「成沢、ごめん」

 教室で席についた途端、稲葉が目の前に来て謝罪した。どういうことかすぐに理解できないのは、律希が昨晩ほとんど眠れなかったからだろうか。

「え、なんのこと?」
「いや、昨日……ほら、その、カラオケ」

 稲葉にそう言われて、律希はやっと察しがついた。ああ、と相づちを打つ間に心がざわつく。下手な歌を聞いてしまってごめん──そんな意味での謝罪だとしたら、余計に気持ちの整理がつかなくなる。しかしそんな推察は杞憂に終わることとなる。

「無理に押しかけて、ごめん。俺、悪いって思ってたのに、田中たちのこと止められなくて……」

 謝る理由がそっちでよかった。

「別にいいよ。全然気にしてない」

 律希が言った瞬間、稲葉の表情が目に見えて明るくなる。思っていたよりわかりやすくて素直な奴だと律希は思った。

「そっか、ありがとう! でさ、聞きたかったんだけど!」

 稲葉の勢いに、思わず身構える。夢中で周りが見えなくなるようなその感じは知っている。きっと彼はこれから、好きなものの話をするはずだ。そんな律希の予感は当たる。

「成沢、TOMORIの曲好きなの? カラオケでツミの曲入れてたよね」

 予感は当たったが、そこからの質問は想定外だった。どうしてそのことを知っているのだろう。記憶を辿ると、律希は田中たちが乱入した際に予約リストの消去はしたが入力履歴を残したままだったということに思い当たった。TOMORIが好きだということは公言していないが、わざわざ隠そうと思っているわけでもない。ここは素直に答えておこうと思った。

「ああ……うん、好きだよ」
「俺も好きなんだよ! 好きなマッチは誰? やっぱりツミ?」

もちろんここで憂-yu-の名前を挙げるほど、自信も(おご)りも(したた)かさも持ち合わせていない。

「うん、ツミが一番好きかな」
「いいよね、ツミ。俺は『蜂喪とぶ』が好きなんだけど、知ってる?」

 もちろん知っている。蜂喪とぶといえば静かな曲調とほの暗い歌詞が特徴だ。稲葉は大人しいが根は明るいという印象がある。そんな稲葉が蜂喪を好むのは少し意外に感じたが、すぐに思い直す。見えているものがすべてじゃないし、それすらも本当だとは限らない。それは自分だって同じはずだ。

「知ってる。静かな感じでなんか落ち着くよね」
「そうそう! 俺、『冬宙夏葬』の最後のサビがすごい好きでさ!」

 熱く語る稲葉は、今まで見たことのない表情をしていた。きらきらしていて、心から蜂喪のことが好きだということが伝わってくる。律希は少しだけうらやましくて、それと、嬉しかった。こんなに近くにTOMORIのファンがいて、どれだけ好きかを自分に話してくれることが。

 チャイムが鳴り、稲葉は名残惜しそうに自分の席へ戻っていく。語り足りないようで、後でメッセージを送ると言い残していった。

 そのおかげで、スマホを見る際の小さな楽しみができた。スマホを手にすると、どうしてもKINGのことが頭をよぎる。しかし稲葉からTOMORIに関するメッセージが来るかもしれないと思えば、マイナス思考も相殺される気がした。



 閃火コンへのエントリーを決めてから、毎晩のように律希は曲作りに没頭した。時に母親の目をかい潜り、時には父親に相談したこともあった。

 父親は今でこそ無趣味で退屈そうな中年だが、昔はバンドを組んでいたらしい。律希の覚えている限り、自分が小学生の頃はギターを弾いて見せてくれたこともあった。当時、痺れる音色を次々に放つ青と黒のツートンカラーのストラトに心から憧れた。今となってはそのギターがどこに仕舞われているかもわからないが。

 なんにせよ父親は音楽に多少理解があるし、作曲に関する知識もある。もっとも、律希が憂-yu-という名義で活動していることは秘密にしているし、今ではそこまで音楽に興味がない父親から有意義な話が聞けることはなかったのだが。

 ただ、人に話すだけで頭が整理されることもある。その点でのみ、夜はいつもリビングで飲んだくれている父親の存在が助けになった。

 そういえば最近、KINGが大人しい。以前は日課のようにKINGのアカウントをチェックしていたが、最近の律希は暇さえあれば作曲のことを考えていたせいで野放しになっていた。

 久々に見たKINGのSNSは投稿頻度は下がっていたが、相変わらず憂-yu-を目の敵にしているようだ。けれど律希は今さら何を言われたってそこまで心を乱されるようなことはないと思っている。それほど今は作曲に心酔していた。SNSを閉じようとしたとき、ふとDMの通知が届く。タップして表示された差出人は意外な人物だった。

『天ノ啓示』

「マジか、本物……?」

 思わず呟いた困惑が、無音の自室に溶けていく。あの#炎上神判 の天ノ啓示が、自分に一体何の用があるのだろう。

 自ずと思い起こされるのは、KINGの投稿の数々だ。憂-yu-をこき下ろすポストの文末には、欠かさず#炎上神判 が付けられていた。もしかすると、天ノ啓示はそれを見て裁き(・・)に来たのかもしれない。

 自然と冷や汗が滲む。しかし、自分に裁かれるような罪なんてないはずだ。KINGが勝手に喚いているだけで、そこに律希が恐れることなんて何一つない。律希は背筋を伸ばして、天ノ啓示からのメッセージを開く。

『閃火コンで優勝したいですか』

 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。憂-yu-が閃火コンに参加することは、SNSを見れば誰でもわかる。優勝を目指しているということだって、参加しているのだから当然だろう。

 おかしいのは、わざわざそれをDMで訊ねてくることだ。天ノ啓示と憂-yu-の間に、直接的な接点は何一つない。故にどうしたって、KINGの存在が脳をかすめる。心がじわじわと不安に侵食されていくのを感じて、律希はSNSを閉じた。

 ──(わずら)わしい。作曲以外のすべてのことが。

 閃火コンへのエントリーを決意したあの瞬間から、曲のことを考えれば考えるほど、他のことがどうでもよくなった。KINGのことだってその内の一つで、ようやく彼への怒りを忘れかけていたのに、また思い出してしまうところだった。

 もはや律希の目的は、KINGを見返すことよりも閃火コンで優勝することになっていた。そうであるべきで、それが健全だ。そんな考えが根底にはあったものの、今では心から優勝を目指している。音楽に本気で向き合ってみるいい機会だと思っていた。

 だから、心に余計なノイズを走らせている暇なんてない。天ノ啓示のこともKINGのこともまた頭のどこかへ追いやって、律希はもうすぐ提出を控えている一曲目の制作に取りかかる。

 閃火コンでは、計三曲の提出が必要になる。一曲目の提出の後、リスナー投票による一次審査が行われる。落ちればそこで夢はおしまいだ。出だしで躓くわけにはいかない。律希は今までにないほどの情熱を、新曲へと注いでいた。



 蝉の鳴き声が、やけにうるさい。律希はスマホの画面を食い入るように見つめていた。7月下旬、夏休みに入って少しが経った頃、閃火コンの一次審査終了が迫っていた。

 7月中は新規エントリーとリスナー投票を同時に受け付けているが、月末が近づくにつれて新規エントリーは減っていく。当然、なるべく早くエントリーした方が聴いてもらえる機会も多くリスナーからの票も入りやすいため有利だからだ。憂-yu-が曲の提出を済ませたのも、7月1日だった。

 そして今、有利なはずのリスナー投票ランキングを上から順にスクロールしている。ランキングは毎日更新。憂-yu-の名前があったのは、一次審査の合格ラインよりギリギリ上だった。

 一安心というわけにはいかないが、今の順位をキープできれば合格だ。とはいえ、今自分にできることといえばSNSでの宣伝くらいだった。稲葉にも憂-yu-のことを打ち明けて手伝ってもらおうかという考えが脳裏をよぎったが、それだけはありえないとすぐに一蹴した。

 憂-yu-は律希ではない。二人が結びついてしまった瞬間、きっと二人とも今まで通りではいられない。憂-yu-には憂-yu-の音楽があるし、律希には律希の生き方がある。だから、現実世界に憂-yu-を連れてくるわけにはいかないのだ。



 夕飯の時間、母親と父親と共に食卓を囲む。退屈なテレビに惰性で目を向けていると、不意に父親の口からとんでもない話が飛び出した。

「律希、作曲は進んでいるのか?」

 律希は、思わずむせる。よりによって白米を頬張った瞬間に言わなくたっていいだろう。そもそも母親の前でなんて話題を始めるつもりだ。

「作曲? まだそんなことしてたの? 勉強は?」

 案の定、母親は怪訝そうに眉をひそめながら呆れたように言う。母親には、夜な夜な勉強していると思わせることにしていたのに。無神経な父親のせいで、今までの偽装工作が台無しだ。

「いや、作曲なんてやってないって。父さん、あれは俺じゃなくて友だちの話だよ」

 律希が繕ったその場しのぎの嘘を父親は、はてそうだったかと受け流す。話を合わせてくれたのかもしれないが、おそらくは律希の言葉の真偽にそれほど興味がないだけだ。

 母親が疑うような視線を律希に向けたとき、タイミングよくココが吠える。ココは三年前から成沢家に仲間入りした、マルチーズとトイプードルのミックス犬だ。マルプーという通称を聞いたときは冗談かと思った。クリーム色の少しカールした毛並みが愛らしく、そんなココのことを母親は溺愛している。

 今だって猫なで声を出しながらすぐに席を立ち、ココの要求を叶えにいった。律希がココの方を見ると黒いビー玉のような目と目が合ったので、心の中で礼を言う。

 ふと、ココのいるサークルの近くのラックに見慣れないものが置かれていることに気がついた。父親に訊ねると、ペットカメラなるものを導入したそうだ。もっとも数ヶ月前からそこに置いてあったらしいが、今の今まで律希は気がつかなかった。口うるさい母親を避けてリビングに寄りつかなかったからかもしれない。

 どうやら外出時にココの姿を見たり、音を聞いたり、声かけをしたりできるらしい。便利なものがあると感心すると同時に、ココが少し気の毒になった。

「いつでも見られるから、安心でしょ」

 母親は得意気に言いながら、キッチンに立って鍋に残した一人ぶんのスープを皿に移しラップをかける。律希は、安心するのはは見ている側だけだろうと言いかけてやめた。余計な火種は撒かないに限る。

 今でこそ口を開けば学力や進路の話ばかりの母親だが、昔はよく絵本を読んでくれた。律希が歌詞を重視し言葉の意味を深く考えたりできるのは、そのおかげかもしれない。しかし、いつだかに大掃除で見つけた理想の子育てを謳う育児本に『絵本を読むと賢くなる』という一文を見つけて、思い出を汚されたような気分になったことがある。

 母親の思惑が何であっても律希が受け取ったものに変わりはないはずなのに、宝物だと思っていたものが突然輝きを失うのだから不思議だ。とはいえ一応、感謝はしている。今までのすべての上に憂-yu-の感性は成り立っているという自覚があるからだ。それが今ではそこそこに評価されて、閃火コンという夢に出会うきっかけになったのだから。



「嘘だろ……」

 一次審査の終了三日前、律希は打ちひしがれた。視線の先の画面には、閃火コンのランキング。憂-yu-の名前は、合格ラインより下にいた。ここ数日、順位は変わっていなかったのに。一体どんな理由があってこんなことになっているのか探るべく、ランキングを遡っていく。

 すると、あろうことか、人気マッチが三人も新しくエントリーしてきていたのだ。こんなギリギリにエントリーして、すぐにランキング上位に食い込むなんて。元からの人気の差を思い知らされた。

 その内の一人は、ツミだった。確かに閃火コンの応募要項にはプロアマ問わないとの記載があったが、何もツミほど人気のあるマッチが参加しなくたっていいだろう。初めて、ツミに対して少しの憎しみが湧いた瞬間だった。

 作曲に集中するべくすべての通知を切っていたから、あれだけいつも楽しみにしていたツミの新曲が出たことすら知らなかった。複雑な気持ちを抱えながら再生すると、さっきまでの黒い感情が綺麗さっぱり浄化されてゆく。

 ──やっぱり、最高だった。自分が目指すマッチはツミしかいないと思い知らされる。

 しかし、瞳にランキングを映した途端、すぐに心にもやがかかりはじめる。それからどういう思考回路なのか自分でも理解できないが、ついKINGのアカウントを覗いてしまった。

『ご苦労様。ツミの劣化なんだから当然だ』

 もしかすると自分は安心したかったのかもしれない。ダメな奴だとKINGに言ってもらうことで、免罪符にしたかったのかもしれない。

 他人が認めるほどに自分はダメなのだから、仕方がない。優勝どころか一次審査すら通れなくても当然のことだ。自分は悪くない。元から無理な夢だったのだから。きっと、そう思いたくてKINGにすがった──はずだった。

 しかし、律希の心の奥底から湧き上がったのは、陳腐な言い訳ではなかった。劣化なんかではない。自分で考えた、自分だけの音楽だ。絶対に、KINGにそれをわからせてやる。前にも感じた怒りのエネルギーが、心の中でくすぶり始める。

 けれど、現実はそう甘くない。人気マッチを差し置いて合格ラインに食い込む方法なんて簡単には思い浮かばない。それでも絶対に、こんなところで負けたくない。

 宣伝の仕方を変えてみようか。他のマッチはどうしている。思案しながらSNSをスクロールしていると、誤ってDMを開いてしまった。そこで目に飛び込んできたのは、以前に天ノ啓示から送られてきたメッセージ。既読にしたはいいが、無視したままになっていた。

『閃火コンで優勝したいですか』

 天ノ啓示はこのメッセージをエサに、憂-yu-を罠に嵌めるつもりかもしれない。何を考えているかわからない以上、無視するのが一番いい。いい、はずなのに。律希の指先は微かに震えながら、返信欄をタップしていた。

 なにも、何かしらの契約を迫られているわけではない。ただ、訊かれたことに答えるだけだ。悪魔に魂を売るつもりはない。だから悪いことなんて何もないはずだ。誰に責められたわけでもないのに心の中で必死に理論武装をしながら、律希はスマホの画面をスワイプして、たった二文字を送信した。

『はい』

 たった二文字。それだけだ。けれどそれだけのことが引き起こしたのは、それだけなんて言葉で表せる事態ではなかった。



 登校日、数日ぶりに顔を合わせた稲葉はどこか憔悴した様子であった。あんな稲葉は見たことがない。何があったか、なんて安易に触れない方がいいのかもしれない。そうは思ったものの、友人として放っておくわけにもいかず、律希は稲葉の元へ行き一体どうしたのかと訊ねた。はじめは言いよどんだ稲葉だったが、やがてもごもごと少しずつ言葉を紡ぎ始める。

「あの……成沢、まだ知らない? 蜂喪とぶが、ちょっと……」

 その先は話したくなさそうに口をつぐんでしまった。律希がスマホで蜂喪を検索すると、すぐにまとめサイトの記事が出てくる。

『【悲報】蜂喪とぶ、犯罪者だった』

 ざっと目を通すと、どうやら蜂喪には前科があるということが被害者を名乗る人物から告発されたらしい。過失傷害罪だと書かれているが、それ以上の詳細はわからない。

 仮にそれが真実だとしても影響力のない一般人が騒ぎ立てたところで、そこそこマッチとしての人気がある蜂喪にはノーダメージだったはずだ。だからこそなのだろうが、告発は天ノ啓示を通して行われた。この騒ぎは#炎上神判 が付いたポストが発端だったらしい。

 自分の鼓動が大きくなるのを、律希は感じていた。天ノ啓示。炎上神判。まさか自分のせいではないだろうか。そんな思考に至るのは、蜂喪が閃火コンのランキングに名を連ねていたからだ。蜂喪は憂-yu-よりも上にいた。蜂喪が炎上により人気を下げれば、ランキングは変動するだろう。

 閃火コンのランキングを確認する。憂-yu-の名前は、合格ラインのひとつ下。リスナー投票の締め切りまで残り一日だ。この騒動のおかげで、ギリギリ一次審査を通過できるかもしれない。思わず、口角が上がる。そんな自分に気がついたとき、ゾッとした。

 目の前で、大好きなTOMORIの話ができる唯一の友人が悲しんで、傷ついているというのに。自分は今、真っ先に何を考えた。怖い。恥ずかしい。それから自分が稲葉にどんな声をかけてやれたのか覚えていない。

 一次審査期間の最終日、祈るようにして画面の中でランキングを開く。憂-yu-は、合格していた。喜びも束の間、蜂喪の名がどこにもないことに気づく。SNSによると、蜂喪は炎上騒動の際に閃火コンを辞退したらしい。それに伴って、ランキングが変動したようだった。

 憂-yu-の合格は、蜂喪のおかげ。告発した被害者の、ひいては天ノ啓示のおかげ──そう考える自分に、寒気がする。

 憂-yu-が優勝したいという意志を伝えたことで、天ノ啓示はそれを叶えようとしたのかもしれない。天ノ啓示がそうすることで彼に何のメリットがあるのかなんて察しもつかないが、やり取りがあった以上、彼は憂-yu-に対して何らかの思うことがあるはずだ。蜂喪が炎上したのは、律希の指先が紡いだたった二文字のせいかもしれない。

 そうでないとしても、天ノ啓示と憂-yu-がメッセージを交わしたという事実をなかったことにはできない。その証拠は両者のアカウントからいつでも見ることができてしまう。つまり、憂-yu-はあの返信によって天ノ啓示に弱みを握られてしまったのだ。当然のことに今さら気づく自分に心から嫌気がさす。

 せっかく合格できたのに。嬉しいはずなのに。心の中に生まれたものは、黒くてじっとりとした重りだった。どうしてこんなことになった。どうしてこんな思いをしなければいけないんだ。こういう風になりたくないから、うまくやってきたはずなのに。

 それは、久しぶりに訪れた。光が奪われて闇の中に一人で立たされるような、周りも先も何一つ見えなくなるような、正体のよくわからない不安に押し潰されてしまいそうな、そんな感覚だ。

 こんなときは、どうしたらいい。今よりもっとうまく生きられていなかったとき、自分はどうしていたのだろう。律希は、過去の自分に思いを馳せた。