翌朝、オレはテレビからきこえてくるうるさい声で目を覚ました。
 見ればベッドで千夏がリモコン片手に座っていた。
「ああ、コウ。おはよう。ずいぶんとぐっすりだったね」
 敷いていた布団から起き上がってなお目の前にいる千夏を見て、オレは彼女が夢幻の類ではないことをあらためて実感する。
 十五歳の姿をした幼なじみ。オリジナルが抱えていた心残りの結晶。願いを遂げると消えていなくなるドッペルゲンガー。
「どうしたの? ぼーっとして。もしかして、見惚れてる?」
「べつに」
「見惚れてたんでしょ? ずっと好きだった幼なじみの姿をしたわたしに」
「ああ、そうかもな」
「それくらいの軽口を本物の千夏にも飛ばせられたらいいのにね」
「うるさい」
 白い歯を覗かせて笑いながら、千夏はベッドから立ち上がって言った。
「ほら、準備して。出かけるよ」
「出かける? どこに?」
「レンタルショップ」
 露骨にいやな顔をするオレを見て千夏は眉を寄せる。
「言ったでしょ。これからのことはわたしに任せてほしいって」
「店まで出かけるのもオレを今よりマシな人間にするためなのか?」
「もちろん」
 そう言われてしまっては断る理由が思いつかない。
 ちょっと出かけたくらいでオレのなにかが変わるようには思えないけれど、他でもない千夏の分身であるところの彼女が言うのだから、きっとなにかしらの展望はあるのだろう。
「ちなみに、なに借りにいくんだ?」
「サメ映画」
「……」
 きけば、五年前の千夏をトレースして生まれたドッペルゲンガーの彼女にはその後出ているサメ映画の知識がないらしく、それを鑑賞して造形を深めておきたいらしい。
 あまりにも自分本位な理由で、オレの中にある彼女への信頼がさっそく揺らいだ瞬間だった。
「借りてどうするんだよ? この家にはパソコンなんてないぞ」
「プレ2があるじゃん」
 そういって千夏はクローゼットを開けて奥から埃塗れのプレステを取り出してくる。
「おまえ、また勝手に……!」
「あったよね? DVD見る機能」
「……はあ」
 オレはため息交じりに頷き、千夏に促されるまま手早く顔を洗って家を出た。
 洗面台の鏡に映ったオレの顔つきは、心なしか昨日よりマシに見えた。

          †

 家から最寄りのレンタルショップまでは十キロ以上の距離があった。
 千夏は駐輪場に留めてあった自転車の荷台に腰かける。
「……漕ぐつもりはないんだな」
「つもりはあるよ。ただ、漕ぎたいのかなって思って」
 オレはスタンドを蹴り上げ、勢いのままサドルに跨り漕ぎだした。
「…………くそ、くそ……っ!」
 走り始めて数分で足が重くなり、息があがった。
 はじめての二人乗りは想像以上にきつくて、物語のように前を向いて風に吹かれながらススイとはいけそうになかった。おまけに昨日金魚の墓を作った分の疲労もしっかりと身体にダメージを残している。
「おまえ、ちょっと重すぎるんじゃないのか?」
「三十五キロ」
「……わからん」
「軽いほうだっての」
 パン、と背中を叩かれたオレは腰を浮かし、立ちこぎで自転車を飛ばす。
 店に着く頃には、オレの服はびっしょりと汗で濡れていた。
「ごくろうさま」
 ぴょん、と荷台から降りた千夏はいそいそと店の中へと入っていく。
「……それだけかよ……」
 膝に手をつき息を整えてからオレは千夏のあとを追った。
 階段をあがり、CDコーナーを通り過ぎてDVD棚の間に千夏を探す。
「……ったく。どこいったんだあいつ」
 呟いて、ふいに自嘲めいた笑みが込み上げてくる。
 俯瞰してみればおかしな話だ。
 オレは今、突然目の前に現れたドッペルゲンガーを探している。
 それが妄執や幻ではないことは確認しているけれど、土台が不確かな存在だ。
 目を離した瞬間ふっといなくなって、全部なかったことになってしまうことだってありえるかもしれない。
 そうなったとき、オレはなにを思うのだろう?
 なにかを、思えるのだろうか?
 そもそもオレが探すべきなのはドッペルゲンガーではなく本物の千夏のほうなんじゃないか?
「……」
 気がつくとオレの足は止まっていた。
「コウ」
 背後でオレを呼ぶ声がきこえた。
 ドキリとして振り向いたオレのまえには、十五歳の千夏が不思議そうな顔をして立っていた。
「なにしてるの? そんなとこで」
「……いや」
「そうだよね。コウは、入れるもんね」
「は?」
 オレの背後ではピンク色ののれんがエアコンの風で揺れていた。
「バカ。そんなんじゃねえよ」
「またまた」
 千夏は自然なしぐさでオレの腕をとって言う。
「ねえ。入ってみよっか?」
 どうせまたからかっているのだろうと呆れるオレに、千夏は思いのほか真剣なまなざしを向けていた。
「興味はあったよ、昔から。引かれちゃうだろうからもちろん口には出さなかったけど」
「おまえはまだ入れないだろ」
「制服着てるわけじゃないし。赤の他人からしたら十五歳も二十歳も見分けなんてつかないよ」
「……本気なのか?」
「どう思う?」
 千夏は曖昧に首を傾げる。
 彼女の視線は落とされていなかった。
 少なくともウソを吐いているというわけではないようだった。
 ただ、ウソでなくとも冗談の可能性はあった。
 だからオレにはなにも答えることができなかった。
「……なーんちゃって」
 やがて千夏はくるりと踵を返してオレをどこかへ引っ張っていく。
「そういうとこだよ、コウ。自分で答えを出せないところ」
「アレとコレとは違うだろ」
「一緒だよ」
「今回のはおまえの気持ちの話だ」
「だけどあの日もわたしの気持ちがわからないからって、いらない逡巡してたんでしょ。そういうところがダメなの。千夏的には」
「……じゃあ、ちなみに正解はなんだったんだよ?」
「わたしを強引にのれんの向こうまで引っ張り入れる」
「千夏的に良くても人としてダメだろ」
「それくらいの強引さで気持ちを決定づけてほしいときだってあるの」
 千夏はオレの腕から手を離し、棚の前に置いてあったカゴを持ち上げる。
「どれがいいと思う?」
 カゴの中で山のように積まれたDVDのパッケージはどれもデカいサメか水着の女で統一されていた。
「こんなにいっぱい、どこにあったんだよ? アクションのとこにもコメディのとこにもいなかっただろ」
「サメ映画はホラーだよ」
「ホラー」
 反芻して苦笑しながら裏のあらすじをざっと確認して目眩に襲われた。
 二足歩行のサメが銃を乱射したり、人語を習得したサメが言葉巧みに人を騙して襲ったり。
 なんというか、既に食らい尽くしたジャンルで溺れてもがいているような映画ばかりだった。
「どれがいいかな? 個人的にはこの『八百万テールシャーク』とかいいと思うんだけど」
「どれも結局サメが人を喰うんだろ?」
「その過程がちがっておもしろいんだよ」
「オレにきかれてもなんの造詣もないぞ」
「だって全部は借りられないし」
「……ああ、そう」
 そういえば、金を払うのはオレだった。
 一応、そのあたりを気にはしてくれているらしい。
「これも訓練だよ」
「訓練ってなんの?」
「意気地なしで優柔不断の真中コウから卒業するための」
 オレはトートバッグから取り出した財布を覗く。
 そしてため息をひとつこぼして、千夏からカゴを受け取った。

          †

「だからコウはダメなんだよ」
 自転車の荷台で千夏はふくれていた。
 その手にはDVDを入れた袋がいくつも下げられている。
「どれかって言ったのに。まさか全部借りちゃうなんて」
「見たいのが見られるんだからいいだろ」
「これじゃコウの訓練にならないじゃん」
「あてずっぽうで選んだやつの出来に文句言われたってかなわない」
「だから、そういうとこ」
「訓練にならなくても、ちゃんと更生の一歩にはなってるよ」
 重たい自転車のペダルを漕ぎながらオレは言う。
「こうして大学以外のところに向かって自転車を漕いだのはずいぶんと久しぶりだ」
 一応実家から持ってきておいた自転車はすぐに乗ることがなくなって一年が経ち、錆びついていた。
 だから余計に疲れるのかもしれないなどと思いながら、しかし、オレの心は明るかった。
 引きこもってただ浪費するだけだった毎日に、すべきことができた。
 それだけのことで不思議と希望的な気持ちが湧いてくる。
 千夏に家から連れ出されるまではそれくらいのことでなにかが変わるようには思えなかったけれど、いざ出てみればそれくらいのことでオレの心はいくらか持ち直していた。
「わたしがくるまで、コウってそんなに悲惨な生活してたの?」
「自慢じゃないが、昨日と今日おまえと話した時間だけで高校に入って以降、オレが人と話した時間の総計分くらいに値する」
「うん。たしかに全然自慢じゃないね。中学生のときはそんなじゃなかったのに」
「フタが落ちてきたんだよ」
「フタ?」
 信号が赤になり、オレは足をつけて自転車を止める。
「あの日、おまえに結局なにも言えなくて。そんな自分に絶望したら、ふいに未来が見えた」
「なにそれ。透視じゃん」
「花火があがったとき、おまえにだって見えてたんだろ? あのままずっとなにも言えないオレの姿が」
「まあね」
「一緒だよ。オレにも、オレの限界が見えた。自分にできることとできないことが、あの日ハッキリとわかっちまった。オレは生涯金魚を掬い続けて大事なことから目を逸らす。そうしてその大事なものが目の届かないところにいっちまってようやく後悔して、未練がましく思い出に縋って自分を慰め続ける。そんな自分が見えちまったら、期待なんてできないだろ?」
「それが、フタ?」
「ああ。未来の自分を決定づけるフタ。天井みたいなもんだ」
「だからコウはあの日からちっとも成長できてないんだ」
「まあ、そうかもな」
 信号が青になり、再び自転車を漕ぎだそうとするオレの服を千夏が引っ張る。
「コウ。喉乾いた」
「我慢しろよ。家に帰れば麦茶が冷えてる」
「あそこ」
 と、千夏が指さしたのは『コーヒー一杯五十円』ののぼりを掲げた喫茶店だった。
「……わかったよ」
 オレは店の前に自転車を停め、テキトーな席に座ってメニュー表を広げる。
「なにがいい?」
「ブラック」
 即答する千夏にオレは言った。
「べつに背伸びしなくていい。おまえがホントは甘党なことくらい知ってる」
「背伸びなんてしてない」
「千夏ならともかく、おまえはドッペルゲンガーなんだから」
「でも、本物の千夏らしく、でしょ?」
 千夏は自分の意志を曲げる気はないようだった。
 昔から強情というか、弱みを見せようとしないやつだった。
 ムリしてブラックコーヒーを飲むという上辺の行為だけじゃなくて、そういう心の機微まで忠実に彼女は千夏をトレースしている。
「……ったく」
 やってきた店員に千夏はブラックコーヒーを頼み、オレはカフェオレをオーダーする。そういえば昼食もまだだったと、ミックスサンドも一緒に。
「コウ」
 汗で濡れた服をエアコンの風で乾かしていると、机に肘をついた千夏が言った。
「わたしはべつにあの日、コウの全部がきらいになったわけじゃないんだよ?」
「それはまあ、そうなんだろう。じゃなきゃ千夏が未だにオレのことを思ってくれてることの説明がつかなくなる」
「うん」
「でも、オレはあの日オレの全部がきらいになった。というより、あの日からのオレが、オレはずっときらいだ」
 千夏に好きだと言えなくて。そのことをずっと後悔して引きずり続けている。
 まさにあの日見えた未来そのもの。
 オレの歩みはあの日からずっと止まっていて。“許せない自分”からちっとも脱せてはいない。
「今のオレからしたら、むしろ千夏はこんなオレのどこを好きでいてくれたのかわからないくらいだ」
「そういう卑屈なところは、はやく治さないとね。似合わないから」
 千夏はクスリと笑みをこぼして言葉を落とす。
「コウが思ってるより、コウのいいところはたくさんあるよ」
「たとえば?」
「ムリしてカッコつけるところとか」
「ムリがバレてたらカッコよくないだろ」
「そうだね。カッコよくはないけど、愛おしいなって思うよ」
 千夏の表情はほどよく弛緩していて、普段は上向きの目尻がとろんと垂れていた。
「……どうしたの? コウ」
 オレは、服の端を抓んだまま固まってしまっていた。
 あまりにもまっすぐに伝えられた好意は、オレの思考を鈍化させる。
 思えば、だれかに肯定されたことなんて、あの日以来一度としてありはしなかった。
 他でもない自分自身で、自分を否定し続けていた日々だったから。
「……おまえはそんなふうにオレのことを見てくれてたのか」
「わたしっていうか、千夏がね」
 ドッペルゲンガーは言葉を繕う。
 しかしそうして感情を言葉にする彼女は、まぎれもなく十五歳の千夏の姿をしていた。
「金魚埋めるときにひとりで土掘り起こしてくれたときもそう。自転車がんばって漕いでくれてるのもそう。コウの見た目や生活はたしかに昔よりひどくなってるけど、そういうところは変わってなくて、わたし、安心したんだよ?」
「誉められてるのか?」
「誉めてはないよ。ただわたしがうれしかったってだけ」
「なんだよ」
「わたしがうれしいってことは、千夏がうれしいってことなんだから。そこは変えなくていいんだよ」
「ならオレは、背伸びしてるのがバレてるってわかってておまえの前で背伸びし続けなくちゃいけないのか」
「そういうことだね。べつに苦じゃないでしょ? いつもやってることなんだから」
「まあ、そうかもな。スマートにカッコつけろって言われると、キツイかもしれないけど」
「そうそう。スマートな気遣いができるコウなんて逆に気持ち悪いよ」
 ひどい物言いだと笑っていると、店員が小皿とグラスを二つ運んでくる。
 いただきます、と手を合わせて千夏はたまごサンドを一口。
「うん。おいしい」
 そう言いながらグラスを手にした千夏の口からポタポタと流れ落ちていくブラックコーヒー。
 千夏はグラスを傾けたままプルプルと顔を震わせていた。
 どうやら缶コーヒーとは一味違う店の苦みに舌をやられたらしい。
「心地いい苦みがクセになるよね」
 余裕ぶったコメントをする千夏の目にはほんのり涙が滲んでいた。
 あまりにもムリが透けてしまっていて。オレは思わず声を出して笑ってしまった。
「なにが可笑しいの?」
「わるいわるい」
 あくまで平生を装うとする千夏に謝りながら、オレは気づく。
 千夏がオレの背伸びを好意的に捉えてくれているように、オレもまた千夏の背伸びを可笑しく思っている。愛おしいと思っている。
 これはこれで、いい関係なのかもしれないと思った。
 けれどさすがにかわいそうなので、オレはツギハギの覗ける助け舟を出す。
「なあ、オレ、頼んでからやっぱりそっちが飲みたくなったんだけど、交換とかしてくれたりしないか?」
 千夏はグラスを机に置いて目を細めた。
 そして真っ黒のコーヒーとカフェオレを見比べて、言った。
「…………コウもようやく飲めるようになったの? ブラック」
「ああ。二十歳を目前に控えて、ようやくな」
「ふーん。じゃあまあ、いいよ。特別ね」
 千夏は机のグラスを取り換える。
 普段であれば余計な気遣いだと拒否しただろう。オレの提案を呑んだということは、つまりそれだけここのコーヒーが苦くて飲めたものではなかったということだ。
「うん。たまにはカフェオレも悪くないね。わたしにはちょっと甘すぎるけど」
 そんなことを言いながら千夏はカフェオレを啜ってうれしそうに顔を綻ばせていた。
「そりゃよかった」
 オレは会話の間に渡されたコーヒーを一口。
「……」
 その苦さに、思わず口の端からそのままソレを垂らしてしまった。
「…………苦すぎる」
 一応、ブラックを飲めるようになったのは本当だけど、元々好きな部類ではない。
 そこに加えてこの店のはちょっと嫌がらせかと疑ってしまうくらいに苦くて、飲み干すにはしばらく時間がかかりそうだった。
「残す?」
「まさか」
 オレは覚悟を決めてグラスに口をつける。
 そのとき、千夏がボソリと呟いた。
「そういえば、間接キスってやつだね」
 驚いて一口にコーヒーを流し込んでしまったオレは、口の中で充満した苦みをゴクンと飲み干して千夏を見る。
「全部飲めたじゃん」
 そういって笑う千夏を見ていると、どうしようもない懐かしさに駆られた。

          †

 サンドイッチもたいらげたオレたちは上機嫌で店を出る。
「コーヒーはともかく、サンドイッチはとってもおいしかったね」
「ああ。コーヒーはともかく、サンドイッチはうまかった」
「どれがよかった?」
「ハムかな」
「わたしはたまご」
 そう言って自転車の荷台へと跨る千夏に、オレは尋ねた。
「今日はもうこれで終わりか?」
「そうだね。サメ映画もたくさん借りたし、はやく履修しないと」
「やっぱりただおまえが映画見たかっただけなんじゃないのか?」
「だったら怒る?」
「べつに。いいけどさ」
 冗談めかした笑みをこぼす千夏をすこしの間見つめて、オレはふと思いつく。
「服、買いにいくか」
「え?」
「ずっとオレの服ってのも、嫌だろ?」
「べつに。わたしはいいよ。動きやすいし」
 それに、と千夏は言葉を続ける。
「コウもうれしいでしょ。わたしに服を着てもらえて」
「そうだな。替えの服はそれ一着しかないから、ずっと洗わずにいられるしな」
 飄々としていた千夏の顔が次第に青ざめていく。
「……まさかとは思ってたけど……ホントにコウ、二着しか服持ってないの?」
「一人暮らしなんだからそんなに何着もいらないだろ。冬は上からダウンでも羽織れば越せるし」
「……それは、キツイな」
 神妙な面持ちで千夏が呟く。
「でも、悪いよ。そんなにお金ないんでしょ?」
「DVDまとめ借りできるくらいには持ってるぞ」
「ウソ。ないのに見栄張ったんでしょ」
「……オレにもなんか、ウソ吐くときのクセとかあるのか?」
「なくてもわかるよ。幼なじみなんだから」
 そういってから、彼女は「まあ、幼なじみのドッペルゲンガーだけど」と付け足した。
「心配しなくてもそんな高いのは買わないよ」
「そっちのほうが、コウもわたしのこと本物の千夏だって思いやすい?」
「……まあ、そうだな。千夏は活発だったけど、一応スカートとか履いてたからな」
「わかった」
 コクンと頷く千夏を乗せて、オレは近くのアパレルショップへと向かった。
 自転車を停め、店の中へと入るなりフライドチキンを頭に乗せているみたいな髪をした女が絞められている鳥みたいな声で話しかけてくる。
「ぴらっちゃいませぇー。ごカップルさんですかぁー?」
 それをきいてどうするんだという疑問をぐっと飲み込んで、オレは千夏と顔を見合わせる。
 やがて千夏はクスリと笑って「そうでーす」とテキトーな返事をした。
 店員の女は潰れたお好み焼きみたいな顔で笑って勝手にオレたちをペアルックのコーナーに案内する。
 店員を振り切ろうと二段階右折するオレの腕を引っ張って、千夏は壁に張られたチラシを指差した。
『大特価! カップル割り!』と書かれたチラシによると、カップル限定でペアの服が九割引きらしい。
「ふざけた企画だ」
「安くしてくれるんだからいいじゃん」
「そのために恋人らしくやれってか?」
「予行練習だと思って」
 オレは長いため息を吐いてから、腹を括った。
「おっ」
 千夏の手に腕を絡め、歩調を合わせて隣を歩く。
「五年前にもそれができたらよかったのにね」
「ホントにな」
 白い歯をのぞかせて笑う千夏に店員がペラペラしゃべりながら様々な服を渡していく。
 オレは千夏を試着室に見送ってその場で待機することにした。
 千夏が気に入ったものにオレが合わせればいいと思ったからだ。
「ふう」
 店員の女がくたびれたように息を吐く。
 合わせてなにか白い煙のようなものが目の前を覆って、様子を窺ったオレは驚いた。
 女はどこからか取り出したタバコを口に咥えて一服していた。
「なに? いいじゃないか。タバコの一本くらい」
 目を点にしているオレに気づいたのか、女はどこかのだれかみたいな人を喰った物言いでつらつらと言葉を落としていった。
「面接のときは服売るだけでいいって話だったのに、いざ働き始めたら、売るために話し方、装いまでブランディングするのがあたりまえだときた。まったく、ニコチンでもとらないとやってられない」
「いいんですか? そんなことオレに話して?」
「話してるんじゃない。これはただのひとりごとだ」
「ひとりごとでもバッチリきこえてるんだけどな」
「ならこれは愚痴になるかな?」
「そうですね」
「だったら互いに相手の秘密を黙っておくことでウィンウィンの関係を築いておこう」
「互いって? オレのなにを知ってるっていうんですか?」
「恋人じゃないんだろ?」
 ぷかーと吐かれた煙が天井の通気口に吸い込まれていく。
「歳の差五つってところか」
「五歳差なんてよくある範囲じゃないんですか?」
「そりゃそうだが、今年で成人しそうなキミが未成年に手を出したら犯罪だよ」
 それに、と彼女は言葉を続ける。
「キミはべつに好きな人がいるって感じの顔をしてる」
「どんな顔ですか」
「こんな顔」
 女はどこからか手鏡を取り出してオレに向けた。
 なるほどたしかに、今のオレの顔には戸惑いが滲んでいた。
「いいさ。わたしもこの店のオーナーはキライだから、騙されてあげるよ。好きなだけ恋人の真似事をして、できるだけ原価割れに近づく買い物をしてってくれ」
 くっくっくっと喉を鳴らして女が笑っていると、試着室のカーテンが開かれる。
 奥には胸にワンポイントをあしらった丈の長いTシャツを着た千夏が立っていて、オレに向かって首を傾げながら感想を求めていた。
 数ある中からそれを着ているということは、既に千夏の中ではアレに決まっているのだろうに。いかにも恋人の意見を窺うような素振りの千夏に、オレは苦笑しながら彼氏のフリで返す。
「似合ってる。それにしなよ」
「うん」
「うぉきゃくさまはぁーん。そちらもお似合いですがぁ、もっと元値がお高いやつのほうが店にダメージを……お得なお買い物になりますがはぁーん?」
「これが、いいです」
「……ああ、そう」
 女は残念そうにため息を漏らしてから、シャツに似合いそうなスカート数点を千夏に渡す。
 そして千夏がカーテンを閉めると同時にまた隠し持っていたタバコに口をつけた。
「どうしてあいつのまえではちゃんとやるんですか?」
「そりゃ一応、お客様だから」
「オレもなんですけどね」
「キミはウソ吐きなお客様だけど、彼女はちがうだろ」
「オレはあいつのウソに乗っかっただけですよ」
 オレの言葉に、女はどこか呆れた様子で一笑した。
「シュレディンガーの夏」
「え?」
「彼女からしてみれば、カーテンを開けてみるまでそこにどんなわたしがいるかわからない。店員をやってるわたしかもしれないし、店員であることをキューケイしてるわたしかもしれない」
「まあ、そうですね」
「だけどキミは変わらずにいるだろう。よくもわるくも、そのままのキミが」
「すいません。たしか、物理学ですよね? オレ、詳しくなくて」
「ただの人生学さ」
 女はタバコを店の床にポイ捨てすると、ヒールで潰して火を消した。
 それをさっさと隅によけて、カーテンを開けた千夏をへつらった笑顔で迎えるのだった。
「まもなく青年になる少年。キミが可能性のカーテンを開けるときをたのしみにしてるよ」
 オレは千夏とお揃いのシャツとズボンを買って店を出た。
 なぜか上機嫌な千夏を乗せて帰りながら、胸の中では女の言葉がずっとひっかかっていた。

          †

 長い外出を終えて家にもどると、千夏はたのしみにしていたサメ映画の履修より先に「汗かいた」と風呂に向かった。
「もう覗かないでね」
「あれは事故だ」
「じゃあ、事故らないでね」
「はいはい」
 テキトーな返事で千夏を見送ってひとりになったオレは、手にしたケータイに視線を落とす。
「……」
 ケータイの画面には千夏の連絡先が表示されていた。
 べつにドッペルゲンガーのあいつに言われたからじゃない。
 これはオレがあの日からずっと続けてしまっている、悪い習慣だった。
 あいつとのやりとりは『なるほど』という千夏のメッセージで終わっている。なにが『なるほど』なのかといえば、オレがまえのメッセージに気づくことができなかった理由についての『なるほど』で、それも正しくはオレがメッセージに気づけなかったのではなく、気づいていながらなんと返していいものかわからずはぐらかした理由についての『なるほど』だ。べつに深く考えなくたっていい、なんてことのないやりとりだったのに。
 オレの中ではずっとあの日から千夏への後ろめたさが渦巻いていて。そんな状態で送っていたメッセージがやがて途絶えるのは、今にして思えば必然の結果だったのだろう。
『なるほど』と意味もなくメッセージを入力して、その意味のなさに嫌気が差して消去する。
 オレの毎日は、言ってしまえばそういう日々だった。
 あいつがオレのまえに現れるまでは。
「コウ」
 きき馴染んだ声に顔を上げると、風呂から上がってさっそく買った服に着替えた千夏がオレの前に立っていた。
「どう?」
「どうって、店で答えただろ」
「あれはだって、ウソじゃん」
「べつにウソってわけじゃない」
 店員の女にも同じようなことを言われたなと思いながら、オレは言った。
「ちゃんと似合ってるよ」
 ワンポイントの白いTシャツに、赤いフレアスカート。
 値段相応。ちっとも高級感はないけれど、素朴な感じが千夏にはよく似合っている。
「……えへへ」
 千夏はなぜかうれしそうに口角を緩ませ、玄関のところにある姿見のところに立って何度も身体をくねらせていた。
「浴衣より、おまえはそっちのほうが自然だよな」
「なにそれ。浴衣は似合ってなかったって?」
「そうじゃないけど、やっぱり背伸びしてる感はあったよな」
「見惚れてたくせに」
「まあ、な」
 あの日の千夏は普段とちがって見えて。その背伸びしている感じが、見ていて胸が高鳴った。
 ムリしてブラックコーヒーを飲んでいるときと同じだ。
 オレのまえで背伸びしてカッコつけてくれていることが、オレはうれしかったんだ。
「わたしもそうだったよ」
 と、ドッペルゲンガーの千夏は言う。
「わたしも、そわそわしてるコウを見て、ちゃんとドキドキしてたよ」
 ドッペルゲンガーの言葉にオレの胸は今さらの高揚を示す。
 そして同時に虚しくなった。
「おまえのそういう話って、オレはどういうスタンスできけばいいんだ?」
「スタンスって?」
「おまえとあいつは一応べつの存在なのに、おまえは自分のことのようにあいつの気持ちを語るだろ?」
「まあ」
「千夏の気持ちって、つまりおまえの気持ちだって考えていいのか?」
「え?」
 ドッペルゲンガーの千夏は驚いたように目を丸くした。
「……いや、わるい。そりゃそうだよな。おまえはオレのために千夏をやってくれてるんだから。すくなくとも、オレはそう考えるべきだ」
「ああ、うん」
「風呂、入ってくる」
「プレ2出しといてね」
「……」
 クローゼットからプレステを取り出し、テレビに繋いでからオレは風呂に入った。
 じゃぶんと頭から湯に浸かり、オレは髪に残った泡と一緒にどっちつかずの思考を捨てた。
「っぷはあっ!」
 ドッペルゲンガーの千夏が千夏をやってくれている。
 なら、オレは余計なことを考えず素直にそれを受け入れてみてもいいのかもしれない。
 それでオレにとってもあいつにとってもいい結果になるのなら。
「……よしっ」
 昨日大事にしようと思った線引きを湯に溶かし、オレはあいつのことを本物の千夏だと思うことにした。
 その瞬間、三角座りで俯いていたみたいだった心臓が、生き方を思い出したように鼓動を早めた。
 千夏が入った風呂の湯にも、千夏が使った石鹸の匂いにも、風呂を出た先で待っている千夏にも。すべてのものにドキドキした。まるで思春期にもどったようだった。
 鏡を見ると鼻の下を伸ばしてニタニタと笑うオレがいて。さすがに気持ち悪さがすぎたのでキュッと顔をひきしめる。しかし三秒後には再びだるんと表情が緩んでいた。
「……シュレディンガーか」
 脱衣所の戸を開けたとき、部屋にいるのはドッペルゲンガーの千夏か。それとも本物の千夏か。
 たとえばオレが風呂に入っているうちにじつはタイムスリップしていて、オレのほうが時間を逆行したのだと仮定したら。どちらが本物で偽物かなんてことはどうでもよくなる。
 要はオレがあいつのことを受け入れられるかどうかだ。
 オレがあいつを受け入れることですべてがうまくいくのなら、それを拒む必要なんてない。受け入れられない理由もない。
 だって、昨日と今日一緒に過ごしてみてわかったけれど、なにげないしぐさもクセも趣味趣向も、あいつは千夏そのものだから。
「ああ、コウ。早いね」
 だからオレはあいつとおそろいの服に着替え、部屋でサメ映画を見ながら笑っている彼女に向かって言った。
「おまえが長いだけだろ、千夏」
 千夏が手に持っていたリモコンを滑らせて固まる。
「どうした?」
「……え? いや、ううん」
「なんだよ、歯切れが悪いな」
「はじめて名前で呼ばれたなって」
「そうか? この数日だけでも何度も口にした覚えがあるけど」
「わたしのこと、千夏って言ってくれたのは、はじめて」
 千夏はそういってうれしそうに顔をほころばせる。
「オレに名前で呼ばれると、千夏はうれしいのか?」
「……そうだね。だってわたし、コウのことが好きだから」
 彼女はじつに自然に甘木千夏の心情を語る。
「なら、なるべく名前で呼ぶようにするよ。千夏」
「うん。そうして。はやく慣れるように」
 オレは千夏の隣に腰を下ろす。
 千夏は「よいしょ」と腰を浮かせてオレとの間をひとり分縮めた。
「コウも着てくれたんだね。その服」
「まあ、他にないからな」
「なにそれ」
「べつの理由がよかったか?」
「そうだね。もうちょっと甘いのがいいかも」
「コーヒーはブラックなのに?」
 千夏がむっと表情を強張らせる。
「わるいわるい」
 笑いながら謝って、オレは望まれている言葉を返した。
「千夏とお揃いの服だから、かな?」
「そう。それ」
 頷いて、千夏はおかしそうに口元を緩ませる。
「今のコウ、ちょっといい感じだよ」
「なにが?」
「顔」
「顔」
「五年前と同じくらい、笑顔が自然に似合ってる」
「オレってそんなイメージだったのか?」
「ふいに見せる笑顔が割とキュンとくる感じかな」
「ならオレはもっと笑えばいいのか」
「そうかも。笑顔は万病にきくっていうし」
「オレの日常は病気かなにかか?」
「病的に病んでたじゃん。毎年金魚掬いにいっちゃうくらい」
「たしかに」
「でも、じゃあ、お笑いのDVDとかも借りてくるべきだったね」
「そんなのなくても、ここにコメディがあるじゃないか」
「サメ映画はホラーなんだけど?」
「おまえは怖がりながらコレ見てるのか?」
「それは……どうだろう」
 オレは止められていたサメ映画を再生する。
 十秒もしないうちに水着の浮かれ男女が喰われて、それを見ながら千夏はケラケラと笑っていた。
 そしてそんな千夏を見ていると、オレもすこしだけクスリと笑えた。
 どうやら笑いには事欠きそうになかった。サメ映画の内容についてはさっぱりだったけれど。
「ここからはだいたいセオリーどおりだから」
「とりあえず最後まで観ようぜ」
 千夏は映画が後半に差し掛かったところで毎回鑑賞を終えようとした。
 対して、サメ映画についてまったく造詣が深くないオレはせっかく借りたもったいなさからそれを拒んだ。
 そうして互いにリモコンを奪い合っている間に、いつの間にかオレと千夏の手は繋がっていた。
「ねえ、コウ」
「なんだ?」
「コウは好き? サメ映画」
「ああ、好きだよ。サメ映画」
 繋がった手は、部屋の明かりを消しても離れることがなかった。
「そう。よかった」
 千夏が口にする言葉を寝耳にオレは眠りについた。
 稼働するエアコンと、時折外を通過する車のエンジン音に紛れて、千夏のか細い息遣いがきこえていた。