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 かつて、如月京太郎は一人の女性を愛した。
 彼と清川雨衣華(きよかわういか)の出会いは六月だった。

 その日、京太郎は大学の建物から出られずにいた。
 外に面した回廊に立ち、雨が降るさまを眺める。雨はコンクリの通路も紫陽花もなにもかも濡らして、なのにまだ天から零れ続けている。

 梅雨なのだから折り畳み傘を常備するべきだった。

 自分の迂闊さを呪う。が、そうしたところで傘が手に入るわけではない。購買で売っているだろうが、貧乏学生の身としては少しでもお金を節約したかった。

 走っていけばなんとかなるだろうか。自分は濡れても教科書やノートは濡らしたくない。あきらめて傘を買うべきか。

 迷って、回廊の外に手を差し出す。
 雨粒はすぐさま彼の手を濡らした。

「今日はずっと雨よ」
 くすくすと笑うような声が聞こえた。

 振り向くと、女性が微笑をたたえて立っていた。

 長い黒髪がきれいだった。服もおしゃれで、普段の京太郎なら話すことはおろか、近寄るのもはばかられるような明るい存在だった。

「さっきからそこにいるけど、傘がないの?」
「実は、そうなんだ」
 京太郎は恥ずかしくなってうつむく。

「昨日から雨予報だったのに」
「予報、見てなくて」
 彼はごまかすように足をずりずりと動かした。

「これ、使って」
 彼女はピンクに花柄の折り畳み傘を差し出した。
 京太郎は目をまばたいて彼女を見た。

「でも……」
「予備なの。安いやつだから返さなくていいわ。柄が恥ずかしいかもだけど、濡れるよりマシでしょう?」

 彼女は遠慮する彼の手に折りたたみ傘を押し付け、自分の傘を差して回廊を出た。

 京太郎はお礼も言えずに後ろ姿を見送った。

 雨がそぼ降る中、彼女はごきげんそうに傘をくるくると回して歩いていた。

 後日、彼は彼女を探し出して傘を返した。お礼のお菓子に連絡先を添えて。