまだ”複雑な事情が絡まり合い、想いと言葉の間に余計な壁が発生してしまっている。
「おまえも、そうだったんじゃないのか?」
千夏と一緒に過ごすことで、オレの人生は確実に再生へと向かっていた。
それは他でもない、今目の前にいる千夏のおかげで。たとえドッペルゲンガーであろうとも。オレをこうして外に引っ張り出してくれるのは、まぎれもなく彼女だ。
オレの中にあるこの気持ちは、だから、ドッペルゲンガーの千夏に対してのものだ。
「……そうだね。きっと本物の千夏とも……」
「オレは今“ここにいる千夏”に話してるんだ」
オレは千夏の肩を抱く。
そして彼女に向かってまっすぐ言葉をぶつけた。
「オレはこのままおまえとずっと一緒にいたい」
はじめて彼女に出会った瞬間から、予感はあった。
自分の未来が見えるオレには、未来のオレがなにを考えるかわかっていた。
――このままドッペルゲンガーの千夏と一緒にいれば、いつかオレはドッペルゲンガーに対して愛情を抱いてしまう、と。
わかったうえで、オレは彼女が傍にいることを許した。というより、降って湧いたようなその可能性に、選択肢に、甘えた。どうしようもない現状から掬われることを願って。
「…………わたしはドッペルゲンガーなんだよ?」
「関係ない」
オレには、すくなくともオレには――彼女がドッペルゲンガーであるということは、この気持ちを伝える障壁にはなっても、この気持ちが湧くのを塞ぐフタにはなりえなかった。
彼女と千夏を同一視すると決めたとき、既にオレの中でそのフタは取り払われていた。
「……」
千夏は俯いて言葉を探していた。
互いの間を彷徨う沈黙を花火の音が攫い、着色された夜空が彼女の横顔を照らしていた。
ひとつ結びの後ろ髪が、やがて微かに上を向く。
千夏が、ぐっと歯を食いしばるのがわかった。
「関係、あるよ」
千夏は重ねていた手をやさしく払う。
そして諭すように淡々と言葉を落としていった。
「今のコウは、オリジナルのわたしと向き合うことから逃げてるだけ。オリジナルのわたしと連絡を取って縁りをもどす勇気がないからわたしにそんなことを言っているようにしか見えないよ」
「そんなことは……」
「わたしでいいなら、オリジナルのわたしでもいいはずだよ」
オレたちの間に重たい沈黙が下りた。
なにか、言い返さなければいけない気がした。
だからオレは言葉を探す。
ドッペルゲンガーの――目の前の千夏が――本物の千夏以上に必要な理由を探す。
オレを更生させてくれたこと。ずっとオレのそばにいてくれたこと。一緒にいるとそれだけで気持ちが晴れやかになっていくこと。
そのどれもに対して、本物の千夏を引き合いに出して同じ言葉で返してくる千夏の姿が見えた。
結局、大事なのは千夏がどう思っているかだった。
「……おまえは、オレと同じ気持ちだったりしないのか?」
傲慢かもしれない。
でも。
オレは千夏がオレと同じことを思ってくれているような気がしていた。
あの日の夏祭りで互いの気持ちが重なっていたように。
一緒にしばらくを過ごすうちに、ドッペルゲンガーの千夏も本当はオレといたいと思ってくれているのではないかと考えるようになった。
しょうがないと言って世話を焼きながら。心残りを抱えた千夏のためだと言いながら。その裏で、本当は、自ら望んでオレと関わってくれているのかもしれないと。
あの頃、金魚を口実にして自分の気持ちを伝えることから逃げたオレとは逆に、千夏はもしかしたら自分がドッペルゲンガーであることを口実にすることでオレと関わりを持ち、結果としてその関係に充足を感じてくれているのではないかと。
そんな気がして。そうであればいいなと思ったから、オレは千夏に尋ねた。
「かえろっか」
「え?」
千夏は長い息を吐き、それからうんと背伸びをしながら立ち上がって、言った。
「もうお金、なくなっちゃったし」
千夏はひどく大人びた笑みを浮かべてオレのことを見つめていた。
その笑みには今まであったはずの体温が感じられなかった。
まるで彼女の中にあった熱が急速に冷めてしまったような。
「……でも、花火……」
「見ていきたい?」
色とりどりの強烈な光が、千夏の表情に色濃い影を落としていた。
彼女は今でも変わらず手を伸ばせば繋いでいられるところにいるはずなのに。
オレと千夏の間に、なぜか距離ができてしまったようだった。
「……千夏は、帰りたいのか?」
そう尋ねると、千夏は困ったように頬をかいた。
「…………そうか」
オレは千夏と一緒に祭りの場をあとにした。
うるさく鳴り続ける花火の音にのしかかられて、オレは答えをきくことができなかった。
†
帰り道は無言が続いた。
まるでいつかの帰路みたいだった。
千夏は家に帰ると「汗かいちゃったね」と乾いた声で笑って脱衣所の戸を閉めた。
きこえてくるシャワーの音を耳にしながら、オレはポケットに入れたままになっていたストラップを手のひらで転がす。
「…………」
――オレは、間違えたのだろうか?
ぽつぽつと、そんな考えが浮かんでくる。
オレの気持ちを伝えたら、千夏が動揺するのはわかっていた。千夏が困るのもわかっていた。
それでも、オレは千夏にそれを伝えることを選んだ。あの日のように後悔することがないようにと。
その結果として千夏に拒絶されたのならそれは自分の過ちとして処理できたし、もし千夏が傷ついたのであればオレはオレの浅はかさを正しく呪うことができた。
けれど、今はそうして自分を責めることもうまくできない。
「……あれは、本心だったのか?」
オレの意志に対して千夏が返した言葉はどれも弱々しくて、それを答えと呼ぶには芯の強度に欠けていた。
千夏が並べた理屈はどれも主体性のない、第三者の目を借りてきたようなものばかりだった。
端から自分を中心にして人生を構築していないみたいな。するべきではないと考えているような。
「…………」
堂々巡りの思考を払い、オレはとりあえず手元のストラップをつけておこうかと、置きっぱなしにしていたケータイを拾い上げる。
思えばこうしてケータイを触るのも久しぶりだった。
いつの間にか電源は落ちていた。
オレは充電ケーブルを差し込んでケータイにストラップを括りつける。
そのとき。
「はい」
と、脱衣所の戸を開けて千夏が出てくる。
「次、どうぞ」
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、千夏は普段通りの明るい口調のままに言った。
「さっきまでは、ごめんね」
「ずっと風呂でその切り出し方を考えてたのか?」
「もう。そこは気づかないフリしてよ。相変わらず無神経なんだから」
「だって、いつもより長かったから。そうでなければまたトイレかと」
ごん、とオレの頭をこづき、千夏は冷蔵庫の麦茶を取り出してグイと煽る。
「ぷはあっ!」
のぼせて赤くなった顔をエアコンの風で冷やしながら、ふうと息を吐いて千夏は言った。
「ずっと一緒には、いられないんだよ」
部屋を漂う空気の流れが、ピタリと止まったような気がした。
「ドッペルゲンガーの寿命は、たぶんそんなに長くない」
オレに背中を向けたまま語る千夏は、まるで表情を覗かれまいとしているようだった。
「……大人になったら消えてなくなるってやつか?」
木崎さんは部室でそんなことを言っていた。
ドッペルゲンガーなどといった眉唾物の存在と邂逅できるのは大人になるまでだと。
「うーん、どうだろう?」
「どうだろうってなんだよ?」
「時期についてハッキリとはわからない。ただ普通に考えればそうなるって話」
今千夏が語っているのは自分の寿命の話だ。
にも関わらず、彼女は飄々として他人事のようにそれを語っている。
そのことが、どうにもオレの心をざわつかせていた。
「べつになにか重大な秘密を隠してたとかってわけじゃない」
「大事なことだろ」
「そんなに心配そうな声出さないでよ」
そういって振り向いた千夏は、笑っていた。
「わたしは千夏の心残り。それが解消されたらわたしは消えていなくなる」
「ああ。逆に言えば、それが解消されない限りおまえはずっといることになる」
「そうだけど、そうじゃない」
「なにが?」
「コウは、人がずっと心残りを抱えて生きていけると思う?」
尋ねておきながら、千夏にはその問いの答えがわかっているようだった。
「……生きていけないのか?」
「生きていけないでしょ」
当然のことを教えるように千夏は苦笑する。
「だからこのことに関して逆説は成り立たない。考えられる可能性は、千夏がコウと一緒になって正しく心残りを解消するか、このままコウと縁りをもどすことなくコウと離れたまま、コウのことを忘れて生きていくか。どっちにしても、わたしの命はそこまで」
「……」
「どっちかしかないんだから、どうせなら物事はハッピーエンドのほうがいいでしょ? わたしはコウとずっと一緒にはいられない。だからわたしがいるうちに、コウはしっかり千夏に似合う男になるべきなんだよ」
「その幸せに、おまえはいないじゃないか」
オレと千夏が――本物の千夏が縁りをもどして。互いの好意を打ち明け合って。そうしたら、たしかにオレたちの心残りは解消されて大団円だ。
でも、じゃあ、そのために消えてしまうほうの千夏は幸せなのか?
もしもオレがドッペルゲンガーなら、それを幸せだと呼べるのか?
「大丈夫だよ」
と、千夏は言った。
「そんなに心配なら、こう考えればいいんだよ。わたしは消えていなくなるわけじゃない」
「消えていなくなるわけじゃない?」
「そう。元の千夏とひとつになって、わたしはコウと一緒にいる。そう考えたら、全然なにも不都合なんてないでしょ?」
詭弁だ、と思った。
考え方を変えたところで事実が変わるわけじゃない。
それはオレがこの五年で飽きるほど学ばされ続けたことだった。
「だからわたしのことなんて気にしないで――」
そうして千夏が千夏自身を軽んじることに、オレはもう耐えられなかった。
だから、オレは千夏の言葉を遮るように、千夏のことを後ろから抱きしめた。
一瞬、驚いて身を固くした千夏の身体が前に傾く。
オレはそんな千夏を支えて立ち尽くす。
サイドテーブルに置いていたケータイがガタンと床に落ちた。
しばらく、無言の時間が続いた。
「…………なに?」
「オレはまだ、おまえの口からおまえの気持ちをきいてない」
重ねた身体の距離に適した声のトーンで、オレは千夏に向けて言葉を放つ。
「気持ちって……ずっと言ってるじゃん。コウはここにいるわたしじゃなくて、コウのことを未だに想ってる本物のわたしを見るべきだって」
「それはおまえの気持ちじゃない。自分の立場を客観視して最適解を見出せる神様の戯言だ」
「なにそれ……意味わかんないよ」
「本当に、わからないのか?」
千夏には、オレがなにを言おうとしているのかわかるはずだった。
だってオレたちは一ヶ月どころか、十年以上も一緒にいて、互いを想い合っていた幼なじみなのだから。
あの日本当は互いに互いのことが好きであるとわかっていたように。言葉なんてなくたって、オレの気持ちは千夏に伝わるはずだった。
「…………コウはそんなに、わたしに『寂しい』って言ってほしいの?」
「……」
「わたしは大丈夫だって、気にしないでいいって、言ってるのに」
「それがおまえの本音なら、べつにそれでかまわない。だけどおまえはおまえのことに関して、まだ一度も願望を口にしていない。『しょうがない』とか『そういうものだ』とかばかりで、『こうであってほしい』をきいてない」
「そんなの言葉の揚げ足取りだよ」
「おまえの言葉が全部カラッと揚がるまで、オレはこの手を離さないぞ」
「……なにそれ」
千夏は「ぷっ」と吹き出して笑った。
「ふふっ! コウったら、ホント意味わかんない」
堪えきれなくなった千夏は天井を仰ぎ、笑い声と一緒に長い息を吐き出して口を開く。
「…………ホントに、意味わかんないくらい、コウは優しいんだから」
外では夏の虫が鳴いていた。
正面の曇りガラスには淡い月光が写り込んでいて。人がすべて出払われたような静寂の世界で、やがて千夏はポツリポツリと言葉を落としていく。
「人の心配できるほど安定した人生じゃないくせに」
「それはいいだろ、べつに」
「あのときだってそう」
呆れ笑いを覗かせながら、千夏は天井の向こうにいつかの情景を見る。
「コウが告白しないって選択をしたとき、わたし、ガッカリしたけど、同時に、じつはちょっとだけうれしかったんだよ」
「どうして?」
「だって、コウが考慮してくれたことはたぶん、だいたいそのとおりだったから」
そういって、千夏はあの日の心境について語ってくれた。
オレはあの日、千夏を困らせず、たとえ受け入れられなかったとしてもオレたちの関係にヒビが入らないような、実直でやわらかい言葉を見出そうと、既に十分推敲を重ねたはずのセリフに再度添削をかけていた。
そうしているうちにオレはだんだん不安に駆られていく。
はたして本当に千夏はオレのことが好きなのだろうか?
好きだったとして、それを知りながらする告白は打算の色が強すぎやしないだろうか?
愛や恋がなにかもまだ定義できない十五歳の自分にソレを伝える資格があるのだろうか?
伝えて、実った想いは、いつか枯れたりしないだろうか?
考えれば考えるほど、もっと大人になってから――そういうことにちゃんと答えを出せるようになってから千夏と向き合ったほうがいいような気がしてきて。告白なんてしないほうがいいような気がしてきて。結局、オレは千夏になにも伝えられなかった。
そして、同じことを、千夏も考えていたらしい。金魚を掬っているオレを眺めながら。
はたしてここでオレと――真中コウと付き合ってもいいのか。そういうことを、十五歳なりに考えながらオレのことを待っていたのだと、千夏はまるで昨日のことを思い出すようにして語った。
「……なんだよ。じゃあ、おまえがオレのこと意気地なしとか言ってたのって」
「うん。ブーメランだね」
笑い声と一緒に雑多な感情をすべて吐き出した様子の千夏は、驚くほどあっけらかんとしていた。
「なら、あのときオレがおまえに告白しなかったのは正解だったのか?」
「正解じゃないでしょ。こうしてドッペルゲンガーなんて生み出しちゃうくらいに千夏は後悔してるんだから」
でも、と千夏は言葉を続ける。
「まあ、告白されてたら、それはそれで、もしかしたら断ってたかもしれないけど」
「はあ⁉ なんだよそれ!」
「女心は夏の海なんだよ」
「おまえはおまえで意味がわからん」
「その場合も結局後悔して、わたしはここにいただろうけどね」
「だったらどっちにしろオレにとっては負け戦だったってことになるじゃないか」
「あくまで仮定の話だよ。確率でいえばたぶんふつうに付き合ってたと思うよ。まあ、そのあと何年続いたかはわからないけど」
「……」
「ほーら。暗くならないの」
千夏がオレの腕の間からスルリと手を伸ばし、あやすようにオレの頭を撫でてくる。
十五歳の幼なじみに子ども扱いされるのはさすがに恥ずかしかったけれど、不思議と千夏の手を払う気にはなれなかった。
「まあ、だから、ガッカリしつつ、ホッとして、思ったんだ。わたし、ムリしてカッコつけちゃうところだけじゃなくて、コウのそういうやさしいところも、かなり好きだったんだなって」
不意打ちめいた告白に、オレの心臓が跳ねる。
「それでもあと一歩踏み出しきれないのがコウのダメなところだったのに。いきなりわたしのこと抱きしめたりして。金魚が一匹掬えたくらいでそんなふうになれるもんなの?」
冗談めいた言葉で流そうとする千夏に、オレはもう一度尋ねる。
「おまえは、オレと一緒にいたくないのか?」
「えー。まだその話するの?」
「大事なことだろ」
「じゃあ、一緒にいたいって言ったら、どうするの?」
腕の中で千夏がクルリと身を翻す。
彼女の目はまっすぐオレのほうを見つめていた。
「わたしが、コウとずっと一緒にいたいって言ったら、コウはどうする?」
千夏の瞳の奥には不安が揺らめいていた。
だからそれは、飄々としているくせに本当は臆病な千夏なりの、精いっぱいの言葉なのだと思った。
「いつ消えてしまうかもしれないわたしが、オリジナルのために生まれたはずのわたしが、それでもわがままに『コウと一緒にいたい』なんて言っちゃったら、コウはどうするの?」
オレは、オレの人生に落ちてきた巨大なフタに、ようやく取っ手が見えた気がした。
それを手に取り、押しのけるとしたら、それは今しかないと思った。
オレは決めていた覚悟を引っ張り出し、まっすぐ千夏の目を見つめながら、深く息を吸って言葉を放つ。
「オレは、おまえと――――」
そのときだった。
今までろくに鳴らなかったはずのケータイが、唐突にだれかからの着信を知らせていた。
オレたちの間に一拍の沈黙が下りた。
その一拍の沈黙こそが、オレたちのこれからを決定づける、運命の岐路ともいうべき猶予だった。
「だれからだろう?」
千夏がケータイに意識を向ける。
オレは口にしようとしていた言葉を引っ込めて落ちていたケータイを拾い上げる。
ケータイには一通のメッセージが届いていた。
オレはそのメッセージの送り主を見て唖然とする。
『どういうこと?』
そんな不可解な短文をオレに送ってきたのは、他でもない、いつかなにかの拍子でまたやりとりが始まったりするのではないかと期待し、オレがずっと想い、待ち続けていた、思い出の中にいる幼なじみだった。
――――甘木千夏。
通知欄にはハッキリとその名が表示されていた。
どうやら落ちた拍子に電源が入ったらしい。
オレは画面から目を離して振り返る。
隣にはたしかに十五歳の千夏が立っていた。
けれど。
先刻までの彼女と、今の彼女は、大事ななにかが、決定的に、違ってしまっているように見えた。
「すごいじゃん! コウ! わたしからメッセージがきたよ! わたしのめんどくさい性格を考えたら、メッセージなんて送れるはずないのに! たぶんこれはよっぽどのことがあったんだよ!」
「あ、ああ」
千夏はオレの腕の中からスルリと抜け出し、興奮した様子で言う。
「これは千載一遇のチャンスだよ。この機を逃す手はないよ」
「なあ、千夏。さっきの話だけど……」
「そんなことより今はこっちでしょ」
千夏はオレのケータイをビシリと指差す。
「ボヤボヤしてるうちにまた返信の機会を逸しちゃうんだから」
千夏の言うことにはたしかに覚えがあった。
オレはしかたなくケータイの画面に注意をもどし、返信画面を開く。
「なにが『どういうこと』なんだ?」
「さあ? とりあえずそれをきいてみるべきじゃない?」
「そうだな」
オレは千夏に『なにが?』と返した。
「相変わらず愛想がないなあ」
「他にないだろ」
「一文には二文以上で返してほしいってわたしは思うよ」
「あんな漠然とした質問に二文も返せるか」
「わからないよ。単に話がしたくなっただけかもしれないし」
「それならそう言うだろ」
「言えないからこんなことになってるんでしょ。お互いに」
「それはそうだけど」
と、そんな話をしているうちに、千夏からの返信を知らせる音が鳴る。
『ドッペルゲンガー』
表示されたそのワードに、オレは再び隣の千夏と顔を見合わせた。
「わからない」
と、千夏はオレが尋ねるより先に首を横に振った。
そして続けてケータイはメッセージを受信する。
『コウの、ドッペルゲンガーがいる』
オレは絶句した。
そしてなにか事情を知らないかと千夏のほうを見る。
そのとき千夏が浮かべていた表情は、ひどく力ない、すべてを悟って諦めたような人間の表情だった。
オレはそこでようやく、千夏が先刻のうちになにを失ったのか気づく。
――千夏は、もう、オレとの未来を諦めてしまっていた。
「……なあ、千夏……」
「わかったかもしれない」
千夏は顎に手を当てて頷く。
「つまりわたしがわたしのドッペルゲンガーを生み出したように、コウも知らずのうちにコウのドッペルゲンガーを生み出してオリジナルの千夏のところに送ってたんだよ。互いに互いを心残りにしてたんだから、そういうことになっても不思議じゃない。むしろわたしが出会ったときのコウの病みっぷりを考えたら当然とさえ思えてくる」
「……」
「でも、これはいい会話のきっかけになるね。二人してドッペルゲンガーにいき合うなんてたぶんそうそうないことなんだから、ちゃんと話を続けなよ。疑問符を絶やすことなく」
「なあ、千夏」
オレは早口で話を進めようとする千夏のことを見つめる。
「オレはおまえと――――」
「わたしはコウと、一緒にいたいなんて、ちっとも思ってないよ」
伸ばしかけた腕を払うように、千夏はそう言ってオレのほうをじっと見つめ返す。
平らに伸ばした感情を貼りつけたような、暗く、黒い、裏腹の気持ちを覗かせない目だった。
「コウもそうでしょ?」
「そんなこと……」
「あるよ。だって、ドッペルゲンガーを生み出してるんだから。自覚してないかもしれないけど、それってわたしじゃなくて、ちゃんと本物の千夏に未練を持ってるってことじゃん」
――そんなことない。そう、言ってやりたかったけれど。
“オレの知らないところでオレのドッペルゲンガーが存在している”という事実がある以上、オレが口にする言葉はどれも詭弁にしかなかなかった。
「コウといるとたのしいけど、疲れるし。コウのことはそりゃ好きだけど、それはべつにわたしの気持ちじゃないから」
「たとえ借り物だったとしても、それもおまえの感情じゃないのか」
「ちがうよ」
と、千夏は言う。
「だってわたしの『好き』は恋人としての『好き』じゃなくて、友達としての『好き』だから」
千夏はオレから視線を逸らさない。
口にした言葉にウソはないのだと、言い含めるように。
「今、本物のわたしからメッセージがきて、ようやくわかった。もしわたしがコウのことを恋人として『好き』なら、オリジナルのところにいってほしくないって思うでしょ? でも、わたしはコウにちゃんと本物の千夏と仲直りしてほしいって思ってる。これってつまり、そういうことでしょ?」
「…………」
「結局わたしはドッペルゲンガーなんだよ。その境遇を不幸だとも思わない、分相応に幸せを感じるドッペルゲンガー」
「…………本心か?」
「うん。コウがわたしを選んだら、むしろわたしは不幸になる。だからわたしは、わたしのためにもコウにオリジナルの千夏を選んでほしい」
オレはしばらく黙って千夏の顔を見つめていた。
しかし千夏はそんなオレをじっと見つめ返し、まばたきのひとつもせずに待っていた。千夏の表情に、仕草に、意志に、オレがウソの気配を見出そうとするのをやめるのを。
「…………」
視線を斜めに落とすクセを矯正されたところで、長い時間を共にしたオレには千夏がウソを吐いているかどうかくらいわかるはずだった。
けれど、千夏のどこにも、ウソの色はなかった。
そうして彼女の心を探っていると、次第に先刻まで感じていた千夏の気持ちのほうがウソのように思えてくる。
オレの腕の中に千夏がいたとき――それが短い一時だったとしても、ほんの一瞬、たしかにオレと千夏の気持ちが、重なった気がしたのに。
今ではそれが遠い過去のように思えてくる。
「だから、コウ」
そして、祈りを込めたような笑みで口にされた言葉が、決定打になった。
「はやくわたしをコウから自由にしてよ」
オレが前に進まない限り、千夏はずっとオレの人生に付き合わされ続ける。
残りがどれだけかもわからぬ時間。もしオレが彼女から離れることで、彼女の願いを叶えてやることで、彼女をオレから自由にさせてやることができるなら。それを彼女が望むなら。
オレは、こんなオレに今日まで付き合ってくれた彼女のためにも“この気持ち”にフタをすることを選ぶ。
「…………わかったよ」
オレはそれから本物の千夏と数回のメッセージを交わし、送り盆となる明後日の土曜日に会う約束をした。
その日は二十回目となる、千夏の誕生日だった。
「うん。よし。いい感じ」
オレが着ているシャツの襟を正し、千夏は満足げに頷く。
「これでわたしなら惚れ直すことまちがいなし」
姿見に映った自分を一瞥してオレは苦笑する。
伸ばしっぱなしにしていた髪はドライヤーで小綺麗に整えられ、冷たい水で洗わされた顔はスッキリと眠気を飛ばしている。ヒゲも剃った。口の中は歯磨き粉の香りで満たされている。スーツでも着ればそのまま企業の面接にだっていけそうだった。
「なんか、オレじゃないみたいだ」
オレを一瞥しているオレに、先月までのような後ろ暗さはない。
後悔なんてなくて。これから先の出来事に期待して。溢れるほどじゃないけどそれなりに自信みたいなものも纏っていて。本当に。
偽物のオレが、鏡の向こうで笑っているみたいだった。
「大丈夫。コウはちゃんとコウだよ」
オレは鏡から視線を外して千夏を見る。
彼女の左耳では金魚のイヤリングが揺れていた。
「ちゃんと、やれるかな?」
思い出したように不安を口にするオレの胸を、ゴン、と千夏が拳で叩く。
「しっかり。この一ヶ月、わたしでずっと練習してきたんだから。なにも心配ないっての」
「……ああ」
本当は、言葉ほど不安はなかった。
千夏が言うように、オレはずっと千夏自身と一緒にいたのだから。彼女に肯定された自分をさらに疑うほど、もうオレは子供じゃない。
金魚だって掬えるし、こうして本物の千夏に会いにいくことだってできてしまう。
それでも千夏に――ドッペルゲンガーの千夏に不安を漏らしたのは、なぜだろう?
この期に及んでまだオレは、今目の前にいる彼女に引き留めてほしいとでも思っているのだろうか?
だとしたら、それはまだオレの中から消えていない幼さが原因だ。
しっかり、しないといけない。今日までの一ヶ月は、すべてこの日のためにあったのだから。
「それじゃあ」
と、千夏がオレより先に玄関ドアを開けて外に出る。
「一緒にいくのか?」
「まさか。いったところで意味ないよ。忘れたの? ドッペルゲンガーの特徴」
ドッペルゲンガーは、オリジナルと同じ空間に存在することができない。
「じゃあ、どうして?」
尋ねてから、オレは千夏の手にレンタルDVDを入れた袋がいくつも持たれていることに気づく。
「返却期限って今日までだっけ?」
「ううん。まだ先だけど。返しておこうと思って。どうせもう、見られないし」
「どうして?」
「コウのところにはもう、いられないから」
オレは耳を疑った。
「なんでだよ? まだ、消えちまうわけじゃないんだろ?」
「そうだけど、せっかくコウが本物のわたしと縁りをもどすのに。偽物のわたしがコウの家にいたら、ややこしくなっちゃうでしょ。いろいろと」
「そんなことない。千夏だってそんなこと気にしないはずだ」
「わたしが気にするんだよ」
千夏の意志は固かった。
オレがここでどんなに引き留めても、彼女が考えを変える気配はなかった。
「わたしはわたしのことでコウと千夏の関係がこじれる可能性をちゃんと摘んでおきたいの。わたしの願いのためにも。コウだって、自分がわたしの立場だったらきっとそうするでしょ?」
ドッペルゲンガーの立場――オリジナルの心残りとして顕現し、それを解消するために動き、役目の終わりが命の終わりと直結する存在。
自分がそうなったときどうするかなんて、実際にドッペルゲンガーになってみないとわからない。
「……オレのドッペルゲンガーも同じ選択をしてるだろうって言いたいのか?」
千夏はコクリと頷いた。
「ドッペルゲンガーなんて、いないほうがいいんだよ」
それはちがうと、言ってやりたかったのに。
今のオレがそれを言うのは、あまりにも的外れで、状況に即していなかった。
「…………家を出ていって、それから千夏は――」
「コウ」
千夏がオレの言葉を遮るように手のひらを立てる。
「千夏ごっこは今日でおしまい。その名前は、ちゃんと本物の千夏のために呼んであげてよ」
「おまえだって、千夏じゃないか!」
オレの言葉に、千夏は首を縦にも横にも振らず曖昧に笑うだけだった。
「わたしはわたしのやりたいようにやる。残された時間を、コウの知らないところで、わたしの生きたいように生きる。だから、コウ。コウとはここでお別れ」
大きく三歩歩いて立ち止まり、彼女はクルリと身を翻す。
晴れ渡った朝空の下を泳ぐガラス細工の金魚が、日差しを反射してきらめく。
「子どものまま図体だけ大人になりかけてるみたいなコウに呆れることも多かったけど、コウと一緒にいたこの一ヶ月は、わたしにとって、たぶん、そう悪くない一時だったよ。たくさんサメ映画も見られたし」
「結局ソレかよ。おまえは」
「へへっ」
これ以上ない笑みを浮かべて、彼女はオレに向かって手を振った。
「バイバイ! コウ! 今度こそ、うまくやりなよ! もうだれも、心残りのドッペルゲンガーなんて生み出すことがないように!」
晴れやかな顔でそう口にする彼女に、オレはなんと返したらいいものかわからなかった。
口を開けば、括ったはずの腹の底から情けない本音が溢れ出してきそうだった。
だからオレはぐっと奥歯を噛み締め、精いっぱいの強がりで手を振り返した。
そしてオレは“彼女”に背を向けて“千夏”と待ち合わせている町の駅へと歩み出した。
†
千夏は県外の大学に進学していた。
こちらにはちょうど盆休みで帰省していて、今日の夜にはまた飛行機でもどるらしい。
オレは駅の構内に入り、蜘蛛の巣が張られたベンチに腰を下ろして千夏を待った。
やがて線路の向こうから鈍行の列車がやってくる。
オレは千夏を迎えようと立ち上がる。
しかし停まった列車はだれも降ろすことなく次の駅へと走り出した。
そういうことが三度あった。
オレは駅舎の丸時計を見上げる。
待ち合わせの時間にはまだあと十五分ほどあった。
「……あいつと一緒にいようとか考えてたくせに、千夏が来るってわかったら、ちゃんと胸躍らせてるじゃないか」
ドッペルゲンガーではなく本物の千夏と向き合おうとしている。
それはきっと正しくて。あいつが望んだことで。オレが、望んでいることだ。
「……」
踏切の警笛が鳴り始め、田舎町の駅にまた一台の列車が停まる。
視線を向けると腰の曲がった婆さんが改札口を通っていた。
無人駅にも関わらず、だれかに向かって礼を言っている。
オレは視線を落としてケータイの画面を見つめる。
ずいぶんと大人びたような、つまらない笑みを浮かべている自分がいた。
「コウ」
そのとき、オレはたしかに聞き馴染みのある声をきいた。
この一ヶ月ずっと隣できいていた、あいつの声だった。
オレはガバリと顔を上げて辺りを見回す。
「ここだよ」
すぐ横で呼びかけられて慌てて振り向く。
「…………え?」
そこに立っていたのは、見覚えのない女性だった。
高いヒールと、細い足。ふわりと膨らんだ紺色のスカートとフリルをあしらったグレーのシャツ。スラリと伸びた体躯を折り曲げて、とん、とん、と。跳ねるような足取りで彼女は後ろに二歩下がる。そして下げていた小さなカバンから片方の手を抜き、オレに向かってためらいがちに手を振った。
「ひさしぶり」
懐かしそうな、けれどどこか緊張した様子で微笑む彼女の肌は作り物みたいに白くて、大きく見える目の下には薄いシャドウが引かれていた。
乾きを知らなそうな唇には薄い紅が塗られていて。首筋を撫でる長い黒髪は軋みとは無縁の美しさだった。
どこかの雑誌のモデルだと言われてもすんなりと信じられてしまうくらいに、本当に、見違えるほど様変わりしていて。キレイになっていて。すぐにはそうだと、気づくことさえできなかった。
「…………千夏、なのか?」
恐る恐る尋ねると、彼女は恥ずかしそうにコクリと頷いた。
成長した彼女はいつの間にか化粧を覚えていて。ヒールのおかげもあって背丈はオレと同じくらいになっていた。
――五年前はオレの胸までしかなかったのに。と、そこまで考えて、それは五年後の自分と比較したときの話だとかぶりを振る。
「どうしたの?」
「いや……」
口ぶりからしても、彼女は明らかにオレが知っている千夏で。それなのに、目の前にいるのはまるでオレが知らない千夏みたいで。その錯覚に、オレは続けるべき言葉を逸していた。
そしてオレはドッペルゲンガーが残していった「困ったときの切り札」にさっそく手をつけてしまう。
「……あの、コレ、誕生日プレゼント」
オレはトートバッグを引っ張りながら立ち上がり、丁寧に包装された紙袋を取り出して千夏に手渡す。
「えー、ありがとう! なんだろう? 開けても、いいかな?」
オレはコクコクと頷く。
細い指でセロハンを剥がし、ゆっくりと中のモノを取り出した千夏は、不思議そうにオレの顔を見つめ返す。
「これって?」
「あ、えっと、ネックレスなんだけど」
それはメタリックの小さな金魚をあしらったネックレスだった。
今日、八月十五日が千夏の誕生日であることをオレが忘れたことはなかった。
だからといって、今まで一度もなにかを渡せたことなんてなかったけれど。いい機会だと、オレは連絡をもらってからの一日を使って彼女に似合いそうなものを選んで買っておいた。
買い物には千夏のドッペルゲンガーも連れていき、なにがいいか案を出してもらうはずだった。ところが土壇場になってオレのアイディアに一任されてしまった。オレが選んだものならなんでもうれしいというのが一応の理由だったが。
「……どう、かな? べつに気に入らなかったら捨ててもらっていいんだけど」
「まさか」
千夏はさっと後ろ髪をかき上げる。
そして浅く膨らんだ胸の上に金魚をぶら下げて首を傾げた。
「どう? 似合ってる?」
「……ああ。すごく」
「ありがとう」
千夏はクスリと笑って、それから思い出したように言った。
「これから、どうしようか?」
「え?」
打ち合わせでは、オレたちの周りで起こったことについて話し合う予定だった。
「このままここで立ち話っていうのも、ちょっとね」
「ああ。それは、たしかに」
そう頷いたものの、あいにくこの近くで腰を落ち着かせて話し合えそうな場所はなかった。
あのコーヒーが苦すぎる喫茶店にだって歩いていくには時間がかかる。
「オレの家くらいしか……」
「え?」
顔を上げると千夏が驚いたような顔をしていた。
そこでオレはようやく自分が無神経なことを口走ったことに気づく。
「じょ、冗談! さすがに再開していきなりはないよな!」
慌てるオレを見て、千夏はおかしそうに口元を緩ませた。
「じゃあ、とりあえず、どこかに出かける?」
「え? いや、でも……」
千夏に渡すプレゼントを買うために金魚貯金をほとんど使いきったオレの財布にはもう、片道切符ぶんの金しか残ってはいなかった。
「うん。わかった」
千夏は頷くと駅を出てキョロキョロとあたりを見回して手を掲げる。
まもなく千夏のまえに一台のタクシーが停車した。
「いこっ」
「……タクシーは、高い」
「大丈夫だよ。お金ならわたしが持ってるから」
「でも……」
と、逡巡していると視線の先にバスが停まった。
「なら、アレにしよう」
オレはタクシーの運転手に頭を下げて出発しようとしているバスに飛び乗った。
「コウ」
「こっちのほうが、まだ安いから」
「そうじゃなくて」
と、隣に腰かけた千夏が言う。
「手」
「え?」
駆け出すとき、オレは自然に千夏の手を握っていた。
まるでドッペルゲンガーの千夏に対してそうしていたように。
「わ、悪い」
慌てて手を放そうとするオレに千夏は言う。
「ううん。いいよ。このままで」
そして彼女はオレの手をそっと握り返した。
「……」
「……」
時折緩慢に揺れながら。バスはオレたちを遠くの町へと運んでいく。
†
バスの終着地点はショッピングモールになっていた。
間にもいくつか知った町の名前があったが、とりあえず一通りの店があるからいいだろうというじつに田舎らしい理由で、オレたちはバスに乗り続けることにした。
「こういうのも懐かしいな。都会だと、いる場所にあるものがそのまま目的地になっちゃうことが多いからさ」
「そっちはなんでもあるのか?」
「なんでもはないと思うけど、だいたいのものは揃ってるよ。お店も。人も。なにがないのかわからなくなっちゃうくらいには」
「へえ」
千夏は窓の外を眺めていた。
過ぎていく景色はオレと千夏が昔過ごした町のものではなかったけれど、田舎の風景なんてどこも似たようなもので。緑と、アスファルトと、光らない看板が、一遍調子で夏の日差しに照らされていた。
しばらく。オレたちの間にゆるやかな沈黙が流れていた。
「ドッペルゲンガー」
「うん」
千夏は窓の外に視線を放ったまま相槌を打つ。
「千夏のまえにも、現れたんだな」
「最初はびっくりしたよ。もうコウとは会えないと思ってたから」
「どうしてドッペルゲンガーだってわかったんだ?」
「センパイがね、教えてくれたんだ。わたしのまえに現れたコウのことを話したら、それはドッペルゲンガーじゃないかって」
「へえ」
木崎さんみたいに変わった人も、どうやら都会にはごまんといるらしい。
「コウは?」
「オレも似たようなもんだよ」
「じゃあ、ドッペルゲンガーが現れた理由については?」
「それについては、本人から直接きいてる」
「そっか」
千夏の胸で揺れている金魚が翻り、窓から差し込む光を反射した。
「心残りのドッペルゲンガー」
伝えきいたであろう言葉を反芻し、彼女はどこか自嘲気味に笑う。
「コウにもあったの? 心残り」
オレの手は変わらず彼女の手と繋がっていて。今更それを隠す気にはならなかった。
「実際に千夏のところにドッペルゲンガーが現れたんだから、きっとそういうことなんだろう」
千夏は窓の向こうに放っていた視線をこちらに向ける。
「コウ、千夏って呼んでくれたこと、あったっけ?」
「え?」
当然、あるだろうと思っていた。
十年近く一緒に過ごした幼なじみなんだ。呼ぶ機会なんて何度もあっただろう。
けれど、千夏の顔を見るに、どうやらなかったらしい。
考えてみれば頷ける話ではある。ドッペルゲンガーに促されるまで、オレはあいつのことも名前で呼ぶことができなかったのだから。
「……甘木?」
「そっちもないよ」
そういって、千夏はからかうように笑った。
「いいよ。千夏で」
「じゃあ、千夏」
「なに? コウ」
よくある話かもしれないけれど、そうして名前を呼び合うだけで、離れていた時間がすこしずつ縮まっていくような気がした。
同時に、あいつと重ねたはずの時間が、だんだんと薄らいでいくようだった。
「なんだかおかしな感じだね。互いに一言だって自分の想いを口にしてないのに、相手の気持ちを知り合ってるなんて。隠していた秘密を勝手にバラされたみたい」
「たしかに。でも」
「うん」
オレが言葉を続けなくても、千夏にはオレがなにを言おうとしているのか伝わっていた。
「わかってたよ。あのときコウがなにを言おうとしてたのか」
そう言いながら千夏が浮かべていた笑みは、十五歳の千夏と重なって見えた。
「そのへんは、でも、わたしのドッペルゲンガーからきいてるよね? たぶん」
「まあ、な」
時折ガタンと揺れて。それが心地よい眠りへと誘う車内で。千夏はかみしめるように呟く。
「コウはあのときわたしに告白しようとしてくれてた」
「ああ。そして千夏はそれを待っていた」
オレたちが五年間ずっと引きずり続けていた過去は――もしかしたらそうだったかもしれないという淡い期待は――ドッペルゲンガーの密告を介することでいともたやすく清算された。
「わたしのドッペルゲンガー、他になにか言ってた?」
「もし告白されてたとしても、断ってたかもしれないって」
「えー、なにそれ」
「ちがうのか?」
「……どうだろう? たぶんそんなことないと思うけど」
「あいつも可能性は低いって。ただ、付き合ったとしても別れてただろうとも言ってたな」
「わたしのドッペルゲンガーってそんなになんでもズケズケ言う感じだったの?」
「ああ。ドッペルゲンガーだからな。本人のためにも気は遣わないってさ」
「そうなんだ」
「オレのドッペルゲンガーはどうだったんだ?」
「え?」
千夏はすこしの間言い淀んだ。
「コウは……そうだな。あのとき告白できなくてごめんとか、そういうことを言ってたかな」
「へえ」
オレの知らないところで千夏と接触し、彼女と一緒にいたオレのドッペルゲンガー。
その動向には興味があった。
「千夏のことをバカにしたりとかは?」
「そういうのは、あんまり」
「こっちはひどかったぞ。何度オレの人格を否定されたことか」
「そうなんだ」
千夏はおかしそうに口元に手を当てて笑う。
「まあ、たしかにあのときのオレが至らなかったのは事実だからな」
「そんなことないよ。告白なんて本当はどっちからしてもいいんだし。至らなさを言うならわたしも同じ」
「それはまあ、そうかもしれないけど」
「うん」
「……」
「……」
ドッペルゲンガーと話し続けていたせいだろうか。
どうにも、千夏との会話がぎこちない。
噛み合わないわけではないけれど、スムーズにいくと思ったところでどちらかの足並みがズレているというか。どちらかが相手に合わせているような感じがするというか。繋がっているはずの二人の手の間に、まだなにか空白があるみたいだった。
――あいつと話しているときは、こんなふうじゃなかったのに。
「コウはこの五年、どんなふうに過ごしてたの?」
「え? ああ、えっと……」
と、答えようとしたところでバスがショッピングモールに到着した。
慌てて財布から小銭を取り出そうとするオレの手を広げて千夏が小銭を握らせる。
「はい、五百二十円」
「いや、出すよ。自分のぶんくらいは」
「べつにいいよ。どうせタクシー代出そうとしてたんだし」
「でも……」
「じゃあ、誕生日プレゼントのお返しってことで。たしかコウも、来週誕生日でしょ?」
オレは千夏がオレの誕生日を覚えてくれていたことに驚いた。
自分の誕生日なんて、言われるまでオレ自身も忘れていたのに。
「……わかったよ。悪いけど、頼む」
オレは既に空同然の財布をバッグにしまい、千夏と一緒にバスを降りた。
「さて、どうしようか」
「コウはどうしたい?」
オレは首を捻って考える。
話をするなら喫茶店かどこかに入ればいいと思う。
けれど正直今のオレにはコーヒー一杯の金さえ出し渋りたい額だった。
「じゃあ」
と、千夏が後ろの壁に張られたチラシを指差して言った。
「映画でも観よっか?」
「映画?」
コーヒーどころか映画なんて、と困惑するオレに千夏は「大丈夫」と膨らんだ財布を見せる。
できることなら甘え続けるのは避けたかったけれど、強がれる懐事情でもない。
彼女の善意を突っぱね続ければ、どこにも入れないまま今日という一日が終わってしまいそうだった。
「……わかった。いつか絶対返すから」
「うん。おっけー」
どれを見ようかとチラシを一瞥していると、水着の女がサメに呑まれているいかにもなサメ映画のポスターを見つけて苦笑する。
「おもしろそうなの、やってるな」
「そうだね。たのしみだな」
オレは千夏の手を引いてモールの三階にある映画館に入った。
†
「たのしかったね」
声を弾ませて映画館を出る千夏にオレは尋ねた。
「本当によかったのか? この映画で」
千夏が選んだのはいかにもなサメ映画ではなく、小説原作のミステリー映画だった。作家独自の世界観が特徴的で、語り口ひとつとっても好みが分かれそうなタイプの作品。
「コウはたのしめなかった?」
「いや、そんなことはないけど」
むしろオレは昔からこういうのが好きでよく見ていた。
だからたのしめなかった、なんてことはないけれど。
「千夏は、ああいうのが好きなんじゃないのか?」
オレは通路の端に置かれたサメ型パネルを指差す。
「ああ」
と、千夏は苦笑しながら言った。
「そういえば、昔はよく見てたな」
「今は好きじゃないのか?」
「そんなことはないけど、他のモノもたのしめるようになったって感じかな。だってサメ映画ってなんで流行ってるのかわからないくらいヘンテコだし」
「それはそうだけど」
「せっかく二人できてるんだから。わたしひとりがたのしむよりも、コウと一緒にたのしめるほうがいいかなって」
「そっか」
千夏の言葉はもっともで。そこには独りよがりじゃない思いやりがあって。あの夏の姿をしたドッペルゲンガーと比較しながら、オレはあらためて彼女が成長していることを実感する。
容姿だけじゃなくて。あたりまえに、彼女は大人になっている。
それは正しいことで。言動ひとつとってもどう考えたって大人になった千夏のほうが優れているのに。
――どうして、オレはそこに哀しさを見出してしまうんだ?
「どうしたの? コウ」
「え?」
いつの間にか立ち止まってしまっていたオレを千夏が待っている。
オレは急いで駆け出して、彼女の横に並んだ。
「コウって、わたしのドッペルゲンガーとなにしてたの?」
「借りてきたサメ映画をひたすら見たり、死んじまった金魚を埋めたり」
「なにそれ」
「そっちは?」
「うーん、特に言えるようなことは」
「なにかあるだろ。一緒に暮らしてたんだから」
「え? 一緒に暮らしてはないよ?」
オレたちの間に一拍の沈黙が下りた。
「……暮らしてないのか?」
「うん。ドッペルゲンガーとはいえ、一応男女だし」
ポカンと口を開けていた千夏が、訝しげな顔でオレのほうを見つめてくる。
「……コウは、暮らしてたの?」
オレは慌てて言葉を繕う。
「いや、だって住むところがないって言うからさ! それを突き放すのはさすがにオレの道徳心がさ!」
「なにもしなかった?」
「す、するわけないだろ!」
「ホントに?」
オレはコクコクと頷く。
疑われているようなやましいことはなにもしていない。
……強いてあげるなら、手を繋いで同じ布団で眠ったくらいだ。
それもべつに欲情したからとかではなくて。サメ映画を見ているうちに眠くなって自然にそうなっていたにすぎない。
「だって、十五歳だぜ」
「え?」
「さすがにしないよ。その辺はわきまえてる」
千夏はしばらく難しそうな顔をしていた。
しかしやがて「そっか」と納得した様子で頷いた。
「そっちのオレはむしろ大丈夫だったのか? 無一文だったんだろ?」
「そのへん、コウはしっかりしてたから。ときどき家にはきたけど、泊っていくようなことはしなかったな。オリジナルのコウに悪いって」
「へえ」
オレのドッペルゲンガーのことだ。
きっとその言葉は本心ではなく、ただカッコつけようとしただけだろう。
「それでも、なんだかんだ千夏のためにやってたんだな。ドッペルゲンガーのオレは」
「うん。だって、コウだからね」
それは誉め言葉だったけれど、褒められているのはオレじゃなくてオレのドッペルゲンガーのようだった。
そこを同一視することが、どうにもできなかった。
「他には? ずっとサメ映画見てたわけじゃないでしょ?」
「あとは……そうだな。服買ったり、喫茶店いったりとか」
「喫茶店って?」
「サンドイッチがうまいところがあるんだ」
「へえ。いってみたいかも」
「ここからだとちょっと距離があるぞ」
と、言ってから、通ってきたバス停のひとつがそういえば喫茶店にほど近い場所にあったことを思い出す。
「帰りにいってみるのはいいかもな」
「そうだね」
話しながら歩いていると、いつの間にかオレと千夏の間には距離ができていた。
「悪い。先々いっちまって」
「ううん。それより」
千夏はオレが着ている服を見て言う。
「それって」
「ああ。千夏のドッペルゲンガーに選んでもらったんだ」
「ふーん」
「悪くないだろ?」
他でもない千夏のドッペルゲンガーが選んだものなのだから、オレはてっきりすぐに頷いてもらえるものだと思っていた。
ところが千夏は曖昧に笑ってから「そうだ」と思いついたように言った。
「わたしが新しい服、買ってあげようか?」
「え?」
「誕生日プレゼントってことで」
「それはでも、バス代とか映画代とかで……」
「それはでも、返してくれるんでしょ?」
「まあ」
「それじゃプレゼントにはならないじゃん。やっぱりなにか、ちゃんと形のあるものをあげたいなって」
それに、と千夏は言葉を続ける。
「ドッペルゲンガーが選んだ服なんて、ちょっと気味悪いでしょ?」
「…………え?」
オレは返事に詰まった。
すくなくとも今のオレは、オレを変えてくれたあいつに対して、そんな感情はちっとも持ち合わせていなかったから。
感謝こそあれど、気味が悪いなんて、そんなこと。
「そんな服着てたら、いつまでも忘れられないでしょ?」
「忘れる?」
「ドッペルゲンガー」
あたりまえのことを言うように千夏は続けた。
「ドッペルゲンガーなんて非現実、わたしたちは早く忘れないといけないんだよ」
「…………」
――――本当に、そうなのだろうか?
たしかに、いい年をした大人が幽霊とかUFOとかについて真面目な顔をして語っていたら笑いものだ。
木崎さんも言っていた。大人になるとそういう非現実的なモノにはいき合わなくなると。
でも。それが大人になることなのだとしたら。
非現実という言葉で一括りにされた者たちの一生は、あまりにも報われなさすぎやしないだろうか?
「……」
オレはかぶりを振って浮かんだ思考を払う。
オレはあいつと離れることに決めたんだ。それはあいつのことを忘れて過ごすことと同義じゃないか。
あいつもそれを望んでいる。
現実に生きているオレは、ちゃんと大人にならないといけない。
「じゃあ、お願いしようかな」
オレの言葉に千夏は満足そうな笑みをこぼす。
そしてオレたちはショッピングモール内にあるテキトーな服屋に入った。
「ぴらっちゃいませぇー!」
オレたちが敷居を跨ぐなり、店の奥から絞められている鳥みたいな声の店員が近づいてくる。
フライドチキンを頭に乗せているみたいな髪の彼女と対面して、オレは思わず立ち止まった。
「げっ」
「げっ」
潰れたお好み焼きみたいな顔で笑っていた彼女の顔が一瞬ひきつる。
「知り合い?」
不思議そうな顔をして首を傾げる千夏。
素直に打ち明けようか、すこし迷った。
その間に店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔をとりもどし、絞められた鳥みたいな声でもう一度仕切り直した。
「ぴらっちゃいませぇー。ごカップルさんですかぁー?」
それをきいてどうするんだという疑問をぐっと飲み込んで、オレは千夏と顔を見合わせる。
千夏は驚いたような顔でオレのほうを見つめ返していた。
けれどやがて壁に貼られた『大特価! カップル割り!』のチラシを目にして、恥ずかしそうに視線を落としながら彼女はオレに耳打ちする。
「……カップル限定で、ペアの服が九割引きなんだって」
「へえ」
「ねえ、コウ」
千夏が躊躇いがちにオレの手を握ろうとする。
「…………え?」
「あ…………」
オレは彼女の手を避けていた。
自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。
さっきまで自然と繋げていたのに。
いくら恥ずかしくたって、あいつとは、ちゃんと繋ぐことができたのに。
心のどこかが、千夏のなにかを、拒んでいた。
「……」
オレと千夏の間に気まずい沈黙が流れそうになる。
それが嫌で、オレは慌てて一度避けた千夏の手をとった。
「どうも。カップルです」
オレは店員の女に向かって白々しく笑いかける。
その宣言をきいて千夏はぎこちない笑みを浮かべる。
店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔で笑うと勝手にオレたちをペアルックのコーナーへと案内した。
「ふざけた企画だけど、安くしてくれるんだからいいよな」
「うん」
「そのためなら恋人のフリくらいできるって」
「うん」
「予行練習だと思って」
「え?」
ポカンと口を開ける千夏を見て、オレはようやくオレの言葉が機能不全を起こしていることを自覚する。
「ああ、いや、えっと……あいつと、そういう会話をしたことがあったんだ」
「あいつって、わたしのドッペルゲンガー?」
「ああ。いつか本物の千夏とできるようにって」
「ふーん。そうなんだ」
千夏が気のない返事をする。
てっきり呆れられてしまったのかと思った。
しかし千夏はやがてぎこちなかった笑みを崩して、自然な表情で言うのだった。
「じゃあ、今が本番だね」
心を掌握するみたいなそのセリフを受けて、オレの胸の奥でなにかが軋んだ。
白い歯をのぞかせて笑っている千夏に店員がペラペラしゃべりながら様々な服を渡していく。
オレの服を買いにきたのだと千夏は説明していたが、ペア割りなんだから先に選べばいいと、オレは千夏を試着室に見送った。
「ふう」
店員の女がくたびれたように息を吐く。
合わせてなにか白い煙のようなものが目の前を覆って、様子を窺ったオレは失笑した。
女はどこからか取り出したタバコを口に咥えて一服していた。
「いいじゃないか、ね。タバコの一本くらい」
呆れているオレに気づいたのか、女はどこかのだれかみたいな人を喰った物言いでつらつらと言葉を落としていった。
「あれから勝手にセールしてるのが店長より上の人間にバレてブチギレられた。どうせ解雇するなら怒らなくたっていいのに」
「勝手にやってたんですか、アレって。じゃあ、今回のも……」
「まったく、ニコチンでもとらないとやってられない」
女は店の端でぷかーと煙を吐いて吊るされた服を人知れず汚していく。
「ようやく新しいバイト先見つけたってのに。またのこのこ現れやがって」
「……もしかして、オレのせいにしてます?」
「だれのせいにしてもいいだろ。これはただのひとりごとだ」
「ひとりごとでもバッチリきこえてるんだけどな」
「ならこれは愚痴になるかな?」
「そうですね」
「だったら互いに相手の秘密を黙っておくことでウィンウィンの関係を築いておこう」
いつかと重なるやりとりをペラペラと続けていたオレの口が、そこでピタリと動きを止めた。
「……オレの秘密って、なんですか?」
「キミがちょっとまえまで他の女の子と恋人ごっこしてたモテモテ男子であることとか」
「……」
見当ちがいな糾弾にオレは苦笑する。
「同一人物なんですよ。あいつも、彼女も」
「違法と合法くらい年はちがって見えるけど?」
「じゃあ、ちがいなんてそれだけなのかもしれませんね」
「なるほど。それはたしかに些細なちがいだ」
くっくっくっと喉を鳴らしながら彼女は笑う。
「でも、私にはやっぱりそうは思えないかな」
「外見とか似てませんか? ちょうどあいつの五年後、みたいな」
「内面も?」
「それは、もちろん」
「ふーん。まあ、キミがいいならいいけれど」
「ずいぶんと含みのある言い方ですね」
だって、と彼女は言う。
「キミはべつに好きな人がいるって感じの顔をしてる」
女が平然と口にしたその言葉に、オレは耳を疑った。
「……なにを言ってるんですか」
一拍の沈黙を挟んで、オレは彼女に向かって言う。
「あのときあなたに言われた好きだったやつが、今カーテンの向こうにいる人なんですよ」
「へえ。じゃあそれはもう過去の話だ」
「過去って……オレってそんなに軽薄に見えますか?」
「いいや。むしろ重すぎて昔の恋愛を延々と引きずってしまうタイプに見える」
「……まあ、当たってますよ。だからオレは……その過去と向き合うことにしたんです。あなたの言葉で言うなら、オレはもう、可能性のカーテンを開けたんですよ」
「それはどうかな? 私からしてみれば、キミはまだ変わらず少年のままだけど」
「オレなりに大人になったつもりですよ」
「ならどうしてそんな顔をしてるのさ?」
「どんな顔ですか」
「こんな顔」
女はどこからか手鏡を取り出してオレに向けた。
オレは鏡に映ったオレを見て、ゾッとした。
「…………」
あんなに変われたと思っていたのに。
千夏に認められるくらいはマシな顔になったはずだったのに。
今のオレの顔には、あのときと同じ戸惑いが滲んでいた。
ドッペルゲンガーと一緒にいながら本物の千夏のことを想っていたオレと同じ顔をしている。
あのとき願ったとおり、今はこうして本物の千夏と一緒にいるのに。ひさしぶりに会えて、たくさん話をしながらデートみたいなことをして。これ以上ないくらい、夢中にならないほうがおかしいくらいにたのしいはずなのに。
そんな今に没頭せずに、いったいオレはだれのことを考えている?
だれのことを、想ってしまっている?
「シュレディンガーの夏」
「…………」
「キミはまだ可能性のカーテンを開けてないよ。精々開けようとしてる段階ってところだ」
「……そんなことない。オレは決めたんだ。オレがずっと好きだった相手とちゃんと向き合うことに」
「まあ向き合ってはいるんだろう。でも、向かってはいない」
「言いませんでしたか? オレ、物理学とかはわからないんですよ」
「だから言っただろ。ただの人生学だって」
「なら、なにが正解だって言うんですか? オレはあいつのことが昔からずっと好きで。なのにあいつから目を逸らしちまったから、もう目を逸らさずにいようとしている。それってまちがいじゃないでしょう?」
「それを他人にきいてる時点でキミはまだ少年だよ」
やれやれと肩を竦めて女は言う。
「まあ、べつにまちがいじゃないさ。大事なら大事にするべきだし、好きなら好きにするべきだ」
「なら……っ!」
「キミ、ホントにあの子が好きなの?」
ポツリと落とされたその言葉が、オレの脳を揺さぶった。
「おまたせ」
着替えを済ませた千夏がカーテンを開けて出てくる。
ワンポイントをあしらっただけの赤いTシャツは、彼女が既に身に着けていた紺色のスカートとは妙に調和がとれていなかった。
千夏もそれを自覚しているようで、曖昧な笑みでオレの顔を窺っていた。
「似合ってるよ」とオレは言う。
「うん」と千夏は頷く。
どうしてウソなんて吐いているのかわからなかった。
店員の女は「そうでもないね」とタバコの煙を吐き出しながら思ったままを口にする。
そして彼女は店の奥から適当なスカートを引っ張り出して千夏に渡し、タバコをポイと店の端に捨てながら言った。
「彼女からしてみれば、カーテンを開けてみるまでそこにどんなわたしがいるかわからない。店員をやってるわたしかもしれないし、店員であることをキューケイしてるわたしかもしれない。だけどキミは変わらずにいるだろう。よくもわるくも、そのままのキミが」
「……なにが言いたいんですか?」
「キミが向き合うべきなのは、他人の心でも過去の自分でもなくて、今の自分の心なんじゃないのかい?」
オレの事情なんてちっとも知りやしないくせに。勝手な考えをバラまいた女は、最後にひと喋りしてからオレに買わせる服を選びにバックヤードへともどっていった。
「あの日の彼女と今の彼女が同じだとキミは言うけれど、やっぱりどうにも私には二人がちがって思える」
「どこが?」
「すべてが」
そんなはずがない、と。すぐに言い返すことがオレにはできなかった。
「まあ、人間なんて五年も経てばふつうは変わってるものさ。変わってない人間がいるとしたら、それは時間の流れにとり残されているってことになんだろう。よくもわるくもね」
「…………」
「だから、まもなく青年になる少年。キミが可能性のカーテンを開けるときをたのしみにしてるよ」
オレは千夏が買ってくれたシャツとズボンを着て店を出た。
千夏は買った服をそのまま袋に入れていた。
その袋の中にオレが着ていた服を丸めて押し込んでいると、なんだか自分の気持ちを潰しているような気になった。
†
それからも、オレと千夏は互いの近況について明かしながらショッピングモールをまわった。
千夏は映像研究会に所属していて。隔月で映画を撮影しては学内の人間を集めて上映会をしているらしい。千夏はそのサークルの女優で、この夏休みは同時に三本の映画に出演するため、盆くらいしか休めるときがないそうだ。
本人は謙遜していたけれど、彼女に人気が集まっているのは明らかで、オレとはちがって立派に大学生をやっているのが伝わってきた。
「ってことは、やっぱいつかはプロの女優になるのか? 事務所に所属したり」
「まさか」
千夏はありえないことだと笑いとばす。
女優をやっているのはあくまで成り行きであり、元は映画のディレクションについて学びたくて映像研究会に入ったらしい。
けれどそれも単なる興味でしかなく。大学に入るまえから彼女は既に自分の未来を決めていた。
「スクールソーシャルワーカー?」
「うん。元々それを学びたくて入った大学だし。知ってる? スクールソーシャルワーカー」
オレは首を横に振った。
「まあ、簡単に言うと、カウンセラーと先生の中間みたいな仕事」
「へえ」
「一応、資格試験とかもあるんだけど、そんなに難しくないからさ」
「そうなのか」
「うん」
会話が途絶えると、千夏はオレのことをきいてきた。
オレはきかれたことについていくつかの話をした。
千夏はなんでもない相槌を打っていたが、貼りつけた笑みの奥で心をひきつらせているのがわかった。
オレの大学生活は、千夏と比べてお世辞にもいいものとは言えなかったから。
やがて千夏はオレの近況についてきくのをやめた。
きいてもいいことはないと悟ったのだろう。
気まずい沈黙が続くのを恐れてオレはしきりに千夏に質問を重ねた。
けれどそうして千夏について尋ねれば尋ねるほど、オレの中でノイズのようなものが生まれていった。
千夏が映像研究会に入っていたことも、スクールソーシャルワーカーなんて横文字の仕事に就こうとしていることもオレは知らなかった。
単に見識がなかったというだけではない。
オレは、オレが知っている十五歳までの甘木千夏から、そんな未来を思い描くことができなかった。
千夏は人前に出てなにかをするのを好むようなやつじゃなかった。カメラを回しても、回される側になるのは嫌がりそうなものだった。たしかにサメ映画は好きだったけれど、彼女から映画を撮ってみたいという話はきいたことがなかった。だからあくまで消費者としての「好き」でしかないのだと思っていた。
仕事にしたって、千夏は「なりたいから」ではなく「なれそうだから」でそれを選んでいるようだった。
そんな理由で仕事を選んでもいいのかなんて尋ねる資格はなかったけれど、「そんな理由で仕事を選んでいる自分」にまるで葛藤がない様子の千夏を見ていると、なんだか彼女がずいぶん遠いところにいってしまったような気になった。
同い年のはずなのに。
幼なじみのはずなのに。
ひさしぶりに会った千夏は、オレよりずっと大人になって見えた。
時間の流れ方がちがっているかのような。オレの知らない世界にいってひとりで大人になってきてしまったかのような。
――かつてはたしかに千夏だったはずの、知らないだれかが、オレの隣にいるみたいだった。
「…………」
「…………」
やがて、オレたちの間から会話がなくなっていった。
昔はなにも考えなくたって話くらいできたし。話さなくたって、それで緊張することなんてなかったはずなのに。
あの頃とはちがう、妙な居心地の悪さが、オレと千夏の間に下りていた。
「…………千夏?」
ふと、隣に彼女の気配を感じなくなって振り返ると、千夏が足を押さえて蹲っていた。
「どうした?」
駆け寄って彼女の手をどけてみる。
「お、おい。どうしたんだよ、これ?」
千夏の足首は赤く腫れあがっていた。
「ああ、うん。ごめん。ちょっとくじいちゃって」
「いつ?」
一拍の沈黙を挟んで、彼女は言った。
「さっき」
口元を緩ませて笑おうとしている千夏の視線は斜めに落とされていた。
それは千夏がウソを吐くときのクセだった。
オレは彼女がウソを吐いてまでなにを隠そうとしているのか考える。
考えて、思い出して、息が詰まった。
「……オレのせいか?」
思えば、ショッピングモールに着いてから今日一日、彼女の歩みは遅かった。
それが今の千夏の歩幅なのかと思って合わせようとしていたけれど、もし、ケガが理由で、それを悟られまいとしていたのだとしたら。オレは彼女にずっと痛みを我慢させていたことになる。
――あのとき。バスに乗り込もうと彼女の手を引いたとき。思えば一瞬だけ、背後で千夏の苦悶に歪んだ声をきいたような気がした。
「…………ごめん、千夏。ヒールの靴だもんな。いきなり走ったりしたら、ダメだよな」
「コウのせいじゃないよ。わたしがフラフラしてたから」
「痛むか?」
「……ちょっとだけ」
オレは腰を屈めて彼女を背負った。
「ちょ、ちょっとコウ? なにしてるの?」
「その足で歩かせるわけにはいかないだろ」
「でも……」
千夏が恥ずかしそうに顔を赤くして辺りを見回す。
同じようにすれ違う人々もチラチラとオレたちの様子を窺っていた。
「……帰ろう」
オレはだれの目にも留まることがないように早足で歩いた。
エレベーターに乗ろうかと考えたけれど、既に何人かが待っていたのでエスカレーターを下った。
集まる視線を振り切ってショッピングモールを出たオレたちは、ちょうど帰りのバスが停まっていることに気づく。
いつの間にか空は茜色に染まり、夕映えの光線が遠くの山のふもとから放たれていた。
「いいよな?」
「……うん」
オレは千夏を背負ったままバスに乗り込んだ。
そして間もなく、バスはショッピングモールをあとにして走り出した。
千夏は肩から手を滑らせるように離して席に座る。
「ありがとう、コウ」
「礼を言われることじゃないよ」
「重くなかった?」
「ああ、特には」
「そっか。よかった」
小さく笑いながら息を吐いて千夏は言った。
「コウって、変わってないよね。昔から」
「そうか?」
「そんなふうにカッコつけるところとか」
ドッペルゲンガーの千夏にも同じことを言われた。
あの日はひとりで延々と土を掘り返して。案の定、翌朝は筋肉痛で散々だった。
「コウは……」
と、なにかをいいかけて、千夏は言葉を呑む。
「なんだ?」
「ううん。コウは、昔と変わんないなあって」
「それはさっきも言ったじゃないか」
「うん。そうなんだけど、本当に。そうなんだなあって」
噛みしめるように千夏が呟いた想いと逆のことを、オレは千夏に対して感じていた。
千夏は、なんというか、すごく大人になってしまったような気がする。
それは千夏が言うように、オレがいつまでも子供のままでいたからかもしれないけれど。
見た目はもちろん。考え方とか、振る舞いとか、将来に関する見通しとか。
オレが知っている千夏と、今の千夏とは、なにもかもがちがって見える。
「コウって、今、付き合ってる人とかいるの?」
「え?」
脈絡のない突飛な質問だと思った。
「いるわけないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
そんなこと、きくまでもないことのような気がした。
「オレはおまえのところにドッペルゲンガーを送り込んじまうくらい人生にまいってるんだぜ?」
「そんなこと、自信満々に言わないでよ」
窓の外を見つめながら笑う千夏に、オレは同じことをきいてみる。
「千夏は、いるのか?」
「いないよ」
千夏はすぐにそう言葉を返した。
「コウは、五年もずっとわたしのことを好きでいてくれたんだよね」
千夏はなにかをたしかめるように言葉を落とす。
「ああ。千夏も」
「うん」
今さらの確認を重ねながら、オレはふいに違和感を覚える。
ひさしぶりに会った千夏は、オレほど人生にまいっている感じがしなかった。
この一か月でオレだってそれなりに改善してどん底の調子ではなくなっている。
だけどそれはずっとオレと一緒にいて人生のカウンセリングを施してくれていたドッペルゲンガーのおかげで。あいつのおかげでようやくオレは“昔と変わっていない状態”まで回帰することができた。
けれど、千夏は、そんなオレとちがって、あたりまえに成長している。
オレと同じく心残りのドッペルゲンガーを生み出して、ずっとあの日に想いを馳せていたはずなのに。
オレも、千夏も、あの日に心を残してきたはずなのに。
千夏ばかりが大人びて見えるのはなぜだろう?
「それだけ?」
「え?」
見れば千夏がオレのほうを覗きながら首を傾げていた。
「わるい。なんだっけ?」
千夏は「なんでもない」と言って細い息を吐いた。
夕焼け色の窓が微かに曇った。
「帰りの飛行機には、まだちょっと時間あるんだ」
「なら、昼間言ってた喫茶店、いくか? サンドイッチがうまいとこ」
「いきたい」
オレと千夏は駅から三つ手前のバス停で下りた。
†
「ホントにおぶらなくていいのか?」
「うん。まだちょっと痛いけど」
「なら……」
「あそこでしょ?」
と、千夏が向かいの喫茶店を指さす。
相変わらず掲げられた『コーヒー一杯五十円』ののぼりが安物買いを招いている。
「さすがに背負われたままお店に入るのはね」
そういって千夏は横断歩道を渡り始める。
オレは千夏の歩調に合わせてゆっくりと後ろからついていった。
オレたちの間には二人分くらいの距離ができていた。
「昔やらなかった? 横断歩道の白線だけ踏んで歩くやつ」
「ああ、やってたやってた」
オレはとん、とん、とん、とアスファルトの上を飛んで千夏の前に躍り出る。
千夏はそんなオレを見て苦笑いを零していた。
「千夏は、できないよな」
「うん。そうだね。もう、できないかな」
その言葉の真意すらわからぬまま、オレは店の中へと入り席についた。
「なににする?」
「サンドイッチがおいしいんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、それと」
ガラス窓の向こうではためくのぼりを一瞥して千夏は言う。
「コーヒーかな」
オレは同じようにソレを頼んで苦さにやられたドッペルゲンガーのことを思い出していた。
元からコーヒーなんて全然好きじゃないくせに。あいつはいつも背伸びして大人ぶっていた。まるで苦いコーヒーさえ飲めれば大人になれると信じているみたいに。
「やめといたほうがいいぞ」
「どうして?」
「ここのコーヒー、すごく苦いんだ」
「へえ。そうなんだ」
「だから飲むなら覚悟して……」
「飲まないよ」
「え?」
当然のような顔でそう答える千夏に、オレは続いていたはずの言葉を失った。
「だって苦いんでしょ?」
「……それは、そうだけど」
「じゃあ他のにしとく」
「なんで?」
「え?」
オレの問いに今度は千夏のほうが困惑を露にする。
「なんでって、理由はだから、苦いからだけど」
「そうだけど、でも、千夏は、昔からよく飲んでただろ。無糖のコーヒー」
「……ああ、飲んでたね。そういえば」
懐かしそうに瞳を陰らせて千夏は言う。
「コウのまえでだけ、ムリして飲んでたなあ」
千夏はあっさりと自供した。
ドッペルゲンガーのあいつが、十五歳の千夏が一度も認めようとしなかった強がりを、過去のこととして語って。彼女は開いたメニューをざっと見てからカフェオレを頼んだ。
「コウは?」
「ああ、えっと、じゃあ、コーヒー」
「それと、サンドイッチで」
注文を済ませた千夏はメニュー表を閉じて笑った。
「いいの? 苦いんでしょ?」
「……背伸びするの、やめたのか?」
「うん。だってもう、背伸びしなくていいくらい、大人になっちゃったし」
オレが渡したネックレスが彼女の胸元で光っていた。
十五歳だった彼女と比べて、その胸も、その背も、ずいぶんと成長して変容を遂げていた。
「わたし、変わったでしょ?」
オレのほうをじっと見つめて千夏はふっと口元を緩ませる。
「ああ。たしかに」
「五年もあれば人は変わるものだよ、よくもわるくも。大人になるにつれて平均値に近づくように目減りされて特別じゃなくなっていく。相手に合わせることもできるようになるし、納得できないことにも折り合いをつけて妥協することを覚えていく」
「…………」
「だからコウも、きっと変わってるんだって思ってた」
沈黙の中でオレはゆっくりと理解していく。
オレと千夏の間にずっと漂っていた違和感の正体について。
「変わってないって、よく言われたな。今日は」
「うん」
その言葉をオレは好意的に解釈していた。
久しぶりに再会した幼なじみが、ずっと好きだった相手が、変わらずにいてくれてよかったと。
変わっていない――その言葉が必ずしも賞賛の意味を含んではいないことくらい、すこし視野を広げて考えてみればわかりそうなものに。
オレは千夏に、変化なんて求めていなかった。というより、変わってしまった千夏なんて想像することもできなかった。なぜならオレ自身があの日で空想の時間を止めて、過去に縋って生きて、未来など視ようともしていなかったから。
けれど、どうやら千夏のほうはちがっていたらしい。
千夏はこの五年、しっかりと人生をやっていて。その五年の積み重ねで自身を変化させていた。その結果として見違えて、千夏ではないべつのだれかに思えてしまうくらいに、オレが知っている千夏との間に齟齬ができてしまっていた。
――――この五年で、千夏は変わって、オレは変わっていなかった。
それが今日一日オレたちの間にずっとあった不調和の原因だった。
「でも、なんでだよ?」
ふつうに生きていたら人は五年で大なり小なり変わってしまう。
現在を、未来を生きるために、過去と折り合いをつけて生きていくしかない。
たしかにそうだろう。
だけどオレたちの間には既にひとつ、ふつうじゃないことが起こっている。
「千夏も過去に囚われていたからドッペルゲンガーなんてものを生み出しちまったんじゃないのか?」
心残りのドッペルゲンガー。
それは紛れもなく当人が折り合いをつけられてない過去を保持している証明だった。
「うん。そうだね。わたしもこの五年間、よくあの日のことを考えてた」
でもね、と千夏は言う。
「考えてたけど、それを理由に足を止めたりはしなかったよ。だってそうしているうちに大事なものをとりこぼしていっちゃうかもしれないし。わたしにとって心残りは点だから」
「点?」
「そう。ふいに振り返ってそこにあったことを思い出す、人生の線上にある点」
オレは、そんなふうに考えたことがなかった。考えることができなかった。
オレにとって心残りは点ではなくフタだった。
振り返るものではなく、目の前に――あるいは目の上にあり続けて視界を遮り、行く手を阻む天井のフタ。
それによってオレの人生はずっと前進を止められていた。
「今日一緒にいて、懐かしかったよ。なんか、十五歳のときのコウが隣にいるみたいで」
彼女の言葉にトゲはない。皮肉のようにも感じられない。
だからそれは裏のない素直な言葉だった。
思えば彼女は、ドッペルゲンガーが口にしていたような鋭い言葉を、再開してから一度も口にしていなかった。
オレの至らなさにも目を瞑り、いろんなことを曖昧な笑みで流していた。
その振る舞いは千夏が本来持っているやさしさであり、気遣いであり、もしかしたら大人になるにつれて覚えた妥協なのかもしれないと思った。
「コウは、わたしといて、懐かしかった?」
押し黙ったオレの答えを見透かしたように千夏は笑みをこぼす。
コーヒーより苦いものなんていくらでも知っていそうなその笑みは、こぼした感情の奥に得体の知れない気持ちをいくつも含んでいそうで。美しくもあり、妖しくもあり、気持ち悪くもあった。
そして彼女はおもむろに言った。
「わたしのところに現れたドッペルゲンガーは、ちゃんと来週で二十歳になるコウだったよ」
「……二十歳の、オレ? 十五歳じゃなくて?」
「うん。二十歳の、現実のコウより大人びてるコウ」
それはオレと千夏の間にある明確な差異だった。
「なんで今まで言わなかったんだ? 言うタイミングなんていくらでもあっただろ?」
「そうなんだけど、言わないほうがいいのかなって思って」
千夏は躊躇いがちに視線を逸らして、ポツリと呟く。
「言っちゃったら、そこでなにかが終わっちゃう気がしたから」
「なにかって?」
「さあ、なんだろう?」
そういって千夏は曖昧に笑う。
もしかしたら彼女にもハッキリとその答えについては見えていないのかもしれない。
ただ、千夏はそういう思いを抱えながら、それでもここでドッペルゲンガーの差異について打ち明けた。
それはたしかな真実だった。
「……そっか」
オレはオレの中でストンとなにかが落ちるのを感じた。
店員が注文した品を机に並べて去っていく。
千夏はカフェオレを一口含んでため息に変えた。
「二十歳のオレはどんなやつだった?」
「わたしのほうから言ってもいいことを先に言ってくれて、わたしがなにも言わなくてもわたしのことを理解してくれてるような人だった」
その一言だけで、オレはおおよそのことを理解する。
「なるほど。それはちょっと、今のオレじゃ背伸びしても届かなそうだ」
そういって苦笑しながらオレはコーヒーに口をつけてその苦さに舌をやられた。
「このコーヒーも、オレのドッペルゲンガーならおいしく飲めるのかもな」
「うん。そうかもね」
「すくなくとも、ヒール履いてるのにいきなり手を引っ張ったり、出かけることがわかってるのに持ち合わせをきらせたりはしなさそうだ」
オレの言葉に頷くことはせず、千夏は窓の外に視線を投げていた。
二人の間に下りた沈黙は鈍重で。オレたちのこれからを暗示しているみたいだった。
にも拘わらず、オレの心は不思議なくらいに落ち着いていた。
オレは、大人になった千夏に違和感を覚える度に、オレの認識がまちがっているのだと思っていた。
ドッペルゲンガーと――あいつと長く一緒にいすぎたせいで感覚がおかしくなっているのだと、思おうとしていた。
だから千夏が千夏らしくない言動をしても気にしないようにしていた。
千夏らしさなんてものはオレが勝手に抱いている幻想で、今目の前にいる千夏をしっかりと認めることこそが自分のすべきことなのだと言い聞かせて、胸の奥で渦巻いている気持ちから目を逸らしていた。
でも、オレがそうやって自分の気持ちをごまかしている間、きっと千夏も同じことを考えていたにちがいない。
だからあの「なにかがちがう」という感覚が“オレの中からではなくオレたちの間から”消えなかったんだ。
オレがひさしぶりに会った千夏に対して違和感を覚えたように、千夏もまた今のオレに対して「なにかがちがう」という思いを抱えているのだとしたら。
オレたちの間に漂うソレは、間違いでも気のせいでもなく、たしかにそこにある「齟齬」ということになる。
それはもしかしたら覆しようのない齟齬なのかもしれないけれど、それでも「なにがちがうのか」という疑問に対してなにも答えが見えないよりはマシだった。
「でも、なんでオレたちのまえに現れたドッペルゲンガーは歳がちがうんだろうな? どっちもオリジナルの心残りのはずなのに」
「たぶん観測者がちがうからじゃないかな」
「観測者?」
「心残りっていっても、それって本来は形のないものでしょ? そこに形を与えるのは、だからオリジナルじゃなくて観測者のほうなんだよ」
「……哲学とか、やってたりするのか? 大学で」
「まあ、ちょっとだけね」
そんなイメージもなかったよ、と呆れるオレに苦笑いで返して千夏は話を続ける。
「ドッペルゲンガーって、オリジナルと同じ空間には存在できないって話だったでしょ?」
「ああ」
「そういう縛りがあるから観測者――つまりわたしたちのまえに姿を現すにあたって、わたしが思うコウに――コウが思うわたしに――ちょっとだけ変質しちゃったんじゃないかな」
「わるい。あんまり詳しくなくて」
「つまり、わたしはあの日から成長してるんだろうなってコウを思い浮かべていたからそのとおりのコウが現れた。だけどコウはあの日のままのわたしを空想してたから、その姿のわたしが現れたっていう。まあ、あくまでただの仮説だけど」
「……なら、要するに、ドッペルゲンガーとオリジナルは別人ってことなのか?」
観測者の――つまりオレの空想がドッペルゲンガーの性格を形作っているとしたら。それは千夏の心残りが形をもったというより、オレの空想がドッペルゲンガーとして現れたというほうが正しいように思える。
それなら現実の千夏と千夏のドッペルゲンガーが重ならなくても無理はない。
「……まあ、そうかもね」
そう頷く千夏の表情はなぜだかすこし淀んで見えた。
「コウはどこで出会ったの? わたしのドッペルゲンガーと」
「このあたりでやってた夏祭りの会場で」
「ひとりでお祭りにいってたの?」
「ああ」
「なにしてたの?」
「金魚掬い」
真面目な顔で答えるオレを見て、千夏はクスクスと口に手を当てて笑った。
「掬えるようになった? 金魚」
「ああ。最近になってようやくな。あいつにコツを教えてもらって」
「あいつって?」
「千夏のドッペルゲンガー」
「コウがあいつって言うときって、いつもわたしのドッペルゲンガーだよね」
「他にそんな呼び方できるようなだれかと関わることがなかったからな。ひどい人生だろ?」
「わたしのせいかな?」
「ちがうよ。勝手におまえのこと引きずってたオレのせいだ」
オレはストローに口をつけて一気にコーヒーを飲み干そうとする。
ところが、途中で口の中に昇ってくる苦みが止まった。
「……?」
身を乗り出した千夏が、オレのストローに指でフタをしていた。
「コウ、なんか、はやく帰りたがってるみたい」
「……そんなことない。ただ、千夏の飛行機のこともあるから」
「まだ時間ある」
「何時?」
「……」
「空港まで、電車とバスだろ? ギリギリまで粘ってもし乗り遅れることがあったら悪いし」
「乗り遅れてもいいよ」
言葉ごと、なにかを捨てるように、千夏はそう言った。
「どうして? 払い戻しとかってできなかったんじゃ?」
「お金のことなんていいんだよ、べつに」
千夏はバッグから取り出した財布の口を開けてひっくり返す。
机の上に一万円札がばらまかれ、揺らめく紙面の上をいくつもの小銭がうるさく泳いだ。
「お金なら手のひらで掬えるくらいはあるし、これからいくらでも稼げる」
「……映画の撮影とか、試験勉強もあるんだろ?」
「……あるよ」
だったら、という言葉をオレは飲み込んだ。
けれど、それが喉の奥で新しい言葉に変わることはなかった。
「…………ここまで言っても、ダメなんだ」
そう呟いて笑う千夏は、人がなにかを諦めるときの顔をしていた。
「ねえ、コウ」
艶めいた声でオレの名前を呼んで、千夏は小さく首を傾げる。
「わたしのこと、好き?」
それは一日一緒にいて、互いに一度として直接向けようとはしてこなかった問いだった。
なぜならオレたちはその気持ちについてドッペルゲンガーを介することで尋ねるまでもなく既に知っていて。知られていて。知ったうえで、会うことに決めたのだ。
だからそんなこと、今更きくまでもないことのはずなのに。
今のオレには、答えることができなかった。
「わたしは好きだよ、コウのこと」
揺らぐ想いに打ちつける楔のような言葉を千夏は投げかけてくる。
「…………どうして?」
ようやく返せたのは、そんな程度の言葉だった。
「だって、おかしい。おまえはオレに変わっててほしかったんだろ。二十歳相応に気が使えるようなやつになっててほしかったんだろ? おまえと一緒にいたっていうドッペルゲンガーみたいに」
「そうだね」
「だけどオレは、まだ変われてない」
「そうだね」
「なら」
「ドッペルゲンガーを選べばいいって?」
オレの心を見透かしたように千夏は言った。
「選べないよ」
「どうして?」
「だって、もう消えちゃったから」
千夏は長い息を吐いてから、隠していた秘密を打ち明けるように言った。
「消えた?」
「うん。コウに連絡したすぐあとに」
千夏からケータイに連絡があったとき。
オレは本物の千夏ではなくドッペルゲンガーの千夏を選ぼうとしていた。
けれど、オレのドッペルゲンガーがいると明かされ、オレの中にもまだオレに自覚できていない心残りがあるのだと思って、ドッペルゲンガーの千夏に想いを伝えることができなかった。
たしかに見えていたはずの気持ちにフタをして、オレはあいつと別れてしまった。
「元々、消えかかってたんだ。ちょっとまえから。コウのドッペルゲンガーと出会ったのは先月だけど、日を重ねるごとにその姿が透明になっていった」
「……」
「コウ、わたしのこと、忘れようとしてたでしょ?」
「……忘れようとしてたわけじゃない。ただ……」
「もしかして、ドッペルゲンガーのほうを選ぼうとしてた?」
まるで自分のことを語っているような正確さで千夏はオレの過去を言い当ててみせる。
そして彼女は浮かせていた腰をイスにもどして言った。
「ねえ、コウ。ドッペルゲンガーなんてホントはいないんだよ」
「……なに言ってんだよ?」
千夏は指先でストローを弄ぶ。
カフェオレの中で氷がカランと音をたてた。
「いるじゃないか。オレと一緒にいたように。おまえと一緒にいたように。オレたちのドッペルゲンガーは」
「うん。でも、だから、わたしたちの日常が今はおかしくなってるんだ。夢でも見ているみたいに、ありえちゃいけないはずのことがありえてる。だって、おかしいでしょ? 心残りが好きだった人の姿になって現れるなんて」
「……」
「ドッペルゲンガーっていうのはとどのつまり、わたしたちの空想なんだよ」
「でも、たしかにいる。オレはこの一ヶ月毎日あいつと話してたし、千夏だってオレのドッペルゲンガーと話したからこうしてオレと会うことにしたんだろ?」
「そうだけど、今はもういない」
「……千夏のドッペルゲンガーは、まだいる」
「それはどうかな? 実際に確認できてるわけじゃないし」
千夏の中の心残りが消えたとき、自分の存在もまた消えてなくなってしまうとあいつは言っていた。
けれど、それを待つまでもなく。たしかに今、まだ、あいつがどこかにいるという保証はない。
もしあいつが既にオレのところからではなく、この世界からいなくなってしまっていたとしても、オレにはそれをたしかめる術がない。
「……ふふっ。ごめん。いじわるだったね。うん。いると思うよ。わたしのドッペルゲンガーは、まだ」
そういって千夏はサンドイッチを一口頬張る。
「でもそれは、わたしの中にまだコウへの未練があるから。わたしがコウを好きじゃなくなっても、このままコウと一緒になっても、ドッペルゲンガーはじきに消えるよ」
千夏はまるで、自分自身を人質にするかのようにして言葉を紡ぐ。
「ねえ、コウ。本物と空想を天秤にかけて空想のほうを選ぶっていうのは、シャボン玉を掴もうとするようなものなの。できっこないの」
「……だから、本物のオレで妥協するっていうのか?」
「コウはわたしのこと、好きじゃないの?」
千夏は長い髪を耳にかける。
露になった首筋が喫茶店の薄ぼんやりとしたライトに照らされてひどく扇情的に見えた。
「大丈夫だよ、きっと。わたしたちの間にある違和感はすぐになくなる」
「……どうして?」
「わたしが大人になったように、コウも大人にならずにはいられないから」
いつの間にか千夏は唇を尖らせてオレに迫っていた。
首を傾けて、鼻で小さく息を吸って、目を閉じて。
呆然としているオレの唇に、千夏はそっと唇を重ねた。
「……ッ!」
気がつくと、オレは千夏のことを突き飛ばしていた。
ドサリ、と。千夏がイスの上にたおれる。
「もしかして、はじめてだった?」
そういって笑う千夏の気持ちが、オレにはわからなかった。
昔はあんなにわかり合えていたはずなのに。たしかに気持ちが重なっていたはずなのに。
口の中に広がるサンドイッチの味が、ただただ気持ち悪かった。
「……なに、してんだよ?」
「ねえ、コウ。わたしたち、付き合ってみる?」
「そんな話、してないだろ」
「じゃあどんな話がしたいの?」
子供を諭す大人のような口調で千夏は言う。
「あの日と同じ。コウが話したいことを話すのに、わたしはどれだけ待てばいいの?」
「それは……」
「もう、時間切れなんだよ」
上体を起こして座り直した千夏の胸でネックレスが翻る。
成長して大人びた今の千夏に、オレが買ったネックレスはあまりにもチープだった。
「わたしは大人になっちゃったし、コウももうすぐ大人になっちゃうんだよ。嫌でも、ならなくちゃいけないんだよ」
「…………」
「コウだってその気だったんでしょ? わたしと会うことにしたってことは」
「その気って、なんだよ?」
「それをきかなきゃわからないなら、たぶんきいても必要なことはわからないよ。だからコウ、今日、コウの家に泊めてくれないかな?」
「ちょっと、待ってくれよ」
会話の速度が、急に早まったみたいだった。
オレの理解を待たずに並べられる言葉は共有されていない専門用語みたいで。相対的に、今までの会話が全部、ずっと、オレの理解を促すために紡がれていた探り探りの言葉だったのだと思い知らされる。
「オレの知ってる千夏は、そんな一方的に話を進めるようなやつじゃなかった」
「なら、これからは本当のわたしを知っていってよ」
オレたちの間に沈黙が下りた。
やがて、千夏は大きなため息を吐いて席を立った。
「ちょっと、いってくるね」
「どこに?」
尋ねるオレを見下ろして千夏は呆れた様子で笑ってみせる。
「カバン、みててね」
そういって、千夏は店の奥に消えていった。
オレの前には、散らばった小銭と、札と、飲みかけのカフェオレがあった。
なにも整頓されていない。それがまるでオレと千夏の関係みたいだと思って、笑えて。
オレはオレの未熟さに頭を抱えた。
「…………くそ……」
千夏は変わってしまった。
それを受け入れられずに、言葉に言葉で返すことしかできないオレは本当に子供だ。いつまでも幼いままでいようとするガキだ。わかってる。
――――千夏のことがきらいなわけじゃない。あたりまえだ。ずっと好きだったんだから。
いくらあいつが変わったからって、根本がまるごと覆されたわけじゃない。
昔からあいつはオレに合わせてくれるところがあったし、今日だって本当に、さっきまでは、待っていてくれたんだ。オレのほうから“これから”について切り出すのを。それくらいは、わかってる。
今のコレだって、ドッペルゲンガーなんて得体の知れない存在が原因で揉めているだけだ。
オレが、あいつのことをちゃんと忘れられたら。なかったことにできたら。いさかいなんて起きなかった。
あいつと別れたときに、ちゃんと本物の千夏だけを見ると決めたのに。
「……」
嫌いなわけじゃないことと、好きなこととが繋がらない。
その間にあるはずのなにかが、欠けてしまっている。
かつては、たしかに、あったはずなのに。
「…………」
茶色。銀色。薄黄色。
散らばった色彩を眺めながら、オレはそこにまちがいを見出す。
こんなに汚れてはいなかった。あの日泳いでいた金魚はもっと色鮮やかで。何度も掬おうとしては逃げられて。そんなオレに、あいつが手を貸してくれた。
「…………ははっ」
オレの思い出は、いつの間にか上書きされていた。
ふいに思い出す情景が、覚えていたい出来事が、遠い昔から、数日前のあの日に、すり替わっていた。
どちらの記憶にも、オレの隣には変わらず十五歳の千夏がいる。
片方は本物の千夏。
そしてもう片方は、千夏の心残りが生み出したドッペルゲンガー。
新しいほうはまやかしみたいな記憶なのに。およそ現実感のない、すべてがふいに泡沫に帰す夢みたいな時間なのに。
オレの頭はあいつとのことばかりを思い出して。勝手に後悔を運んでくる。
もっと言えることがあったんじゃないか。
もっと言うべきことがあったんじゃないか。
もっとすべきことがあったんじゃないか。
そんなことばかりを考えて。
オレの中で、心残りが渦巻いていた。
「……オレは、まだちゃんと答えを出せてない」
あのとき、ドッペルゲンガーの千夏を抱きしめたとき。オレのドッペルゲンガーがいると知らされて、オレの中に迷いが生まれた。
オリジナルの千夏に言われて、ドッペルゲンガーの千夏に諭されて、オレはオレの気持ちを信じきることができなかった。
信じきれなくて、最後まであいつに想いを伝えきることができなかった。
オレはまだ大人になれていない。
オレはまだあいつから“本当の気持ち”をきけていない。なぜならオレがそれを伝えきれていないから。
結局、あいつが口にしたのは状況証拠から導き出した神様の戯言だ。
だからオレは、それをきかない限り、ずっと心残りを抱え続けて生きていくことになる。
ありえたかもしれない“もしも”に期待して、性懲りもなく新たなドッペルゲンガーを生み続ける人生になってしまう。
「もういやだ。そんなのは」
オレはブラックコーヒーを一口に飲み干す。
そして散らかった硬貨をひとつところにまとめ、積み上げた段に最後の一枚を乗せようとしたとき。
――――硬貨に空いている穴の向こうに、赤い金魚が見えた。
安っぽちのガラス細工でできた金魚は、彼女の左耳で揺れていた。
「――――」
一瞬、時間が止まったような錯覚を覚える。
窓ガラスの向こうに、十五歳の千夏の姿があった。
後ろで括った長い黒髪を夏の風になびかせて。一緒に買った服を着て。どこかへいってしまったはずのドッペルゲンガーが、たしかにそこにいた。
オレと彼女の視線はそのとき、たしかに重なっていた。
このまま時間が止まってしまえばいいと思った。
「……!」
――――カラン。
指の間から五十円玉がすべり落ちた。
同時に、店先で立ち尽くしていた千夏が駆け出す。まるでオレから逃げるように。
「――――千夏!」
オレは席を立って店を飛び出す。
そのとき。
「――――コウ!」
開け放った扉の奥で、オレを呼ぶ千夏の声がした。
「どこにいくの?」
「千夏のところに」
「わたしならここにいるよ」
オレは足を止めて振り返る。
そして、たしかにそこにいる千夏に向かって言った。
「なあ、千夏。おまえ、なにかあったんだろ? 大学で」
「…………なにもないよ」
千夏の視線は斜めに落ちていた。
それは千夏がウソを吐くときのクセだった。
「オレ、まだ子供だからさ。なにか言ってくれないと、力にさえなってやれないんだ。そしてたぶん、言われたところでオレは背伸びしないとおまえの支えになってやることもできない。おまえと離れすぎたオレにはもう、おまえがなにに悩んでいるのか、なにを考えているのか、わかってやることができない」
「悩んでいるなんてことも、力になれないなんてことも、ないよ。わたしはコウのことが好きなんだから、コウはただ傍にいてくれるだけでいい。わたしと一緒に大人になってくれれば、それで」
胸の底から込み上げてくる苦しさを堪えて、ちゃんと伝わる言葉に変えて、オレは千夏に向けて吐き出す。
「オレは、あいつを置いて、大人になることは、できない」
「あいつって?」
「ドッペルゲンガーの千夏」
「それは、幻なんだよ?」
「幻でも、本物だ。オレにはあいつに言わなくちゃいけないことがあって、あいつの口からきかなくちゃいけないこともあるんだ」
「それは、わたしを選べない理由になるの?」
「ここでおまえを選んだら、オレはまた心残りを抱えることになっちまう。だから今はおまえとの未来を見ることができない」
「じゃあ、今じゃなかったら……」
「そしてたぶん、あいつの本心をきいちまったら、オレの心はもうずっと、おまえの心とは重ならない」
ドッペルゲンガーと一緒にいた日々を忘れて。そういえば遠い昔にそんなこともあったかもしれないなんてふいに思い出して。大人になった千夏と笑い合って。
そんな未来を想像しようとしたら、目の前が真っ暗になる。
あの日、人生に巨大なフタが落ちてきて、オレはオレの未来が見えるようになった。
でも。
だけど。
オレがドッペルゲンガーの千夏よりオリジナルの千夏に心を預けられる未来は、どれだけ覗こうとしても見えなかった。
「そんなの、わかんないじゃん。コウがそう思い込んでるだけかもしれないじゃん」
「なら、千夏には見えてるのか? オレがいつか、千夏のところに現れたドッペルゲンガーみたいな大人になってる姿が」
「……見えてるよ」
オレがその目を見つめようとしても、千夏の瞳にオレは映らない。
ずっとなにもない床に視線を落として、自分の中にある後ろめたさとばかり向き合っている。
オレはようやく、千夏がドッペルゲンガーを生み出してしまった理由がわかった気がした。
「千夏の言うとおりかもしれない。オレに見えてないだけで、フタをされているだけで、本当は千夏との幸せな未来だってありえるのかもしれない」
「なら……」
「でも、そっち側にいくには、オレはまだ背中に大事なものを残しているんだ。それを捨ててまでそのフタを開けようと、オレには思えない」
「…………その、わたしより大事なものっていうのが、十五歳だったときのわたし?」
「ちがう」
と、言うのに――それだけのことに、ここまでかかってしまった。
「ずっと過去に囚われていたオレを、あいつは絶望から掬い出してくれたんだ。だから、千夏の分身だからじゃなくて。その向こうにおまえを見るんじゃなくて。オレは、あいつと、あいつ自身と、これから大人になっていきたいんだ」
「…………ありえないよ」
千夏がようやくオレのほうを見た。
呆れ果てたようなその目はひどくくすんでいて。オレのことを必死に理解しようとしてくじけた痕跡がみてとれた。
「だって、ドッペルゲンガーなんだよ? そんなの偽物で、ウソじゃん。もうすぐ消えるし、もう消えてるかもしれないんだす?」
「……それでも、オレはこの気持ちにウソは吐けない」
「わたしじゃ、ダメなの?」
「ああ」
喉を震わせながら歩み寄ってこようとする千夏に、オレは言う。
「あたりまえだけど、ダメなのは千夏じゃなくてオレのほうだ。ふつうに考えたら、ここで千夏を選ばない理由がない」
「そうだよ。わたし、これでけっこうモテるんだよ?」
「そんなの、一目見たらわかるよ」
「絶対、後悔するよ?」
「そうならないように、精いっぱいがんばるよ」
「コウ!」
背を向けて駆け出そうとするオレに、千夏の言葉が突き刺さる。
「わたし、ホントに好きだったんだよ! コウのこと!」
オレは振り返って千夏の目を見た。
千夏は、まっすぐオレのほうを見つめていた。
「久しぶりに会って。全然変わってないコウにガッカリしたけど。正直、カッコよくないなって思ったけど。でも。それでも。カッコよくないくせにカッコつけて、わたしのこと引っ張っていこうとするコウに、わたしの人生まるごと預けてもいいかなって。現在も、未来も、全部投げうってもいいかなって。本当に、思ったんだよ。その結果、不幸になったっていいかなって、思ったんだよ。すくなくとも、今日一緒にいた、長い間の、ほんの一瞬くらいは。だってわたし、コウのそういうところが、好きだったから」
ずっと好きだった幼なじみにここまで言われて。言わせて。カッコつかないオレの心は、遠心分離してしまいそうなくらいに、揺れた。
それでも、ここで彼女の言葉に、想いに、甘えて。自分で決めたことを、決めようとしていることを、投げ出すのはちがうと思ったから。それじゃいつまでたっても子供のままだと思ったから。
オレは精いっぱい強がって、余裕ぶった笑みを浮かべながら、千夏に言った。
「オレには、その気持ちを受け止める度胸も、その気持ちと一緒に潰れてやれる気概もないよ」
オレたちの間に、一拍の沈黙が流れた。
やがて、千夏は大きく息を吸って、吐いた。
その間に、彼女がなにかを捨てるのがわかった。
ただそれは、先ほどよりもいくばくか前向きな投棄に思えた。
「わかった」
と、千夏は言った。
「わたし、今、告白の返事待ってもらってるの。大学で知り合った人。同い年とは思えないくらいに優しくて、お金も持ってて、気も遣えて、コウのドッペルゲンガーよりよっぽどよくできてて、顔もコウと比べたら悪くない感じの」
「へえ」
「わたし、その人と大人になっちゃうから。コウとの思い出も、今日のことだって、全部上塗りされて、コウのことなんて一秒も思い出さなくなっちゃうから」
「ああ」
「コウはそれで、いいんだね?」
オレは大きく息を吸って、吐いて。それからもう一度息を吸って。それから。
ずっと好きだった幼なじみに向かって言った。
「オレは、それでいい」
「わかった! じゃあもう、ずっとの、バイバイ!」
「ああ」
オレは十年来の幼なじみに別れを告げて、この夏に現れたドッペルゲンガーのもとへと走った。
千夏が吐いた最後のウソには、気づかないフリをして。
†
傾いた日は落ちて、やがて世界に夜が訪れようとしていた。
太陽を捩って絞り出したような残光が町に最後の明かりを降ろしている。
「はあ、はあ」
息が切れる。足が攣る。小指はくじいた。
こんなに走ったのはいつ以来だろう?
たぶん、中学生のとき無理やり参加させられたマラソン大会が最後だ。
テキトーに流して終わるつもりだったのに。あのときは先に走り終えて休んでいた千夏に冗談っぽく応援されてしまって。それがはずかしくて、同時にちょっとうれしくて、逃げるように、トラックの中を、ぐるぐるぐるぐる、走ったんだっけ。
『――――がんばれ、コウ』
あのときの声が勝手に脳内で再生されてオレの背中を押す。
その声に頼りながらオレはあいつを探す。
どこにいるのかなんてわからなかった。
それでも必ず、もう一度出会えると思っていた。
だって、あの夏祭りのときだって、さっきだって、オレが会いたいと思ったときに、いつだって、あいつはそこにいたんだから。
散々都合よく、まるでオレの願いを叶えるみたいにして現れておきながら。ここでいきなり突き離されて、出会えなくなるなんてウソだった。
「……千夏……千夏……ッ!」
オレは町中を探した。
破格のぺア割を実施していたアパレルショップ。サメ映画をホラーにカテゴライズしているレンタルビデオ店。一緒に金魚を掬った縁日の会場。
あいつとでかけた場所に赴く度に、あいつとの思い出ばかりが蘇ってくる。
それが苦しくて、同時にそれがうれしかった。
オレにとって大切な相手が、思い出してしまう相手が、ちゃんとあいつだけになっていることがわかったから。
もう、オレにとって大切なものは、取りもどせない過去ではなく、手を伸ばせばまだ届く未来になっていた。ずっと人生に覆いかぶさっていたフタを開けて、オレは未来に向かって走っていた。
だから、絶対に、その先に、あいつはまだいてくれているはずなのに。
「…………ッゥ……!」
からまった足が宙を蹴って、次の瞬間にはもうオレの視界は薄闇に包まれた空を眺めていた。
「……ってぇ……!」
河川の丘をごろごろと転がり、砂利にひっかかれた額から血が垂れてくる。
ばたん、と。落ちた手のひらを支えに起き上がろうとして腕を擦りむいた。
もう、身体に力が入らなくなっていた。
曲がらない両足はプルプルと痙攣し、伸ばした腕には地面を撫でるほどの力しか入らなかった。びっしょりと汗で濡れた服は砂粒まみれになっていて。脱げた靴の先には赤い血が滲んでいた。
「…………なんでだよ」
日は沈み、黄昏は世界から消えてしまった。
一遍調子で流れる川の音に紛れてどこかで夜の虫が鳴き始める。鈴虫だった。
流れる汗がだんだん冷たくなっていって。デネブとベガを一本の線で結べなくなって。遠くからキンモクセイの香りが漂ってきて。
夏が、ゆっくりと終わろうとしていた。
「……まだ、オレは、あいつに……あいつを……」
疲労で思考がぼやけて言葉にならない。
渇いた喉が声を枯らす。
その名を呼ぼうとしても、からまった唾が声すら奪う。
自分の情けなさに、涙さえ出なかった。
霞んで濁った目を閉じて、まだ終われないと目を開ける。
すると、視界の端に二本の棒きれが見えた。
地面に突き立てられたその木の棒には、逆さまに「アタリ」と書かれていた。
今時アタリつきの棒アイスも珍しい。そんなことを思って、ようやくオレはここがあの日あいつと金魚を埋めた河原だと気づく。
オレはない力を振り絞って寝返りをうつ。
そうして地面を転がって、金魚の墓の前で震える手を合わせた。
「…………」
死んだ金魚に祈りを捧げて、オレは墓標代わりのアイス棒にかみつく。
そしてそれを支えに立ち上がろうとするが、歯の力が尽きるより先に木がバキリと折れてしまった。
オレは顎から金魚の墓に転がった。
「……バッカみたい」
そのとき、オレはあいつの声をきいた気がした。
這う這うの体で身を翻し、オレは傍らに鼻緒の切れた草履をみつける。
その草履の上にある傷だらけの白い足に手を伸ばして、パチンとはたき落された。
「へんたい」
聞き馴染みのある、ずっとききたいと思っていた、声だった。
もう一度ききたくて手を伸ばすと、今度は無言ではたき落された。
「なにしてんの、まったく」
額に影がかかる。
視線を持ち上げると、十五歳の千夏が屈んでオレのことを見下ろしていた。
「…………千夏……」
「どうして本物のわたしを置いてこんなとこにいるの?」
「……おまえに、会いたくて」
「バカみたい」
千夏は呆れた顔でオレの頭を撫でる。
その手つきは優しくて。冷たい言葉とは裏腹の温かさがあった。
「わたしは千夏のドッペルゲンガーなんだよ? 本物の、偽物。なのに、なんで追いかけてくるの? おかしいでしょ」
「オレはまだ、おまえに言えてないことがある」
「だから?」
「それを言いたくて、走ってきた」
「はあ」
千夏は観念したようにため息を吐いた。
「ようやくコウから解放されて自由になれると思ったのに」
「オレは、おまえが好きだ、千夏」
「はいはい」
オレにとって一大事の告白は、あっさりと流されてしまった。
「……それだけ?」
「他になんて言ってほしいの?」
千夏はオレの目をじっと見つめて言う。
「そんなこと、今更言われなくたってわかってるよ」
「オレとずっと一緒にいてくれ」
「いやだよ」
オレは千夏の顔を見続ける。
「なに? ウソなんて吐いてるように見えないでしょ?」
千夏は視線を斜めに逸らしてしまうことがないように。ずっと目に力を込めていた。
それがおかしくて。オレはしゃがれた声で笑った。
「なに?」
「ふつう、こんなこと言われたら、多少は狼狽えて視線くらい外しそうなもんだけどな」
言われてようやく気づいたのか、千夏は今さら視線を斜めに落として言った。
どこかに夕映えが隠れていたのか、その頬は赤く照りついていた。
「コウのことなんて、好きじゃない」
「ああ」
「追いかけられても迷惑だよ」
「ああ」
「今からでも千夏のところにもどったら?」
「生憎、しばらくは立てそうにない」
「もう、カッコつけられないの?」
「ああ。すくなくとも、しばらくは」
「そっか。カッコ悪いね」
千夏は足をついてオレの頭を膝に乗せる。
「わたしも走りすぎちゃったから、しばらくは動けそうにないや」
そういってやわらかな笑みをこぼす千夏に、オレは言った。
「おまえの本心を、ききにきた」
「本心って?」
「今みたいに、あのときおまえがウソ吐いてまで隠そうとした、おまえの本当の気持ち」
「きいてどうするの?」
「大人になる」
「なにそれ」
笑い飛ばそうとする千夏をオレは真剣な面持ちで見つめる。
冗談で流すことはできないと悟ったのか、千夏は「はあ」と息を吐いて言った。
「いやだよ」
「どうして?」
「だって、それを言っちゃったら、コウはわたしのこと、忘れられなくなっちゃうでしょ?」
「言わなくたって、もうとっくに忘れられなくなってるよ」
オレにとってかけがえのない存在である千夏はもう、今目の前にいる千夏で固定されてしまっている。
今更言葉ひとつ欠けたって、それが変わることはない。
それでも、言葉を必要としたのは、オレがちゃんと過去を――心残りを清算して――大人になるためだった。
人はいつか大人になる。
ならその一歩は、ちゃんと自分の意志で踏み出したかった。
「わたしはコウに忘れられたい」
「もうやめろよ、ウソ吐くのは」
千夏の身体は僅かに透けていた。
もう、あまり時間は残されていないようだった。
彼女の向こう側に、やがて訪れる夜の光が見えていた。
「おまえはもう、おまえの気持ちを話していいんだから」
「ウソを吐き通したいって気持ちだって本心だよ」
「じゃあ、オレのためにもウソは吐かないでくれ」
トロンと目の端を落として千夏は言った。
「こんなときだけ、コウはずるいなあ」
それから、すこしの静寂が流れた。
訪れた沈黙は安らかで。互いの呼吸だけが鮮明で。他のすべてが薄らぼやけていて。吐いた息が二人の間で重なったときだけ小さく笑みをこぼした。
完全な幸福というものがあるのだとしたら、それはこういう時間のことなのかもしれないと思った。
「じゃあ、コウ、もっかい言って」
「好きだよ、千夏」
オレは千夏の目を見て囁く。
千夏はなにも言わなかった。
ただ、そっと、オレの唇に唇を重ねて、必要な言葉のすべてを一呼吸ぶんの吐息に変えた。
素直になれない千夏らしいやり方だと思った。
「……」
ゼロセンチメートルの距離で、千夏は目の端を垂らして笑う。
そしてオレの目の上に手のひらでフタをした。
オレはそっと目を閉じる。
それはまばたきよりも一瞬の時間だった。
そしてオレが再び目を開けたとき、唇にあった感触はなくなっていた。千夏の姿もまた同じく。
河原には冷たい夜の風が吹いていて。終わりゆく夏の静けさだけが辺りに満ちていた。
オレは自分の唇に触れて、そこにまだ温かさだけは残っていることに気づく。
心残りのドッペルゲンガーは、そうしてオレの中にたしかな思い出を残して、夏の夜に消えた。
赤。白。黄色。
流れていく色彩を眺めながら、オレはそこにまちがいを見出す。
黄色じゃない。あの日は安っぽちの水槽と同じで、目を凝らさないと紛れて見つけられない青色だった。
オレはつい懐かしさを覚えて、財布から百円玉を取り出した。
「おっちゃん。一回分」
「あいよ」
オレは右手のポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげた。
――――チャポン。
「……」
水を張られた椀の中に金魚が落ちていく。
最初こそ抵抗していたものの、オレがカードでも引くみたいに次々と掬っていくうちに、やがて水槽の金魚は跳ねるのをやめてしまった。
「……なあ、あんちゃん。さすがにそのへんにしといてくれねえか?」
既に大方掬われた金魚は椀の中でブラジルの収容所みたいな生活を送っていた。
「わかった。そこにいるの、全部持って帰っていいから。な?」
オレは無言で椀をひっくり返し、金魚を水槽の中へともどす。
元から持って帰るつもりはなかった。
ただすこし、あの頃が懐かしくなってやってみただけだ。
「……まだ、懐かしいってほど時間は経ってないのにな」
たった一ヶ月まえのことなのに、もうずいぶんと昔のことみたいだった。
十九歳と二十歳の間には、それくらいの距離がある気がした。
わかっていたことではあるけれど。ひとりで迎える誕生日は虚しいものだった。
「…………」
あの日願ったとおり、オレはちゃんと心残りを清算できた。
あいつに言うべきことはちゃんと言えたし、あいつに言ってほしかったことは幾千の言葉に変わる行為で代替された。
だから、この足にはもう枷なんてついていないはずなのに。
天井のフタは既に開いているのに。
気がつくと、なぜかオレは秋祭りに顔を出していて。性懲りもなく、また金魚を掬っていた。
「リトライ」
「……はあ」
再び金魚を掬い始めたオレを見限り、店番の男はようやくやってきたらしいべつの客の応対にあたっていた。
九月。夕闇。収穫祭。
祭囃子と雑踏と。提灯の明かりが感覚の向こうに遠のいて。
オレは子供の頃の記憶に縋るように、水槽を泳ぐ金魚に向かって手を伸ばす。
そうして掬おうとした金魚は、オレがポイを水につけた瞬間、べつのだれかのポイによって掬い上げられた。
金魚はすぐに落ちてきてオレのポイごと突き破って水槽の中にもどっていった。
見ると傍らに空の椀がひとつ置かれていた。
驚きと一抹の期待を胸に顔を上げるオレに、そして彼女は言うのだった。
「やれやれ。簡単そうに見えたのに。なんだこれ。クソムズイじゃないか。詐欺だね詐欺」
切れ長の目で店員の男をのっぺり糾弾する彼女に、オレは見覚えがあった。
「……木崎さん?」
「うん?」
オレの問いかけに彼女は小さく首を傾げながら反応する。
切れ長の目と含みのある口元。そして人を喰って久しそうな独特の喋り方。
彼女はたしかにオレが知る木崎さんだった。
けれど、オレの中で木崎さんのイメージと重ならないところもあった。
「髪、染めたんですね」
社会に適応する気ゼロパーセントの真っ赤だった髪が、キレイに黒く染められていた。
短く切りそろえられた黒髪の木崎さんは、一生着そうになかったスーツに身を包んで文句を垂れていた。
彼女が左手に揺らしているのはブラックコーヒーだった。部室にいるときはたっぷりのミルクを入れていたのに。
「就活、とかですか? もしかして」
なんとなく、もう会わないような気がしていたけれど。そんな彼女と再開したこと以上に、木崎さんがまともに社会人をやろうとしているようで驚いた。
「いんや、ただの帰路だけど?」
と、木崎さんは答えた。
そしてオレのことを訝しそうに見つめて尋ねる。
「どこかで会ったこと、あったっけ?」
「え?」
またよくわからない冗談を言っているのかと思った。
でも、たしかに今目の前にいる木崎さんは、髪の色だけじゃなくて、どこがとは言えないけれど、大学で自堕落な生活を送っている木崎さんとはなにかがちがって見えた。
「先月、大学で」
「ああ」
と、頷いてから、木崎さんはくたびれた様子でため息を吐いた。
「またそのパターンか。もういいわかった」
「そのパターンって?」
「そいつはボクじゃない」
金魚にポイを破られながら、木崎さんはそう言った。
「なんか五年くらい前からちょくちょくきくんだ。その手の話。ボクがまだ大学生をやってるって」
「……どういうことですか?」
「ボクはちゃんと働いてる。今日もけむくじゃらのおっさんにペコペコ頭下げてきたところだ。先方がなに言ってたかは、もう忘れちゃったけど」
「……じゃあ、別人ってことですか?」
「ああ」
ウソを吐くような理由もない。
オレが知っている木崎さんなら理由もなくウソを吐きそうではあるが、それより先にオレが相談したことの顛末について聞き出しそうなものだった。
「そいつはつまり、ドッペルゲンガーってやつじゃないのかい?」
破れたポイでなお金魚をおびき寄せようとしながら、木崎さんはそう言った。
「ドッペルゲンガー?」
「きいたことない?」
いつかと重なるやりとりにオレは苦笑する。
「自分と瓜二つの存在が世界のどこかにいるかもしれないってやつ」
「はい。ちょうどそれについて大学の木崎さんと話してたところで」
「へえ」
木崎さんは興味薄な顔でオレの話をきいていた。
「あんまり、興味ないですか?」
「まあね。それくらい、よくあることだし」
「よくあること?」
オレはまたひとつ、二人の木崎さんの間に乖離を見出す。
大学の木崎さんは言っていた。大人になれば“そういうこと”にも行き合わなくなる、と。
「ドッペルゲンガーって、よくあることなんですか?」
「ドッペルゲンガーも、幽体離脱も、不思議な発行体も、よくある話さ。飲みすぎた日なんかは特にいき合いやすい」
「なら、オレも酒でも飲めばいき合えますかね? ドッペルゲンガー」
「なに? 会いたいの? 自分のドッペルゲンガーに」
「いや、オレじゃなくて。幼なじみのドッペルゲンガーに」
「へえ」
「まあ、もう消えちゃったんですけどね」
そういって、オレは精いっぱい笑おうとする。
乾いた笑い声しかでなかった。
「……」
一緒に目の端から涙が出てきた。
あいつがいなくなったときには一滴たりとも流れなかったのに。
心残りなんてない。
オレにできることはちゃんとやった。
それでも、会いたい気持ちまでなくなるわけじゃなかった。
「よくわかんないけど、会いたいなら会えばいいんじゃない?」
オレの顔を見てもまるで動じることなく、むしろふてぶてしささえ滲む態度で、木崎さんはそう言った。
「勝手なこと言わないでくださいよ。なにも知らないのに」
「あ、今の、カチンときた。そんなこというやつは金魚の水でも被っちゃえ」
有言実行。木崎さんは良心の呵責に一切苛まれることなくオレの頭上で自分の椀をひっくり返した。晴れた明るい夜空の下で、オレは髪の先から靴の先までずぶ濡れになった。
オレの知っている木崎さんだったらぶん殴っているところだった。この人とも絶対に仲良くなれないだろうとオレは思った。
「それに」
と、木崎さんはまた何事もなかったような顔で話を続けた。
「消えちゃったなら、また呼び出すって手もある」
「そんな、降霊術じゃあるまいし」
「幽霊もドッペルゲンガーも同じようなものだろ」
「……どうすればいいんですか?」
「簡単さ」
そういって、木崎さんは手にした椀をオレの椀に重ねる。
そしていきなり二つの椀を上に下に大きく振り始めた。
「なにしてるんですか?」
「金魚界に天変地異を起こしている」
空っぽだった木崎さんの椀の中と、オレに掬われた金魚が泳いでいた椀の中とが混ざり合う。
「こうしてフタをしてしまえば、金魚の生死はわからない。脳震盪を起こしてひっくり返ってるかもしれないし、案外何食わぬ顔をして水の中を泳いでいるかもしれない。ただひとつたしかなのは、最終的に金魚がいるのは、下にした椀のほうだってことだ」
「……」
「……あれ、ボク、なにが言いたいんだろ?」
「もしかして、酔ってますか?」
「すこし。ブラックコーヒーは苦すぎて」
そういって、木崎さんは椀を振るのをやめた。
「まあ、とにかく一度きりの人生だ。やりたいことをやればいいし、見たいものを見ればいい。それでも、いろんな事情で選べない可能性は出てくるし、それについての心残りっていうか、“ありえないはずのもしも”に想いを馳せることはどうしてもあるけどね」
木崎さんはオレの前に椀を差し出して言う。
「さて問題。椀の中の金魚は今、生きているでしょうか? 死んでいるでしょうか?」
椀から椀へ移すときに入りきらなかった金魚が一匹、地面でピチピチ跳ねていた。
まるであの日の再現だった。
もしかして、あのときから千夏は、短命な金魚と自分の未来を重ねていたのだろうか?
金魚とあいつはちがう。そういってやったのに、結局オレはあいつを消してしまった。千夏の中の心残りと共に。
そこをはぐらかして、千夏を傷つけることはできなかった。
その結果、ドッペルゲンガーの千夏が消えてしまうのがしょうがないことだとしても。
それが正しい現実なのだとしても。
それでも、オレは、もう一度、駄々をこねる子供みたいに、願わずにはいられなかった。
「――――金魚は、生きてる」
オレは被せられていた椀を開けた。
椀の中で金魚は活き活きと泳いでいた。オレの葛藤など素知らぬ顔で。スイスイと。
そして、顔を上げると木崎さんが消えていた。
「……あれ?」
店番の男は何食わぬ顔でタバコを吹かしていて。通り過ぎていく人々もみんな祭りの空気ばかりをたのしんでいて。
まるでさっきまでオレと話していた木崎さんが夢幻だったかのように扱われていた。オレのまえからその姿を消したドッペルゲンガーのように。
そして、その声が、きこえた。
「うまくなったじゃん。金魚掬い」
白くて細い指が、地べたに落ちた金魚を拾い上げてオレの椀の中にそっと入れる。
金魚はうれしそうにススイと水の中を泳いだ。
オレはゴクリと生唾を飲んで振り返った。
そして、よぎった直感が完璧な正しさで目の前に顕在していることを知り、正しい角度に再構築し直された現実が再びぐにゃりと歪められた気がして。オレは開きっぱなしの口を閉じずに笑った。
「ひさしぶり。元気してた? コウ」
外行きのポニーテール。一緒に買ったペアの服。片方の耳で揺れるガラス細工の金魚と、汚れた巾着袋。歩きにくそうな草履をペタペタ鳴らしながら、彼女はそこに立っていた。
その背丈も、その声も、その顔も。なにもかもが“あの日”のままだった。
「…………千夏」
オレに向かって笑いかけていたのは、あの日姿を消したはずのドッペルゲンガーだった。
「…………どうして?」
「いやあ」
千夏は言いづらそうに頬を掻いていた。
「ドッペルゲンガーって、心残りだからさ」
「だから?」
「だから、その……心残りがね。あったから」
提灯の明かりに照らされて千夏の白い頬が赤く染まる。
「ホントは、アレで終わらせるつもりだったんだけど、ほら……唇重ねてみたらさ、なんていうかさ、身体も、重ねてみたいなって」
「……?」
「他にも、たくさん、コウとしたいなって。あのとき、思っちゃったから」
オレと一緒にこれから先も生きる――それはドッペルゲンガーの千夏には選べない可能性だった。
彼女はその現実を受け入れようとしていたし、受け入れていた。
すくなくとも、あの瞬間までは。
けれどもし、それを、受け入れられなくなったのだとしたら。
それは立派な、ドッペルゲンガーの心残りだった。
「……ドッペルゲンガーの、ドッペルゲンガー?」
「そういうことになる、かも」
「それって……千夏なのか?」
「どう思う?」
オレは木崎さんが置いていったブラックコーヒーを千夏に見せる。
「飲むか? 苦いけど」
「じゃあ、飲む」
オレはブラックコーヒーを投げ渡す。
そして千夏がそれを手にしようとした瞬間。
「きゃあっ⁉」
オレは千夏のことを押したおした。
水槽がバシャンと水を跳ねてオレたちの身体を受け止める。
「ちょっと! なに急に⁉」
「なんですぐに出てこなかったんだよ!」
「そんなこと言われたってしょうがないじゃん! なんでかさっき蘇ったんだから!」
九月二十日。
そういえば、今日は彼岸の入りだった。
死んでしまった人間が現世に帰ってくる日。
なら、ドッペルゲンガーが帰ってきても、いいのかもしれない。
それに、理由なんてどうでもよかった。
「もう、消えるなよ?」
「それは、わからないよ」
「わからないって……」
「でも、まあ、たぶん大丈夫なんじゃない?」
「なんで言い切れるんだよ? 一度は消えただろ」
「コウと千夏にとっての“あの日”の心残りが消えたからわたしも消えたけど、今のわたしは、そうじゃないから」
「そうじゃないって?」
「コウと過ごした“いつか”じゃなくて、一緒に重ねる“いつも”に想いを馳せてるから」
「なら、その心残りはずっと解消するな。一生、その思いを引きずりながら、オレと一緒に大人になれ」
「なに、それ」
オレと同じくずぶ濡れになりながら、千夏は呆れた顔で笑った。
店番の男は唖然としていたし、道行く人々は足を止めてオレたちのことを見ていた。
それでも、恥ずかしくはなかった。
未来に選択を預けてなにも言えなかったあの頃とはちがう。
オレはもう、大事にするべきものがなんなのかわかっていて、それをちゃんと選ぶことができるから。
「身体、重ねちゃったな」
「そうだね。おかげでビショビショなんだけど」
「次は、なにするんだ?」
「なにがしたい?」
「そうだな……とりあえず、サメ映画でも見るか」
「大賛成」
そうして、あの夏にいたドッペルゲンガーは、次の夏にはひとつ歳をとって、どんどん溜まって積もっていく心残りはちっとも解消されぬまま、やがてオレの隣でしれっと大人になってしまうのだった。
――――FIN――――