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浅田先輩とは部活の先輩、後輩の関係に過ぎなかった。
一つ下の僕にとってもそこまで仲がいいわけではなかったから、
きっと向こうも僕の印象は薄いと思う。けれども
先輩の高校の卒業式で花を渡したとき、先輩は僕に言った。
「私は三住君が頑張ってるのを、ちゃんと知ってるから」
あのときの言葉をふっと思い出しては、
先輩のことが何故だか忘れられなかった。
*
高三の夏、河川敷に自転車を止めた僕は、
すぐそばの橋の陰で国語の問題を解いていた。
指示語の前後を何度も行き来しては、シャーペンの先で文字を辿る。
正答率を上げたいのに、正解が分からない。
僕は本当に頑張れているんだろうか。
そう思いながら諦めて、解答冊子をひらいた。
進路のことで悩む僕の後ろで、そのとき懐かしい声が聞こえた。
「もしかして、三住君?」
「……浅田先輩、どうして」
振り向くと、もう会えないと思っていた浅田先輩と目が合った。
暗かった髪が茶色に明るくなっている。先輩って、こんなに大人っぽかったっけ。
黄色と白のお洒落な服を着こなす姿に目が行くまま、
先輩なのに、かわいいと思ってしまった。
そんな、僕の様子に気づいているのかも分からない先輩が僕に笑いかけた。
「後ろ姿に見覚えがあったから話しかけたけど、会えてよかった」
「大学の帰りですか?」
「うん、やっとテストが終わって自由の身だよ。三住君は?」
「先週夏休みに入って、このあとは予備校です」
「忙しいんだね」
「まあ」
あの頃よりも大人らしい先輩は、僕の隣にペットボトルの飲み物を置くと、
すぐそばに来てしゃがんだ。川の前、階段の斜め下から先輩の横顔が見える。
先輩は僕の方を向いた。
「その水は差し入れってことで」
「いいんですか」
「この前の卒業式でお花を貰ったお礼ね」
「だいぶ前だ。でも、ありがとうございます」
「今年受験生の君には頑張ってもらわないとだからね」
「そう、ですね」
胸の辺りに、またわだかまりが出来た。
「浮かない顔してるよ。何かあった?」
「ちょっと、進路で悩んでて」
「うん」
先輩は真っすぐに僕を見つめた。
ふいに、あのときの言葉を思い出した。
「……成績が上がらないんです。
予備校にも行かせてもらってるのに、
模試の結果が良くなくて。
いろんな時間を勉強に使っているけど、
受からなきゃって思えば思うほどに焦っちゃって。
頑張りが、まだ足りないのかなって」
淡々と気持ちがこぼれて、
話すつもりのなかった話をはじめて口にした。
先輩だって困るだろうに、そう分かっていても
本当は聞いてもらいたかったのかもしれない。
けれども我に返って、僕は話をやめた。
「いまのは、気にしないでください」
「どうして?」
自分でもどうしていいか分からなかった。
情けないところを先輩に見てほしくなくて、
また別のわだかまりが胸にできる。
でもたしかにはっきりと聞こえた。
「私はとてもうれしいよ」
先輩は僕に言った。
「三住君が、三住君自身のことを私に打ち明けてくれて、
私はうれしい。話してくれてありがとう。
私も似たようなことで悩んでたから、分かるな」
「先輩も?」
「うん。成績に大した変化が見られなくてね。
私の場合は独学だったから、
このやり方でいいのかなんて毎日焦ってた。
このまま駄目になったらどうしよう、なんて考えてた」
真剣な眼差しで、先輩が僕に助言をする。
ずっと同じ部活にいたはずなのに、
先輩のことを自分は何も知らなかったんだと気づいた。
大して仲良くない後輩の僕を、先輩はどう思っているんだろう。
そう考えが浮かんだとき、先輩は僕に言った。
「私は三住君が頑張ってるのを、ちゃんと知ってるから」
「……どうして先輩はそう思うんですか」
あのときの先輩の言葉が重なって、胸の鼓動が早くなる。
こんなことになるなら、もっと早く知りたかったなんて
わがままだろうか。
先輩のことを知らないでいた自分がくやしくて、
それでもあの卒業式の日と変わらない表情で先輩が微笑む。
「誰もいない教室で、三住君が一人で自主練習してたのを
見たときから、ずっと知ってたんだよ。
努力家なところ、頑張り屋さんなところ、
私は……そんな三住君がかっこいいと思った。
だからまた三住君に会えて本当にうれしいんだ。
あんまり話せないまま終わっちゃったと思ってたから。
……これでも勇気出してるんだよ? 私」
頬を赤くする先輩につられて、僕も真っ赤になる。
「……さ、そろそろ予備校でしょ?
送っていってあげるから」
立ち上がって、僕の鞄を差し出す先輩に
咄嗟に僕は伝えた。
「またここに来たら、先輩に会えますか」
もしかすると先輩も
僕と同じ気持ちだったのかもしれない。
恥ずかしそうに笑う姿が、僕の目に映った。
*
「卒業おめでとう」
高校卒業式の日、先輩が真っ先に僕に花束を渡してくれた。
「高校生活、どうだった?」
「あっという間でした。
でもうれしいです。先輩と同じ大学に行けるのが」
「……先輩呼びじゃなくてさ、」
「あ、つい癖で」
「別にいいよ」
そう言って僕より前を歩く先輩の姿は、
少しだけ拗ねているようにも見える。
だから僕はそっと先輩の右手をつないだ。
「しほ、ありがとう」
「……急はずるいよ、祐介」
先輩ははにかみ、僕の手を握り返した。
*
付き合っている今でも、
僕らはあのときのあの場所で話をする。
そのたびにしほはこんな口癖を言った。
「私がもし祐介に気づけなかったら、
祐介とはもう二度と会えなかったはずなんだよね。
だからこれって、本当にすごいことじゃない?」