赤。白。黄色。
 流れていく色彩を眺めながら、オレはそこにまちがいを見出す。
 黄色じゃない。あの日は安っぽちの水槽と同じで、目を凝らさないと紛れて見つけられない青色だった。
 オレはつい懐かしさを覚えて、財布から百円玉を取り出した。
「おっちゃん。一回分」
「あいよ」
 オレは右手のポイを水の中へとくぐらせて、赤い金魚を掬いあげた。
 ――――チャポン。
「……」
 水を張られた椀の中に金魚が落ちていく。
 最初こそ抵抗していたものの、オレがカードでも引くみたいに次々と掬っていくうちに、やがて水槽の金魚は跳ねるのをやめてしまった。
「……なあ、あんちゃん。さすがにそのへんにしといてくれねえか?」
 既に大方掬われた金魚は椀の中でブラジルの収容所みたいな生活を送っていた。
「わかった。そこにいるの、全部持って帰っていいから。な?」
 オレは無言で椀をひっくり返し、金魚を水槽の中へともどす。
 元から持って帰るつもりはなかった。
 ただすこし、あの頃が懐かしくなってやってみただけだ。
「……まだ、懐かしいってほど時間は経ってないのにな」
 たった一ヶ月まえのことなのに、もうずいぶんと昔のことみたいだった。
 十九歳と二十歳の間には、それくらいの距離がある気がした。
 わかっていたことではあるけれど。ひとりで迎える誕生日は虚しいものだった。
「…………」
 あの日願ったとおり、オレはちゃんと心残りを清算できた。
 あいつに言うべきことはちゃんと言えたし、あいつに言ってほしかったことは幾千の言葉に変わる行為で代替された。
 だから、この足にはもう枷なんてついていないはずなのに。
 天井のフタは既に開いているのに。
 気がつくと、なぜかオレは秋祭りに顔を出していて。性懲りもなく、また金魚を掬っていた。
「リトライ」
「……はあ」
 再び金魚を掬い始めたオレを見限り、店番の男はようやくやってきたらしいべつの客の応対にあたっていた。
 九月。夕闇。収穫祭。
 祭囃子と雑踏と。提灯の明かりが感覚の向こうに遠のいて。
 オレは子供の頃の記憶に縋るように、水槽を泳ぐ金魚に向かって手を伸ばす。
 そうして掬おうとした金魚は、オレがポイを水につけた瞬間、べつのだれかのポイによって掬い上げられた。
 金魚はすぐに落ちてきてオレのポイごと突き破って水槽の中にもどっていった。
 見ると傍らに空の椀がひとつ置かれていた。
 驚きと一抹の期待を胸に顔を上げるオレに、そして彼女は言うのだった。
「やれやれ。簡単そうに見えたのに。なんだこれ。クソムズイじゃないか。詐欺だね詐欺」
 切れ長の目で店員の男をのっぺり糾弾する彼女に、オレは見覚えがあった。
「……木崎さん?」
「うん?」
 オレの問いかけに彼女は小さく首を傾げながら反応する。
 切れ長の目と含みのある口元。そして人を喰って久しそうな独特の喋り方。
 彼女はたしかにオレが知る木崎さんだった。
 けれど、オレの中で木崎さんのイメージと重ならないところもあった。
「髪、染めたんですね」
 社会に適応する気ゼロパーセントの真っ赤だった髪が、キレイに黒く染められていた。
 短く切りそろえられた黒髪の木崎さんは、一生着そうになかったスーツに身を包んで文句を垂れていた。
 彼女が左手に揺らしているのはブラックコーヒーだった。部室にいるときはたっぷりのミルクを入れていたのに。
「就活、とかですか? もしかして」
 なんとなく、もう会わないような気がしていたけれど。そんな彼女と再開したこと以上に、木崎さんがまともに社会人をやろうとしているようで驚いた。
「いんや、ただの帰路だけど?」
 と、木崎さんは答えた。
 そしてオレのことを訝しそうに見つめて尋ねる。
「どこかで会ったこと、あったっけ?」
「え?」
 またよくわからない冗談を言っているのかと思った。
 でも、たしかに今目の前にいる木崎さんは、髪の色だけじゃなくて、どこがとは言えないけれど、大学で自堕落な生活を送っている木崎さんとはなにかがちがって見えた。
「先月、大学で」
「ああ」
 と、頷いてから、木崎さんはくたびれた様子でため息を吐いた。
「またそのパターンか。もういいわかった」
「そのパターンって?」
「そいつはボクじゃない」
 金魚にポイを破られながら、木崎さんはそう言った。
「なんか五年くらい前からちょくちょくきくんだ。その手の話。ボクがまだ大学生をやってるって」
「……どういうことですか?」
「ボクはちゃんと働いてる。今日もけむくじゃらのおっさんにペコペコ頭下げてきたところだ。先方がなに言ってたかは、もう忘れちゃったけど」
「……じゃあ、別人ってことですか?」
「ああ」
 ウソを吐くような理由もない。
 オレが知っている木崎さんなら理由もなくウソを吐きそうではあるが、それより先にオレが相談したことの顛末について聞き出しそうなものだった。
「そいつはつまり、ドッペルゲンガーってやつじゃないのかい?」
 破れたポイでなお金魚をおびき寄せようとしながら、木崎さんはそう言った。
「ドッペルゲンガー?」
「きいたことない?」
 いつかと重なるやりとりにオレは苦笑する。
「自分と瓜二つの存在が世界のどこかにいるかもしれないってやつ」
「はい。ちょうどそれについて大学の木崎さんと話してたところで」
「へえ」
 木崎さんは興味薄な顔でオレの話をきいていた。
「あんまり、興味ないですか?」
「まあね。それくらい、よくあることだし」
「よくあること?」
 オレはまたひとつ、二人の木崎さんの間に乖離を見出す。
 大学の木崎さんは言っていた。大人になれば“そういうこと”にも行き合わなくなる、と。
「ドッペルゲンガーって、よくあることなんですか?」
「ドッペルゲンガーも、幽体離脱も、不思議な発行体も、よくある話さ。飲みすぎた日なんかは特にいき合いやすい」
「なら、オレも酒でも飲めばいき合えますかね? ドッペルゲンガー」
「なに? 会いたいの? 自分のドッペルゲンガーに」
「いや、オレじゃなくて。幼なじみのドッペルゲンガーに」
「へえ」
「まあ、もう消えちゃったんですけどね」
 そういって、オレは精いっぱい笑おうとする。
 乾いた笑い声しかでなかった。
「……」
 一緒に目の端から涙が出てきた。
 あいつがいなくなったときには一滴たりとも流れなかったのに。
 心残りなんてない。
 オレにできることはちゃんとやった。
 それでも、会いたい気持ちまでなくなるわけじゃなかった。
「よくわかんないけど、会いたいなら会えばいいんじゃない?」
 オレの顔を見てもまるで動じることなく、むしろふてぶてしささえ滲む態度で、木崎さんはそう言った。
「勝手なこと言わないでくださいよ。なにも知らないのに」
「あ、今の、カチンときた。そんなこというやつは金魚の水でも被っちゃえ」
 有言実行。木崎さんは良心の呵責に一切苛まれることなくオレの頭上で自分の椀をひっくり返した。晴れた明るい夜空の下で、オレは髪の先から靴の先までずぶ濡れになった。
 オレの知っている木崎さんだったらぶん殴っているところだった。この人とも絶対に仲良くなれないだろうとオレは思った。
「それに」
 と、木崎さんはまた何事もなかったような顔で話を続けた。
「消えちゃったなら、また呼び出すって手もある」
「そんな、降霊術じゃあるまいし」
「幽霊もドッペルゲンガーも同じようなものだろ」
「……どうすればいいんですか?」
「簡単さ」
 そういって、木崎さんは手にした椀をオレの椀に重ねる。
 そしていきなり二つの椀を上に下に大きく振り始めた。
「なにしてるんですか?」
「金魚界に天変地異を起こしている」
 空っぽだった木崎さんの椀の中と、オレに掬われた金魚が泳いでいた椀の中とが混ざり合う。
「こうしてフタをしてしまえば、金魚の生死はわからない。脳震盪を起こしてひっくり返ってるかもしれないし、案外何食わぬ顔をして水の中を泳いでいるかもしれない。ただひとつたしかなのは、最終的に金魚がいるのは、下にした椀のほうだってことだ」
「……」
「……あれ、ボク、なにが言いたいんだろ?」
「もしかして、酔ってますか?」
「すこし。ブラックコーヒーは苦すぎて」
 そういって、木崎さんは椀を振るのをやめた。
「まあ、とにかく一度きりの人生だ。やりたいことをやればいいし、見たいものを見ればいい。それでも、いろんな事情で選べない可能性は出てくるし、それについての心残りっていうか、“ありえないはずのもしも”に想いを馳せることはどうしてもあるけどね」
 木崎さんはオレの前に椀を差し出して言う。
「さて問題。椀の中の金魚は今、生きているでしょうか? 死んでいるでしょうか?」
 椀から椀へ移すときに入りきらなかった金魚が一匹、地面でピチピチ跳ねていた。
 まるであの日の再現だった。
 もしかして、あのときから千夏は、短命な金魚と自分の未来を重ねていたのだろうか?
 金魚とあいつはちがう。そういってやったのに、結局オレはあいつを消してしまった。千夏の中の心残りと共に。
 そこをはぐらかして、千夏を傷つけることはできなかった。
 その結果、ドッペルゲンガーの千夏が消えてしまうのがしょうがないことだとしても。
 それが正しい現実なのだとしても。
 それでも、オレは、もう一度、駄々をこねる子供みたいに、願わずにはいられなかった。
「――――金魚は、生きてる」
 オレは被せられていた椀を開けた。
 椀の中で金魚は活き活きと泳いでいた。オレの葛藤など素知らぬ顔で。スイスイと。
 そして、顔を上げると木崎さんが消えていた。
「……あれ?」
 店番の男は何食わぬ顔でタバコを吹かしていて。通り過ぎていく人々もみんな祭りの空気ばかりをたのしんでいて。
 まるでさっきまでオレと話していた木崎さんが夢幻だったかのように扱われていた。オレのまえからその姿を消したドッペルゲンガーのように。
 そして、その声が、きこえた。
「うまくなったじゃん。金魚掬い」
 白くて細い指が、地べたに落ちた金魚を拾い上げてオレの椀の中にそっと入れる。
 金魚はうれしそうにススイと水の中を泳いだ。
 オレはゴクリと生唾を飲んで振り返った。
 そして、よぎった直感が完璧な正しさで目の前に顕在していることを知り、正しい角度に再構築し直された現実が再びぐにゃりと歪められた気がして。オレは開きっぱなしの口を閉じずに笑った。
「ひさしぶり。元気してた? コウ」
 外行きのポニーテール。一緒に買ったペアの服。片方の耳で揺れるガラス細工の金魚と、汚れた巾着袋。歩きにくそうな草履をペタペタ鳴らしながら、彼女はそこに立っていた。
 その背丈も、その声も、その顔も。なにもかもが“あの日”のままだった。
「…………千夏」
 オレに向かって笑いかけていたのは、あの日姿を消したはずのドッペルゲンガーだった。
「…………どうして?」
「いやあ」
 千夏は言いづらそうに頬を掻いていた。
「ドッペルゲンガーって、心残りだからさ」
「だから?」
「だから、その……心残りがね。あったから」
 提灯の明かりに照らされて千夏の白い頬が赤く染まる。
「ホントは、アレで終わらせるつもりだったんだけど、ほら……唇重ねてみたらさ、なんていうかさ、身体も、重ねてみたいなって」
「……?」
「他にも、たくさん、コウとしたいなって。あのとき、思っちゃったから」
 オレと一緒にこれから先も生きる――それはドッペルゲンガーの千夏には選べない可能性だった。
 彼女はその現実を受け入れようとしていたし、受け入れていた。
 すくなくとも、あの瞬間までは。
 けれどもし、それを、受け入れられなくなったのだとしたら。
 それは立派な、ドッペルゲンガーの心残りだった。
「……ドッペルゲンガーの、ドッペルゲンガー?」
「そういうことになる、かも」
「それって……千夏なのか?」
「どう思う?」
 オレは木崎さんが置いていったブラックコーヒーを千夏に見せる。
「飲むか? 苦いけど」
「じゃあ、飲む」
 オレはブラックコーヒーを投げ渡す。
 そして千夏がそれを手にしようとした瞬間。
「きゃあっ⁉」
 オレは千夏のことを押したおした。
 水槽がバシャンと水を跳ねてオレたちの身体を受け止める。
「ちょっと! なに急に⁉」
「なんですぐに出てこなかったんだよ!」
「そんなこと言われたってしょうがないじゃん! なんでかさっき蘇ったんだから!」
 九月二十日。
 そういえば、今日は彼岸の入りだった。
 死んでしまった人間が現世に帰ってくる日。
 なら、ドッペルゲンガーが帰ってきても、いいのかもしれない。
 それに、理由なんてどうでもよかった。
「もう、消えるなよ?」
「それは、わからないよ」
「わからないって……」
「でも、まあ、たぶん大丈夫なんじゃない?」
「なんで言い切れるんだよ? 一度は消えただろ」
「コウと千夏にとっての“あの日”の心残りが消えたからわたしも消えたけど、今のわたしは、そうじゃないから」
「そうじゃないって?」
「コウと過ごした“いつか”じゃなくて、一緒に重ねる“いつも”に想いを馳せてるから」
「なら、その心残りはずっと解消するな。一生、その思いを引きずりながら、オレと一緒に大人になれ」
「なに、それ」
 オレと同じくずぶ濡れになりながら、千夏は呆れた顔で笑った。
 店番の男は唖然としていたし、道行く人々は足を止めてオレたちのことを見ていた。
 それでも、恥ずかしくはなかった。
 未来に選択を預けてなにも言えなかったあの頃とはちがう。
 オレはもう、大事にするべきものがなんなのかわかっていて、それをちゃんと選ぶことができるから。
「身体、重ねちゃったな」
「そうだね。おかげでビショビショなんだけど」
「次は、なにするんだ?」
「なにがしたい?」
「そうだな……とりあえず、サメ映画でも見るか」
「大賛成」
 そうして、あの夏にいたドッペルゲンガーは、次の夏にはひとつ歳をとって、どんどん溜まって積もっていく心残りはちっとも解消されぬまま、やがてオレの隣でしれっと大人になってしまうのだった。

          ――――FIN――――